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哲学:本質に至るための問いの一つは、なぜである。

本質を把握すれば、そこから生じる多くの事柄を理解できる。ということを今までいくつかの箇所で指摘しましたが、では、本質に至るための方法とは何であるか。その一つの方法をご紹介してみたいと思います。

著者:今回は、本質に至るための方法を教えて頂きたいと思います。

ソクラテス:うむ。

ソクラテス:まず、本質のおさらいをしてみよう。本質とは、物事の根本、不可欠の要素であり、この本質から、多くの現象が生じ得る。例えば、腹が減ったというのが、根本だとすれば、好みは別として、腹を満たすための食事や食物が無数に考え得るということなどだ。

著者:はい。論理学的に言うならば、演繹法ですね。本質から、多くの現象を導き出すということですね。

ソクラテス:うむ。今回は、演繹ではなく、帰納法。つまり、生じた現象から、逆ベクトルで、本質に至るには、どうしたら良いのかという点に焦点を当てる。

著者:はい。お願いします。

ソクラテス:さて、例えば、トヨタ自動車では、製造ラインで、何かトラブルが生じた場合、なぜを7回ほど繰り返せ、と指導している。

著者:それは、聞いたことがあります。

ソクラテス:これは、なぜ、という問いに対して、答えを考えていくということにポイントがある。

著者:はい。なぜ、と問われれば、なぜならば何々、という答えが適当ですからね。

ソクラテス:うむ。この答えに他の名称を与えるならば、根拠や原因、理由などである。

著者:はい。先ほどのお腹が減ったという例であれば、和食や中華が食べたいという現象の理由としては、腹が減った、です。それが何なのでしょうか。

ソクラテス:これがあるから、あれがある。腹が減ったから、和食など多くの種類の食事のいづれかを欲する。

著者:これがあるから、あれがある。何やら論理学の難しい言い方のように聞こえそうですが。

ソクラテス:難しくはない。この原因があるから、この結果がある。というつながりを単純に言っているだけだ。

著者:はい。寒いから、服を着る。疲れたので、寝る。など。当たり前のこと、つながりですね。

ソクラテス:うむ。さて、この理由あるが、これは、現象を生じさせる、基点となるものだ。この理由があってはじめて、現象が生じるのであるから、理由、原因は、先にあり、かつ、基点である。

著者:はい。これがなかったら、あれもない。のですね。腹が減らなければ、和食等の食事は摂りませんね。当たり前ですけど。

ソクラテス:そう。この基点、元、源であるということが重要である。これは、本質と同じ種類の概念ではないかな。

著者:はい。本質も、物事の根本、不可欠の要素でした。全く同じとは言えないかもしれませんが、基点、元、源という概念は、同じカテゴリーに入れられそうですね。

ソクラテス:うむ。さらに、この基点等に対して、なぜで問うてみたら、どうなるだろうか。

著者:理由の理由ってことですね。うーん。腹が減るのは、なぜか。うーん。カロリーを消費しているから。さらに、カロりーを消費するのは、生きているから。さらに、生きているのはなぜか。うーん。

ソクラテス:なぜを繰り返していくと、どんどん、より根本的な理由へと沈降していく。最後には、答えられないくらい、哲学的な根本問題にまで行き着いてしまったね。

著者:はい。何が何だか分からなくなりました。

ソクラテス:まあ、この生きるというのが、行き着いた根本だとしよう。このように、なぜを繰り返すことによって、本質へと行き着く。一回や二回では、その本当の根本に達しない場合も多いことから、出てきた理由に対して、何度も何度もなぜを繰り返し、真因と言われることを追求する。その原因が深ければ深いほど、そこから生じる多くの現象を一気に解決することにもなる。

ソクラテス:原因と現象のつながりが、階層的に下へと伸びていくし、より根本は、より多くの現象を従えているからだ。

著者:はい。

ソクラテス:まとめると、なぜという問いは、原因・理由等を求めることになり、それは基点等である。基点等は、本質的である。さらに、求められた基点等に対して、なぜを繰り返していくと、より本質的な原因等に行き着く。というまあ、こんなところだろうか。

著者:はい。

ソクラテス:蛇足ではあるが、この本質が分かったら、その本質から生じる多くの現象を導き出す。というのが、演繹だ。賢い人間は、多くの現象から、根本原因、本質を見出し、それに基づいて、未知の現象を導き出すのだ。究極の情報である、未来の情報までも、手に取るように理解される。賢い者は、いちいち、生じた現象に一喜一憂しないのだ。凡人は、一喜一憂して、右往左往する。誰の言葉か思い出せないが、『過去を長く遡って理解すれば、未来もより長く見渡せる。』のような言葉もある。過去は、現象の宝庫であり、そこから本質を見出せば、不可欠の要素であるから、未来においてどのような現象が生じ得るかを理解できる。

著者:はい。身の回りの現象になぜを問うということを習慣化したいと思いました。

ソクラテス:ぜひ、そうしたまえ。

哲学:人を助けるということ。2/2

ソクラテス:ここまでは、理想論的な議論であるが、現実問題となると、事情は違う。助けを必要としている人々は、現実に存在しているのであるから、現実の問題として取り扱うことは、当然必要である。だって、現実の人々を助けるための議論がなければ、この議論そのものが非利他的であり、利他を扱うことが理不尽であろうからだ。

著者:はい。もちろん、現実を見ます。

ソクラテス:うむ。じゃあ、端的に言う。純粋な利他で利他を行っている人は、どれくらいいるだろうか。

著者:え。たぶん、多くの人は、自利で行動しているのではないでしょうか。人間の本質ですし。それは、しょうがないです。

ソクラテス:うむ。わしもそう思う。意識調査して、割合を出していないので、定かではないが、まあ、人間である以上、自利がほとんどだろう。

著者:はい。

ソクラテス:とすると、君が先ほど指摘したように、自利ならば、自利というべきだと。利他の顔をするなと。

著者:はい。

ソクラテス:例えばこうか。我々は、アフリカ諸国の資源が欲しいのであって、あなた達のことなどこれっぽっちも考えていません。でも、一時的には、衣食住はあてがいますので、我々の援助を受けてください。または、私は、自分探しのためにカンボジアに来ました。だから、一つの経験として表面的に利他的な援助をさせてください。

著者:あ、え?

ソクラテス:このような宣言をして、多くの困っている人々は、援助を受けるかね。

著者:はい。受けると思います。彼らは、困窮しており、自利と分かっていても、わらをもつかむ思いで、受け入れると思います。

ソクラテス:うむ。しかし、彼らとて、知性がある。自利と分かっている人々の援助を信頼して受けるだろうか。または、継続して多くの援助を受けるだろうか。

著者:さあ、どうでしょうか。信頼がなければ、一時的、限定的な援助に留まってしまう可能性はありますね。

ソクラテス:一時的、限定的。困窮している人々には、そぐわないフレーズだね。

著者:あ、ええ。だって、しょうがないです。せっかく、自利とは言え、援助しているのに、向こうが受け入れないというのであれば、それはそれで、向こうの責任というか、こちらにできることにも限界があります。

ソクラテス:どうだろう。たとえ、自利だとしても、利他であると信じて援助をしようとして、信頼を得たならば、どれだけ多くの人々に援助が行き渡るだろうか。

著者:信頼が十分にあれば、継続的、全般的に行き渡るものと思います。

ソクラテス:それは、より善なことではないかね。猫を被っているところは、不実かね。不善かね。

著者:善だと思います。実際に、援助が多くの人々に行き渡るのですから。

著者:でも、自利であることは不変であるのですから、いつか、相手に利益より、自分の利益を優先するときが来るのではないですか。いつかは分かりませんが、自利を内包している以上、それは、無意識的に、自然と、ギトギトした自利が、相手を不利益にするのではないでしょうか。そしたら、今までに行ってきた利他の意味、意義、成果など消し飛んでしまうのではないでしょうか。それは、ひどいだましではないですか。だったら、だまさず、最初から自利であること言った方が、よっぽど、善ではないでしょうか。

ソクラテス:うむ。その通りだ。

ソクラテス:では、より多くの人々に善を行き渡らせ、かつ、その行動が不善とならないためには、どうしたらよいのか、を考える必要がある。

著者:はい。行った利他的行動が、その後、自利によって、不善とならないためにはですね。

ソクラテス:そうだ。

ソクラテス:そして、この回答は、あくまで、利他であろうとする人々を対象にするのであって、相手をだます気である人々は対象にしていない。

著者:はい。がっつり自利であり、利他のことなど、相手を信用させるための自利のための道具としか思わないような人々のことは対象にしていないということですね。分かりました。

ソクラテス:さて、どこまで行っても、自利は根底にあり、いつか、行動に反映され、利他が阻害されるということを認識することである。

ソクラテス:人間というものの本質は、やはり、利己的である。最初は、自利が根底にあるとは言え、利他の気持ちをいっぱいにして、相手の利益となることをする。しかし、ある程度長い時間が経過すると、自分がこんなにもいいことをしてきた、自分と言うものは、素晴らしい人間であると思うようになる。無意識も含めてだ。

著者:はい。その気持ちは分かる気がしますし、実際、その人のしたことは、自利とは言え、利他であり、それが長年続けば、素晴らしいこと、素晴らしい人だと思います。

ソクラテス:だが、ここで、深海にいた自利という気持ちが浮上してくる。強まると言っても良いだろう。自分はこれだけ多くの利他をしているのだから、何らかの恩恵があってもいいはずだ。または、自分は素晴らしい人間なのだから、自分が思ったことは全て正しい、やって良いことのはずだ。とね。

