著者:SeeCore
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バカであるメリット。1/2

今回は、バカについて考えていきたいと思います。バカとは、あのバカのことです。

著者:今回は、バカであることのメリットを考えていきたいと思います。

ソクラテス:うむ。

著者:一般的な概念としては、バカであるということはデメリットそのものであり、避けられるべきこととして認識されていますね。

ソクラテス:そうだね。人をそしる時にバカやあほうなどと言ったりする。

著者:そうすると、バカであるということは、良くないことであり、メリットなど考え難いと感じますが、いかがでしょうか。

ソクラテス:うむ。そうでもない。いいことわざがある。知らぬが仏と。

著者:はい。相手の腹黒い性格を知ってしまうと、とても嫌な気持ちになり、顔も見たくなくなりますが、もし、その事実を知らなかったならば、嫌な気持ちにはなりませんね。

ソクラテス:そう。まあ、それでも事実を知ったほうが良いという意見もあろうが、ここでは知らない、バカであるということの方が嫌な気持ちにならないというメリットがあるとしてみよう。

著者:ある著名な科学者が言っていましたが、知能レベルが高い人ほど、不幸せであると見解を述べています。物事の知らなくても良いことを知ってしまったり、通常スルーできるようなことを殊更に問題視してしまい、苦しむということはあるのであろうと思います。

ソクラテス:そう考えると、知らないほうが良い、バカであるほうが良い、バカである方がより幸せを感じるといえるのではないだろうか。少なくとも、不幸せを感じにくいという点から、バカの方がメリットがあるといえるのではないだろうか。

著者:はい。そのようですね。

ソクラテス:まあ、議論の余地はあるだろうが、今回は、頭の良い人間よりも、バカである方がメリットがあるということで話を進めよう。性格に表現すれば、ベースは賢く、時にはバカであるとメリットは最大化するといっておこう。さあ、先に進もう。

著者:はい。バカであることがメリットあるということの背景はどのようなことがあるのでしょうか。

ソクラテス:それは、まず、社会が不完全であることが挙げられる。

ソクラテス:社会は、合理的、理屈で成り立っている部分も確かにあるが、不合理、理不尽な部分から成り立っている部分も大いにある。

著者:はい。この世は理不尽なことばかりというのが、良く聞く嘆きですね。

ソクラテス:この社会が、本当に合理的に運営されているのであるならば、排ガスを撒き散らす車は廃止。国の借金をこれ以上増やさないために年金の大幅な削減。等々をしていることであろう。多少、一方的な例ではある。

著者:はい。また、この社会は、振り込め詐欺を行うもの、嘘をつく者などが、利得を得て、正直者が不利益をこうむるということが現実としてありますね。

ソクラテス:うむ。この社会の実相として、不完全であると言えそうだ。

ソクラテス:次に、人間が不完全である。

著者:あ、それは一瞬にして理解できそうですね。

ソクラテス:知識の面において、この宇宙はもちろんのこと、我々の脳もまだ十分に理解されているとは言い難い。さらに、人間の性質も、怒ったり、欲望にまみれ、時に非合理的な行動をしている。

著者:はい、私も思い当たる節があります。自分は決して完璧な人間ではないと、つくづく思います。それは、全人類共通のことなのだと思います。だからこそ、神、神々という存在にすがろうとするのでしょう。不完全であると自覚しているから。

ソクラテス:うむ。人間が不完全であることは、歴史が証明しているから、自明であるな。

ソクラテス:ここまでは、人間に関わることだった。人間が不完全であるならば、その人間が作り出す社会も当然に不完全である。

著者:はい。不完全であることは間違いないです。まあ、人間は何とか努力して完全になろうとはしているのですが。

ソクラテス:うむ。今度は、未来において考えてみようか。つまり、運命、未来は完全であるのか、だ。

著者:一寸先は闇という諺があるように、周到に準備しても、想定どおりに物事が進むということは、あまりないですね。

ソクラテス:運命も理不尽である。生まれてこのかた、嘘もつかず、人に優しくして、真面目に努力している人が、急にガンになり、人生の思いを遂げられず、急死するということがある。

著者:はい。その一方、あるマフィアは、多くの人を苦しめたにも関わらず、孫など多くの家族に恵まれ、90.歳以上で天寿を全うしたなんてことがありますね。

哲学:現実は真実か。:あなたの人生をより良くするために。2/2

ソクラテス:そうだ。アインシュタイン曰く、『常識とは、18歳までに身に着けた偏見のコレクションのことを言う。』とあるように、真実と現実の認識とには齟齬があるのだ。

著者:現実と本当の現実である真実との間には、大きな隔たりあることは分かりましたが、だから何なのでしょうか。

ソクラテス:もし、真実でない現実を真実だと受け取ったならばどうなるであろうか。

著者:それは、真実でない現実に基づいて日常生活を営むと思います。自分への自己イメージなども同様です。

ソクラテス:つまりそれは、真実でない事実に基づくのであり、真実から離れた認識や行動をするということだね。

著者:はい。だってそれが当たり前のことですから。真実でないにしても、自分が真実だと思う、感じることに基づいて人は認識したり行動します。

ソクラテス:うむ、そうだな。それはそれでよい。しかし、真実でない事実が自己にとって満足の行くものでない場合はどうだろうか。

著者:つまりそれは、自己の人生が満足しておらず、自己イメージが低い場合などでしょうか。

ソクラテス:そうだ。真実でない事実が真実のものとして受け取り、自分はこの程度の人生、この程度の人間であると諦観し、自己の可能性を信じて人生を突き進んでいくという喜びから離れている状態などのことだ。

著者:はい。せっかく受け取れる喜びがあるのに、それを得られないというのはとても不満なことです。

ソクラテス:そうだ。このせっかく受け取れる喜びが受け取れない原因は、真実でない現実を真実だと認識したことにある。

著者:はい。それは分かりましたが、どうしたら良かったのでしょうか。

ソクラテス:うむ。大事なことは、目の前に広がる現実は現実ではあるが、本当はもっと違う現実があり得たし、今後ももっともっと違う現実があり得るということを思い込むことだ。

