仏教:この世の見方
ふと、この世の見方について、インスピレーションが発生したので、お伝えします。
この世たるや、結局は因果によって仮に生じているだけに過ぎない世界である。
それは、この世が刻々と変化していることを観察すれば、当然理解することができる。
全ての事象は、変化していると言うことは、つまり過去の因によって果が生じては滅し、生じては滅しをすごい回数繰り返しているということがいえるのではないだろうか。永遠と言う存在はこの世には無いのであって、変化する現実を見るならば、仏教に説かれている全ての事象は、変化するものであり、因果によって仮に生じているだけに過ぎないと言うことが現実として理解することができると思う。そのような変化する事象、自分自身も含めた形体に執着するのであるならば、非常なる苦しみを受けることになる。
生きる意志はしっかりと持つ必要はあるが、殊更にこの世の事象に囚われ、執着しないようにするべきである。
この世は過去の原因によって生じているだけに過ぎないと見よ。苦しい事象、事態にも耐えて、悪心を抱かず、やり過ごすのだ。
そして、自分自身を無我、つまり永遠ではない存在だと気づくのだ。さすれば、苦しみは少なくなる。自分というものに囚われてはいけない。
これは、決して現実逃避の方法ではない。仏教の真理に基づいた、前向きな生のあり方である。
仏教:善行したいなー
このブログにおいて、A4サイズの紙で、大体30ページくらいの内容を論じてきました。
読者の方に少しでも、有益な情報を提供できればと思い、書き続けてきましたが、なにやらそのようなことをしている内に、自分自身が何かもっと善行をしなければならないと、思うようになりました。
教えることは学ぶことだ、というような言葉もあるように、自分で自分を感化してしまったようです。
仏教は、高校のときに出会い、それから20年近く経つわけですが、私の人生の中でどれほど苦しみを和らげて頂いたか、計測できないほど、恩恵を受けてきました。
理屈っぽい私ですので、理不尽なことに対して非常に敏感に感じ、怒りを生じ易い場面が多くあります。
しかし、仏教の因果の教え、怒らない事によって怒りに打ち勝て、などのような仏陀直伝のお言葉を心に染み込ませていくうちに、怒りにくくなりました。
憤死というのがあるくらいなので、怒りは苦しみであり、それが少なくなったということで、お釈迦様には、非常に感謝しており、崇拝しています。
お釈迦様のご希望・悲願として、あらゆる生命が輪廻転生から抜け、涅槃に入ることとされます。
そういうわけで、お釈迦様への恩返しと私個人の憐れみの心により、私は今まで学んできた仏教の伝道者になろうと思います。
地域ごとに仏教の勉強会を開き、少しでも苦しみが取り去られるようにしていきたいです。
さて、今回私は皆さんにも善行を促したいのです。
何も、仏教の伝道者にならなくてもいいのです。
お近くで苦しんでいる人はいませんか。助けるなどというハードルの高いことは考えず、話を聞いてあげるだけでも、十分に良いことだと思いますよ。
皆さん、私を見習えるところは見習い、善行をしてください。
但し、純粋な憐れみからすること、過度に行わないこと。
仏教:バラモンを打つな。バラモンは彼に対して怒りを放つな。~
【真理の言葉】バラモンを打つな。バラモンは彼に対して怒りを放つな。バラモンを打つものにも禍がある。しかし、打たれて怒るものにはさらに禍がある。
岩波文庫 『真理のことば 感興のことば』 中村元訳より
バラモンとは、完成された修行僧の意味ですが、バラモンは高等な存在であり、そのような存在を傷つけることは傷つけた相手に甚大な悪い報いが生じます。これは、理解しやすいと思いますが、そのような相手に対し、怒るのが当然のように思えますが、怒ったのならば、そのバラモンにも禍があるという。何度も仏教解説の中で言っていますが、この世は因果によって成立している世界なのです。いくらこの世の論理において、非論理的、理不尽な理由により、不当に傷つけられたり、罵られたりしたとしても、それに対して、怒ったり、反撃したり、侮辱したり、のような悪いことをしたならば、その報いは必ずその人に振りかかることになります。なんて、理不尽な。相手があんなひどいことをしなかったら、自分もひどいことをしなかったのに。理由はどうあれ、自分の行為ではなく、相手の行為を殊更に指摘し、相手が悪いのだと言いたい気持ちになると思いますが、それは止めたほうが良いです。気持ちは分かります。私自身も、このような経験から、ひどい怒りを発した覚えがありますので。でも、できれば怒らないようにするべきです。
因果の法則から、説明することもできますが、今回は、もっととっつきやすく説明しましょう。簡単に言って、どのような状況においても、自分のした悪い身口意は、必ずその報いを受けるということです。だから、そのようなことは止めましょう。ただ、これだけです。どうして、因果の法則が存在しているのか、なぜ、理不尽にも相手からひどいことをされるのか、そのようなことはいっそ考えないというのも手です。そのような理屈は良く分からなくても、とにかく、自分が発した悪い身口意の報いは受けるです。これが嫌なら、良い身口意をしなさい、ということです。
因みに、どうして因果の法則があるのか、神はいるのか、宇宙の仕組みはどうなっているか、などという命題は、立てることはできますが、これは仏教においては、無意味な議論とされており、取り扱われません。もう、因果の法則はどうして生じているのかなどということを考える暇があったら、一つでもいいからより多くの善行を行い、より少なく悪行を減らしていくことをしなさい、と言われます。仏陀直伝の経典の中の話を紹介しましょう。
まず、ある人が毒矢に打たれ、病床にいるときに、近くにいた人にいくつか尋ねたという状況を想像してください。病人は、近くにいた人に尋ねました。そして、疑問が解けるまでは決して毒矢を抜かないでほしいと要請しました。質問は次の通りでした。矢を放った人は誰か、どのような毒が使用されているか、矢の材質はどのようなものか、等々の質問をし続けました。仏陀は言います。このたとえ話のように、簡単には答えられない質問、または答えることは不可能なことにこだわり、その疑問が解消されないまで、決して行動しないということになると、早々にこの人は毒によって、死に至るでしょう。仏教の実践もこれと同じです。どうして因果の法則があるのか、輪廻転生があるのか、宇宙の果てはあるのか、などということに時間を取られているより、それを知ったところであまり意味はないし、あなた方の全ての人の体には、この例えのように毒矢が刺さっているのだから、まずそれを取り除くことが先決でしょ、と言います。いいでしょうか。この種の問題は形而上の問題として、仏陀は無記という立場をとり、答えを保留しています。というより、議論する意味がない。少なくとも苦を取り除くという仏教の目的から言って。いいですか。もう一度言います。我々には、苦しむ運命にあるという、毒矢が刺さっているのです。それをとにかく取り除け、と教えているのです。その為には、全ての生命に対し無量の憐れみを持ち、悪行を消滅させ、善行を増大させていくことです。現在から来世以降、未来永劫の無量の時間において、受けるであろう無量の苦しみを受けない方法を仏陀は教えて下さっているのです。無量の苦しみの回避方法をですよ。大変あり難いことではありませんか。稀有です。あり難いってものじゃありません。このような教えに触れられただけでも、奇跡中の奇跡です。相当な善行による徳がなければ、無理でしょう。少々感情的になりますが、いいから、もうとにかく、目に映る生命を救って下さい。救うという気持ちが傲慢と言うのなら、手助けをしてあげて下さい。この世の時間など、あっという間ですよ。無駄な時間、余裕などないのですよ。
こういうことを言うと、なにやら宗教にはまった変な人のように思われそうですが、自分で言うのもなんですが、私はいたって冷静です。盲目的にはまっているわけではありません。苦を取り除くこと、または幸せになること。これがほとんどの宗教の目的です。さて、神にすがることがその解決でしょうか。お祈りと賛美歌またはお経を読み上げるだけが解決でしょうか。いや、私個人の直感では、いずれも違う。原因は自分の中にある。それも自分の心の中に。心を変え、行動や言葉を変え、自分で自分自身を助けなければ、この永遠の苦のループ、無量の苦の回避はできない。
十二縁起というものがあります。これは無明を打破すれば、連鎖で苦も消滅するという仏陀の悟り内容のことです。無明とは、無知のことです。ものごとの理に対して無知と言うことで、この理とは因果の法則など、いかにして苦しみが生じているのか、その除却方法はなにか、などの苦集滅道という理を知らないことです。そして、これをしっかりと認識することをするならば、実践へと繋がるので、連鎖の最終地点である苦の除却が可能になるという。なので、まずは無明を打破して下さい。まあ、もしくは信仰により、とにかく善行と悪行の消滅を行ってください。
岩波文庫 『真理のことば 感興のことば』 中村元訳より
バラモンとは、完成された修行僧の意味ですが、バラモンは高等な存在であり、そのような存在を傷つけることは傷つけた相手に甚大な悪い報いが生じます。これは、理解しやすいと思いますが、そのような相手に対し、怒るのが当然のように思えますが、怒ったのならば、そのバラモンにも禍があるという。何度も仏教解説の中で言っていますが、この世は因果によって成立している世界なのです。いくらこの世の論理において、非論理的、理不尽な理由により、不当に傷つけられたり、罵られたりしたとしても、それに対して、怒ったり、反撃したり、侮辱したり、のような悪いことをしたならば、その報いは必ずその人に振りかかることになります。なんて、理不尽な。相手があんなひどいことをしなかったら、自分もひどいことをしなかったのに。理由はどうあれ、自分の行為ではなく、相手の行為を殊更に指摘し、相手が悪いのだと言いたい気持ちになると思いますが、それは止めたほうが良いです。気持ちは分かります。私自身も、このような経験から、ひどい怒りを発した覚えがありますので。でも、できれば怒らないようにするべきです。