著者:はい。それも自然なことだと思います。結局、自利であるならば、利他を通して、自利の気持ちがより肯定、強まるということは有り得ることだからです。

ソクラテス:うむ。そして、ここで利他と自利の逆転現象が起きる。今までは、自利があるにしても、利他の気持ちが優先していたが、皮肉にも、利他によって自利が強まり、自利が利他を凌駕するのだ。
ソクラテス:この段になると、横暴に振舞ったり、相手のことなどそっちのけで、自分勝手で自己満足的な行動を取るようになる。

著者:え、でも、最初は利他心にあふれる人だったのですよね。急変してしまったのですね。全く別人じゃないですか。

ソクラテス:そうだ。でも、決して別人ではなく、このような振る舞いの変化は、ごく身近にもありがちな現象だと考えておる。

ソクラテス:これは、自利から抜け出せない生命が背負う、自然な状態変化なのだよ。

著者:では、どうすれば、不善を防ぐことができるのですか。

ソクラテス:一つの方法としては、人間は神でもあるまいに、決して、完璧に優れた生命ではないということを常に肝に銘じること。利他をすることは、ひょっとすると最終的に大きな不善をなしてしまうかもしれないというリスクがあるということを想定しておくこと。

著者:何か。修行みたいですね。せっかく、利他をして良いことをしても、自分をすごく誇ることができないなんて、少し、かわいそうな気がします。

ソクラテス:もしかしたら、利他を長年し続け、大いなる利他をやり遂げている者達は、自己を戒め、自利を常に抑え、修行者のような、何ものにも左右されない、不動の心でいるのだろう。

著者:はい。とにかく、どんなに優れた気持ちの持ち主でも、人間である以上、自利が表に出て、不善となってしまう可能性があるということを、肝に銘じる、認識するということすることですね。

ソクラテス:うむ。


ソクラテス:その戒めがあるならば、自利による利他が最善であろう。先ほどの例で言う、困窮者に対する援助も広く行き渡り、かつ、不善になることは大変に少ないだろう。

著者:はい。

著者:本当に利他をするとなれば、相手のことを考えて行動して、かつ、自分のことも抑制しなければならないなんて、利他って骨の折れることですね。(ボソッ)

ソクラテス:報酬と言っては、自利過ぎる表現であるが、このようなことを通して、人間性が一段上昇することは間違いなく、人生において大いなる満足感、充実感を高いレベルで感じることができるだろう。自利を最大限に高めても、満足感や充実感は、劣ると断言しよう。

著者:はい。そう信じたいです。
 

哲学:人を助けるということ。1/2

人を助けるという言葉がありますが、軽いニュアンスとしては、手を貸す、手助けする、助言するなどがあります。このブログでは、仏教という視点から、人を助けるという点について考察したことがありますが、今回は、純粋に人を助けることについて、仏教などの教義を除いて考えてみたいと思います。

著者:今回は、自分以外の人に対して、何らかの利益を与えるということについて考えてみたいと思います。

ソクラテス:人を助けるということについてじゃな。

著者:はい。人間と言うものは、利己的、自分中心、自分勝手なのが本質であると科学的にも生物学的にもいえると思いますが、マザーテレサのような聖者と言われる人々だけでなく、一般人でも、人助けを率先して行っていることも多々見られます。また、新卒の学生などは、就職先をNPO法人にして、社会に恩恵を与えることを最優先にしている組織に就職したがっている人々が多いそうです。

ソクラテス:まあ、順番に見ていこうかの。まず、単純に言って、利己的だけでは生き辛い。

ソクラテス:これは、社会性の派生を考えれば理解できる。単純に、一人またはごく少数だけでは、取れる食料の幅や衣服などが限定的となり、幸せの度合いが低い。防衛力等々、大きな幸せを得るには、人数が足りなすぎる。だから、人間は群れて、共同で補完し合いながら、生きるという選択をしたのだ。アリストテレスの言う、人間は社会的動物である。ということにつながる。

著者:はい。一人、ジャングルの中で孤独に獣のように生きるのは、過酷過ぎます。

ソクラテス:そう。自分のできることをして、それが社会のためになるということで、その社会にいる成員が、その恩恵を受け、また、その逆で自分が彼らの働きによって生じる恩恵を受ける。協力と言っても良いかもしれないが、利他と言っても良いだろう。


著者:はい。大小の差はあるにしても、社会のため、利他という気持ちがあって多くの人は生活しているのですね。

ソクラテス:うむ。自分は利己的と思っている者でも、社会の敵であるところの犯罪を犯そうとせず、税金を支払うことを拒まないならば、少なくともそれは、社会のためになるという意思で行動している。どちらも、罰則が伴うから、犯罪を犯さないし、脱税しないという、強制性があるにしても、多少の利他があると思うぞ。

著者:利他ですか。それって、自分のためですよね。やらされ感というか、自己に不利益あるから、表面上利他であろうとする。結果利他である、というだけのもので、利他という高尚な言葉に合わない様な気がします。

ソクラテス:それで良いのだよ。人間は利己的。自分のために、社会のため、人のために行動をするのだ。自己のために利他をする。

著者:うーん。そうですか。どうも、利己、つまり、自利と利他が同じ文脈で語られることに違和感を感じます。

ソクラテス:そうか。では、JICA - 国際協力機構に応募する人や社会的意義の大きいNPO法人になどに就職する人達は、純粋に利他という気持ち、つまり、完全に自利を排除した利他で行動しているのだろうか。

著者:うーん。JICAは、もちろん、国際協力であり、意義のあることですけど、世界を見てみたいとか、発展途上国の人々の役に立ちたいという生きがい的な部分などが原動力になっているように思います。

ソクラテス:それは、自利ではないのかな。

著者:え、えーと。そうです。で、でも、中には純粋な利他の人だっているはずです。

ソクラテス:ん。君は、自利から生じた利他はいけないものだと思っているのかね。

著者:はい。だって、自分のためなのに、利他をしているって、なんかだましているように感じて、羊の皮を被っている狼のようで、しっくりきません。

ソクラテス:じゃあ、君は、結果的に利他となることでも、自利を内に秘めている者は排除するべきというのだね。

著者:いえ、少なくとも、自利であるならば、利他の顔をするべきでないと言っています。

ソクラテス:自利でも、結果として利他になることでも、そうかね。

著者:え、ええ。たぶん。自利なら、自利だと最初から、相手に言うべきです。

ソクラテス:最初から、利他ではありません。あなたのためではなく、自分のためにやります。結果はどうなろうが知りません。それでも、良かったら、私のサービスを受けてみませんか。ということを伝えるということだろうか。

著者:え、ええ。そうです。それがフェアーというものです。利他を言うのであれば、相手に全て情報開示して、それから行うべきです。

ソクラテス:OK。まあまあ、本質的な議論だ。

哲学:偉い人・成功者は、なぜ偉ぶらず、普通なのか。2/2

ソクラテス:それは、違う。差が生じたのは、心の態度や物事の捉え方にある。


著者:はい。それは、分かりましたが、具体的にはどのような要素なのでしょうか。


ソクラテス:直接的な成功哲学というよりは、堅調に幸福を積み上げるという点において、指摘してみよう。


ソクラテス:東西の思想を参考にしてみよう。まず、1871年当時『西国立身編』として、現在は、自助論として、有名なイギリスのサミュエル・スマイルズの世界的名著から、自らを助ける精神、目標を目指して精一杯努力する、自尊心、人を尊重する、人格を高める、よい習慣を身につける、明朗快活な精神等を指摘している。仏教、特に大乗仏教においては、六波羅蜜という求道者が実践するべき徳目として、施し、戒律、忍耐、努力、精神集中、智慧を上げている。武士道では、正義、勇気、仁、礼、誠、名誉、忠義をあげている。古代ギリシャでは、叡智、正義、忍耐、節制、中庸が上げられている。


著者:はい。古来から東西に渡って、偉人たちが成功、幸福のポイントとして、色々な徳、心得を伝えて頂いていますが、何か沢山ありすぎて、どれが正しいのは、よく分かりません。
ソクラテス:うむ。では、わしの独断により、特に重要だと思われる事項を指摘して、解説を加えることにしようか。


著者:はい。お願いします。
ソクラテス:わしが思うに、謙虚さ、まあ、誠が元となっているだろうが、これだろう。もちろん、目標を持って、忍耐をして自己研鑽して智慧を身につける、というのは、当然に必要な要素ではあるが、堅調に成功、幸福を得るという観点から考えるならば、落とし穴を回避するので、謙虚さは、この話の流れでいくと、大変に重要であると考える。


著者:はい。今回は、まあ、偉人の偉人たる要素ですが、その内でも、堅調に幸福を得るということに偉人の特徴の一つを見出していますね。


ソクラテス:うむ。さて、謙虚とは何か。


著者:謙虚とは、控え目で、つつましいこと。へりくだって、すなおに相手の意見などを受け入れること。また、そのさま。と辞書にあります。


ソクラテス:うむ。謙虚であることの利点を3つ述べよう。1つ目は、智慧や知識が増える。2つ目は、常に努力する。3つ目は、バランスが取れ易くなる、だ。


ソクラテス:一つ目の、智慧や知識増えるであるが、謙虚は、自分はまだまだとばかりに、ある程度成功しても、尊大にならず、自他を客観的に把握し、他者が言う助言やアドバイスに耳を傾けることができる、心象、徳である。


