「禅のスピリット」続編パートⅡ | 慧アモンの和可知愛フォーラム

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さて、禅のスピリットの第三弾の始まりですが今日で終わるかでうかは、微妙な?ところです。

冒頭の写真は、偶然か必然かは分かりませんが、今日たまたま仕事で訪れた沼津のある美術舘に飾られていた白隠禅師の本物の掛け軸です。

ガラス越しに撮った割には、ちゃんと写っているのではないでしょうか?

白隠と言えば、禅の中興の祖と言われるほどの傑物でもあり・・・私にとっても一休や達磨と肩を並べる禅僧のひとりです。

禅のスピリットの話を書いている間に、白隠に呼ばれたのか?あるいは、いい加減なことを書くな!とお叱りをうけたのか・・・そんなことも気にならいのが禅のスピリットと、私としては何処吹く風ということにするより他はありません!(笑)

南無地獄大菩薩・・・白隠禅師の有名な雑巾か何かで殴り書きをしたような、あの迫力満点の書も京都の何処かのお寺で本物を見たことがあります。

但し・・・白隠は根っからの豪のものではなかったようです。

そもそも、仏門に入る以前の子どもの頃は、なんと地獄が怖くて怖くてどうにもならなかったということらしいのです。

そんな情けないような、あまり男らしいとも言えない動機で仏門に入った白隠・・・見事にぶち抜いたとしか言い様がありません。

普通は光明を得たとか、悟りを開いたとか・・・如何にもそれで完璧な人間が完成したように大騒ぎをする訳ですが、禅の世界ではぶち抜いた!と表現するだけで、師匠に自分が悟ったなどスタンドプレーでもしようものなら「そんなものは犬に喰わせろ!明日から足で飯でも喰うのか!」

・・・と、一喝されるのが落ちです。

「大悟三回、小悟数え切れず」

これも禅の世界の、独特のスタンスのひとつであり、神だの仏だの最終的には言わなくなり・・・唯の人として足下を見ながら、今この瞬間に歩く時は全身全霊で歩き、食べる時は全身全霊で食べる・・・。

ただただその瞬間に命の尊さや、大自然の営みを一期一会の精神で厳かに味わうのみという、一回りして来たあとの当たり前の世界に生きるだけです。

これが禅のスピリットです、まさに根本問題ゼロではないでしょうか?

さぁ、そんな禅の世界観・・・あるいは宇宙観は、すでにあらゆる宗教を包含しているようにも思えてなりません。

人間同士が、宗教や思想や価値観の違いで争う時代が終わらない限り、世界平和というテーマは簡単に叶うものではないように思うのは私だけでしょうか?

それでは、この続きは・・・また続編で!