因果の法則から、説明することもできますが、今回は、もっととっつきやすく説明しましょう。簡単に言って、どのような状況においても、自分のした悪い身口意は、必ずその報いを受けるということです。だから、そのようなことは止めましょう。ただ、これだけです。どうして、因果の法則が存在しているのか、なぜ、理不尽にも相手からひどいことをされるのか、そのようなことはいっそ考えないというのも手です。そのような理屈は良く分からなくても、とにかく、自分が発した悪い身口意の報いは受けるです。これが嫌なら、良い身口意をしなさい、ということです。
因みに、どうして因果の法則があるのか、神はいるのか、宇宙の仕組みはどうなっているか、などという命題は、立てることはできますが、これは仏教においては、無意味な議論とされており、取り扱われません。もう、因果の法則はどうして生じているのかなどということを考える暇があったら、一つでもいいからより多くの善行を行い、より少なく悪行を減らしていくことをしなさい、と言われます。仏陀直伝の経典の中の話を紹介しましょう。
まず、ある人が毒矢に打たれ、病床にいるときに、近くにいた人にいくつか尋ねたという状況を想像してください。病人は、近くにいた人に尋ねました。そして、疑問が解けるまでは決して毒矢を抜かないでほしいと要請しました。質問は次の通りでした。矢を放った人は誰か、どのような毒が使用されているか、矢の材質はどのようなものか、等々の質問をし続けました。仏陀は言います。このたとえ話のように、簡単には答えられない質問、または答えることは不可能なことにこだわり、その疑問が解消されないまで、決して行動しないということになると、早々にこの人は毒によって、死に至るでしょう。仏教の実践もこれと同じです。どうして因果の法則があるのか、輪廻転生があるのか、宇宙の果てはあるのか、などということに時間を取られているより、それを知ったところであまり意味はないし、あなた方の全ての人の体には、この例えのように毒矢が刺さっているのだから、まずそれを取り除くことが先決でしょ、と言います。いいでしょうか。この種の問題は形而上の問題として、仏陀は無記という立場をとり、答えを保留しています。というより、議論する意味がない。少なくとも苦を取り除くという仏教の目的から言って。いいですか。もう一度言います。我々には、苦しむ運命にあるという、毒矢が刺さっているのです。それをとにかく取り除け、と教えているのです。その為には、全ての生命に対し無量の憐れみを持ち、悪行を消滅させ、善行を増大させていくことです。現在から来世以降、未来永劫の無量の時間において、受けるであろう無量の苦しみを受けない方法を仏陀は教えて下さっているのです。無量の苦しみの回避方法をですよ。大変あり難いことではありませんか。稀有です。あり難いってものじゃありません。このような教えに触れられただけでも、奇跡中の奇跡です。相当な善行による徳がなければ、無理でしょう。少々感情的になりますが、いいから、もうとにかく、目に映る生命を救って下さい。救うという気持ちが傲慢と言うのなら、手助けをしてあげて下さい。この世の時間など、あっという間ですよ。無駄な時間、余裕などないのですよ。
こういうことを言うと、なにやら宗教にはまった変な人のように思われそうですが、自分で言うのもなんですが、私はいたって冷静です。盲目的にはまっているわけではありません。苦を取り除くこと、または幸せになること。これがほとんどの宗教の目的です。さて、神にすがることがその解決でしょうか。お祈りと賛美歌またはお経を読み上げるだけが解決でしょうか。いや、私個人の直感では、いずれも違う。原因は自分の中にある。それも自分の心の中に。心を変え、行動や言葉を変え、自分で自分自身を助けなければ、この永遠の苦のループ、無量の苦の回避はできない。
十二縁起というものがあります。これは無明を打破すれば、連鎖で苦も消滅するという仏陀の悟り内容のことです。無明とは、無知のことです。ものごとの理に対して無知と言うことで、この理とは因果の法則など、いかにして苦しみが生じているのか、その除却方法はなにか、などの苦集滅道という理を知らないことです。そして、これをしっかりと認識することをするならば、実践へと繋がるので、連鎖の最終地点である苦の除却が可能になるという。なので、まずは無明を打破して下さい。まあ、もしくは信仰により、とにかく善行と悪行の消滅を行ってください。
仏教:罪が無いのに罵られ、なぐられ、~
【真理の言葉】罪が無いのに罵られ、なぐられ、拘禁されるのを堪え忍び、忍耐の力あり、心猛き人、かれをわれはバラモンと呼ぶ。
岩波文庫 『真理のことば 感興のことば』 中村元訳より
罪が無いのに罵られ、~。一見すると、とても理不尽で自分なんかではとても耐えることなどできないように思われます。例えば、初対面で今までに全く何も関係に無い人から、いきなり罵られ、なぐられ、拘禁される、という事態は、普通耐えられません。反撃するか、助けを呼ぶか、ひどい憎しみを感じるか、復讐心が芽生えるか、社会をうらむか、などなどあらゆる感情が噴出してくることでしょう。でも、忍耐するべきだと仰られるのです。そんな、バカな。仏教とは、なんて理不尽でつらい教えなんだ、と思うと思います。
これを読み解けますか。これは、私が何度も説明に使用していますが、因果の法則を取り入れて考えるのです。罪が無いといっていますが、それはこの世においてということであり、実は見知らぬ人からの罵られるということは、深い因果のつながりがあるのです。この場合、罵られ、なぐられ、拘禁されたということは、自分自身が相手に対して過去世において同じことをしたと理解されるのです。自分のしたことの報いを今現在受けているということで、そのような視点から見れば、決して理不尽なことではないのです。そんな、バカな。過去世の記憶など無いし、自分が何にもしていないのに、殴ってきたのだから、法律上は犯罪であり、我慢する必要は無い。と思うと思います。まあ、確かにそう考えるのが自然です。私の言うことを信じる信じないは、信仰の問題ですから、仏教を信じようとする人だけが聞けばいいです。というより、信仰ある人しか、聞き入れることはできないでしょう。話を進めます。それで、過去世の自分自身の罪の報いということで、当然に受けて当たり前であり、報いに耐えて、自分のしたことを清算しなければなりません。心口身において耐えたならば、自分の悪行がはじめて消えるのです。それでイーブンなのです。報いを受けるのはしょうがないし、耐えるしかないのです。これは、因果法則というのは絶対的な力であり、仏陀ですら、どうこうすることはできないのです。仏陀は無量の慈悲をお持ちですが、実は人を助けることはできません。驚く無かれ、自分は自分で助けるのです。信仰はあくまですがるためのものではなく、仏教を実践し続けるための心根でしかないのです。自己救済こそが仏教です。お釈迦様にすがっても、自分自身の心が清浄にならなければ、行動を変えなければ救済はありません。さて、耐え忍ぶことができずに、反撃をしたり、呪ったりすると、それが因となり、新たな悪果を生じます。例えば、殴ってきた人に殴り返したならば、来世以降また、殴られるということになり、殴り殴られのサイクルが止むことがありません。どちらかが、耐えに耐え、殴るという行為を止めなければ、永遠とこの苦しみのサイクルは続いていくことになります。忍耐し苦のサイクルを消し去ることができる、完成された修行者をバラモンと呼ぶ、というのです。
岩波文庫 『真理のことば 感興のことば』 中村元訳より
罪が無いのに罵られ、~。一見すると、とても理不尽で自分なんかではとても耐えることなどできないように思われます。例えば、初対面で今までに全く何も関係に無い人から、いきなり罵られ、なぐられ、拘禁される、という事態は、普通耐えられません。反撃するか、助けを呼ぶか、ひどい憎しみを感じるか、復讐心が芽生えるか、社会をうらむか、などなどあらゆる感情が噴出してくることでしょう。でも、忍耐するべきだと仰られるのです。そんな、バカな。仏教とは、なんて理不尽でつらい教えなんだ、と思うと思います。
これを読み解けますか。これは、私が何度も説明に使用していますが、因果の法則を取り入れて考えるのです。罪が無いといっていますが、それはこの世においてということであり、実は見知らぬ人からの罵られるということは、深い因果のつながりがあるのです。この場合、罵られ、なぐられ、拘禁されたということは、自分自身が相手に対して過去世において同じことをしたと理解されるのです。自分のしたことの報いを今現在受けているということで、そのような視点から見れば、決して理不尽なことではないのです。そんな、バカな。過去世の記憶など無いし、自分が何にもしていないのに、殴ってきたのだから、法律上は犯罪であり、我慢する必要は無い。と思うと思います。まあ、確かにそう考えるのが自然です。私の言うことを信じる信じないは、信仰の問題ですから、仏教を信じようとする人だけが聞けばいいです。というより、信仰ある人しか、聞き入れることはできないでしょう。話を進めます。それで、過去世の自分自身の罪の報いということで、当然に受けて当たり前であり、報いに耐えて、自分のしたことを清算しなければなりません。心口身において耐えたならば、自分の悪行がはじめて消えるのです。それでイーブンなのです。報いを受けるのはしょうがないし、耐えるしかないのです。これは、因果法則というのは絶対的な力であり、仏陀ですら、どうこうすることはできないのです。仏陀は無量の慈悲をお持ちですが、実は人を助けることはできません。驚く無かれ、自分は自分で助けるのです。信仰はあくまですがるためのものではなく、仏教を実践し続けるための心根でしかないのです。自己救済こそが仏教です。お釈迦様にすがっても、自分自身の心が清浄にならなければ、行動を変えなければ救済はありません。さて、耐え忍ぶことができずに、反撃をしたり、呪ったりすると、それが因となり、新たな悪果を生じます。例えば、殴ってきた人に殴り返したならば、来世以降また、殴られるということになり、殴り殴られのサイクルが止むことがありません。どちらかが、耐えに耐え、殴るという行為を止めなければ、永遠とこの苦しみのサイクルは続いていくことになります。忍耐し苦のサイクルを消し去ることができる、完成された修行者をバラモンと呼ぶ、というのです。
心理学:東大出?
