「禅のスピリット」続編 | 慧アモンの和可知愛フォーラム

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 禅のスピリットの続編ですが、いきなり質問です。

あなたは日本文化を堪能したくて、初めて日本を訪れた外国人をどんなところへ連れて行きますか?

お寺、神社、料亭、相撲や歌舞伎などを観賞出来る場所・・・人それぞれだとは思いますが、私ならお庭のある茶室に先ずは案内して抹茶を一服という趣向を・・・。

何故かと言えば、茶室には日本の伝統文化のすべてが凝縮されていると言っても過言ではないからです。

数寄屋造り、のれん、茶花、つくばい、下駄、畳、ふすま、床の間、掛け軸、茶釜、炭、着物、お香、陶磁器や茶筅に茶杓、そして和菓子に懐紙に抹茶・・・まだまだ有ろうかとは思いますが、これだけの日本の伝統文化が息づいているジャンルが他にあるでしょうか?

しかも・・・このティーセレモニー(お茶の点前)には、その季節が春であれ秋であれ・・・一期一会の精神で、今この一瞬を日常を忘れるくらいに厳かに味わうという目的があります。

早い話が、お茶を一杯飲むだけのためにどれほどの趣向が凝らされているのか?外国人どころか日本人でさえ知らないことが多いほどの、最も外国に誇れる奥深い文化ではないでしょうか?

さぁ、そんな茶の湯という文化は禅の精神から生まれたことは言うまでもありません。

千利休の師匠の師匠にあたる村田珠光の、茶の湯というよりは精神的な師匠があの一休宗純だという事実がそのことを証明しているように思います。

私は利休のみならず、世阿弥にも芭蕉にも禅のスピリットを直感的に感じてはいましたが、調べてみると案の定・・・三人ともそれぞれ禅のマスター(師家、師匠)が存在していたことが判明しました。

私が何故、この日本の三大文化人に禅のスピリットを感じるのかと言えば、その一切の無駄を排除した厳しさとそのシンプルさ・・・そしてその哲学の深さということに尽きます。

権威に媚びず、世間的な評価に惑わされず尚且つ己の技に溺れることなく、生涯をその道を極めることに捧げた生き方は、武士道の精神にも通じるものと言えます。

もちろん私の言うところの禅のスピリットは、何も日本人に限ったものではありません。

へルマン・ヘッセの車輪の下ではなく、それ以降の小説の中に、あるいはボブ・ディランの歌詞のなかに、ジョン・レノンのあの自由さの中に・・・国籍そのものとは関係なく世界の何処にでも、禅のスピリットの体現者はいるものです。


さぁ、禅のスピリットの話はまだまだ終わりそうにありません。

いつまで続くかは私にも分かりませんが・・・取り合えず、今日はこの辺で!