著者:思い込むですか。思ったならば現実になるなんて、俗的な人生論に出てきそうな響きですが、思ったならば違う人生を歩めるのでしょうか。

ソクラテス:可能だ。

ソクラテス:大脳生理学によれば、人は現実と勘違いするほど鮮明にイメージすると、脳はそれを現実として受け取るという。

著者:脳がまた出てきましたが、脳って騙されやすいということでしょうか。

ソクラテス:そう。そして、この騙されたイメージ通りに現実を認識し行動をするのだ。

著者:人間は、自分の認識によって行動するということは確認済みですから、イメージのように行動すると。あっ。

ソクラテス:そう。ということは自分のイメージがたとえ現在の状態とかなりかけ離れていたとしても、それとは関係なくイメージ通りに振る舞いだすのだ。

著者:面白いですね。

ソクラテス:人生の成功者は、能力というより強いイメージがあったからこそ、その通りになったのだ。だから、思った者勝ちと言えるのだ。

著者:はい。思うことは誰にもできますし、誰にも邪魔されないですしね。簡単に行えます。

ソクラテス:うむ。簡単である。しかし、大多数の人は、この思いを途中で放棄してしまうか、思いが弱いが故に自分の思ったような現実を手に入れることが出来ていない。

ソクラテス:理由はいくつもあるが、それらはいちいち挙げないが、大きい部分は真実でない現実を真実だと受け取っていることだ。

著者:そこに戻るんですね。

ソクラテス:今見ている現実は真実ではない。もっと違う現実があるはずだ。真の現実、望むような現実があり得た。それが真実なのかもしれない。

ソクラテス:そう思った方が楽しくないだろうか。

著者:はい。もちろん楽しいですし、本当に自分の思うような人生を歩みたいと思います。
ソクラテス:ならば、自分の望むような人生を強く強くイメージしたまえ。君たちの目の前に写っている現実は、不完全情報から得ただけの一時的、表面的な現実に過ぎない。その現実が本当に全てではない。真実はもっと予期できない程違うものだ。

著者:完全情報、つまり真実は目の前にある現実ではなく、もっともっと違う可能性を秘めていると。

ソクラテス:そう。秘めている。それが真実だ。あらゆる可能性を秘めているのだ。

著者:だったら、強くイメージして、その真実が表立って出てくるように努力したいです。努力する意味がありますね。だって、叶うんですもの。

ソクラテス:そう。大脳生理学が示している通り、イメージは実現化するのだ。少なくとも、実現化へ向かっていくのだ。

著者:私も途方もないことをイメージしていますが、いつか実現化するのでしょうか。

ソクラテス:四六時中その思いをイメージにしていけば、叶うと思う。

著者:後は、信じきれるかですね。愚直に。

ソクラテス:信じれるように論証したつもりだ。後は実践あるのみだ。

著者:はい。頑張ってみます。

ソクラテス:うむ。

哲学:現実は真実か。:あなたの人生をより良くするために。1/2

人生を自分の思うようにしたいのであれば、目標を持ち、継続的に努力するということが大きな方法として語られますが、長らく自分に対するイメージを固定的に持つようになっていると、そこイメージから抜け出し自分の本当に望む人生を歩み出せないということもあろうかと思います。

今回は、いまお持ちの自己イメージに揺らぎを与え、違う自分・望む自分になるための一歩を踏み出せるように議論してみましょう。

著者:今回はまず自己の感覚について考えてみたいと思います。

ソクラテス:うむ。では、まず感覚とは何であろうか。

著者:はい。感覚とは一般的に、見る、嗅ぐ、味わう、聞く、感じるの5つです。まあ、第六感として直感を追加する場合もありますが。

ソクラテス:そうだな。ではそれら感覚はどれくらい精度が良いだろうか。どれほど感覚が鋭いのだろうか。

著者:はい。見ると言っても数キロ先の文字は見えないですし、紫外線・赤外線も見えないです。感じると言っても無線の電波など目前で飛び交っているにも関わらず、全く感知できません。その他の感覚も同じように不完全です。それは誰もが承知していることです。

ソクラテス:うむ。まず、そのような感覚の不完全性から自分の周りに生じている現実から受け取る情報には限りがあるということが言えそうだ。

著者:はい。それはそうです。まあ、電波を見れなくても機械が感知してくれますから生活に支障はありません。

ソクラテス:それはそうであるが、今回は感覚に焦点を絞って考えているので、その反論は的はずれである。

著者:はい。人間の感覚は不完全故に得られる情報も限度があることは分かりました。

ソクラテス:そして次にその感覚から得られた情報を処理する脳について考えてみたい。

著者:脳ですか。ああまあ、見ると言っても眼はあくまで入り口であり、その情報を見るという処理をしているのは脳であり、眼で見るという言い方は、厳密に言うと脳で見るということですよね。

ソクラテス:そうだ。直感も同じだとしよう。その脳であるが、これがまた厄介な器官である。

著者:厄介ですか。脳の発達によって人間の文明も発達したのは間違いないので、脳は素晴らしい器官であり、厄介などとは言えないと思います。

ソクラテス:そう。人間をここまで発達させてきた最大の要因は脳であることは間違いない。しかし、脳は発達し人間の文明を引っ張ってきた過程において現実を都合の良いように認識するというように変容した。

ソクラテス:例えばマンモスは動物であり、刈る対象であり、当時の人間の食料となるものである。というのが普通の見方でそれは脳の認識である。しかし、その認識を固定化せず他の見方をするとどうであろうか。マンモスは神聖な生き物であり殺してはいけない神の使いだと認識するならば、食料にありつけない。

著者:はい。まあ犬や猫を神聖視する文化もあるわけで、それはその文化ごとの自由ですから悪くはないですよね。

ソクラテス:ここで言いたいことは、マンモスを食料としてでも、神聖視するでも、一旦その認識になるとそれを固定化するということだ。

著者:それは当たり前です。だってそう見なしたのですから。

ソクラテス:うむ、そう。見なすということが重要だ。認識を固定化せず流動的にマンモスを食料と見なしつつ神聖視していたら十分に食事ができないだろう。一時が万事で、認識が固定化しないと全てのことが中途半端になってしまう。これでは文明の発達が進みづらい。だから脳は固定化した認識をするようになったのだ。

ソクラテス:さらに主に自分たちの生存が優位になるようにするために、脳もそれに従い、自分たちの生存に優位なように都合の良いように認識するような特徴を持つようになった。