たまたま、ドラゴン桜というドラマを古いですが、見ました。
東大出というだけで、それを聞くだけで、引け目に感じたりするようなことをがあるようです。
または、東大出をひけらかす輩も、現実にはいるようです。
どっちもどっちだと思いますが、まあ、このような馬鹿げたことにならないように、助言をしたいです。
東大も含め、自分の学歴を自慢げに言ってくる輩の場合、こう言う、またはこう思って下さい。
東大出がなんなの。東大を出ているということを言うということは、自分の言っていることは正しいということを言いたいのですか。東大出ということが、ものごとの正しさの証明になるというのは、初めて聞きました。とても非論理的ですね。あなたは自己矛盾を犯しているということが分からないのですか。あなたは東大出ということで、非常に頭が良いということを言いたいのでしょうけれども、東大出イコール正しい、他の人間は口を出すな、のような、頭が悪いとしか言えない非論理的なことを言っているのですよ。東大出が正しさの証明になりますか。試験勉強の回答ならまだしも、社会における問題では、それは根拠にならない。それは全く違う根拠であり、そのようなところから正しさの根拠持ってくるということは、頭悪いですね。
または、東大出ということで、そうでない人にプレッシャーを与え、仕事上のミスややる気の喪失などを狙う、というちんけな心の腐ったことを考え、偉そうに言ってくる場合もあるかもしれません。
この場合も、アホか、だからなんだというのだね。東大出の人は相手に無駄なプレッシャーを与え、自分が利するというような人の悪い事をするのかね。頭はいいかもしれないが、性格は最悪だね。そのような人は社会からのけ者になるのだよ。社会で成功する人は、人をうまく使える人、人とコミュニケーションをうまく取れる人などですよ。あなたは違うようです。あなたはそんなことも分からない人であり、成功しない人であり、そのような人に構っている暇は私にはありません。
まあ、受験にコンプレックスを感じていた人は、東大出というだけで萎縮してしまうのでしょう。
まあ、難しいかもれないですが、あまり過ぎ去ったことに拘らないことです。
仏教:輪廻転生は呪われている。
映画『リトル・ブッダ』を観ていて、ブッダのセリフに輪廻転生という呪いを解く方法を探す、というようなものが出ていました。さあ、どうでしょうか。輪廻転生は我々に取り付く呪いなのでしょうか。呪いと聞くと恐くなりますが、実際はどうなのでしょうか。仏陀のお言葉の中には呪いという言葉は私の知る限り、出てきませんでしたが、呪い的かなとは思います。
輪廻転生は、古代インドから忌むべきものであり、この転生を止めることが幸せになると考えられてきました。なぜか。輪廻転生は概ね、否ほとんど苦しみのなにものでもないからです。ブラーフマンと言われる絶対的な存在と同一になること、梵我一如の境地こそ、絶対的な幸せであり、それを求め、それを望み、多くの人々は自己を律したり、修行したり、品行方正な生き方をしようとしています。
さて、輪廻転生と聞くと、色んな生物に生まれ変われるから楽しいと言う人がいますが、本当に楽しいでしょうか。例えば、強いライオンや美しいフラミンゴや可愛いパンダに生まれることができたら、楽しいと思うのかもしれません。本当に楽しいでしょうか。まず、仏教的世界観ですが、輪廻転生する世界は六道に分かれており、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界の六つです。人間界は上から2番目であり、そこでさえも、生まれてから死ぬまで楽しいことばかりでしょうか。たまたま現在の日本に生まれ、平和っぽい甘みを得ているので、輪廻転生もなかなか楽しいかも、と思うかもしれませんが、日本においても時代が変わったならば、どうでしょう。また、一歩海外に出れば地獄にも似た惨状がいたる所にあるものです。カンボジアなどの東南アジアの一部では、人身売買が普通のように行われ、小さい子供がセックスを強要され、ボロボロになっていくのです。まあ、世界はそんな悲惨な例に満ち溢れています。日本でさえも、悲惨で凄惨な出来事が起きています。このように、人間界は苦しみある場所だと認識されます。こう言うと、苦しみを苦しみであると思うこと自体が愚かであり、それをバネに努力して成功すれば良いのだ。ウジウジと悲観的なことばかりを見て、この世を分かったようなしたり顔をしている人間を見ると、イライラする。人によってはこのように考える人もいるかもしれません。確かに、悲観的になり、努力をしないという点では、私もそれはいけないと思います。しかし、もっと根本的で、この人間界に生じたこと自体がどうしようもなくひどい苦しみを受ける結果にならざるを得ない、ということを示してみます。
まず、この世は常住ではないと言うことです。あらゆる物事が移り変わっていると言うことです。鴨長明『方丈記』の行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。 これです。この世は無常なのです。常にあらず。ギリシャ哲学でも全ては流転すると言った、ヘラクレイトスがいます。永遠に存在するものなどこの世にはないのです。自分自身自体が、既に永遠ではない。あらゆるものが止まっているようですが、実は変化し続けているものなのです。それで、このような移り変わるものに依存したならば、例えば自分の家などが消滅したならば、ひどい苦しみが生じるのです。そんなの、また努力して沢山稼いで新しい家を建てればいいじゃん、と言うかもしれません。いいえ、一事が万事。目に映るすべてのモノが、移り変わっているのです。あらゆるものが次々と姿を変え、消滅していくのです。すべてのものがです。六道は全てそうなのです。このような世界は、根本的に苦しみを回避することは不可能です。移り変わりは結構。逆に変化があって楽しいじゃん、というのは本質が分かっていないからそんなことが言えるのです。そのような人も含め、ほぼ100%の人は執着があります。自分自身が可愛いと思いますが、自分がナイフなどで刺され、死ぬような状況になったら、変化は楽しいと言えますか。あなたの依存しているあらゆるものが移り変わるとは、そのような事態をも想定して言っているのです。いいですか。この世は全て移り変わり、人間を含め六道の生命は自己執着が強いがゆえに、その変化を目の当たりにしたときに、苦しむのです。根本的に苦しみを構成する世界に我々は生じているのです。
人間に生まれ裏切りなどの苦しみを受け、動物に生まれては弱肉強食の苦しみを受け、地獄界にあっては業火に焼き尽くされ、さらに、さらに・・・・・・・。苦しみばかりですが、六道の生命は苦しむようにできています。なぜならば、執着しているからです。自分の為なら平気で人を騙したり、人に危害を加えることをします。残念ながら、ほとんどの人はこれが本性です。このような悪行をせざるを得ない性質の者は、その行為の結果として、つまり因果によって、危害を加えた人は危害を加えられるというようなことになるのです。まとめます。この世は全て移り変わる性質を持っています。どうしてかは分かりませんが、これは事実です。そして、人間を含めた六道の生命は執着しており、金などが不足したならば、悪行をしてでも取りにいきます。その行為の結果、因果の法則により、苦を受けるのです。
生まれては、悪行の結果として苦を受け、さらに生まれては苦を受け。例えば、人からバカにされ、危害を受けることになったときにそれから逃れるために相手に危害を加え、新たな悪行を行う。その結果、次以降の生まれのときにその報いを受け、苦しむ。苦しいから悪行をし易くなるでしょうから、この負のスパイラルは長らく続いていくことになる。人によっては永遠かもしれません。生まれるごとにひどい苦しみを受けるということは、もはや拷問以上の呪いとしか言えないのではないでしょうか。しかも、その呪いは中々なくならない。なぜなら、自分自身の悪行によって継続、又は増幅させていくからです。
まあ、ここまでが今回のテーマの答えですが、簡単にですが、輪廻転生からの脱出方法をお教えします。というよりは、仏陀の教えをお伝えするだけなのですが。まず、執着を捨てること。危害を加えられたとしても危害を加え返さない。生命を救うなどの善行のみをすること。これらをするには、深い瞑想をするとか、あらゆる生命に対して深い憐れみを持つとか、が重要になってきます。できれば、生命の助けになるために自分自身が仏陀にも匹敵するような聖なる存在になると発願することが理想です。
たまたま、私の文章に触れた方々は、是非、意識を変えてほしいです。何も家を捨て、世捨て人のようになれとは言いません。苦しみに対して悪心、悪口、悪行を持って対応しないで下さい。そして、自分に危害を加えてくる相手にすら、深い憐れみを施すのです。苦しむのは過去世における自分自身のせいだと感じ、怒らないで下さい。これを見ている方々には、以上のことを本当に心からお願いしたい。
