「禅のスピリット」総括編 | 慧アモンの和可知愛フォーラム

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 さて、いよいよ今回の禅のシリーズの総括の時を迎えました。

私は禅という、いわゆる宗教を奨励している訳ではありません。

それどころか・・・禅は宗教ではないというのが私の持論と言えば分かりやすいでしょうか?

そもそも禅は広義では、瞑想そのものを意味しています。

ゼン・・・ツェン・・・ディアン、そしてディアーナ。

つまりサンスクリット語の瞑想という言葉が、中国を経て我が国では禅と呼ばれた経緯がその語源を辿ればよく分かります。

そして日本の伝統文化の、その真髄にある世界に誇れる精神的な遺産という側面についても触れて来ました。

もちろん私は禅のスポークスマンでもなく、こんなことを書いたところで一円のお金も入っては来ません(笑)

まぁ、将来は分かりません・・・禅宗のお坊さんではない、呼夢想のアモンの禅のスピリットの話は面白い!と、長蛇の列が出来る日も来ないとは限りません(笑)

光明や悟りでさえ、あまり大騒ぎをせず平常心に戻してしまう禅の世界・・・こんなシンプルさが私の感覚とフィットするだけであって、多くの外国のヒッピーたちからも支持される点だろうと思います。

早い話が、禅とは何かを信じる道ではなくて、己れと全世界・・・もっと言えば全宇宙の信頼関係を樹立する、そんな国籍も宗教も越えるライフスタイルに過ぎません。

但し・・・先ほどの語源からも分かるように、瞑想抜きでの書物や情報だけで、禅をかじる?のはもっての他と言わざるを得ません。

前回のあの、ぶち抜いた!という表現は、文字通り囚われの身である自我をぶち抜くことを意味しています。

内観や自己啓発の様々なワークショップ、あるいは瞑想そのものを体験出来る機会は、私が始めた頃に比べたらかなり恵まれた時代であることは間違いありません。

私は昨今のスピリチュアルブームに関しては、ある意味では期待もしつつ・・・危惧するところもない訳でないという微妙な立場の人間です。

それは何故かと言えば、魔境についての対応策が疎かな印象が拭い切れないからです。

確かに光の体験や、ハイアーセルフを体験することは素晴らしいことです。

但し・・・スピリチュアルの道は、そんなに甘いものではありません。

コーチングにしても、様々なアメリカから逆輸入されたチャクラに関するワークショップにしても・・・果たして、魔境に関してはどうでしょう?

私が禅のスピリットの話を展開して来た理由も、実はそんな危惧からという老婆心もない訳ではありません。

さぁ、私の予感通り・・・簡単に終わらないような展開になって来ました。

実は、私は今・・・禅の世界観を見事に表現した十牛図ではなく、なんと十一牛図という新たなスタイルに挑戦しようとしています。

ということで・・・今回の禅のスピリットは一応、これにてピリオドとさせて頂きます。


十一番目の牛が近いうちにお披露目!ということになることを祈りつつ、今日はそろそろこの辺で!