「迷っても仏悟っても人間」続編 | 慧アモンの和可知愛フォーラム

慧アモンの和可知愛フォーラム

哲学、アート、次世代の価値観

 さて、続編ですが・・・今回のキーワードはいつも以上に、私自身の解説が求められる言葉かも知れません。

何故、迷っているのにそれが仏なのか?

先ずはこちらの方ですが、自分の仏性に気づいていない人も当然、かなりの数だろうとは思います。

仏性なんて、宗教的な何か特別な修行をした人だけに許される特殊なものであって、自分たちの普通の日常には無縁のものと思っている人が多いように思います。

さぁ、修行とはそんな一部の特別な人たちだけに限られたものでしょうか?

私に言わせたら全く違います。

生きてたら誰でも、そのこと自体が修行という側面もある筈だと私は捉えています。

だからこそ辛いことも、そしてそれを乗り越えた時の喜びも誰の人生にもあるのではないでしょうか?

仏門の修行も厳しいのは分かりますが、この裟婆の修行の方が楽だという保証は何処にもない筈です。

いや・・・裟婆の修行の方がある柵で守られてはいない分だけ、そのまま地獄行きということさえあり得ます。

もちろん私は、この人生を修行の場だけと捉えている訳ではありません。

その一方では、遊びの場でもあることも事実ですが、今はそのことには触れないで話を進めることにします。

自分自身の仏性に気づいた体験のない人にこそ、今回のキーワードには熱いメッセージが込められています。

そんなあなたに質問です!

生まれて初めて花の種を見た人が、それがやがて信じられないほどの美しい花になることを知っているでしょうか?

これがすべてです・・・仏性とは種の中に既に花が隠されていることに似ています。

花になることがあり得ない種というものが、この世の中に存在するでしょうか?

あなたも私も、イエスもシッダールタもみんな誰もがその種だった筈です。

ある条件が満たされたかそうでないか・・・違いはたったそれだけです。

誰がどれだけ迷っても、そこに仏性が初めからないと誰が言い切れますか?

私は今回のこのシリーズでは、迷っている人にこそ仏という性質に意識のフォーカスを向けて欲しいから・・・この言葉を選らんだつもりです。

では、既にそのことに気づいている人には?

それはまた次回ということで・・・それでは、また近いうちに!