「明け渡しに必要なものとは?」続編パートⅡ | 慧アモンの和可知愛フォーラム

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哲学、アート、次世代の価値観

  

今回のシリーズも、いよいよ大詰めの日を迎えました。

己を捨てる人、そして最後まで己自身にしがみつく人・・・どちらがその精神の自由が叶うのかは、言わずもがなというところでしょうか?

これは例えば、スポーツなどの誰もが知っているような身近な場合でもそうだろうと思います。

ゴルフでも野球でも、あるいは武道や芸能などの大切な舞台でも・・・力みながらいわゆるスーパープレイが飛び出す人はひとりもいません。

これはつまり、いい意味で結果に執着していない状態だからこそ起きることではないでしょうか?

私に言わせたら、これもひとつの立派な明け渡しということになります。

ある種の諦めの境地です・・・但し、その諦めるところまでは、並々ならぬ執念と精進の日々がなければ、その大切な瞬間に力みが抜けるどころか、プレッシャーに負けて体も精神もコチコチに硬くなってしまうものです。

まぁ、こんなことをリアルに書ける私も・・・若い頃にはそんな数々の失敗談があったことは言うまでもありません!(笑)

そんな私の最大の明け渡しと言えば、やはり瞑想を始めた年の(四十年近くも前!?)様々な神秘体験のオンパレードが続いた二十代の頃です。

今から思えば、直接の指導者の手には負えないような異常事態だったと思います。

それは私の内側に潜んでいた、ある種の渇き・・・つまり、哲学的なとてつもない命題に苦しんで来た精神が、一挙に解き放されたからかも知れまん。

闇が深いほど光をより強く感じるという、そんなコントラストの為せる業だったということでしょうか?


あれから何十年かの時が過ぎ、改めて思うことは・・・やはり個人には限界があるということに尽きます。

その個人的なものにしがみつけば硬い殻の自我・・・手放して投げ出せば真我・・・。

なんとも皮肉で、パラドックスに満ちた法則だとは思いますが、これが真実であることに今かなりの数の人が、気づき始めています。

私のブログに一度でも訪問した人を数えるだけでも、おそらく千人には達しているでしょうか?

統計的な原理で考えると、少なくとも日本だけでも何万人・・・あるいはそれ以上の人たちが意識の目覚を体験している時代ということが言えます。

今現在の私のように、何に対して明け渡すというような対象がなくなり、己と全体というシンプルな捉え方はいきなりは難しいかも知れません。

それでも、今では情報や指導者の量も質も・・・私が始めた頃に比べたら、相当恵まれている時代ということが言えます。

結びの一番です!

個人の自我の殻からの明け渡しに必要なものは・・・先ずは渇きです。

その渇きこそが、あなたに様々な縁のある指導者や必要な機会を与えてくれます。

そしていよいよ、明け渡しのその瞬間が来たら、大切なのはちょっとした勇気です。

体験者をよく観察して話を聞いておくことも、もちろん大切なことですが・・・サレンダーの後の精神の自由は、古今東西の賢者の言葉の端々に溢れている筈です。

但し・・・くれぐれも、そんな知識だけのコレクターにだけはならないなように、常に体験と学びを心掛ける必要があることは言うまでもありません。

さぁ、そんな明け渡しの話はこれにて・・・一件落着ということにさせて頂きます。


それでは、また近いうちに!