著者:都合の良いようにですか。あ、人間は何かの模様を見ると人間の顔に見てしまうようです。これは人間生活をする以上相手の表情が生活に必要不可欠で重要なことだからそのように脳が認識するようになっていると言えますね。平面な絵を見て空間を感じるとか、トリックアート言われるようなものも、脳の認識のクセを利用したものですね。だから何が言えるのでしょうか。

ソクラテス:つまり、脳は現実を歪めて、都合の良いように認識するということだ。

ソクラテス:そして、先ほどの人間の感覚と相まって、現実の認識は不完全であるということ。つまり、本当の真実は見ていないということ。

著者:入ってくる情報も不完全、その情報処理する脳も不完全。もしかしたら、我々は現実を本当の現実からかけ離れたものとして認識しているかもしれないということですね。

ソクラテス:そうだ。アインシュタイン曰く、『常識とは、18歳までに身に着けた偏見のコレクションのことを言う。』とあるように、真実と現実の認識とには齟齬があるのだ。
 

心理学:カルトと人間

今回は、人間を知るためにカルトについて考察してみたいと思います。
カルトの典型とされる人民寺院はご存知でしょうか。詳細は述べませんが、1978年に起きた約900人の信者が最終的に集団自殺したもので、当時の社会に大きな影響を与えました。死亡した人の中には、狂信的な信者によって銃撃され死亡した議員を含んでいます。人間って怖い部分を持っているだとため息が出てしまう事件でした。

著者:今回は、カルトについて考察してみたいと思います。

心理学者:うむ。

著者:日本においても、直近だとオウム事件、日本赤軍みたいな団体が恐ろしい事件を発生させております。

心理学者:日本だけでなく、もちろん、世界中でカルトと言われるような団体は存在していたし、今後も存在していくことだろう。

著者:なぜ、カルトなどという一般人からは理解不能なことが起きるのでしょうか。例えば集団自殺なんて、生命の最悪のことである死をいとも簡単に実行させてしまうなんて、完全にどうかしています。

心理学者:そうだな。悪魔にそそのかされたと一言で片付けるには、その事例の多さから、何やらもっと人間の根本に関わることが関係しているのかもしれない。

著者:何なんでしょうね。人間のどの部分がカルトにハマらせるのでしょうか。

心理学者:基本的な部分を考えてみると、行動をするには精神・心を基に生じている。これはまず抑えておこう。

著者:はい。それは、説明するまでもなく、広く意識・無意識とすれば、人間の行動は心から生じていると思います。

心理学者:うむ。まずそこから、カルトを主導した者はこの人々の心をつかんだと言える。

著者:はい。心をつかまれるとその人に従う、従ってしまうというのは感覚的には理解できることです。

心理学者:うむ。それで心のつかみ方が重要であるが、狂信させる程、相手の心をつかんでいるというのだから、相当な方法を使ったか、相当な状況を作り出したということだろう。


著者:この辺までは普通に考えればそう思うところです。

心理学者:おそらく、人間が生きていく上で絶対に必要な部分、重要視している部分を提供したのだろう。

著者:人間が生きていく上で絶対に必要なものとは何でしょうか。衣食住のことでしょうか。

心理学者:まあ、それはそれで必要なことであるし、その部分も心をつかむためには必要な箇所だろう。でも、ここでは心をつかむということだから、あなたがいなければ生きていくことができないという、その人自身の存在意義、存在理由という点のことだろう。

著者:衣食住も生きていくためは必要なことではありますが、生きる意味がなければ不必要だと言えるとすると、もっと根本は生きる意味があるか、生きたいと思うことであるはずですね。

心理学者:人間は、生きるために生まれてきてはいるのだが、それもただ、寝て食べて息をするだけでは生きている意味がなく、生きながらにして死んでいる状態だといえよう。人間は、ただ息をするだけの存在では満足せず、確たる自己の存在理由を欲しているのだ。

著者:ああ、そうですね。ただ息をするだけなら、動物と変わらないですからね。人間はそれでは満足しませんね。

心理学者:さて、カルト教祖はここの部分を掴んでくる。それは、あなたにこの世で生きる意義を私が与えてあげようとか、私は神から預言を受けており、あなたはそれに従うことがあなたのこの人生における意味なのだとか言ったり、儀式をしたりして完全にそれを認識させる。

著者:ああ、それこそ、あなたは神の指令により100人の人々を殺すことが定められており、それがあなたが生まれてきた意味であり、それをすればこの苦しみの世界から抜け出し、ご褒美として神から永遠の喜びを与えられる。だから、人を殺せ。などと認識されたら実行するかもですね。

心理学者:イスラム原理主義者などがまさにそうであろう。

著者:はい。そうでした。

心理学者:狂信者を生み出すメソッドはあるはずである。怖いことであるが、それを駆使し教祖の配下を増やしていくのだ。

著者:はい、それは分かりましたが、それって特殊な人間の特殊な状況下において発生する状態なのですよね。普通の人が徐々にでも狂信化するなんて考えにくいことです。例えば、私が数ヶ月後、車で何人もひき殺すなんてことは考えられないからです。

心理学者:うむ。しかし、潜在的には君も含めて狂信化する可能性はあると指摘したい。

著者:なんですって。生まれてこの方暴力とは無縁の私でも自殺テロを起こす可能性があるというのですか。

心理学者:そうだ。しかしもちろん、成りやすさの違いはある。それは、生まれた地域であったり、教育内容や誰と会うかなどによって違いが生じるだろう。

著者:はあ。私を含め私の周りにいる人々はそのようなことはしないと思いますが、でもかなり特殊な状況や思想教育を受けたならば、狂信的な行動をしてしまう、その可能性があるということですね。人間なんて身体もそうですが、心ももろいものなのですね。

心理学者:大変にもろいと指摘しておこう。既に言ったように、人間は生きる意味、存在意義を探している。大学生が自分探しの旅に出るのが典型だ。大人だって自分を自慢するのは自分の存在を肯定してもらいたく、それは存在意義の肯定につながっている。