著者:はい。謙虚の定義からも、とても慎ましく、素直な感じがしますね。


ソクラテス:そうだ。人間がいくら大成功したとしても、神ではないので、全てにおいて完璧ということはない。また、ある瞬間においては、向かうところ敵なし状態になったとしても、時代という時間軸で見た場合、それが存続するかは、不明瞭である。それが事実だとして、一時の成功体験で役立った知識や経験のみをずっと使い続けるというのは、失敗し易い。なぜならば、変わる状況において、変わらない知識等では、その間の距離、乖離が生じ、変わった状況に対応できないという事態になり易い。


著者:あ、それはそうですね。人々の考え方、科学技術等、どんどん変化をしており、そのスピードたるや、現代においては目まぐるしいものがあります。極端に言えば、昨日使えた知識や経験が、明日にはあまり役立たないなんてこともあると思います。


ソクラテス:そう、そんな状況で、時代等に流され、成功、幸福チャートを急激に下げずに、まあ、堅調に上向きにするには、どうすればよいだろうか。


著者:はい。それは、変わった状況に対応する知識や智慧を得ることでしょう。


ソクラテス:そうだ。謙虚でない、自分が最高だ、自分は完璧で常に間違えない、と尊大になっている人間には、この変わった状況に対応する知識や智慧を得ようという積極的な心根が不足している。だって、何かを学ぶ等は、尊大であると思っている自分にとって、それは尊大ではない行為に相当するのであるから、心から嫌がる。


著者:う、そうですね。何かの知識や経験を学ぶとき、一時でも、自分は無知である、自分は決して完璧ではない、ということを認識しなければ、新たな知識や経験は、十分にその人に身につかないですね。


ソクラテス:一方、謙虚な人は、自分が知らないということに心理的な負担、嫌悪感が少ないので、十分に新しい、知らない、時代に合った有益な知識や経験を学び取ることができるので、時代等に取り残されることなく、堅調に幸福を得ることができるのだ。


著者:ソクラテス先生の有名なお言葉で、『無知の知』がありますが、おそらく、この言葉は、本当の智慧を追究するため、本当に哲学をするために不可欠のことであるという意味合いもあると思います。追究するとは、未だ知らないことなのですから、知らないということをまず認識して、ある意味、謙虚になった状態でなければ、本当の智慧は得られないし、哲学なんてできやしないよ、という意味もあったのでしょうね。


ソクラテス:うむ。まあ、そういう側面もある言葉だな。実際、無知であると認めない、つまり、自分が正しいとある意味、尊大、勘違いしている者との対話をしていて、このことに気づいたんだ。知らないという事実を認識している私の方が、そうでない、分かった気になっている相手より、よほど上等に思えたのだよ。


著者:はい。『ソクラテスの弁明』に詳しく書いてありますね。


ソクラテス:さて次は、常に努力するだ。


著者:はい。


ソクラテス:謙虚であることから、事実をそのまま認識することができる。先に指摘した智慧が増えることから、当然に導き出されることである。


著者:はい。尊大は、その尊大さを優先するあまり、自分が尊大ではないという事実に対して心理的拒否反応、無意識的拒否反応をしてしまい、事実を事実のままではなく、自分が尊大であることを維持するように、事実を捉え直してしまいます。いわゆる、色眼鏡で見てしまいます。


ソクラテス:うむ。そうだ。謙虚さは、事実をそのまま認識させることに役立つ。そして、そこから、例えば、自分は、現在の状態において、危機にあるという認識が事実としてなされた場合、その人は、そのような危機に対し、回避行動をするだろう。


著者:はい。目の前に氷山があり、このまま行ったならば、衝突して命の危険があるとすれば、当然に誰しもが回避行動を取りますね。


ソクラテス:うむ。


著者:待ってください。危機と感じるのであれば、尊大な人でも同じではないですか。
ソクラテス:そうだ。危機と感じればね。


著者:どういうことですか。


ソクラテス:つまり、尊大な人は、尊大さの維持に反するような、危機という事実を事実のまま十分に受け取らず、危機感を感じない、感じにくい。一方、謙虚な人は、危機という事実を事実のまま危機と受け取り、危機感を十分に感じることができる。


著者:あ。そうですね。危機と感じれば、誰だって回避行動するための努力をするでしょうが、危機ということそのものを感じない、感じにくい尊大な人は、当然、回避行動のための努力をしませんね。


ソクラテス:そうだ。謙虚であることで、事実を事実のまま虚心に見なすことにより、その時代や状況変化に沿わなくなり、取り残されるという危機意識が芽生え易くなり、そのための回避行動、そのための努力をするようになるということだ。


著者:あ。謙虚な人は、努力するとなりますね。


ソクラテス:そして、厳密に見れば、時代はもちろん、日々の状況も刻々と変化しており、昨日常識であった認識が今日や明日には、非常識であり、その認識の乖離により、幸福チャート上、下降していくということになる。だから、常にそのことを把握する、把握し易い謙虚な人は、常にその回避のための努力をするのだ。


著者:はい。謙虚な人は、変化に敏感になり、その反応として、常に努力をするということですね。


ソクラテス:そうだ。この世を見てみれば分かるだろう。一時、成功して、自分は安定的に成功が約束されたと思い、尊大になった瞬間から、自分と事実との乖離が始まり、いつしか、時代などの変化により、対応できず、成功から引きずりおろされる、なんてことは良く起きることだろう。栄枯盛衰。成功を維持する方が、よほど大変だと一般的には言われ、成功を維持し続けている企業、個人で、努力をしていない人なんて皆無だ。


著者:はい。間違いないですね。


ソクラテス:さて次は、バランスが取れる、ということだ。


著者:はい。


ソクラテス:バランスに関しては、古代ギリシャ、老荘思想にも、それとなく、重要性が説かれているが、その詳細な検証はしない。今回は、バランスが取れるということは、利点、徳であるとしたい。


著者:はい。まあでも、感覚的に言って、強さと優しさ、頭の良さと体の強さ、意志の強さと柔軟性など、正反対の要素をバランス良く内包している人々は、成功しているように感じますね。


ソクラテス:うむ。まあ、バランスは良いものだとして、どうして謙虚さがバランスを取る、取れるということに役に立つのだろうか。


著者:はい。直ぐには理解できません。


ソクラテス:これは、先の2つの利点にも共通すると思うが、謙虚であると、事実を事実のまま把握する、色眼鏡なき心象であるから、事実をありのままの姿で認識できる。


著者:はい。だからこそ、不足しているであろう新しい知識に興味がでますし、それらを得ようと常に努力するということにつながる、ということでした。


ソクラテス:うむ。さらに、その事実を謙虚に観察、洞察していくと、物事がうまくいく、成功するには、色々な要素から成り立っているという結論を導き出すことができる。先に例を挙げたが、もう一度、他の例を挙げると、頑強であり過ぎると、強すぎる力に対して、ポキッと折れ、再起不能となる。逆に、ナヨナヨなドロドロしたようなものは、しっかりとした形【例えば成果】を形成することができない。理想型は、中心となる部分が頑強であり、表面的な部分が柔軟であるならば、概ねどのような状況が生じてきたとしても、受け流すことができるものである。


著者:はい。頭も良く、スポーツもでき、明るく、社交的、信念や哲学を持ち、心優しい人ならば、成功間違いなしだと直感的に思います。


ソクラテス:うむ。バランスが取れる人は、成功する、または成功し易いということが、分かったと思うが、それを深く理解できるためには、謙虚でなければならないのだ。


著者:とすると、謙虚であると、事実を事実のまま、ありのままの姿を見ることができ、さらに詳細に状況を観察、分析することにまで及ぶとすれば、成功には、バランスが不可欠と認識され、当然、成功したいと思うので、成功するために、バランスを取るように自己を変革しよう、変化させようというインセンティブが働き、まあ、バランスの必要性を理解できない尊大な人々に比べれば、謙虚なバランスの必要性を理解している人々の方が、よりバランスを身に着け易いでしょうから、謙虚である人々の方が、成功し易い、成功する可能性が高まるということでしょうか。


ソクラテス:うむ、そうだ。まあ、君が今言ったようなことが、まとめとして適当だろう。


著者:とすると、次の課題は、どうしたら謙虚さという徳を身に着けることができるのか、ということですね。


ソクラテス:うむ。だが、それは、次の機会とし、今回はこれくらいにしよう。


著者:はい。分かりました。ありがとうございました。
 

哲学:偉い人・成功者は、なぜ偉ぶらず、普通なのか。1/2

偉人、大成功を収めたような人々は、歴史的に言って、おごらず、逆に普通以上に低姿勢で、柔和であると言われます。『実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな』などと言う言葉もあるくらいで、偉く、また、成功すればするほど、逆に謙虚になるものだよ、というのです。なるべきではなく、自然になるもの、または、謙虚だったから、成功できた?まあ、この辺のことを明確にしてみたいと思います。

 

著者:本日は、偉大な人々、偉人、賢者と言われるような人々の分析をしてみたいと思います。

 

ソクラテス:うむ。

 

ソクラテス:まず、偉人も色々な人々がいるので、全てに当てはまるのではなく、まあ、概ね共通している要素を指摘することにしよう。

 

著者:はい。

 

ソクラテス:ではまず、偉人、大成功、多くの人々から賞賛されるようなことをするとは、どのようなこと必要だろうか。

 

著者:ちょっと、よく分かりませんが、大きな成果を挙げるということでしょうけれども、それに至るには、大変な、常人では考え付かないような、想像を絶するような努力が、当然のように必要なのだと思います。