輪廻転生は、古代インドから忌むべきものであり、この転生を止めることが幸せになると考えられてきました。なぜか。輪廻転生は概ね、否ほとんど苦しみのなにものでもないからです。ブラーフマンと言われる絶対的な存在と同一になること、梵我一如の境地こそ、絶対的な幸せであり、それを求め、それを望み、多くの人々は自己を律したり、修行したり、品行方正な生き方をしようとしています。
さて、輪廻転生と聞くと、色んな生物に生まれ変われるから楽しいと言う人がいますが、本当に楽しいでしょうか。例えば、強いライオンや美しいフラミンゴや可愛いパンダに生まれることができたら、楽しいと思うのかもしれません。本当に楽しいでしょうか。まず、仏教的世界観ですが、輪廻転生する世界は六道に分かれており、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界の六つです。人間界は上から2番目であり、そこでさえも、生まれてから死ぬまで楽しいことばかりでしょうか。たまたま現在の日本に生まれ、平和っぽい甘みを得ているので、輪廻転生もなかなか楽しいかも、と思うかもしれませんが、日本においても時代が変わったならば、どうでしょう。また、一歩海外に出れば地獄にも似た惨状がいたる所にあるものです。カンボジアなどの東南アジアの一部では、人身売買が普通のように行われ、小さい子供がセックスを強要され、ボロボロになっていくのです。まあ、世界はそんな悲惨な例に満ち溢れています。日本でさえも、悲惨で凄惨な出来事が起きています。このように、人間界は苦しみある場所だと認識されます。こう言うと、苦しみを苦しみであると思うこと自体が愚かであり、それをバネに努力して成功すれば良いのだ。ウジウジと悲観的なことばかりを見て、この世を分かったようなしたり顔をしている人間を見ると、イライラする。人によってはこのように考える人もいるかもしれません。確かに、悲観的になり、努力をしないという点では、私もそれはいけないと思います。しかし、もっと根本的で、この人間界に生じたこと自体がどうしようもなくひどい苦しみを受ける結果にならざるを得ない、ということを示してみます。
まず、この世は常住ではないと言うことです。あらゆる物事が移り変わっていると言うことです。鴨長明『方丈記』の行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。 これです。この世は無常なのです。常にあらず。ギリシャ哲学でも全ては流転すると言った、ヘラクレイトスがいます。永遠に存在するものなどこの世にはないのです。自分自身自体が、既に永遠ではない。あらゆるものが止まっているようですが、実は変化し続けているものなのです。それで、このような移り変わるものに依存したならば、例えば自分の家などが消滅したならば、ひどい苦しみが生じるのです。そんなの、また努力して沢山稼いで新しい家を建てればいいじゃん、と言うかもしれません。いいえ、一事が万事。目に映るすべてのモノが、移り変わっているのです。あらゆるものが次々と姿を変え、消滅していくのです。すべてのものがです。六道は全てそうなのです。このような世界は、根本的に苦しみを回避することは不可能です。移り変わりは結構。逆に変化があって楽しいじゃん、というのは本質が分かっていないからそんなことが言えるのです。そのような人も含め、ほぼ100%の人は執着があります。自分自身が可愛いと思いますが、自分がナイフなどで刺され、死ぬような状況になったら、変化は楽しいと言えますか。あなたの依存しているあらゆるものが移り変わるとは、そのような事態をも想定して言っているのです。いいですか。この世は全て移り変わり、人間を含め六道の生命は自己執着が強いがゆえに、その変化を目の当たりにしたときに、苦しむのです。根本的に苦しみを構成する世界に我々は生じているのです。
人間に生まれ裏切りなどの苦しみを受け、動物に生まれては弱肉強食の苦しみを受け、地獄界にあっては業火に焼き尽くされ、さらに、さらに・・・・・・・。苦しみばかりですが、六道の生命は苦しむようにできています。なぜならば、執着しているからです。自分の為なら平気で人を騙したり、人に危害を加えることをします。残念ながら、ほとんどの人はこれが本性です。このような悪行をせざるを得ない性質の者は、その行為の結果として、つまり因果によって、危害を加えた人は危害を加えられるというようなことになるのです。まとめます。この世は全て移り変わる性質を持っています。どうしてかは分かりませんが、これは事実です。そして、人間を含めた六道の生命は執着しており、金などが不足したならば、悪行をしてでも取りにいきます。その行為の結果、因果の法則により、苦を受けるのです。
生まれては、悪行の結果として苦を受け、さらに生まれては苦を受け。例えば、人からバカにされ、危害を受けることになったときにそれから逃れるために相手に危害を加え、新たな悪行を行う。その結果、次以降の生まれのときにその報いを受け、苦しむ。苦しいから悪行をし易くなるでしょうから、この負のスパイラルは長らく続いていくことになる。人によっては永遠かもしれません。生まれるごとにひどい苦しみを受けるということは、もはや拷問以上の呪いとしか言えないのではないでしょうか。しかも、その呪いは中々なくならない。なぜなら、自分自身の悪行によって継続、又は増幅させていくからです。
まあ、ここまでが今回のテーマの答えですが、簡単にですが、輪廻転生からの脱出方法をお教えします。というよりは、仏陀の教えをお伝えするだけなのですが。まず、執着を捨てること。危害を加えられたとしても危害を加え返さない。生命を救うなどの善行のみをすること。これらをするには、深い瞑想をするとか、あらゆる生命に対して深い憐れみを持つとか、が重要になってきます。できれば、生命の助けになるために自分自身が仏陀にも匹敵するような聖なる存在になると発願することが理想です。
たまたま、私の文章に触れた方々は、是非、意識を変えてほしいです。何も家を捨て、世捨て人のようになれとは言いません。苦しみに対して悪心、悪口、悪行を持って対応しないで下さい。そして、自分に危害を加えてくる相手にすら、深い憐れみを施すのです。苦しむのは過去世における自分自身のせいだと感じ、怒らないで下さい。これを見ている方々には、以上のことを本当に心からお願いしたい。
カウンセリング:生きるとはどういうことか。
生きるとはどういうことなのか。おそらく、古代から多くの人達の最大の関心事であり、最大の疑問であり、現代においてもそれは同じだと思います。皆さんも特に思春期時代には生について、どのように生きるべきなのかとか、生きている事実そのものの根本原因に頭をめぐらし、ひどく混乱した覚えがあるのではないでしょうか。人間は、目的がなければ前に進むことができないと思いますが、全ての行動の根本的な意味を与える、この生きるとは、という疑問、命題はとても重要なものと考えます。
さて、しかし、このようなことを思い悩むだけで、こうだ、という明確な確信を得ることができる人は極少数なのではないでしょうか。それでも、一生悩み続けるというプロセスそのものに意味のある捉える人もいることでしょう。確かに、一生追い続けるべき、とても重大な疑問なのかもしれません。ここでは、生きるとはどういうことか、という私なりの見解を述べ、お一人お一人が自分自身でこの疑問を追って行くための補助的な知識や見方を提供できればと思っています。
さて、生きるとはどういうことでしょうか。例えば、素晴らしい両親から生まれ、十分な教育を受け、多くの素晴らしい人達を会い、人をもうらやむ生活を難なく手に入れることのできる人がいます。一方、生まれながらにして境遇が悪く、つらい思いばかりをする人がいます。この両者を比較することを通して、生を考えていきます。
では、前者のよい生活をすることのできる人を見ていきます。家柄も良く、祖先が残してくれた遺産によって、一生安定的に暮らすことができます。エスカレーターに乗ったように、難なくよい暮らしを送ることができます。衣食住が安定していると、触感等の感覚器官が満足し、人はその状態に安住します。また、遺族の遺産が多く存在し、自分が努力しなくても安住な生活をすることができるという状態ならば、人は十二分に感覚器官を満足させることでしょう。それは、周りから見れば、とてもうらやましい状態に映りますし、ほとんど苦労せずに誰もがうらやましがるような生活をすることのできる、このような人は実際うらやましいです。しかし、この人は自分の境遇に安住し、心地よい生活に囚われ、努力せず、自分の素晴らしい状態を鼻に掛け、人の為に奉仕するとかはなく、逆に自分以外の人間は劣等な人たちであると思ったのです。そのように想定します。さて、このような人に振りかかる事象は、何があるでしょうか。十分以上の安定的な生活をすることができるというのは、いいことですが、努力していないということで、普通、現状を維持できなくなるもので、いつかはこの状態から引きずり落とされるかもしれません。また、自分の境遇を鼻に掛けているので、多くの人から嫉妬心や敵愾心を買い、自分が裕福なときはいいですが、それに陰りが出始めると人が去っていき、当然、心から信頼できるような友人などはできず、最終的にはひどい孤独を味わうことになることでしょう。また、このような人に集まってくる人は、どうやったらこの人から財産を奪ってやろうか、と考える人たちであったり、親族にしても遺産の奪い合いということが生じてくることでしょう。場合によっては、愛しく、最大の信頼を寄せるべき配偶者から、裏切られ、逆に疎ましく思われるような状態もあるかもしれません。これらは、特に悪いケースを想像していますので、全ての人がこのようになるわけではありませんが、部分的には十分にあり得ることかと思います。