著者:そこから何が言えるのでしょうか。

心理学者:つまり、存在意義を確認する手段が極端に限られ、狂信者としての道しかないと認識すると、自ら進んで狂信的な行動をする。これが人間の潜在的な負の部分だ。

著者:つまり、我々は皆悪魔を飼っていると。

心理学者:まあそうだ。悪魔を出さぬようにせねばならぬな。

心理学者:生きる意義を追い求める全ての人間は、特殊な状況という限定条件付きではあるが、狂信化し得る。なので、人間が存在する以上カルトは無くならないだろう。この瞬間も、飢えた亡者のように自己の存在意義を探しさまよっている人々を対象に、特殊な儀式や思想教育がなされていることだろう。

心理学者:カルトを題材にはしているが、結局人間とは何かという深い問題に行き着いてしまう。キリが無くなってしまうので、この辺で終了としよう。

著者:まだまだお聞きしたいことはあるのですが、終了しましょう。ありがとうございました。また、よろしくお願いします。

心理学者:うむ。

哲学:人間文明の過渡期

現代は、人間だけでなくおそらく生命が誕生し以来の大変革期にあると思います。
それは、生命という定義そのものに疑問を投げかける事態だからです。
ご察しのとおり、技術革新と関係していますが、以下に見ていきましょう。

著者:本日は人間文明の過渡期と題して考えてみたいと思います。

ソクラテス:うむ。

ソクラテス:やはり、技術の発達が人間文明を大きく変えることになるだろう。

著者:具体的にはどのような部分でしょうか。

ソクラテス:まず、人工知能に代表されるような、コンピューター技術の発達だ。

著者:はい。コンピューターが登場した時は、ただの便利な道具に過ぎなかったのが、この数年で人間の脅威になりつつあります。

ソクラテス:技術は加速度的に進化していくというのが定説であり、このまま発達し続けるならば、2045年頃には、人間の知能を完全に上回ると予測されている。

著者:はい。シンギュラリティというのですよね。

ソクラテス:このような人間を上回る存在は、人間だけでなく生命史においても未だかつてなかったことである。

著者:はい。知能において最高の存在であるはずの人間が、その知能において遅れを取るということは驚嘆の極みです。

ソクラテス:この人工知能に代表される科学技術の極みにより、特に2045年以降、予想以上の文明の発展が生じることであろう。人間の知能を上回るということは、今いる人間ではその未来を予測することは不能だとなる。2045年の以前と以後とでは文明が完全に断絶しているかと思うほどの違いを見せることは間違いないことだろう。次の時代に移行する過渡期と言える。

著者:ここ怖いですね。高度な文明を持った宇宙人が攻めてきたような恐怖を感じます。
ソクラテス:その表現は、イーロンマスクが指摘していたな。彼は、人工知能に脅威を感じ、公的に警告している。ぜひ、チェックしてみてほしい。

著者:はい。

ソクラテス:次はその流れではあるが、イーロン・マスクは、人工知能の発展は不可避であり、人間が人工知能によってかなり追い込まれると見なしており、その対策として、人間のサイボーグ化を提唱している。特に人間の脳に何らかの装置、チップを搭載させ人工知能との知能の差を埋めようという構想を持っている。

著者:やはり、知能の違いはかなり重大なことで、このままだと我々生身の人間は、今の動物のような被支配者に成り下がるということでしょうか。

ソクラテス:シンギュラリティとはそういうことも意味している。だから、AIチップなるものを脳に埋め込み、対峙、対応するべきなのだ。既にイーロンは、その種の会社を立ち上げている。

著者:あわわ。完全に今までの理解を超える未来が来るようですね。

ソクラテス:そう。人間を含めた生命史において、進化ではなく、意図的に体などのハードをアップグレードするということは今回が初めてだ。

著者:はい。たくさん勉強してソフトは変えれますが、体、しかも脳を変えるなんてSFであり、信じられません。

ソクラテス:しかし、事実だし、受け入れる、受入れないにかかわらず、必ずやってくる未来だ。このような信じられない変化は前の時代との断絶を感じるので、過渡期といえるだろ。

著者:過渡期というのは分かりましたが、脳などをサイボーグ化するなんて、なんか人間じゃなくなってしまうような気がします。

ソクラテス:そうだね。人工知能そのものもそうだが、AIチップを搭載した人間も、はたして生命体なのか。生命の定義ってなんだ。人間ってなんだ。という生物学的、哲学的な問題提起もされておる。

著者:それはそうですよね。そう言えば、人工知能搭載のロボットに市民権を与えたってニュースがありましたね。確かサウジアラビアでした。

ソクラテス:個人ならまだいいが、(個人と言えるのか?)集団となって何らかの主義主張をしてきたならば、人間というか人類は、対話する必要があるのだろう。
機械のたわ言として、スルーできるのか。

著者:え、もうそんなことを考えるような段階なのですか。ちょっと早くないですか。

ソクラテス:もう数年もすれば、リアルなことになるだろう。準備しておかねばならない。人間の認識も法律も。そして、人間が生き残る道を。

著者:その辺のSF映画よりよっぽどゾクッて来ますね。認識を改める時が来ているようですね。まさに過渡期だからですね。

ソクラテス:うむ。
 

哲学:自分や人を変えるには、どうしたよいのか。

 人はなかなか変わらないものだというのが、口々に言われていますが、一方、あの立派な人が、豹変したように犯罪を犯すというようなことも、たまにニュースになったりします。自分を思う通りの人間に変えたいと望む人もいるでしょう。そのヒントを考えていきましょう。 

著者:今回は、人が変わるにはどうしたらよいかです。

ソクラテス:まず、人が変わるとは、今までと違った行動を、自らの意思で積極的に行うということにしようか。

ソクラテス:では、人間が行動する際の源となっているのは、何だろうか。

著者:本能とかですか。

ソクラテス:まあ、当たりだ。分かり易く言うと、感情や感覚といったところか。

著者:はい。あ、でも、理屈で行動が変わることもありますね。こんなことを言うと、相手が悲しむと理解するから、へんな事を言わないなど。

ソクラテス:理屈や理論はあくまで、行動の方向性を決めるのに役立つだけで、推進する動力ではない。例えば、人間は、この地球に多大な環境的負荷を与え、多くの生命が、日々絶滅していっているという理屈で、人は自殺しない。でも、天涯孤独で、貧乏で、生きる希望や夢がなく、絶望した人は、いとも簡単に進んで自殺を選ぶ。つまり、行動を根底で支えているのは、感情等であるのだ。