 

ソクラテス:うむ。そうだな。人間は、神でもあるまいに、何の努力も要らず、いとも簡単に、多くの人々が驚嘆するようなことをすることは、普通は考えられず、多くの努力をしていると思われる。

 

著者:はい。間違いないと思います。

 

ソクラテス:さて、ということは、おそらく、というか、ほぼ確実に、長い時間が掛かったと推測できる。

 

著者:はい。簡単にできないのであれば、多くの時間が掛かることは、間違いないことだと思います。

 

ソクラテス:長いと言っても、1ヶ月やそこらではなく、何年、何十年というスパンのことを指しているが、経験上、または、歴史上、我々の目の前に生じる状況というのは、刻々と変化している。

 

著者:はい。10年、一昔。という言葉があるくらいですが、数年の間でも、状況というのは、劇的に変化する場合も多々あります。

 

ソクラテス:うむ。そうだね。このことは、偉人だろうが、普通の人だろうが、その事実はそんなに違いはないと思われる。だって、偉人は、神ではないのだから、あらかじめ、自分で全ての状況を好きなように決定することなんて、出来ないだろうから。

 

著者:はい。状況を好転するようには、振舞えるでしょうが、全てを思い通りとは行かないですね。

 

ソクラテス:うむ。確認するが、偉人と普通の人とでは、取り巻く状況においては、受動的、受身であるということだ。

 

著者:はい。そういうことですね。

 

ソクラテス:さて、それでは、検証してみよう。良い状況と悪い状況において、偉人と普通の人とではどのような振る舞いをするのか。

 

著者:はい。

 

ソクラテス:では、まず、良い状況から考察してみよう。普通の人は、良い状況を目の当たりにすると、有頂天となり、簡単に言えば、周りが見えなくなり、自分はついているとばかりに、気が大きくなり、それがアダとなり、大きな失敗をしてしまうか、良い状況を長続きさせることができない。イメージ的に言えば、パッと花火が上がって、スッと消えていくようなものだ。

 

著者:はい。それは、分かります。まあでも、先ほど仰られたように、状況は、全て思い通りにできないのですから、良い状況が生じたのも、それがスッと消えてしまうのも、やむを得ないことなのではないでしょうか。つまり、その人には、どうしようもなかったのではないでしょうか。

 

ソクラテス:うむ。果たしてそれは、そうだろうか。確かに、全てを思い通りにすることは不可能である。しかし、それに近いとは言わないが、ある程度、引き寄せる、維持することは可能であると考えている。

 

著者:え、そうなのですか。

 

ソクラテス:うむ。良い状況に出くわした場合、偉人ならば、こう考えるだろうと思う。この状況は、たまたま生じた短期的な幸運である。決して長くは続くまい。今後、悪い状況もあり得るだろうから、そのときのために、有頂天にならず、冷静になって、対策や準備をしておこう、と。

 

著者:そうなのですね。しかし、せっかく、良い状況が到来したのだから、もっと、その状況を楽しめば良いのではないでしょうか。なんか、良い状況でも、悪いことのために備えるなんて、楽しいという幸福を得られないので、良い生き方なのでしょうか。

 

ソクラテス:まあ、その議論になると、話がずれていってしまうので、詳細は避けるが、簡単に言えば、良い状況は、程ほどの幸福感を得て、悪い状況では、最悪の絶望感を避けることで、総計として、差し引きで、多くの幸福感を得ているのだ。

 

著者:賢いですね。総計で幸福感多い方が良いに決まっていますものね。

 

ソクラテス:話は戻るが、良い状況でも、冷静に悪い状況にならないように準備、考えておくことで、今より悪い状況になる芽に早期に気づき易くなり、その悪い芽を摘むか、早々に対処し、急激に悪い方向へ行くことを緩和し、なるべくショックを受けずに、再起できるようにするのだ。

 

著者:そうですか。たとえ、悪い方向性があったとしても、それに対して、完全にあがなう、抵抗することはできないまでも、その大きな方向性の中においても、最善の状況に持っていくことができるのですね。

 

ソクラテス:そうだ。

 

ソクラテス:さて、次は、悪い状況による、振る舞いについてみてみよう。

 

著者:はい。

 

ソクラテス:悪い状況において、普通の人は、悪い状況に対して、とてもつらく感じ、悲しみ、場合のよっては絶望し、最悪の場合、意気消沈して死を選ぶ。

 

著者:はい。悪い状況のそのまた最悪の状況であれば、普通は、絶望し、生きる意思さえも失ってしまうというのは、分かる気がします。

 

ソクラテス:うむ。では、偉人は、どうだろうか。偉人は、ものごとは、常に変化しており、真面目に状況に対処していれば、必ず好転すると考えている。

 

著者:どのような状況においてでもですか。

 

ソクラテス:おそらく、そうだろう。物事というのは、必ず変化を伴うものである。古代ギリシャのヘラクレイトス万物は流転している、と指摘しているし、仏陀は、全ての事象は、仮に姿であり、原因が変われば、変わり得るものであると説いている。

 

著者:それらが、この世の本質だとすれば、どのような状況においても、変化するのであり、最悪の状況においても、変わり得るのだから、偉人たちも、どのような状況においても、この変化、つまりチャンスを得ようとしていたのですね。

 

ソクラテス:そうだ。危機だからこそ、視点を変えることによって、大きなチャンスが見えてくるものである。皆が悪い状況、危機をばかりを見て、チャンスと捉えないことで、偉人たちは、そこを逆にチャンスと見なした少数派となり、ほとんどしていないことから、市場などを総取りできるのだ。これは、企業だけではなく、個人レベルにおいても、周りが危機で意気消沈している傍らで、自分の能力を磨いておくならば、希少な人材となり、高給で、就職ができることができる。

 

著者:はい。たぶん、そうだと思います。

 

ソクラテス:この良い状況による対応と悪い状況による対応とで、後に偉人と呼ばれるような人々の幸福のチャートは、堅調だということだ。

 

著者:チャートつまり、図ですか。

 

ソクラテス:チャートを示せないので、わかり辛いと思うが、良い状況において、その良い状況がなるべく長く続くように対処している。また、悪い状況において、その悪い状況が早く好転するように対処しているので、偉人は、総合的な幸福数値が高い。一方、普通の人は、せっかく巡って来た良い状況を長続きさせられず、悪い状況も、良い状況が来るのをただじっと待っているだけであり、幸福のチャートは、変動が激しく、不安定であり、総合的な幸福数値も低い。

 

著者:はい。多少周りの状況によって、幸不幸が生じるでしょうけれども、大きな流れとして、急激な浮き沈みがない、堅調な幸福チャートを描けるのであれば、それは幸福が大きいでしょうし、偉人と言われるような大きな成果や社会貢献もできることでしょう。

 

ソクラテス:そうだ。

 

ソクラテス:そして、再度言っておくが、普通の人と偉人達とに生じた環境的状況は、そんなに変わらないが、その取り扱い、対処の仕方によって、結果が大きく変わったということだ。さらに、ある程度、その取り扱いの違いをしている期間が経過すると、普通の人と偉人に生じる環境的状況も差が出てくる。こうなると、偉人は、ますます幸福を得るというように、結果に格段の差が生じてきてしまうことになる。

 

ソクラテス:繰り返すが、普通の人と偉人との差は、あらゆる状況の取り扱いの仕方の差だと言える。

 

著者:そうですか。では、その取り扱いの仕方の差は、どうして生じたのでしょうか。生来のものなのでしょうか。普通の人と偉人とは、生まれながらにして既に各々が運命付けられているのでしょうか。

 

ソクラテス:それは、違う。差が生じたのは、心の態度や物事の捉え方にある。

 

著者:はい。それは、分かりましたが、具体的にはどのような要素なのでしょうか。

心理学:日本人の繊細さ、細やかさ 【日本人論⑥】2/?

フロイト:3つ目の、繊細や細かいことによる欠点は、人間関係において、少しのことで、軋轢、不仲が起こり易いことだ。

 

著者:相手に対して、繊細で、細やかな心持ちであれば、相手も嬉しくなり、より仲良くなっていくものだと思いますが、不仲とは、どうも良く分かりません。

 

フロイト:まあ、ホテルなど、特に外国人に対して、繊細で、細やかな心遣いで、もてなせば、それは大変に感動して、良い関係を気づけるだろう。しかし、今想定しているのは、お互いが同等の立場で、ある程度以上に仲良くなれるか否か、である。

 

著者:はい。

 

フロイト:それで、細やかというのは、細部で渡り、また、多数の項目が、細やかさとして認識している事が、その人の中には存在していて、それを大切、重視している。

 

著者:はい。大切にしていなかったら、つまり、無価値であると思っていたならば、そんな気を遣うことなどしないはずです。たとえ、それが、人間関係をよくするための処世術であったとしても、大切、重視していることには、変わりありません。

 

フロイト:さてそれで、細やかさから出た行動は、今君が言ったように、処世術もあるが、その人の信条というか、とても大切にしていることである。細やかさから出た行動を相手にした場合、相手が、それに対して、無視、不快感な態度をするとする。この場合、この人は、大変に不快にならないだろうか。

 

著者:まあ、自分が大切にしている価値観が、相手に届かない、または、不快、嫌悪感を表してきたというのであれば、大変に嫌です。例えば、こちらが、相手に対して、大変に丁重に礼を尽くして、接したにも関わらず、逆に、何やってんの的な態度を示されたら、居たたまれない気持ちになると思います。