さて、このような人は死ぬ間際に、生きてて良かったと思うでしょうか。また、充実した満足のいく生を送ることができたと、過去をしみじみと恍惚感を持って振り返ることができるでしょうか。思い上がりから生じた、周りからの冷たい仕打ちと最終的な孤独。残ったものと言えば、過去を後悔し続ける孤独な自分のみ。裕福だったときの楽しい記憶もあるが、人に対してよいことをして来なかったという後悔の方が大きい。このような人生に何の意味があったのだろうか、と悔しさで涙がこぼれ落ちる。とめどなく、涙がわいてくる。もう人生の時間がないから、過去を反省してやり直すこともできない。なんて、自分が情けなく、生きる意味を問いて本当に意味での充実した人生を歩んでこなかったのだろうか。以上のようなことを思うと思います。
この人と同じ状況ならば、我々もこの人のように思う根拠があります。人は自己保存本能が備わっています。要は自分がかわいいのです。悪い事をすれば悪いことが、良いことをすれば良い事が、振りかかると生存中、知っています。死を前に人は、死んだらどうなるかを考えます。死んだら無に還るという信仰を持っている人は別として、普通、死後の世界が気になります。死んだらどこへ行くのかと。そして、死後においても、悪いことしたら悪いところへ、良いことをしたら良いところへ行くと、薄々感じ、あまり良いことをしてこなかった人は、死に際に死後の悪い世界に行くことに大変な恐怖を感じるのです。長々言いませんが、プラトンの著作にもハデスの国(死後の世界)を恐怖する話や、現在においてもイスラム教徒の人で大変裕福で少々悪い事をしてきたような人は、老齢になって大変死後を心配し、人助けに走るということをすると言います。
では、死に際に死後の恐怖をし、生前の出来事は概ね後悔しか残っていないというのは、生きたといえるでしょうか。息をし、食事をし、年齢を重ねたならば、生きることはできます。しかし、それはただ生きただけであり、良く生きたとは言えません。一応、ここで私の結論を言いますと、生きるとは、細胞の一つ一つを自分の力の限り燃焼し尽くし、善良で優しく、憐れみを持った心で、多くの人の為になることをすること、だと思います。
今度は比較として、ただ生きるのではなく、良く生きるということを示してみたいと思います。ここに、生まれながらにして身体の障害があり、生まれた家は貧乏で、十分な教育を受けることができず、差別的な振る舞いを周りからされ、社会からも支援をほとんど受けることのできない人を想定してみます。このような人は、普通に生きるというだけでも困難を生じるものです。ましてや、良く生きるということなどできるものなのでしょうか。いかがでしょうか。さて、この人は、このように考えました。自分は、生まれながらにして障害を持ち、普通の人たちに比べても、十分な生活をすることはできず、生きるということにとても困難を生じると思われる。しかし、せっかく授かったこの命、自分の力ではどこまでできるのかは分からないけど、十分に生きた、と自分の中で満足できるように一生懸命に生きてみよう。その為には、人の2倍努力し、人の半分の睡眠時間にし、瞬時も疎かに時を過ごさないようにしよう、と。実際、この気持ちの通り、日々実行していきました。来る日も来る日も自分のできる限りの力をこめて、普通の人が難なくできることを、この人は一生懸命になって、努力して続けました。そして、自分と同じ境遇の人はもちろんのこと、不遇で悲しんでいる人を見つけては、優しい声を掛けてあげ、自分のことはそっちのけでそのような人達を元気づけるのでした。この人が一生を終える際、いわゆるハッピーエンドではありませんでした。結局、貧乏から抜け出すことはできず、一生のうちで楽したという期間は、とても少なかったのです。しかし、この人は、毎日毎日、自分の最大限の力を発揮し、細胞一つ一つまで燃焼し、この人の中では大変な成長をし続けたのでした。本当は自分のほうが苦しいのにもかかわらず、悲しんでいる人達を見るに付け、この人のできる範囲のことを自分以上に一生懸命に施し、多くの人に恩恵を与えたのでした。そして、死に際にこう思いました。自分は、決して安定的な生活をすることができず、ひもじい思いもたくさんしたが、自分の送ってきた人生は決して後悔するものではなかった。自分の中では十分に胸を張れるりっぱな生き方をしてきた。周りがどう判断しようが、自分は十分に生きた。満足のいく人生だった。この人は、このように人生を総括したのでした。
さて、生活は安定しているが、ただ生きてきた人と、生活は不安定であるが、一生懸命に生きてきた人とでは、どちらが生きたといえるでしょうか。答えを聞くまでもなく、後者です。また、生きるといえる為の欠かすことのできない要素が見えてきます。簡単に一言で言えば、死ぬ間際に後悔しないことなのです。そうなるためにはどうするか。それは、自分の力の高い低いは関係なく、自分の力の限り一生懸命に成長しようとすることでしょう。生きるとは、良く生きると言い換えていいでしょう。そして、生きるとは、死に際に後悔しないような生き方で、そうなるためには、力の限り一生懸命に前に進むことなのです。皆さん、後悔しない生き方をしていますか。スティーブジョブズは、今日が人生最後の日だったら、今日しようとしていることをしたいかを自分に問いて過ごしていた、と言います。彼は死に際に後悔しなかったろうから、良く生きたと言えることでしょう。皆さんは、一日一日を大事に過ごしていますか。過ぎ去った日々を後悔していませんか。人はいつかは死ぬんです。やらなくて後悔よりも、苦しいかもしれないけど、やって失敗の方がよっぽど清清しく、後悔はない。後者を取りましょう。そして、一生懸命に自分を燃焼させましょう。それがイコール素晴らしい生き方、生きるということだと私は確信します。
さて、しかし、このようなことを思い悩むだけで、こうだ、という明確な確信を得ることができる人は極少数なのではないでしょうか。それでも、一生悩み続けるというプロセスそのものに意味のある捉える人もいることでしょう。確かに、一生追い続けるべき、とても重大な疑問なのかもしれません。ここでは、生きるとはどういうことか、という私なりの見解を述べ、お一人お一人が自分自身でこの疑問を追って行くための補助的な知識や見方を提供できればと思っています。
さて、生きるとはどういうことでしょうか。例えば、素晴らしい両親から生まれ、十分な教育を受け、多くの素晴らしい人達を会い、人をもうらやむ生活を難なく手に入れることのできる人がいます。一方、生まれながらにして境遇が悪く、つらい思いばかりをする人がいます。この両者を比較することを通して、生を考えていきます。
では、前者のよい生活をすることのできる人を見ていきます。家柄も良く、祖先が残してくれた遺産によって、一生安定的に暮らすことができます。エスカレーターに乗ったように、難なくよい暮らしを送ることができます。衣食住が安定していると、触感等の感覚器官が満足し、人はその状態に安住します。また、遺族の遺産が多く存在し、自分が努力しなくても安住な生活をすることができるという状態ならば、人は十二分に感覚器官を満足させることでしょう。それは、周りから見れば、とてもうらやましい状態に映りますし、ほとんど苦労せずに誰もがうらやましがるような生活をすることのできる、このような人は実際うらやましいです。しかし、この人は自分の境遇に安住し、心地よい生活に囚われ、努力せず、自分の素晴らしい状態を鼻に掛け、人の為に奉仕するとかはなく、逆に自分以外の人間は劣等な人たちであると思ったのです。そのように想定します。さて、このような人に振りかかる事象は、何があるでしょうか。十分以上の安定的な生活をすることができるというのは、いいことですが、努力していないということで、普通、現状を維持できなくなるもので、いつかはこの状態から引きずり落とされるかもしれません。また、自分の境遇を鼻に掛けているので、多くの人から嫉妬心や敵愾心を買い、自分が裕福なときはいいですが、それに陰りが出始めると人が去っていき、当然、心から信頼できるような友人などはできず、最終的にはひどい孤独を味わうことになることでしょう。また、このような人に集まってくる人は、どうやったらこの人から財産を奪ってやろうか、と考える人たちであったり、親族にしても遺産の奪い合いということが生じてくることでしょう。場合によっては、愛しく、最大の信頼を寄せるべき配偶者から、裏切られ、逆に疎ましく思われるような状態もあるかもしれません。これらは、特に悪いケースを想像していますので、全ての人がこのようになるわけではありませんが、部分的には十分にあり得ることかと思います。