著者:はい。生命にとって最悪の状態である自殺をなしてしまう程、感情等には、強い根本的な力があるのですね。

ソクラテス:一旦ここで、結論を言うと、自分や人を変えるのは、感情等に強烈に訴えかけろ、ということだ。

ソクラテス:例えば、負のものとして、貧乏や生命の危機など、窮地に陥るというものがある。これは、強烈に感情等に訴えかけるので、強力に行動を後押しする。プラスに持っていくならば、この貧乏暮らしから抜け出すために、絶対金持ちになったやる、とばかりに、極めて辛い努力をして、成功することが可能となり得る。

著者:はい。貧乏であればあるほど、反骨心というか、それが強力なバネとなり、大成功する例は良く聞きますね。

ソクラテス:逆に、正のものとして、大志や夢などがある。これも、強力に感情等に訴えかけるので、強力に行動を後押しする。絶対に、自分の希望、望むような現実にしたいという強烈な意識、感情等が、困難を打ち砕いていき、大きな成功を手にする可能性である。

著者:はい。小年よ、大志を抱け。ですかね。

ソクラテス:負や正があったが、どちらも、感情等に強烈に作用しているので、強烈に行動するのだ。結果は、同じなので、どちらのケースでも良い。

著者:では、自分を変えたい人は、どうすればよいのでしょうか。

ソクラテス:それは、感情等に強烈に作用するようにすることだ。

著者:具体的には、いかがでしょうか。

ソクラテス:具体的には、負のものとして、意図的に自分を窮地に追い込むとか、理詰めで、自分の情けなさ、不甲斐なさを認識して、自分を追いこむとか。正のものとして、成功者等モデルになるような人々や業績を肌で感じることとか、自分が本当に人生においてしたいことは何であるかということを、感情を伴って、突き詰めて考えてみることとかだろう。

著者:そういえば、スティーブ・ジョブスは、毎朝、鏡を見ながら、今日が人生最後の日ならば、自分は何をするか、と自分に問い掛けていたそうです。追い込んでいますね。暗示ですが、感情等に訴えかけることになっていますね。

ソクラテス:つまり、人は、理屈では動かない。感情等で動くのだ。自分を変えるためには、自分の希望する状態を念じること。何度も何度も。人を動かすには、感情に訴えかけるように伝えること、何度も何度も。

著者:はい。ジョブスのように、毎日毎日、感情等に訴えかけるようにしていけば、数年後には、その方向に変わって行っているでしょうね。

ソクラテス:人間は、変え難いという一般論と取るとしても、時間は掛かるが、適切な方法によって、作用を及ぼすようにするならば、必ず変わるという事実が重要だ。

著者:はい。可能性があるだけでも救いです。現在の自分に絶望している人にとって見れば、その状態から変わりえる、脱出し得るという希望があるということを意味しているだろうからです。
 

哲学:循環の恐怖。(仏教を含む。)

今回は、循環について考察してみたいと思います。まあ、あまり意味深な感じではないと思いますが、一つの視点として考えて見ます。

著者:循環という概念について考えてみたいと思います。

ソクラテス:うむ。

ソクラテス:循環というと、現代的に言えば、良い意味があると思う。

著者:はい、そうですね。循環型社会などと言ったりしますので、水や資源などが順繰り順繰りに利用され、枯渇しない、持続可能な社会になるので、良い意味で捉えられますね。

ソクラテス:そうだ。季節も巡っていき、この季節の循環を知ることによって、田植えをし、実りを受け、冬などに備える、などというようなことで、循環を知ることで、人類は生き残り易くなってきた。

著者:一日24時間も、朝起きて、昼間活動して、夜寝る。というサイクル、循環でもって、人生が進んでいっています。

ソクラテス:うむ。循環には、良いという認識、または、まあ、中性的な認識があるようだ。

ソクラテス:しかし、よいこともあれば、悪いこともあると思うぞ。例えば、直ぐ怒ってしまうような悪い習慣、性格が消えないことや、歴史は繰り返すという言葉通り、人類は有史以来ずっと、絶え間なく戦争や暴力を繰り返している。

著者:はい。人類は進歩がないと言わざるを得ないほど、傷つけ合っていますね。平和と戦争との循環が果てしなく続いていくのでしょうか。

ソクラテス:資源や土地などが無限にあるか、人類の本質が無欲にならない限り、戦争はなくならないだろうな。

著者:はい。戦争は嫌だと声高に言っても、本質的にはなくなりはしないのですね。

ソクラテス:さて、循環とは、良いことも、悪いことも、まあ、どちらでもない場合があるようだ。ここでは、循環の恐怖について、考えてみよう。

著者:恐怖ですか。

ソクラテス:そう。例えば、嫌いな人が存在するとして、その人と合う度に嫌な感じがして、なんでもないことで、いつも口げんかしてしまう、ということがあるとしよう。

著者:はい。どうも、そりの合わない人がいるものですね。なるべく近寄らないようにしていますが、それでも、たまにケンカになったりしますね。

ソクラテス:うむ。それは、とても嫌なことだろうが、この嫌なことが、循環していたならば、恐怖ではないだろうか。

著者:え、それは、半年前にあったようなことが、また生じているというような意味ですか。

ソクラテス:まあ、それもあるが、もしかしたら、前世において、全く同様な相手と、全く同様なイザコザ、嫌な思いをしているとしたら、どうだろう。

著者:前世は、意識できませんが、知らないだけで、実際は、そのようなことが、繰り返し、繰り返し、もしかしたら、永遠に続いているとしたら、とても嫌なことですね。

ソクラテス:そうだろう。よい事が循環する場合もあるだろうが、悪いこと、嫌なことが循環しているならば、しかも、それが永遠に続くとしたら、恐怖であろう。

著者:仏教の生じる前より、古代インドでは、輪廻転生という循環を指摘し、そこから抜け出すための努力をすることが、人生の一つの目的であります。また、古代ギリシャにおいても、生まれ変わりはあるとの前提で論を展開する場合があります。ところで、古代ギリシャの詩人のホメロスが言う、死後、忘却の河を渡ることで、前世の記憶がなくなり、また、新たな生を受けるというのがありますね。日本で言うところの、三途の河ですが。