 

フロイト:ふむ。こうなった原因を端的に言おう。それは、細やか過ぎるからだ。

 

著者:何ということを言われるのですか。人に対して、丁寧で礼を尽くすようなことさえも、悪く言うのですか。

 

フロイト:それは良いことであるとわしも思う。しかし、今は、そのような細やかな人が、なぜに不快になってしまうのかの原因を探っている。その原因が分かれば、良い心持の人が、不快になることを防ぐ、緩和できるかもしれないだろう。

 

著者:はい。

 

フロイト:それで、この細やかさとは、項目が多数に渡ると先ほど言ったが、単純に考えて、自分が大切だと思っている多数の項目と相手が大切に思っている項目とは、完全に一致することなどあるのだろうか。

 

著者:それは、他人ですから、全て一致するなんてことは、無いと思います。数が少なければ、あるかもしれませんが。

 

フロイト:そう。繊細性、細やかな人は、大切にしている項目数が多い故に、必ずしも相手との価値観が一致せず、時より、自分の思いが裏切られ、不快に感じることが出てしまう、ということである。そして、かなり繊細なことであれば、裏切られたとき、大変に不快となり、その相手の顔など見たくもない。二度と会いたくない。ということになってしまう。

 

著者:あ、はい。その不仲になった、仲違いした相手も、決して全て悪人ではないと思いますので、たった、一つのしかも、小さいことで、全く関係を経つというのは、不利益だと思います。もっと、違う面を見れば、より良い関係を築けたかもしれません。その相手から、自分にはない、有益な情報や刺激を受けられたかもしれません。いえ、きっと有益な相手だったでしょう。だって、自分と違う人からは、何らかの学びがあるはずだからです。たとえ、それが、反面教師だとしても。

 

フロイト:ふむ。繊細性、細やかな人は、そのようにして、自分の繊細性、細やかさが、相手と違うというだけで、つまり、小さいことで、心を閉ざしてしまうこと、不仲になること、関係を絶ってしまうこと、表面的な関係で終わること、などとなり、大変に狭い世界で住することになる。相手となかなか深く良い関係を築けないこと、狭い世界で住することになり易いことが、欠点の3つ目である。

 

著者:自分の感覚と逆の人間と付き合えと、言われたりします。これは、視野が拡がるからだとか。でも、細やかな人は、それを心理的に許容できないのですね。自分の殻というか、狭い世界ですね。自分の世界を守るためですから、それはそれで良いと言えば、良いのかもしれませんが。

 

フロイト:うむ、まあ、個人の自由だからな。
 

仏教:ニルヴァーナとは、どのような場所か。

仏教の究極的な目的は、輪廻転生から脱出し、ニルヴァーナ【涅槃】に入ることです。このニルヴァーナの描写が、あまり無いように感じます。知る限り、ニルヴァーナとは、大楽であるとする記述くらいです。今回は、あまりピンと来ない、ニルヴァーナの描写を私なりに、参考として、イメージを膨らませてみたいと思います。

 

著者:本日は、ニルヴァーナについてのお話しをお願いします。

 

シャーリプトラ:うむ。

 

著者:まず、仏典におけるニルヴァーナについての記述が大変に少ないように感じますが、これはなぜなのでしょうか。

 

シャーリプトラ:うむ。他宗を殊更に批判するという意図ではないが、ある大宗教では、天国の描写について、沢山のフルーツが食べ放題で、飲んでも酔わない酒があるとか、大変に美しい風景があるとか、女子は処女だらけ、などなどのような、この世の喜びが凝縮しているようなイメージで描写されている。

 

著者:はい。それは、ある程度知っています。なぜ、仏教では、このような記述が無いのでしょうか。仏教も同様に、他宗で言うところの極楽、天国である、ニルヴァーナは、大楽というだけあって、とてもとても素晴らしい場所なのですよね。

 

シャーリプトラ:うむ。素晴らしい場所であることは、間違いない。但し、仏教においては、ニルヴァーナの素晴らしいイメージを示したところで、そこへ到達するということにあまり役に立たないと考えておるのではないだろうか。

 

著者:それは、どういうことでしょうか。

 

シャーリプトラ:大楽ということが、殊更にクローズアップされると、愚かな人間は、欲望を満たすためにそこへ行きたいと願うものだ。

 

著者:はい。誰だって、苦しみが完全に無いとされる場所であれば、大楽であれば、当然、行きたいと感じるはずです。

 

シャーリプトラ:まあ、これは以前にも指摘したが、行きたいという欲望を具備したまま、行けるような場所ではないのだよ。むしろ、行きたくないというくらいの意識でないと、行けない。

 

著者:逆説的ですね。行きたくないことによって、かえって、行きやすくなるということですか。

 

シャーリプトラ:そうだ。これは、ニルヴァーナという世界、場所の性質に理由がある。それは、ニルヴァーナとは、欲望のない世界だし、その世界へ行くためには、無限に近いほどの利他をする必要があるからだ。

 

著者:あ、はい。

 

シャーリプトラ:すなわち、欲望を持っている状態、ただ単に楽そうだから、ニルヴァーナへ行きたいな、程度の欲望の延長線上で願うことでは、決して行けない。利他、善行をするからこそ、その因縁でニルヴァーナへ行ける。

 

著者:はい。たぶん、そうだと思います。何事も、原因作りをしなければ、結果も得られませんから。

 

シャーリプトラ:そう。そして、その肝心の無量の善行は、自己の欲望ばかりに取り付かれている者が、できるのか?

 

著者:あ、いえ。できないと思います。たまになら、善行をすることができるでしょうけれども、無量の善行となると、欲望に引っ張られて、善行のことなど、常には忘れている場合の方が多く、当然、善行の量も少なくならざるを得ないと思います。

 

シャーリプトラ:そう。おそらく、ニルヴァーナの描写が少ないのは、たとえ、明瞭にニルヴァーナの描写をしたところで、自分だけが助かりたいという欲望を強めるだけであり、あまり意味が無いことから、控えられたと推測する。

 

著者:はい。当たらずとも遠からず、と言ったところでしょうか。

 

シャーリプトラ:次に、ニルヴァーナの記述をしてみよう。

 

著者:おっと、これは、ニルヴァーナの記述は、あまり意味がないとお聞きしたばかりですが、それでも記述するということでしょうか。

 

シャーリプトラ:うむ。まあ、自利、自分のためだけ、欲望の延長線上で、ニルヴァーナは、目指すべきではない。という点をしっかりと把握した上であれば、多少、ニルヴァーナの記述も意味があるかもしれない。ニルヴァーナへ行くことが、明確な目標とできれば、より善行に精を出すことにつながると思うから、ある程度の意味はあるかもしれない。

 

著者:はい。分かりました。

 

シャーリプトラ:ニルヴァーナとは、大楽であるとお釈迦様が表現なさっているが、今回は永遠なる静寂世界と言ってみよう。

 

著者:永遠なる静寂世界とは、どういうところかと質問する前に、静寂世界はあるとして、そこは良いところなのでしょうか。静寂とは、凡人の感覚からして、苦しみもないでしょうが、喜びもないようで、あまり楽しい、求むるべき世界のようには感じませんが、いかがでしょうか。

 

シャーリプトラ:楽しいや喜び、正確には、自己の欲望を満たす、自己執着、自己のプライド等が達成された、満たされたという状態が、喜びと一般的には、言われているのだろう。

 

著者:はい。喜びは、概ね本質的に分析すれば、自己の欲望が満たされたということに行き着くようです。

 

シャーリプトラ:そこに問題がある。どのような問題かというと、不確実、不安定であるということだ。

 

著者:喜びがあるとして、それが必ずしも満たされるわけではないということでしょうか。それは、誰しもが分かっており、それだからこそ、喜びを得るために、血が流れるほどの努力をすると思います。その努力の積み重ねの結果、自分の喜びを得られるのであれば、それが人生の醍醐味、大変な歓喜へとつながり、それが生きるということの意味を感じる瞬間なのではないでしょうか。

 

シャーリプトラ:うむ。それはある意味、正論である。苦労した後に希望したことが達成することは、人生の醍醐味であることは、確かにそうだろう。しかし、仏教では、もっと、究極的な、根本的な問題の解決を目指している。それは、つまり、生き死にの消滅だ。

 

著者:生き死には、苦であり、そこから脱出することが最善であるから、このような世界から脱出せよ、言うのでしょうが、しかし、先ほど指摘したように、その苦しみの中においても、心がけ次第で、自分の希望する成果を達成し、それが大きな喜びになることもあるのですから、少なくとも、生は、否定されるようなことではないと思います。

 

シャーリプトラ:うむ。苦労した末の成功の逸話は、偉人などの話を読むと確かにあるようだ。しかし、それでも、この世から脱出するべきだと説く。ニルヴァーナへ入るべきだと説く。

 

著者:なぜですか。苦労するからこそ、その後の成功が、より大きな喜びと感じるのですから、この世は、良いところと言える場合もあると思います。

 

シャーリプトラ:言っている意味はよく理解できるが、やはり、究極的ではないと思う。因果の法則と自己執着から説明しよう。自己執着があるがために、悪行を犯すことを完全には避けられない。そして、悪行をすることで、因果の法則から、悪い因縁、苦がその人に襲い掛かる。もちろん、良いこともするだろうから、喜びも得られる。そうは言っても、苦は必ず付きまとうものである。この苦は、死ぬほどの苦しみである場合も少なくない。だって、人間を含めた輪廻転生している生命は、自己執着が極めて強いから。