さて、このような人は死ぬ間際に、生きてて良かったと思うでしょうか。また、充実した満足のいく生を送ることができたと、過去をしみじみと恍惚感を持って振り返ることができるでしょうか。思い上がりから生じた、周りからの冷たい仕打ちと最終的な孤独。残ったものと言えば、過去を後悔し続ける孤独な自分のみ。裕福だったときの楽しい記憶もあるが、人に対してよいことをして来なかったという後悔の方が大きい。このような人生に何の意味があったのだろうか、と悔しさで涙がこぼれ落ちる。とめどなく、涙がわいてくる。もう人生の時間がないから、過去を反省してやり直すこともできない。なんて、自分が情けなく、生きる意味を問いて本当に意味での充実した人生を歩んでこなかったのだろうか。以上のようなことを思うと思います。
この人と同じ状況ならば、我々もこの人のように思う根拠があります。人は自己保存本能が備わっています。要は自分がかわいいのです。悪い事をすれば悪いことが、良いことをすれば良い事が、振りかかると生存中、知っています。死を前に人は、死んだらどうなるかを考えます。死んだら無に還るという信仰を持っている人は別として、普通、死後の世界が気になります。死んだらどこへ行くのかと。そして、死後においても、悪いことしたら悪いところへ、良いことをしたら良いところへ行くと、薄々感じ、あまり良いことをしてこなかった人は、死に際に死後の悪い世界に行くことに大変な恐怖を感じるのです。長々言いませんが、プラトンの著作にもハデスの国(死後の世界)を恐怖する話や、現在においてもイスラム教徒の人で大変裕福で少々悪い事をしてきたような人は、老齢になって大変死後を心配し、人助けに走るということをすると言います。
では、死に際に死後の恐怖をし、生前の出来事は概ね後悔しか残っていないというのは、生きたといえるでしょうか。息をし、食事をし、年齢を重ねたならば、生きることはできます。しかし、それはただ生きただけであり、良く生きたとは言えません。一応、ここで私の結論を言いますと、生きるとは、細胞の一つ一つを自分の力の限り燃焼し尽くし、善良で優しく、憐れみを持った心で、多くの人の為になることをすること、だと思います。
今度は比較として、ただ生きるのではなく、良く生きるということを示してみたいと思います。ここに、生まれながらにして身体の障害があり、生まれた家は貧乏で、十分な教育を受けることができず、差別的な振る舞いを周りからされ、社会からも支援をほとんど受けることのできない人を想定してみます。このような人は、普通に生きるというだけでも困難を生じるものです。ましてや、良く生きるということなどできるものなのでしょうか。いかがでしょうか。さて、この人は、このように考えました。自分は、生まれながらにして障害を持ち、普通の人たちに比べても、十分な生活をすることはできず、生きるということにとても困難を生じると思われる。しかし、せっかく授かったこの命、自分の力ではどこまでできるのかは分からないけど、十分に生きた、と自分の中で満足できるように一生懸命に生きてみよう。その為には、人の2倍努力し、人の半分の睡眠時間にし、瞬時も疎かに時を過ごさないようにしよう、と。実際、この気持ちの通り、日々実行していきました。来る日も来る日も自分のできる限りの力をこめて、普通の人が難なくできることを、この人は一生懸命になって、努力して続けました。そして、自分と同じ境遇の人はもちろんのこと、不遇で悲しんでいる人を見つけては、優しい声を掛けてあげ、自分のことはそっちのけでそのような人達を元気づけるのでした。この人が一生を終える際、いわゆるハッピーエンドではありませんでした。結局、貧乏から抜け出すことはできず、一生のうちで楽したという期間は、とても少なかったのです。しかし、この人は、毎日毎日、自分の最大限の力を発揮し、細胞一つ一つまで燃焼し、この人の中では大変な成長をし続けたのでした。本当は自分のほうが苦しいのにもかかわらず、悲しんでいる人達を見るに付け、この人のできる範囲のことを自分以上に一生懸命に施し、多くの人に恩恵を与えたのでした。そして、死に際にこう思いました。自分は、決して安定的な生活をすることができず、ひもじい思いもたくさんしたが、自分の送ってきた人生は決して後悔するものではなかった。自分の中では十分に胸を張れるりっぱな生き方をしてきた。周りがどう判断しようが、自分は十分に生きた。満足のいく人生だった。この人は、このように人生を総括したのでした。
さて、生活は安定しているが、ただ生きてきた人と、生活は不安定であるが、一生懸命に生きてきた人とでは、どちらが生きたといえるでしょうか。答えを聞くまでもなく、後者です。また、生きるといえる為の欠かすことのできない要素が見えてきます。簡単に一言で言えば、死ぬ間際に後悔しないことなのです。そうなるためにはどうするか。それは、自分の力の高い低いは関係なく、自分の力の限り一生懸命に成長しようとすることでしょう。生きるとは、良く生きると言い換えていいでしょう。そして、生きるとは、死に際に後悔しないような生き方で、そうなるためには、力の限り一生懸命に前に進むことなのです。皆さん、後悔しない生き方をしていますか。スティーブジョブズは、今日が人生最後の日だったら、今日しようとしていることをしたいかを自分に問いて過ごしていた、と言います。彼は死に際に後悔しなかったろうから、良く生きたと言えることでしょう。皆さんは、一日一日を大事に過ごしていますか。過ぎ去った日々を後悔していませんか。人はいつかは死ぬんです。やらなくて後悔よりも、苦しいかもしれないけど、やって失敗の方がよっぽど清清しく、後悔はない。後者を取りましょう。そして、一生懸命に自分を燃焼させましょう。それがイコール素晴らしい生き方、生きるということだと私は確信します。
心理学:従属的である日本人の性向について【日本人論②】
日本人は、とてもおとなしい民族であるとよく言われます。それは良い意味では、人と争わないとか、過激な暴動が極端に少ないなどのような部分があり、悪い意味としては、いわゆるお上の言うことはどんなに理不尽だと思われても従うとか、あるリーダーが悪い行動をしていても無批判にそれに従う、などがあります。ある人はこういうかもしれません。従属することは別に悪くはないでしょう。従属することで事を荒立てず、物事が進むのであるから、この性向を問題にすること自体がおかしい、と。本当にそうでしょうか。私は、これは日本が悪くなった一つの心理的原因だと考えています。では、私なりに考察してみます。
時代をさかのぼること、縄文時代。原初的な共同体が生まれ、外敵や災害に対して、一致団結してことに対処することが最善と考えられました。その共同体を効率よくまた強くするためには、当然にリーダーの存在と、リーダーの指揮の下、下の者達がリーダーの意志に従う必要があります。軍の指揮とか、国家ビジョンなどは、それに向けて一致団結することが重要であり、それは古代でも同じことです。そして、リーダーに従うとは、少なくとも外見的には従属的である必要があり、外敵などから共同体を守るためには当然に必要な態度だったのです。共同体を良くするという大義の下、多くの者が進んで従属的になったのです。リーダーの進む道自体に反対があったかどうかはここでは抜きにします。このような共同体が一つになって、一つの意識体となって大業を成すということは、規模の差はあれど、国家と同じことです。一つの意志ということ自体は全然悪くはありません。まずここまでで確認したいことは、外見的とは言え、多くの者が少数の上部組織の者に対して、従属的であることが是とするような状態が根底的に存在していたということです。次に、従属的であるべきだという理屈が存在したとは言え、リーダーの指揮する方向が間違っていたり、従属する方の利害関係と全く反対であった場合、非従属的になるということも十分に考えることができるところです。中国のことわざで、上の政策あり、下に対策あり。というものがあり、歴史的に上からの搾取や収奪を経験してきた中国人は、従属であることは危険と判断しているのです。さてそれで、中国にみるように、非従属的であるという状態もあり得るにもかかわらず、日本においては、そのような状態ではありません。これはどういうことなのでしょうか。3つあると思います。1つはリーダーが素晴らしく、多くの人の意思を十分に汲み取った善政をした。2つ目は民衆が大変優秀で、また性格的に同質で、リーダーの能力に左右されず、良い方向へ進めることができた。3つ目は、その折衷です。いずれにしても、リーダーは民衆から出るとすれば、日本人の質自体が大変素晴らしかったという事が言えるようです。質が良いということは、自分だけ出し抜いて利益を得るなどのワンマンプレイがあまりなかったことを意味し、リーダーが指揮し、民衆が従属的にそれを支持するという構造が強固に存続していったのだと推測します。そして、この構造が強固であり、民衆にとってほとんど不都合を感じなくなってくると、どうして不都合がないのか、リーダーがこれこれこういう指揮をしたから、我々民衆は恩恵を受けているなどのような構造分析をしなくなりました。これは、ある営業マンがいて、最初は信用できないから、商品の詳細な説明や会社の概要など多くの情報を吟味し、商品を買いますが、その後信頼関係が構築されていくと、新商品であるにもかかわらず、その営業マンの言うなりに、商品を買ってしまうということがあるものです。