ソクラテス:そう。どういうわけか、前世の記憶は、リセットされるようだ。まあ、前世の記憶を引き継いでいる子供たちも存在しているようだが。

著者:前世の過ち、前世の嫌なことを覚えていれば、いいと思います。だって、覚えていれば、ああ、前世では嫌な思いをしたから、今世ではそれを避けられるように対策や努力をしようとし、100%ではないですが、半分くらいの嫌な思いで済むかもしれません。

ソクラテス:そうだね。記憶があり、嫌なことであれば、避けようとするはずだね。

著者:しかし、特に生まれ変わりは、記憶がないですね。どういうわけでしょうか。

ソクラテス:わしにも分からん。

著者:仏教的に推察するならば、前世の嫌な記憶を保持し、さらなる繰り返しの嫌なことを回避するためのチャンスを与えられないという業、カルマの強さ、宿業の強さ、罪深き結果なのだと思います。

ソクラテス:そうか。

著者:前世を忘却していることは、良いこともそうですが、悪いこと、嫌なことは、過去何回くらい繰り返しているのでしょうか。

ソクラテス:それも分からん。

著者:仏教的に言うならば、始まりはないくらい前からだそうです。数にして無限です。

著者:最新の宇宙物理学によれば、まだ、観測されていないので、理論ですが、この宇宙以外にも無限の宇宙が存在していると言います。色々な状況証拠、理論の積み上げから、かなりの可能性で、無限の宇宙は存在していると考えられているようです。

ソクラテス:うむ。無限の宇宙、無限の生まれ変わり、そして、無限に渡る嫌な思い。恐怖だな。

著者:ですね。呪われているとしか、思えません。

ソクラテス:ギリシャ神話に出てくる、プロメテウスの罰のさらにひどいものだな。プロメテウスは、人類に火を授けたため、ゼウスの怒りに触れ、内臓をわしについばまれ、息絶えるが、次の朝には再生し、また、同じように内臓をわしに食われ、息絶えるという繰り返しの苦しみが語られているな。

著者:はい。繰り返し、繰り返し、苦しみを受けるなんて、恐怖です。歯を削りに、歯医者に毎週行くようなものです。

ソクラテス:これを回避するには、古代ギリシャ的には、神々と友人になれるほどの、知性と徳を身につけよという。

著者:仏教的には、悪いことをするな、良いことをせよ、心を整え、欲望を抑えよという。

ソクラテス:共通しているのは、特に精神的な部分で、良き人間になるということが、重要のようじゃな。

著者:そうですね。精神が腐っていたら、良いことも出来ないでしょうから。

著者:お釈迦様のお言葉に次のようなものがあります。『実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨みのやむことがない。怨みを捨ててこそやむ。これは永遠の真理である。』 やむことがないとは、永遠に続き得るという恐怖を含んでいます。

ソクラテス:良き人にならねばならないな。

著者:はい。少なくとも、なろうと努力はすべきでしょうね。
 

仏教:現実って何だろう。

現実ってなんでしょうか。仏教的には、かげろうのようなものとして、無執着を勧めています。現実が、夢のようだと言われても、現実は現実じゃん、意味不明。というような素朴な疑問が生じるかと思います。この辺を試しに考えてみたいと思います。

著者:仏教においては、現実は、夢のようであると説かれます。現実は現実であり、我々は感覚を持って、現実を感知しており、現実がないかのような教えは、直ぐには理解しがたいものがあります。

シャーリプトラ:うむ。そう思うのも無理はないな。現実は、現実としてあるのは確かである。

著者:はい。現実は現実です。我々は、夢を見ますが、夢は夢、現実は現実であると、明確に区別していますから、現実は、現実で間違いありません。

シャーリプトラ:うむ。それはそうである。しかし、お釈迦様が言わんとしたことは、少々説明を要すると思う。

著者:そうですか。

シャーリプトラ:感じている、君たちが生きている現実は、まさに存在している。しかし、その現実は、その状態が不変であるかどうかということが、ポイントだ。

著者:いえ、それは明確に、違うと言えます。人は、年を取りますし、物質も変化をしています。物によっては、何千年、何万年と同じ形を維持していますが、宇宙の消滅、生成という変化があるとされていますので、未来永劫、その状態が維持されるというものは、皆無であるはずです。

シャーリプトラ:うむ。そうだ。君たちが感じている現実は、瞬間瞬間で、次々と移り変わっている。

著者:そうかもしれませんが、風呂に入っているときとか、読書に没頭しているときなどは、時間が止まったように感じますが。

シャーリプトラ:それは、同じような瞬間が連続しているだけに過ぎない。点が無数に集まると線になるように。

著者:そうですか。線であるように我々は、現実を捉え、永続するように感じますが、実際は、瞬間という点の集まりに過ぎないと言うことなのですね。

シャーリプトラ:そうだ。ここまでで指摘したいことは、点を線であるかのうように感じることから、この現実、この世は永続すると思い込む。または、将来に向けて、何かしらの果実を得たいと希望、夢を抱く。

著者:はい。人生は、線であるとするならば、希望を持って、大志を抱いて、何かしらの目的を達成しようと努力します。これは、悪いことなのでしょうか。

シャーリプトラ:悪いことを指摘するならば、ある程度の永続性を前提として、この世、自分に執着するということだ。

著者:でも、現実は線のように続いているように感じますし、目的達成したり、快楽を得たり、面白いことを沢山したいです。

シャーリプトラ:そこを仏教は、危険と見る。

著者:危険ですか。

シャーリプトラ:この世に生じている事実は、事実で間違いなのだが、無限の過去世の因、原因によって、一時的に生じているだけに過ぎない。その因が、ある程度継続したものであれば、現実も継続しているかのように生じる。しかし、たとえ、継続しているように現実が見えたとしても、感じたとしても、その状態は、刻々と過ぎ去っており、過去世の因の力が消滅すれば、結果である現実も消滅する運命にある。

著者:因果の法則、縁起の法則。何度も出てきた基本概念ですね。

シャーリプトラ:考えても見たまえ。ほんの1分前の出来事を感じ取ることは出来るか。

著者:え、記憶はありますが。

シャーリプトラ:いや。記憶ではなく、感覚として、現実感として、感じることはできるか。

著者:いえ。出来ません。だって、今しか感じ取ることは出来ないからです。

シャーリプトラ:それらの事実から、現実に執着することは、危険であると言いたい。つまり、現実は過去世を原因としており、結果として生じた現実は、絶対に未来永劫生じないということであり、現実を感知できるのは、瞬間瞬間ごとでしかないから、原因が変わっていくにしたがって、現実である結果も変化していく。そうすると、自分の望まない結果、現実も生じることも有り得、その際に苦痛を受けることになるからだ。まあ、もちろん、喜びを受けるときもあるのだが。

