哲学:宗教やドグマに囚われた人間になってはいけない。
今回は、宗教にはまる人、ドグマ【ドグマとは、教義,教説などと訳され,固定された堅固な信条をいう。したがってときには柔軟性を欠く無批判な信念という侮蔑的意味でいわれる。】に囚われる人が、不寛容であり、劣っているかを検証してみたいと思います。
著者:今回は、宗教にはまったり、ドグマに囚われることを批判・警告をしてみたいと思います。
ソクラテス:うむ。
ソクラテス:まず、宗教の特徴はどのようなものだろうか。通常は、規範とするべき教義があり、それを信じるように指導される。物事の捉え方は、このようなものであるなどと。
著者:はい。まあ、教義があるのは自然なことですし、まあ、教えと平たく言いますが、それがないと宗教として成立しないように思います。
ソクラテス:まあ、そうであるな。つまり、宗教は、ある基準と言うか、しっかり決まった教えがあり、それは、その宗教を信じる者にとって、物事の見方の参考、または基準となっているということだろう。
著者:はい。極端なイメージかもしれませんが、あの宗教の教義によれば、あの教祖が言ったことだから、ある物事は、このように捉えることが出来る。または、それ以外の見方など存在しない。となると思います。それが宗教を信じるということだろうからです。他の選択肢はないです。信じる宗教の教義や教祖のが絶対だからです。
ソクラテス:宗教とは、ある固定化した見方になり易いということは、言えるとしようか。宗教とは、信じることが第一のようだからね。
著者:はい。
ソクラテス:さあ、まあ、宗教を信じている人には、申し訳ないことだが、その固定化した観念、見方は、実は、不利益性をはらんでいるということを指摘してみよう。大きなお世話かもしれぬが。
著者:はい。
ソクラテス:端的に分かり易い例として、キリスト教の根本的な考え方から生じた、ID【インテリジェント・デザイン】を見ていこう。
著者:それは、神が、人間を創造したというということで、進化論との対比、批判として、たまに、アメリカなどでは議論されますね。因みに、たしか、進化論を否定している人、つまり、IDが真実であると信じている人の割合は、人口の4割という結果が出たりして、それによって、アメリカの科学的知識の発展を阻害しているという主張をする学者もいますね。
ソクラテス:このような固定した考え方により、科学的な思考が出来ないこと、事実を受け止められず現実逃避の感覚が身につくこと、生じた現象に対して決め付けをすること、現実を取り違え大きな失敗をすること、異論に対して激しい攻撃をすること、自分が正しいとばかりに尊大になることなどだ。
著者:はい。固定化した考え方の極端な状態が、宗教やドグマですから、悪徳とも言わざるを得ないような状態ですね。
ソクラテス:うむ。ここで、J・S・ミルの名著である、『自由論』を見てみよう。ほんの一部であるが、正統的な道徳の確立に寄与したのは、古代ギリシャ等の流れをくむ善良な人々であって、キリスト教徒ではなかった。彼ら、キリスト教者の道徳とは、異教徒に対する排除であった。まあ、正確な引用ではないが、意味合いとしてはこんな主張、見解だ。
著者:はい。キリスト教の全てが悪いものであるとは思いませんが、完璧とは言えない様ですね。
ソクラテス:キリスト教は、神のお言葉として、聖書を尊ぶ。聖書に書かれていることは、神のお言葉なので、神から見たら人形に過ぎない人間が、疑問をはさむ余地はない。疑問をはさんではいけない。一心不乱に信じ、信仰せよ。信じれば救われるということを信じて。
著者:はい。まあ、キリスト教の方でも、聖書の全てを丸ごと信じているわけでなく、キリスト教の良い部分を取り入れて、有意義な人生にしている方の方が多いと思います。勝手な想像ですが。それか、教会離れ【キリスト教離れ】が、進んでいるようですから、その受け皿として、新興宗教が流行っていっているのでしょう。
ソクラテス:宗教論はいいとして、キリスト教だけでなく、教義という耳障りのよい言葉で、それを受け取った人間の思考を固定化させてしまうというのは、宗教にはつき物であるが、これは、多面的な特徴であるのが普通の事実を、一方向からの見方に固定するので、先のような悪徳が生じる。
ソクラテス:また、固定化した見方は、自身の可能性をも狭めることになる。多くの可能性が人生においてある。そして、物事の見方が固定化している状態では、あらゆる可能性に目が開かれないというのは、論理的だろう。
著者:はい。可能性とは、今より柔軟に事実を見る、捉えることによってなしえるはずですが、それと逆行している見方ですから。
著者:とは言っても、固定化することの不利益は分かりましたが、我々はこれに似たことを幼少期より受けております。つまり、教育です。これは、固定化の不利益を受けないのでしょうか。
ソクラテス:うむ。そうだ。教育とは、ある意味、教え込むということから、物事の見方の固定化へとつながるものとなる。全てが丸覚えではないが、物事はこうなっているということを教え、テストを通じて、定着度を計り、テストが悪ければ、もっと勉強するように要請される。
著者:はい。教育も宗教やドグマと同じ特徴があるので、教育も悪の部分があるのでしょうか。
ソクラテス:うむ。その答えは、あるとしよう。しかし、教育は、次に述べる2点を守ることで、その者のためになる。
著者:そうですか。その2点をとは何か。
ソクラテス:一つは、教育者側としては、宗教やドグマに陥らせず、公平で、客観的、科学的な事実や思考法を教えること。
ソクラテス:一つは、教育を受け取る側としては、受けた教育内容が、、未来永劫正しいものであると思わずに、常々、色眼鏡のない状態で、事実を事実のまま、論理的、科学的、実証的に判断するようにすること。
著者:はい。そういえば、ある著名な科学者が言っていましたが、自分の長年考えてきた理論や推論と違う事実が目の前に提示された場合、それを無視する、または、受け入れずらいという証言をしていますね。
ソクラテス:うむ。自分の確信していること、信じていることと違う事実は、心理的に大きな負担があることから、人間の防衛本能から、その事実を避けようとすることは、多くの人間において、自然的に生じるようだ。
ソクラテス:話を戻すと、教える側は、決して、ドグマ、一面だけに固執するような教え方はしてはならない。
決してだ。受け取る側は、教えられたことが、正しいものだと思ってもいいが、時には疑問に思い、教えられたことは本当に正しいことなのか、ということを自問自答するべきだ。
著者:この世の事象は、全て完全に解き明かされているわけではないです。だったら、教えられたこと、信じていることが、間違い、または、修正をようするという余地は十分にありますね。
ソクラテス:そう。重要なことは、事実を事実のまま、常にゼロベースで考えることができるからだ。それにより、変化していく現象に対して、常に最適解を導き出せる。
著者:固定化した宗教やドグマに囚われている人々は、それが出来ず、事実から離れ、頑迷、頑強、石頭、頑固というような悪徳となっていくのですね。
ソクラテス:そうだ。だから、アドバイスする。固定化した考えに固執せず、常に、何が正しいのか、何が最善なのかという問いの基、古きを捨て、新しいこと、正しいことを選択できる、見なせるだけの、知識と智慧を持ち続けるべきだ。
著者:はい。そうでなくば、固執化した悪徳によって、時代から取り残されたり、事実や真実と合わない、頑迷な人間になってしまい、それは、的外れと受取られ、孤立化、疎外というな痛みを受けることになりますね。
ソクラテス:うむ。宗教やドグマにはまる事なかれ。時に教えられたこと、固定観念に疑いを持ち、ゼロベース、一から物事を考えることをすることで、良い選択が出来るようになる。それは、良い事からその人に恩恵をもたらす。
著者:はい。