それと同じ心理で、最初の数回は緊張感を持ってリーダーの指揮を吟味、監視していたが、そのうちに信用できるからと言って、監視の目が緩みます。このとき、他の国であれば、リーダーは恐ろしく悪いことをし、民衆にダメージを与えるものですが、日本の場合は、そのようなことは少なかったことと推測します。なぜなら、民衆へのダメージが深刻であったならば、ダメージを受けた原因である従属的であることを止めるからです。しかし、従属的な性向が存続しているということは、深刻なダメージが少なかったということであり、リーダー引いては、民衆つまり日本人の質が良かったということでしょう。これだけだまされる日本人は、今まであまりだまされてこなかった。つまり、日本人全体の質が大変高かったという証左なのです。もっと言いましょうか。現在の日本人が騙されるという事は、騙されるような人の良い祖先が大勢いて、騙されても生きてこられるような社会構造になっていたということです。少し難しい表現ですが、簡単に言うと、騙される人は、不利益をこうむるわけだから、普通自然淘汰され、自分の騙されるという遺伝子、つまり子孫を残すことができなかったでしょう。しかし、現在騙される人が大勢いるという事実は、騙される人でもあまり騙されてこなかったという日本社会の素晴らしさを証明するものなのであるということです。中国を見てみてください。騙されるような日本人的な人が生き残れますか。現在の中国人の性向の悪質性は、騙されない人または騙す人が生き残るという歴史的な自然淘汰によって、形作られたものなのです。
じゃあ、日本という国はやはり、大変素晴らしい国だから、従属的であってもいいじゃないか。というような話になってきそうですが、現代は時代、人が今までと当然違いますし、グローバル社会となってきており、日本一国だけで完結する話ではないので、単純に結論を出すことはできません。この項では従属的であるということの短所を、いくつかの背景を元に書き出したいと思います。
①日本人の質が変化した。⇒日本人の価値観が変化してきました。それは、明らかに悪くなっていると思います。信頼関係を毀損した結果生じた、凶悪な犯罪や騙しあいなど、多くの事件が起きています。戦後、価値観が金や利己主義に方向性が変わったと思います。その原因としては、いくつも上げることができるでしょう。ある人は憲法の個人主義、戦後教育などに原因を求めることできるといいます。まだまだいくつもあることでしょう。原因はたくさんあるにせよ、結果として日本人の性向が変化しました。その変化は、利己的、騙しあい、拝金主義などです。さて、このような性向を持った人々に対して、従属的であるということはどういうことでしょうか。自分が大いなる不利益を受けるということです。例を挙げましょう。銀行や郵便局の貯金金利は、0.02%前後(良くても0.2%くらい)ですが、これは国債の償還と深い関係があり、簡単に言うと、国民は騙されているのです。知らない人は、郵便局やJAさんは信用できるからということで、盲目的な従属に当たるし、知っている人は、なんとなく、いざとなったら、国が助けてくれるという依存的な従属に当たります。悲しいことですが、全体的に言って、現代の日本人は信用できない人が昔に比べて多くなったと思います。または、表面的な付き合いしかしない人達が大勢いると思います。このような状況下で、あの人が言ったからとか、あの機関がやったことだからと言って、従属的な態度であるならば、大変な不利益を受けることになります。まあ、私のブログを読む頭の回転のよい人は大丈夫として、そうではない無知で、考えることのできない人達が危ないのです。そもそも、自分で考えることができないからこそ、つまり自分で最善だと思える判断ができないからこそ、従属的にならざるを得ない、つまり人に頼らざるを得ない、ということでしょう。そのような人達を、バカ番組、バカ報道などにより、さらに無知にし、さらに従属的態度を助長する。あるドイツの政治家が言っていたことに、人々が思考しないことは、政府にとって幸いだ、というものがあります。話が飛びますが、衆愚政策は、支配するためには、とても都合の良い政策なのです。無知、バカ、白痴、単純思考などは、自分では判断し、進んでいくことができないために、力の強い、頼りになりそうな人に従属することになる。そして、頼った人から不利益なことをされても、その人から離れることはまた一人荒野に投げ出されることを意味しているので、限界まで不利益を我慢することになるか、活き殺しかうまく利用されるという結果になることでしょう。これでもまだ、従属であることを放置しておきますか。また、頼られた方は、頭が切れる人であればあるほど、頼ってきた人が不利益と感ずかれないように、活かさず殺さずなどの、いわゆるゆで蛙シンドロームのような方法を取るはずです。なので、気づいたときは、もう時すでに遅し、の状態になるのです。多くの悪いことを先送りする性向や事勿れ主義などがあいまって、従属的である日本人の多くは、大変な不利益を受けることになるのです。しかも、先送りした分、雪だるま式に増えたつけを一気に受けるのです。恐くなりましたでしょうか。でも、それが真実です。先送りせず、この時点で変えましょう。
②グローバル化⇒日本人の性向が悪く変化したとは言え、まだまだ他国に比べてよい方だと思います。しかし、国際化がどんどん進んでおり、インターネットを利用すれば、全世界の人とかかわりを持つことができ、自動翻訳ソフトの進化により、言葉の壁を感じることなく、他国の人とコミュニケーションを取ることができるようになりました。また、貿易障壁が今後どんどん撤廃(TPP加盟)されていくことになるでしょうが、それにより、モノや人、サービスなどがすごい勢いで入ってくることでしょう。明日から、隣近所が中国人だらけという像を想像できるでしょうか。中国やアラブ人など、商いのしつこさは、定評があります。悪い意味も含まれていると思いますので、日本人は騙されずに済ませることができるでしょうか。また、中国人や韓国人が日本の土地を買いあさっているということはご存知だと思いますが、力をつけた中国人などに従属することをしますか。当然するわけないじゃん。と思った方は、危ないです。せざるを得ないという状況もありうるのですから、防御策を考えず、ただ現状のままいるのであるならば、痛い目を見ることになりかねません。アインシュタイン曰く、おお、神よ。欧米の悪徳がこの笑顔で溢れる日本に入ってこないように、と。無垢でお人よしで人を疑うことがない日本人は、欧米、アジアなどの悪徳を持った人達と対峙できるでしょうか。
さて、従属しないためには、どうすればよいのでしょうか。既に上げておりますが、
①知識、知恵、経験値を溜める。⇒従属せざるを得ない人は、その人では判断がつかないとか、力がないとかなので、自己判断などがつくように多くの知識と考える知恵をつけるように努力することです。知識は本や人の話を聞けばいいですが、知恵のつけ方は難しいかもしれません。知恵をつけるには、私なりに言えば、本質を見ることだと思います。
②視野を広げること。⇒日本人だけをみていると、自分は今のままでよいな、ということで思考停止してしまいますので、海外の人間はどのようなものなのかとか、幅広いスケールから自分や日本人を見るということをすると、いかに日本人は従属的であるということが分かると思います。そして、従属的であるということの不利益を良く考えることです。
こんなところでしょうか。従属は、自分以外に運命を託すと言えますが、それは楽ですが、最善の選択肢ではないですね。不利益をこうむることもあると思います。なぜなら、頼った相手は人間なのですから。