著者:はい。良い因の結果として、とても喜ばしい現実が生じたとしても、それは、いつかは過ぎ去ってしまうもので、今という現実しか生きれない我々は、そのようなとても喜ばしい状態の中で、生き続けることは出来ませんね。分かり易く言えば、過去を思い出し、初恋の子とデートしたときを切り取り、その状態がずっと感じることができるようにする。過去に没入するなんてことは出来ませんね。

シャーリプトラ:龍樹は、大乗仏教の大家であるが、現実は過ぎ去りつつある、と指摘しておる。実際は、深い意味があるのだが、今回は、現実は、過ぎ去るものである、という意味合いで理解しよう。

著者:過ぎ去りつつある現実ですか。

シャーリプトラ:これは、何かと似ている。それは、夢だ。夢も、見ているときは、本当のように思えるが、その状態が過ぎると、もう感じ取ることは出来ない。現実も、続いてはいるが、過ぎ去ったことを、もう感じ取ることは出来ない。なお、同じことを繰り返すことで、同じ感覚を感じるというのとは、また別の意味だ。過去は取り戻せない、過去には戻れない、というニュアンスだ。

著者:はい。現実は、夢なのですね。

シャーリプトラ:そう。ただ、本当の夢ではなく、夢のようなという意味だ。

シャーリプトラ:現実は、現実としてある。この現実で心、口、心で行ったことは、リアルのものとして、因となり、その後の結果へと結びつく。

シャーリプトラ:現実・この世・自己に執着をするべきではない。執着することで、悪行を沢山してしまい、最悪の場合、地獄に堕ちることになるからだ。

著者:地獄は嫌です。血の池地獄のような場所が描写のようにあるとは思いませんが、それと同等な苦しみを受けることにはなる思います。

シャーリプトラ:現実に執着してしまう者、または、つらい現実に耐え切れない者は、以下のように現実を捉えると良い。それは、今生じている現実は、瞬間瞬間の連続に過ぎない。いつか必ず、過ぎ去るものであると。こう心に思って、執着することなく、または、苦しみすぎず、淡々とすごし、機会があれば、善を成すのだ。

著者:苦しいことは永続しないと思えるだけでも、少し心が楽になりますね。

シャーリプトラ:うむ。それはいいことだ。現実に執着しすぎて、『熱した鉄丸を飲むな』とは、お釈迦様のお言葉だ。現実をこのように空ろなものと見なせるようになるならば、輪廻から抜け出すための一つの大きな条件を満たすことになると説かれておる。

シャーリプトラ:いいかね。現実になるべく執着することなく過ごしなさい。何も、無気力になれとは言っていない。『つまらぬ快楽を捨てることによって、広大なる楽しみを見ることができるのであるなら、こころある人は広大な楽しみを望んで、つまらぬ快楽を捨てよ。』 現実、自己に執着しないことは、大いなる楽しみなのである。

著者:はい。何となく、分かりました。ありがとうございます。
 

哲学:宗教やドグマに囚われた人間になってはいけない。

今回は、宗教にはまる人、ドグマ【ドグマとは、教義,教説などと訳され,固定された堅固な信条をいう。したがってときには柔軟性を欠く無批判な信念という侮蔑的意味でいわれる。】に囚われる人が、不寛容であり、劣っているかを検証してみたいと思います。

著者:今回は、宗教にはまったり、ドグマに囚われることを批判・警告をしてみたいと思います。

ソクラテス:うむ。

ソクラテス:まず、宗教の特徴はどのようなものだろうか。通常は、規範とするべき教義があり、それを信じるように指導される。物事の捉え方は、このようなものであるなどと。

著者:はい。まあ、教義があるのは自然なことですし、まあ、教えと平たく言いますが、それがないと宗教として成立しないように思います。

ソクラテス:まあ、そうであるな。つまり、宗教は、ある基準と言うか、しっかり決まった教えがあり、それは、その宗教を信じる者にとって、物事の見方の参考、または基準となっているということだろう。

著者:はい。極端なイメージかもしれませんが、あの宗教の教義によれば、あの教祖が言ったことだから、ある物事は、このように捉えることが出来る。または、それ以外の見方など存在しない。となると思います。それが宗教を信じるということだろうからです。他の選択肢はないです。信じる宗教の教義や教祖のが絶対だからです。

ソクラテス:宗教とは、ある固定化した見方になり易いということは、言えるとしようか。宗教とは、信じることが第一のようだからね。

著者:はい。

ソクラテス:さあ、まあ、宗教を信じている人には、申し訳ないことだが、その固定化した観念、見方は、実は、不利益性をはらんでいるということを指摘してみよう。大きなお世話かもしれぬが。

著者:はい。

ソクラテス:端的に分かり易い例として、キリスト教の根本的な考え方から生じた、ID【インテリジェント・デザイン】を見ていこう。

著者:それは、神が、人間を創造したというということで、進化論との対比、批判として、たまに、アメリカなどでは議論されますね。因みに、たしか、進化論を否定している人、つまり、IDが真実であると信じている人の割合は、人口の4割という結果が出たりして、それによって、アメリカの科学的知識の発展を阻害しているという主張をする学者もいますね。

ソクラテス:このような固定した考え方により、科学的な思考が出来ないこと、事実を受け止められず現実逃避の感覚が身につくこと、生じた現象に対して決め付けをすること、現実を取り違え大きな失敗をすること、異論に対して激しい攻撃をすること、自分が正しいとばかりに尊大になることなどだ。

著者:はい。固定化した考え方の極端な状態が、宗教やドグマですから、悪徳とも言わざるを得ないような状態ですね。

ソクラテス:うむ。ここで、J・S・ミルの名著である、『自由論』を見てみよう。ほんの一部であるが、正統的な道徳の確立に寄与したのは、古代ギリシャ等の流れをくむ善良な人々であって、キリスト教徒ではなかった。彼ら、キリスト教者の道徳とは、異教徒に対する排除であった。まあ、正確な引用ではないが、意味合いとしてはこんな主張、見解だ。