 

著者:う。とすると、自己執着が強い我々は、まあ、たまには喜びがあるけれども、その強さ故に、善行より、より多くの悪行をしており、その結果、因果の法則により、苦しむということの方が断然多いし、ひどい苦を受けるというのですね。

 

シャーリプトラ:そうだ。だから、この世から脱出する、自己執着を弱めるか、消滅させ、苦しみの原因が生じないようにし、大楽の世界へ行くべきではないかと思う。

 

著者:苦しみが全くないということが本当ならば、苦しみがないというだけでも、大変な極楽ですね。

 

シャーリプトラ:そうだ。しかも、その状態が永遠に続く。

 

著者:永遠に、苦しみがない世界ですか。暑いだの、お腹が減っただの、好きな人から振られただの、職を失うだの、嫌いな人と常に顔を合わせるだの、等々、そのような苦を完全に感じることがないのですね。

 

シャーリプトラ:そうだ。永遠なる静寂世界。何の不安も苦労も無い、ただ、完全なる平安が待っているのだ。

 

著者:はい。我々は日々、ちょっとしたことでも苦痛を感じ生きています。ニルヴァーナが本当にそのような素晴らしい場所ならば、とても行きたいと強く感じます。

 

シャーリプトラ:そうだろう。繰り返すが、その為には、原因を作る必要があり、それは、善行をし、悪行を全てやめていく事だ。さらに、それが十分に行えるためには、自己執着を抑制していくことだ。瞑想などを取り入れて、自己執着性の不利益性を認識したり、自己は、はかないものであり自己執着することはやめようと認識したりすることだな。

 

著者:はい。急には、自己執着はもちろん、善行を行い、悪行を完全に止めるということは、我々凡人には、極めて難しいことではありますが、少しずつでも、毎日心掛け、実行していきたいと思います。そうすれば、長い長い後のいつの日かもしれませんが、ニルヴァーナに行くことができるかもしれません。

 

シャーリプトラ:うむ。そうだ。お釈迦様だって、いや、おそらく、ニルヴァーナにおられる仏陀と称されるような無数の方々も、例外なく、気の遠くなるような長い時間を掛けて、到達したに違いないのだ。だから、君達も、長い道のりだとしても、必ずいつかニルヴァーナに行けると信じて、仏陀、お釈迦様の残された法、教えを忠実に守るように、努力するのだ。

 

著者:はい。分かりました。

仏教:人間のことを苦を盛る器と言われるが、具体的にはどのようなことを指しているのか。

仏教において、人間は、苦を盛る器と言われます。これは、おそらく、苦しみ易いとか、苦しむのが当然という意味合いがあろうかと思います。
比喩的で分かり易いのですが、もっと具体的に捉えてみたいと思います。

 

著者:今回は、苦を盛る器について、具体的にご説明をお願いいたします。

 

シャーリプトラ:うむ。

 

著者:人間は、苦を盛る器と言われます。苦を受けるという点においては、動物などもそうでしょうが、今回は、人間に焦点を絞って頂きたいと思います。

 

シャーリプトラ:苦を盛る器とは、あらかじめ苦を受けることを宿命付けられたようなニュアンスがある。

 

著者:はい。この世を娑婆などと言って、苦しみに耐える世界と昔から言われますね。


シャーリプトラ:うむ。では、当然苦しむと言われるこの世界だが、具体的に見てみよう。どんな苦しみがあるかな。

 

著者:はい。苦しみと言われれば、無数に挙げることが出来そうですが、身近なことから挙げてみます。例えば、寒いとか、暑いとか、空腹とか、お金が不足して十分な生活が出来ないとか、毎日好きでもない仕事や勉強をしなければならないとか、まあ、色々あるかと思います。

 

シャーリプトラ:うむ。後半のお金が不足している等は、お金が十分にある人もいるので、万人受けする具体例としては、寒いとか、空腹とかだろう。

 

著者:はい。いくら大金持ちでも、南極でT-シャツ一枚なら、地獄の寒さで凍えるでしょうから。

 

シャーリプトラ:うむ。どうやら、どのような人間でも、ある状況によっては、必ず苦しみを受けるようだ。

 

著者:そうですね。いくら権力があっても、超大金持ちでも、極寒であったり、食べ物が一つもない状況で、何日も過ごすことを強いられたならば、苦しみもだえることは、確定的ですね。

 

シャーリプトラ:そうだ。人間という以上は、状況如何ではあるが、根本的に苦しむ要素を持っていると言えるだろう。

 

著者:はい。

 

シャーリプトラ:なぜならば、この世は、不確定、不安定であるからだ。

著者:はい。急に本質に迫っていくのですね。

 

シャーリプトラ:この世は、人間の幸不幸に関わる状況について、あまりにも不確定要素が多過ぎるので、それに伴い、苦しみも多いと指摘してみよう。

 

著者:はい。寒かったり、暑かったり、経済状況や環境、政治情勢等も安定しませんね。少なくとも、絶対に変化しないという要素が見当たりません。

 

シャーリプトラ:うむ。そうだ。君たちの体でさえ、自分が完全に所有し、コントロールしていると当然に思っているが、その自分自身でさえも、夜寝て、明日目が覚めるということを100%保証はできないのだ。そのまま、何かの発作で、目が覚めず、あの世に行ってしまうということだって、可能性としてはゼロではない。そんなことを言ったら、何だって、不確定だと言われそうだが、一寸先は闇というのが、現実である。

 

著者:はい。何気なく毎日を過ごしていますが、道を歩いていて、車が突っ込んでくるかもしれませんし、突然隕石が頭を直撃するかもしれません。確実なことなんて、無いと思います。ただ、毎日平凡な毎日が、何となく続いているだけで、じゃあ、明日も同じ日が来るかと問われれば、100%同じとは、言い切れませんね。

 

シャーリプトラ:そう。この不確定こそが、この世の真実である。

 

著者:それは分かりましたが、そうするとどういうことが言えるのでしょうか。

 

シャーリプトラ:つまり、幸不幸は、不安定であるということだ。

 

著者:ああ、そうですね。いつどのような状況が生じるかが分からないのですから、幸せなときもあるでしょうけれども、一瞬にしてその幸せが吹き飛ぶような状況だって、有り得ますね。

 

シャーリプトラ:いいかね。君たちは、たとえ、前日より5度程度気温が下がっただけでも、寒いと感じ、不快感を感じるという、苦しみ易さという特徴を持っている。一方、その君たちに不快感を与える環境等の外部環境は、大変に不安定である。つまり、苦しみ易い人間に対して、苦しみをもたらし易い状況が、この世には、充満しているのだよ。

 

著者:人間は、苦を盛り易い特徴を有しているというだけでなく、簡単に苦をもたらす環境が存在しているのですね。極端に言えば、ガソリンを持って、火の中に飛び込むようなものですね。人間というものは、簡単に苦しみを受けてしまう生き物なのですね。

 

シャーリプトラ:そうだ。次に、人間の精神状況から、苦しみを考察してみよう。

 

著者:はい。

 

シャーリプトラ:先に見たことは、主に身体的な苦しみという点からのアプローチだったが、次は、精神的なアプローチから、苦しみを考察してみよう。

 

著者:はい。

 

シャーリプトラ:人間というものは、知性があり、多様な精神を有している。そのため、良い状況に出会えば、とても多くの喜びを強く感じることが出来るという利点がある一方で、逆に、悪い状況に出合えば、とても多くの苦しみを強く感じることになるという欠点がある。

 

著者:はい。良ければ、とても喜び、天国にいるかのような心地ですが、逆に、悪ければ、とても苦しみ、地獄のような心地でしょうね。

 

シャーリプトラ:同じ状況でも、動物などのような、知性があまりなく、感受性が低い生き物であれば、喜びもあまり感じないが、苦しみもあまり感じないと思われる。まあ、死など生命にとって重要なことについては、人間と同様に苦しむだろうが、嫌いな相手と毎日会うというような苦しみは、人間がより大きく感じるものと思われる。

 

著者:ああ、それで、苦を盛る器と人間を表現されるのですね。知性があり、敏感に苦しみを感じることができるが故に、苦しみを受け易いということが言えるのですね。

 

著者:しかし、言い方は悪いですが、厄介なことですね。動物などのような生命と比べて、苦しみ易いし、苦しむケースが多いとなれば、人間なんてならず、知らぬが仏とばかりに、人間以外の生命に生まれた方が良かったと思う人もいるでしょうね。

 

シャーリプトラ:学生のときは、勉強に追われ、社会に出れば、会社から死ぬほどこき使われ、その割には、生活が安定しないというような状況であったならば、その辺の海に浮かんでいる、くらげにでもなっていたほうが、よっぽど楽だろうにと思う場合もあるかもしれないな。

 

著者:はい。人間として、生きていくには、苦しみが多く存在し過ぎているというのは、あるかもしれません。人間は、苦を盛る器であるならば、人間を辞める。つまり、死を選ぶというのは、残念ながら、論理的な結論として出そうですが。

 

シャーリプトラ:うむ。そう結論付けることも可能だろう。しかし、死を選んだところで、苦はなくならない。だって、輪廻転生しており、まあ、くらげのような強く苦しみを受けないような生き物に生まれるかもしれないが、また、人間に生まれ出て、今までに以上に苦しみを受けるという可能性もある。

 

著者:苦を盛る器である人間であるという現状があるとして、死を選ぶという、そこから逃げるようなことは、最適ではないのでしょうか。

 