時代をさかのぼること、縄文時代。原初的な共同体が生まれ、外敵や災害に対して、一致団結してことに対処することが最善と考えられました。その共同体を効率よくまた強くするためには、当然にリーダーの存在と、リーダーの指揮の下、下の者達がリーダーの意志に従う必要があります。軍の指揮とか、国家ビジョンなどは、それに向けて一致団結することが重要であり、それは古代でも同じことです。そして、リーダーに従うとは、少なくとも外見的には従属的である必要があり、外敵などから共同体を守るためには当然に必要な態度だったのです。共同体を良くするという大義の下、多くの者が進んで従属的になったのです。リーダーの進む道自体に反対があったかどうかはここでは抜きにします。このような共同体が一つになって、一つの意識体となって大業を成すということは、規模の差はあれど、国家と同じことです。一つの意志ということ自体は全然悪くはありません。まずここまでで確認したいことは、外見的とは言え、多くの者が少数の上部組織の者に対して、従属的であることが是とするような状態が根底的に存在していたということです。次に、従属的であるべきだという理屈が存在したとは言え、リーダーの指揮する方向が間違っていたり、従属する方の利害関係と全く反対であった場合、非従属的になるということも十分に考えることができるところです。中国のことわざで、上の政策あり、下に対策あり。というものがあり、歴史的に上からの搾取や収奪を経験してきた中国人は、従属であることは危険と判断しているのです。さてそれで、中国にみるように、非従属的であるという状態もあり得るにもかかわらず、日本においては、そのような状態ではありません。これはどういうことなのでしょうか。3つあると思います。1つはリーダーが素晴らしく、多くの人の意思を十分に汲み取った善政をした。2つ目は民衆が大変優秀で、また性格的に同質で、リーダーの能力に左右されず、良い方向へ進めることができた。3つ目は、その折衷です。いずれにしても、リーダーは民衆から出るとすれば、日本人の質自体が大変素晴らしかったという事が言えるようです。質が良いということは、自分だけ出し抜いて利益を得るなどのワンマンプレイがあまりなかったことを意味し、リーダーが指揮し、民衆が従属的にそれを支持するという構造が強固に存続していったのだと推測します。そして、この構造が強固であり、民衆にとってほとんど不都合を感じなくなってくると、どうして不都合がないのか、リーダーがこれこれこういう指揮をしたから、我々民衆は恩恵を受けているなどのような構造分析をしなくなりました。これは、ある営業マンがいて、最初は信用できないから、商品の詳細な説明や会社の概要など多くの情報を吟味し、商品を買いますが、その後信頼関係が構築されていくと、新商品であるにもかかわらず、その営業マンの言うなりに、商品を買ってしまうということがあるものです。それと同じ心理で、最初の数回は緊張感を持ってリーダーの指揮を吟味、監視していたが、そのうちに信用できるからと言って、監視の目が緩みます。このとき、他の国であれば、リーダーは恐ろしく悪いことをし、民衆にダメージを与えるものですが、日本の場合は、そのようなことは少なかったことと推測します。なぜなら、民衆へのダメージが深刻であったならば、ダメージを受けた原因である従属的であることを止めるからです。しかし、従属的な性向が存続しているということは、深刻なダメージが少なかったということであり、リーダー引いては、民衆つまり日本人の質が良かったということでしょう。これだけだまされる日本人は、今まであまりだまされてこなかった。つまり、日本人全体の質が大変高かったという証左なのです。もっと言いましょうか。現在の日本人が騙されるという事は、騙されるような人の良い祖先が大勢いて、騙されても生きてこられるような社会構造になっていたということです。少し難しい表現ですが、簡単に言うと、騙される人は、不利益をこうむるわけだから、普通自然淘汰され、自分の騙されるという遺伝子、つまり子孫を残すことができなかったでしょう。しかし、現在騙される人が大勢いるという事実は、騙される人でもあまり騙されてこなかったという日本社会の素晴らしさを証明するものなのであるということです。中国を見てみてください。騙されるような日本人的な人が生き残れますか。現在の中国人の性向の悪質性は、騙されない人または騙す人が生き残るという歴史的な自然淘汰によって、形作られたものなのです。
じゃあ、日本という国はやはり、大変素晴らしい国だから、従属的であってもいいじゃないか。というような話になってきそうですが、現代は時代、人が今までと当然違いますし、グローバル社会となってきており、日本一国だけで完結する話ではないので、単純に結論を出すことはできません。この項では従属的であるということの短所を、いくつかの背景を元に書き出したいと思います。
①日本人の質が変化した。⇒日本人の価値観が変化してきました。それは、明らかに悪くなっていると思います。信頼関係を毀損した結果生じた、凶悪な犯罪や騙しあいなど、多くの事件が起きています。戦後、価値観が金や利己主義に方向性が変わったと思います。その原因としては、いくつも上げることができるでしょう。ある人は憲法の個人主義、戦後教育などに原因を求めることできるといいます。まだまだいくつもあることでしょう。原因はたくさんあるにせよ、結果として日本人の性向が変化しました。その変化は、利己的、騙しあい、拝金主義などです。さて、このような性向を持った人々に対して、従属的であるということはどういうことでしょうか。自分が大いなる不利益を受けるということです。例を挙げましょう。銀行や郵便局の貯金金利は、0.02%前後(良くても0.2%くらい)ですが、これは国債の償還と深い関係があり、簡単に言うと、国民は騙されているのです。知らない人は、郵便局やJAさんは信用できるからということで、盲目的な従属に当たるし、知っている人は、なんとなく、いざとなったら、国が助けてくれるという依存的な従属に当たります。悲しいことですが、全体的に言って、現代の日本人は信用できない人が昔に比べて多くなったと思います。または、表面的な付き合いしかしない人達が大勢いると思います。このような状況下で、あの人が言ったからとか、あの機関がやったことだからと言って、従属的な態度であるならば、大変な不利益を受けることになります。まあ、私のブログを読む頭の回転のよい人は大丈夫として、そうではない無知で、考えることのできない人達が危ないのです。そもそも、自分で考えることができないからこそ、つまり自分で最善だと思える判断ができないからこそ、従属的にならざるを得ない、つまり人に頼らざるを得ない、ということでしょう。そのような人達を、バカ番組、バカ報道などにより、さらに無知にし、さらに従属的態度を助長する。あるドイツの政治家が言っていたことに、人々が思考しないことは、政府にとって幸いだ、というものがあります。話が飛びますが、衆愚政策は、支配するためには、とても都合の良い政策なのです。無知、バカ、白痴、単純思考などは、自分では判断し、進んでいくことができないために、力の強い、頼りになりそうな人に従属することになる。そして、頼った人から不利益なことをされても、その人から離れることはまた一人荒野に投げ出されることを意味しているので、限界まで不利益を我慢することになるか、活き殺しかうまく利用されるという結果になることでしょう。これでもまだ、従属であることを放置しておきますか。また、頼られた方は、頭が切れる人であればあるほど、頼ってきた人が不利益と感ずかれないように、活かさず殺さずなどの、いわゆるゆで蛙シンドロームのような方法を取るはずです。なので、気づいたときは、もう時すでに遅し、の状態になるのです。多くの悪いことを先送りする性向や事勿れ主義などがあいまって、従属的である日本人の多くは、大変な不利益を受けることになるのです。しかも、先送りした分、雪だるま式に増えたつけを一気に受けるのです。恐くなりましたでしょうか。でも、それが真実です。先送りせず、この時点で変えましょう。
②グローバル化⇒日本人の性向が悪く変化したとは言え、まだまだ他国に比べてよい方だと思います。しかし、国際化がどんどん進んでおり、インターネットを利用すれば、全世界の人とかかわりを持つことができ、自動翻訳ソフトの進化により、言葉の壁を感じることなく、他国の人とコミュニケーションを取ることができるようになりました。また、貿易障壁が今後どんどん撤廃(TPP加盟)されていくことになるでしょうが、それにより、モノや人、サービスなどがすごい勢いで入ってくることでしょう。明日から、隣近所が中国人だらけという像を想像できるでしょうか。中国やアラブ人など、商いのしつこさは、定評があります。悪い意味も含まれていると思いますので、日本人は騙されずに済ませることができるでしょうか。また、中国人や韓国人が日本の土地を買いあさっているということはご存知だと思いますが、力をつけた中国人などに従属することをしますか。当然するわけないじゃん。と思った方は、危ないです。せざるを得ないという状況もありうるのですから、防御策を考えず、ただ現状のままいるのであるならば、痛い目を見ることになりかねません。アインシュタイン曰く、おお、神よ。欧米の悪徳がこの笑顔で溢れる日本に入ってこないように、と。無垢でお人よしで人を疑うことがない日本人は、欧米、アジアなどの悪徳を持った人達と対峙できるでしょうか。
さて、従属しないためには、どうすればよいのでしょうか。既に上げておりますが、
①知識、知恵、経験値を溜める。⇒従属せざるを得ない人は、その人では判断がつかないとか、力がないとかなので、自己判断などがつくように多くの知識と考える知恵をつけるように努力することです。知識は本や人の話を聞けばいいですが、知恵のつけ方は難しいかもしれません。知恵をつけるには、私なりに言えば、本質を見ることだと思います。
②視野を広げること。⇒日本人だけをみていると、自分は今のままでよいな、ということで思考停止してしまいますので、海外の人間はどのようなものなのかとか、幅広いスケールから自分や日本人を見るということをすると、いかに日本人は従属的であるということが分かると思います。そして、従属的であるということの不利益を良く考えることです。
こんなところでしょうか。従属は、自分以外に運命を託すと言えますが、それは楽ですが、最善の選択肢ではないですね。不利益をこうむることもあると思います。なぜなら、頼った相手は人間なのですから。