今回のシリーズの最終回の予定です。
前回までの、迷っても仏もあまり一般的ではないとは思いますが、悟っても人間もおそらく・・・そんな感じでしょうか?
私は以前から、悟りという言葉は好んでは使っては来なかった筈です。
何故かと言えば、悟りや光明・・・そして神や仏という言葉は、あまりにも手垢のついた実体からかけ離れた言葉だからです。
悟りというよりは、意識の目覚め・・・英語で言えばアウェアネス(覚醒)の方が遥かに、適した言葉のように思います。
さて、その覚醒の体験のある人の数・・・これは私の推測ですが、一昔前とは比べものにならないほどの何万人?いや、何十万人に達している可能性も考えられます。
但し・・・その覚醒の体験が一回や二回あったところで魔境もあれば、何度か悟りそして何度か迷うのも人間の悲しい性ということかも知れません。
禅語の、大悟三回小悟数え切れずは、そのことを如実に示している痛快な言葉のように思います。
私が言うところの・・・悟っても人間の、その意味が少しはお分かり頂けたでしょうか?
確かに覚醒の体験の後には、信じられないような超能力や霊感も発揮されることは間違いありません。
そしてゴータマシッダールタという仏陀に限らず、誰でも人類の救済という志しに燃えるような、そんな時期もあるものです。
ところが・・・何処まで行っても人間は人間です。
イエスにしても、仏陀にしても人類のすべてを救ったでしょうか?
キリスト教と仏教が生まれたのは分かりますが、人類のすべてを救うなどということはどんな人にも不可能だろうと思います。
そして更に、私はそんなことは必要のないことだと・・・今では思う人間になってきています。
一隅を照らす・・・天台宗の有名な言葉です。
人間は何処まで行っても人間でしかない、それで何の問題があるでしょうか?
私は、あの相田みつをさんの「人間だもの」は、こんな心境からの名言ではないかと思っています。
悟っても人間・・・迷っても仏、迷っても仏悟っても人間・・・何処まで行ってもこれでいいように思う今日この頃です。
どうやらこのシリーズも、めでたく?終焉を迎えたように思います。
それでは、また近いうちに!