著者:はい。キリスト教の全てが悪いものであるとは思いませんが、完璧とは言えない様ですね。

ソクラテス:キリスト教は、神のお言葉として、聖書を尊ぶ。聖書に書かれていることは、神のお言葉なので、神から見たら人形に過ぎない人間が、疑問をはさむ余地はない。疑問をはさんではいけない。一心不乱に信じ、信仰せよ。信じれば救われるということを信じて。

著者:はい。まあ、キリスト教の方でも、聖書の全てを丸ごと信じているわけでなく、キリスト教の良い部分を取り入れて、有意義な人生にしている方の方が多いと思います。勝手な想像ですが。それか、教会離れ【キリスト教離れ】が、進んでいるようですから、その受け皿として、新興宗教が流行っていっているのでしょう。

ソクラテス:宗教論はいいとして、キリスト教だけでなく、教義という耳障りのよい言葉で、それを受け取った人間の思考を固定化させてしまうというのは、宗教にはつき物であるが、これは、多面的な特徴であるのが普通の事実を、一方向からの見方に固定するので、先のような悪徳が生じる。

ソクラテス:また、固定化した見方は、自身の可能性をも狭めることになる。多くの可能性が人生においてある。そして、物事の見方が固定化している状態では、あらゆる可能性に目が開かれないというのは、論理的だろう。

著者:はい。可能性とは、今より柔軟に事実を見る、捉えることによってなしえるはずですが、それと逆行している見方ですから。

著者:とは言っても、固定化することの不利益は分かりましたが、我々はこれに似たことを幼少期より受けております。つまり、教育です。これは、固定化の不利益を受けないのでしょうか。

ソクラテス:うむ。そうだ。教育とは、ある意味、教え込むということから、物事の見方の固定化へとつながるものとなる。全てが丸覚えではないが、物事はこうなっているということを教え、テストを通じて、定着度を計り、テストが悪ければ、もっと勉強するように要請される。

著者:はい。教育も宗教やドグマと同じ特徴があるので、教育も悪の部分があるのでしょうか。

ソクラテス:うむ。その答えは、あるとしよう。しかし、教育は、次に述べる2点を守ることで、その者のためになる。

著者:そうですか。その2点をとは何か。

ソクラテス:一つは、教育者側としては、宗教やドグマに陥らせず、公平で、客観的、科学的な事実や思考法を教えること。

ソクラテス:一つは、教育を受け取る側としては、受けた教育内容が、、未来永劫正しいものであると思わずに、常々、色眼鏡のない状態で、事実を事実のまま、論理的、科学的、実証的に判断するようにすること。

著者:はい。そういえば、ある著名な科学者が言っていましたが、自分の長年考えてきた理論や推論と違う事実が目の前に提示された場合、それを無視する、または、受け入れずらいという証言をしていますね。

ソクラテス:うむ。自分の確信していること、信じていることと違う事実は、心理的に大きな負担があることから、人間の防衛本能から、その事実を避けようとすることは、多くの人間において、自然的に生じるようだ。

ソクラテス:話を戻すと、教える側は、決して、ドグマ、一面だけに固執するような教え方はしてはならない。
決してだ。受け取る側は、教えられたことが、正しいものだと思ってもいいが、時には疑問に思い、教えられたことは本当に正しいことなのか、ということを自問自答するべきだ。

著者:この世の事象は、全て完全に解き明かされているわけではないです。だったら、教えられたこと、信じていることが、間違い、または、修正をようするという余地は十分にありますね。

ソクラテス:そう。重要なことは、事実を事実のまま、常にゼロベースで考えることができるからだ。それにより、変化していく現象に対して、常に最適解を導き出せる。

著者:固定化した宗教やドグマに囚われている人々は、それが出来ず、事実から離れ、頑迷、頑強、石頭、頑固というような悪徳となっていくのですね。

ソクラテス:そうだ。だから、アドバイスする。固定化した考えに固執せず、常に、何が正しいのか、何が最善なのかという問いの基、古きを捨て、新しいこと、正しいことを選択できる、見なせるだけの、知識と智慧を持ち続けるべきだ。

著者:はい。そうでなくば、固執化した悪徳によって、時代から取り残されたり、事実や真実と合わない、頑迷な人間になってしまい、それは、的外れと受取られ、孤立化、疎外というな痛みを受けることになりますね。

ソクラテス:うむ。宗教やドグマにはまる事なかれ。時に教えられたこと、固定観念に疑いを持ち、ゼロベース、一から物事を考えることをすることで、良い選択が出来るようになる。それは、良い事からその人に恩恵をもたらす。

著者:はい。

仏教:空の現代的説明及び身の振り方

今回は、既に量子論と仏教において、指摘していることですが、感覚的に走り書きした文章をそのまま、掲載します。多少読みづらいと思いますが、まあ、斜め読み程度に見てみてください。

この世は、2D【二次元】に記録されたデータにより、3D【三次元】になっている。

この基データの書き換えによって、生じるものも変わる。

このデータの書き換えの質によって、楽や苦が生じる。

この書き換えは、意志体【人間などの生命】の行動全て【身、口、意】が影響を及ぼす。

良きことで、充満させれば、神々の世界へ行き、果ては、神々そのものとなり得る。

さらに、自己執着を完全になくすと、寄る辺なく、全く自由で、筆舌に尽くし難き世界である、如来の世界、ニルヴァーナへと赴く。

何度も言うように、基データは、自らが書いたもの、自らの行動【身、口、意】が反映されたもの。

生じた苦に対し、ことさらに反発することなかれ。

また、生じた苦も一時的なものとして、苦しみ過ぎず、苦が過ぎ去るのをじっと我慢して、待て。

少しでも、自分以外の生命のために、善を成せ。個人、社会が喜ぶであろうことを善意の心で成せ。

おそらく、神々になるのは、理論上、比較的簡単だ。

つまり、何度も言うように、苦を受けても悪心を抱かず、じっと我慢し、その一方で、善なる行動【身、口、意】をひたすら行っていく。

こうすれば、自然と神々の世界へ入る。

悪を抑え、善を成せだ。

死んでから、地獄に堕ちて後悔しても遅いのだから、今すぐに行うべき。

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