シャーリプトラ:そうだね。苦というものの根本的な排除を目指すべきだ。それができるのは、人間以上の境涯にいるものなのだよ。また、神々は、人間に比べて多少、恵まれているので、根本的な苦を取り去ろうという意志がとても強いということにはならないらしい。苦を宿命付けられ、多くの苦を受ける人間だからこそ、その苦を根本的に排除しよう、排除したいという情熱というか、強い思いが生じる。

 

著者:苦を受け、苦しみ感じるからこそ、そこからの脱出を強く願うというのは、自然に分かります。幼少期に貧困で苦しんだ少年が、金持ちになろうとして、死ぬ気になって努力して、成功した、というような出世話はよくあります。

 

シャーリプトラ:うむ。とすると、苦を盛る器である人間ではあるが、それは、苦を根本的に排除できるチャンスでもあると考えてみよう。幸い、人間には、一定以上の知性が備わっている。これは、動物にはない特徴であり、この知性があるからこそ、物事を理解する頭があるからこそ、苦を根本的に排除する道を見出すことができるのである。

 

著者:え、はい。ということは、苦を盛る器ではありますが、だからこそ、その反動で、苦の根本的排除jという、とてもすばらしい状態、利得を得る可能性があるということですね。それは、知性のある人間だからこそできることなのですね。苦を盛る器という現実はあるにしても、その捉え方を変えて、より良い状態にするべきですね。

 

シャーリプトラ:人間は、苦を盛る器である。決して良い状態、良い境遇ではない。そう感じるならば、涅槃という苦が全くない状態を希求するべきなのだ。苦を盛る人間ではあるが、苦を身近に又、強く感じるからこそ、涅槃を求める思いも強くなる。だからこそ、人間だからこそ、涅槃に行く可能性がよりあると言われるのだ。

 

著者:はい。人生もそうですが、物事は捉え方次第なのですね。たとえ、苦を盛る器と称されるような人間でも、捉え方を変えれば、だからこそ、到達することが非常に困難な涅槃に返って行き易いと言えるのですね。もちろん、行くまでに苦労はありますが、方向性は涅槃という素晴らしい所に向かいます。

 

シャーリプトラ:うむ。身体的にも、精神的にも、苦を盛る器である人間ではあるが、だからこそ、涅槃を目指して欲しい。この世が苦しみに満ち満ちていると感じるのであれば、苦しみがゼロの涅槃を目指して欲しい。根本的には、欲することを捨て、良いことをし、悪いことを抑制することだ。

 

著者:はい。分かりました。ありがとうございました。
 

仏教:地獄は本当に存在しているのか。

古代インドや仏教などにおいては、輪廻転生が言われています。そして、永遠に続くこともあり得るその苦のサイクルから抜け出しなさい、ということで、その為の教えが説かれます。さて、本当に六道輪廻の中で、最悪の状態、場所である地獄は、あるのでしょうか。その考察と、さらにそこから考え得る一つの真実も導き出してみたいと思います。

著者:今回は、地獄についての考察をお願いいたします。

シャーリプトラ:うむ。地獄とは、輪廻の中において、最悪の状態だな。

著者:はい。古い仏典に詳細な地獄の描写があり、それを後世の人々が、地獄絵図などのようなもので、オドロオドロしく描いたりしています。見る人によっては、これは、ただの絵、想像上のものであり、例えば3メートル以上のある赤鬼に、鉄のこん棒で、体をぐしゃぐしゃにされる、などのようなことは、あり得ない、または、大げさ過ぎると考える人もいると思います。

シャーリプトラ:うむ。そうだね。地獄絵図に描かれている状態は、おそらく、あくまで、イメージであり、人間の感覚で地獄を想像し易くすると、あのような描写になるということだろう。大がまでゆでられたり、火で焼かれたり、大鳥に襲われたり、逆さに吊るされたりしている姿を見れば、感覚として、地獄というところは、恐いところだなと感じるはずだ。

著者:イメージですか。とすると、実際は、赤鬼、青鬼がいるわけではないということでしょうか。

シャーリプトラ:まあ、イメージと言っているので、いないということにしてみよう。

著者:はい。 とりあえず、いないということですね。

シャーリプトラ:しかし、赤鬼などがいないからと言って、地獄の苦しみがないと考えるのは、早計だ。地獄絵図は、生きている人間が、理解しやすいように描写しただけであり、方法や情景等が、実際には違うとしても、苦しみの強さや深さに、違いは無いだろう。

著者:う、そうですか。実際に大がまでゆでられずとも、それに比する苦しみを感じることになるということですね。違う生命体として肉体にその苦しみを受けるか、何らの精神体として苦しみを受けるか、状態や状況が違うでしょうが、相応の苦しみを受けるという点においては、変わらないわけですね。

シャーリプトラ:そうだ。

著者:ところで、地獄はあるのでしょうか。

シャーリプトラ:それは、因果と今目の前に起きている世界の状況を見てみれば、概ね理解できるだろう。

著者:はい。

シャーリプトラ:因果とは、悪いことをすれば、悪い報いが来るというものだ。もちろん、良いことをすれば、良い報いが来るのだが。それで、遠い過去にした悪いことの結実、結果として、今の状況があると因果の法則から考えることができる。そして、世界を見渡してみよう。どのような状況があるか。特に悪い結果、ここでは、地獄のような状況を現世、君達が認知できる世界で探してみよう。

著者:はい。そうですね。例えば、アフリカの紛争地域に生まれたならば、毎日殺されないように、息を潜ませて、小さくなって生きなければなりません。しかも、アフリカは、暑いし、エイズやマラリアなどの疫病が蔓延し、独裁者も多く搾取され、経済的にもままならず、食料や医療品も不十分です。最近で言うと、シリアや北アフリカ等々から逃げてきた難民は、ヨーロッパに逃げようと船に乗ったら沈没して溺れ死んだり、やっと大陸に着いたら、女子や子供が、闇で拉致されたりしているようです。その他、諸々あります。

シャーリプトラ:うむ。それらは、リアルなニュース、リアルに起きている状況だね。

著者:はい。

シャーリプトラ:それって、地獄絵図でいう地獄と苦しみの深さや量に違いがあるにせよ、地獄的だと思われないだろうか。

著者:はい。地獄と言っても良い状況だと思います。

シャーリプトラ:四六時中、ほぼ焼かれるなどの責め苦を受ける地獄に比べたら、多少、ほっとする時間もあるだろうから、地獄ほどの苦しみとは言えないが、相当に地獄のような状況とも言えそうだ。

著者:はい。

シャーリプトラ:とすると、この現実世界において、地獄、地獄に準じる状況があると認識した。一応、ここは人間界なので、地獄ではないが、地獄という場所は、あるのではないだろうか。

著者:多少飛躍したように聞こえますが、この世で地獄的な所があるとすれば、この無限に広がる大宇宙の中には、明らかにそこに住む生命にとっては、地獄の何ものでもないというような場所、星があるかもしれませんね。しかも、因果の法則により、悪いことをすれば、現実的に、そのような場所に生まれ得るというのも、恐いことです。

シャーリプトラ:おそらく、地獄は、絵空事ではなく、リアルに存在しているだろう。そして、この世の地獄に生まれ出る者がいるという事実から、因果の法則も冷徹に機能しており、君達の行為の悪さによっては、いつか、そのような地獄へ生まれ出るということも可能性として、ゼロではない。

著者:はい。地獄はある。そして、地獄に生まれ出る可能性が、人間である以上、つまり、輪廻にとらわれている以上、まだ十分に可能性がある。恐いことです。

シャーリプトラ:さて、次に考察してみたいことは、悪いことをすれば、悪い結果が生じると、常に指摘していることであるが、普通、相当悪い行為の結果である、地獄に滞在する期間は、何百億年以上である。この行為に掛かる時間とその報いとしての期間との差について、考えてみよう。

著者:はい。何となく、分かります。例えば、人を殺してしまうことは、地獄へ堕ちると思いますが、人を殺すということは、一瞬です。まあ、100歩引いて、その人の生きている時間を悪いことの期間、例えば100年としたとして、その報いとしての期間は、その100年の何億倍にも達します。ものすごい差です。

シャーリプトラ:そう。ヒットラーは、100年も生きなかったが、その短い期間に起こした、大量の悪行の報いは、おそらくというか、間違いなく、無間地獄行きだろう。無間地獄は、間が無い地獄で、ほぼ無限に苦しみ続けるという地獄だ。たった、数十年に犯した悪行、罪により、1劫という長きに渡り、苦しむのだ。

著者:ヒットラーの場合、何倍とか、数字で表すことは、不可能なくらいですね。うーん、そうすると、まず、悪行は、してはならない、という気持ちに改めてさせられます。それと、悪行って、割りに合わないことなのですね。

シャーリプトラ:そう。今見たように、ある悪い行為など、はっきり言って一瞬だ。しかし、その報いときたら、とんでもない威力で跳ね返ってくる。倍返しどころではない。そう、悪行は、割に合わないのだ!! 普通の感覚を持っていれば、悪行を行うなんて、正気ではない!!

著者:そうですね。地獄の刑期が仮に1万年だけだとしても、この苦しみの元である悪行を行うなんて、正気ではありませんね。

シャーリプトラ:今言ったように、行為の期間に対して、報いの期間が超長期だとすると、一つの真実らしきことが、導き出される。

著者:一つの真実ですか。それは、何ですか。

シャーリプトラ:それは、たとえ小さな身口意の行為だとしても、その影響、報いは、大きいということだ。

著者:そういうことですか。確かに、多少行為の質の問題もあるでしょうが、行為をする期間、つまり原因を作り出す期間と、その報い、結果を受ける期間は、大きな隔たりがありました。

シャーリプトラ:これが真実だとすると、どういうことが言えるのか。

著者:はい。

シャーリプトラ:たとえ小さい悪行でも、絶対行うな。逆に、たとえ小さな善行でも、絶対行え。ということだ。

著者:あ、そういうことが言えるのですね。小さいとあまり影響が無いだろうと我々凡人は考え易いですが、小さいと言えど、その影響は、遥かに大きい場合もありますね。そう言えば、お釈迦様のお言葉で、次のようなものがありましたね。『その報いは私には来ないと思って、悪を軽んずるな。水は一滴ずつ滴り落ちるならば、水がめでも満たされるのである。愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むならば、やがて災いに満たされる。』 その逆に。『その報いは私には来ないと思って、善を軽んずるな。水は一滴ずつ滴り落ちるならば、水がめでも満たされる。気をつけている人は、水を少しずつでも集めるように善を積むならば、やがて福徳に満たされる。』とあります。

シャーリプトラ:うむ。小さな悪行の戒めと小さな善行の勧めだね。

シャーリプトラ:まとめとしては、とにかく、身口意の行為の影響は、甚大であるのだから、たとえ小さな悪行でも行わないようにし、たとえ小さな善行でも進んで行うようにするべきだ。ということである。

著者:はい、分かりました。ダライラマ曰く、善行する機会すら与えられない、善行をする余裕も無い人もいるのだから、善行をできるときに、十分にしておくべきというような趣旨のことをおっしゃっていました。たとえ、小さな善行でも進んで行いたいと思います。善行は、割が良いのですから。

仏教:忍耐の重要性について。因果は、運命的なのだから、努力は不要か。

おそらく、何割かの人は、因果という考え方【仏教では真実とするが。】を知ると、ある種運命のように感じ、努力を積極的に行わない、強い努力へのインセンティブ、動機が働かない場合があると推測します。しかし、仏教では、明確に努力の必要性と教えの中で積極的に勧めています。今回は、この辺のことを明確にしていきましょう。

著者:まずは、因果という考えから生じる、運命的について、お聞きをしたいと思います。よろしくお願い致します。

シャーリプトラ:うむ。まず、因果、運命を確認してみよう。因果とは、ある原因があると、その原因に基づいて、結果が生じるというものであり、運命は、理由とか問わず、結果が決まっているというものだ。

著者:はい。結果が決まるという点においては、因果と運命とは、同様のようです。

シャーリプトラ:それで、具体的には、どのような疑問があるのだろうか。

著者:はい。今、因果、縁起による、結果の生じ方が、運命の結果と同じ、つまり、決まっているのだから、因果も結局は運命のようなもので、現在どのように努力したとしても、運命的に強い力に、抗うことはできず、無駄な努力ではないか。つまり、因果で運命のようなものが決まっているのなら、努力をせず、漫然と過ごしていた方が良いのではないか。という素朴な疑問です。

シャーリプトラ:まず一つ目に言える事は、因によりて生じる結果は、場合によっては、その結果を変えることができるかもしれないということだ。

著者:これは、衝撃的です。ずっとこのブログにおいては、因と結果は、不可分であり、必ずその結果が生じてしまうものであるという前提で話をしてきましたが、条件付ですが、その結果が変えられると仰るわけですか。

シャーリプトラ:うむ。あくまでも、おそらくだが。但し、因果の力は、大変に強く、変えられないことがほとんどだし、変えると言っても劇的に変えるというのは、難しいことだろう。

著者:はい。まあ、そうですよね。

シャーリプトラ:でも、変えれないこともないようだ。仏典にこんな話しが出てくる。お釈迦様は釈迦族の王子だったことは、知っていると思うが、その釈迦族は、敵に攻め込まれ、滅亡した。これは、史実である。そして、この釈迦族を滅ぼそうとした敵を、お釈迦様は、事前に察知し、その通り道で静かに座り、無言の抵抗をしたそうだ。敵も、当時既に名が知れたお釈迦様を見て、今日のところはやめておこうと行って、引き返したそうだ。しかし、また、ある日、またある日と何度追い返しても、その敵は、攻め入ろうとしたそうだ。この状況を目の当たりにして、お釈迦様は、無数の過去の因縁、因果を見通してみると、どうあっても、この釈迦族が滅亡するというこは、防ぎきれないと判断し、それ以降、無言の抵抗はしなかったそうだ。そして、結果、この敵によって、釈迦族は、滅亡した。

著者:人間的な感想ですが、お辛かったでしょうね。この物語、おそらく、全て事実でしょうが、ここからどういう理解につながっていくのでしょうか。

シャーリプトラ:まず、もちろん、因果の力は強力であり、かのお釈迦様、仏陀であっても、変更は不可能ということ。もう一つは、もしかしたら、場合によっては、因果の力を多少変更できるかもしれないということ。

著者:どういうことでしょうか。釈迦族は滅亡する因果の力によって、まさに釈迦族は滅亡しました。変更などできない、運命的だということですよね。変えられていないのですから、お釈迦様の取った行動は、無意味だと言えますよね。

シャーリプトラ:わしは、そうは思わない。瞬時も無駄に生きるな。と教えを説かれた、かの偉大な仏陀が、無意味なことをするはずはない。たぶん、憶測であるが、因果の弱い事象であれば、変えられるかもしれないのではないか。強い因果、もうこれは、運命と言っても良いほどの当然性で生じる事象については、変えれないだろうが。

著者:なるほど。因果の力が弱い事象は、変えれるかもしれない、ということですね。

シャーリプトラ:そうだ。とすると、限定的状況ではあるが、努力することで、運命的な結果を変えることができるとしよう。

著者:あまり話しが広がってはいけませんが、そうすると、疑問の一つとして、どの現象が、因果の弱いものなのでしょうか。変えれそうなものだけに限定して、変える努力をするならば、効率的です。

シャーリプトラ:それは、お釈迦様やわしのような境涯の存在ならば、可能であるが、普通の人間には、無理だ。それだけを見ると、無駄な努力があり得るという結論になるが、まあ、とにかく、努力してみなさい。

著者:はい。

シャーリプトラ:それともう一つの、運命に抗うことための努力の無意味さに対する反論であるが、因果というものは、どのような結果も結ぶことができるから、努力はするべきというものだ。

著者:あ、なんか。これで、分かった気がしますが、一応、どういうことか、ご説明をお願い致します。

シャーリプトラ:強い因果によりて生じた事象、結果は、運命的とも言えるほど、受けざるを得ない。そこの尾っぽというか、結果を変えることは至難。もしも、過去世にタイムスリップできたとして、結果を変えたいとすれば、この結果に結びついている原因を無くす、または、変えることである。

著者:あ、当然ですよね。因果の法則とは、原因ありきで、結果が法則のように、方程式のように出るというものですから、原因が違うものであれば、違う結果。もっと言えば、原因が無ければ、結果も無い。生じ得ないということですね。

シャーリプトラ:そう。とするならば、現在以降、どのような原因、種をまくことで、いかようにもその結果、実が違ってくるという論理となる。つまり、原因を作る、特に良い原因を作る、という努力いかんによっては、その良い原因によりて、良い結果が得られるということ。努力は、自己が将来的に幸せになるために、不可欠の要素であり、幸せになるという点において、努力は意味があるのだ。

著者:間違いないですね。

シャーリプトラ:君もそうだが、とかく、人間というものは、目の前にあることに囚われてしまいがちだ。特に、辛い現実を目の当たりにすると、そうなるのは、十分に理解できるし、努力しても、改善しない、良くならないという現状を見るに付け、さらに、積極的な努力をしなくなるものである。しかし、先に言ったように、抗えない結果に対して、どう努力しても、無駄である。そこは、忍耐で何とかやり過ごすしかない。しかし、だからと言って、何も積極的な努力、特に良い原因作りの努力を放棄してしまっては、その後の幸せを得る機会を放棄しているのも同然であるのだ。

著者:うううぅぅ。でも、現実が辛すぎて、将来、来世のことなど考えてられません。

シャーリプトラ:どのような辛い状況でも、運命のような状況でも、積極的な努力の必要性は分かったかな。

著者:はい。

シャーリプトラ:辛い現実は、自らまいた種だとして、いい意味であきらめること。そして、少しでも余裕が出たら、自分以外の周りの目の当たりにする生命に対して、善意で喜びを与えようと努力すること。

著者:はい。

シャーリプトラ:何も、人を救うとか、大そうなことでなくて良い。ゴミを拾うとか。10円でも寄付するか。その何か回りにプラスのことをして差し上げよう、という気持ちが重要である。この気持ちを持ち続けることで、継続的に善を成し、ツボに善がたまるかのように、いつしか、大変な善の量となる。たとえ、微小な善でもなおざりにせず、優しい気持ち、善の心で、行動するのです。これが、辛い現状に対して、運命だとして絶望している人々への最善のメッセージだ。

著者:はい。辛い現状をやり過ごすにも、前回見た、忍耐が必要でしょうね。そして、善を成すこと。いかなる状況でも、特に善を成すという努力は、必要なのですね。分かりました。ありがとうございました。

シャーリプトラ:うむ。早く、輪廻という苦しみのサイクルから抜け、自己執着から離れ、早くニルヴァーナ、涅槃へ来るのだよ。大楽の世界なのだからね。