TOEICの支払いを忘れて

またもや受験不可に。。。

2度目です。しかも期限勘違いしてたし。

これで就活で英語力は何もアピールできましぇん。

(もともとアピールできるほど実力ないだろ!)


ケンブリッジからもう3か月以上経つんだなぁ。

懐かしいし

何よりも もう英語全然できなくなってしまった自分  どんまい。


それでも地球は動く。

人生という長いスパンで見たときに

達成したい 得たいと思う何かと


日々の何気ない生活の中で

達成したい  得たいと思う何かは




違うと思うんだ。


それが何なのか。考えている。

もちろん“今”の自分ベースで。

(続く)

それでも地球は動く。

だめだ だめだ

怒っちゃダメー!!

だけど だけど 本当に腹が立つ!!

いいよね? 一時的なら腹が立っても。

だって余りにもひどい。

無責任な人は本当に迷惑。

結局 責任放棄したあげく やったつもりの仕事さえも

ひどい出来。


どうすれば良かったの?

でも自分で全部は出来なかったよ。時間的に。

誰かに協力してもらうしかなかったんだ。

その挙句がこれ。

結局 私が見直して

最初から自分でやった方がましになってしまう。

期限は過ぎた。

これは私の責任。

きちんとマネジメントできないからこうなった。

ちゃんと予測を立てて、「こうなったらどうする?」というシミュレーションを

しなければならなかったんだ。

私にはキャパオーバー。能力不足だよ。



なんでいつも責任者でもリーダーでもないのに

最終的に責任とる立場になってしまうの?

自分の責任感の強さにたまに呆れてしまう。









出来ないなら出来ないと

早く言って欲しい。

その一言の連絡があるかないかで

その後のスケジュールがかなり変わるのだから。

良い悪いは分からない。

ただ、受け入れられるか受け入れられないかでは

他人に迷惑をかける行為

無責任な行為は


受け入れられない。




怒りはない。ただ呆れるだけ。

さてどうしたら


もとの路線に戻せるか。
飲み会は

たまにキツい。

気持ち悪くなるのも嫌だし

酔った勢いの行動も嫌だ。
それでも地球は動く。

自分というものは様々なものから構成されている。

外面的なもの。

内面的なもの。


その中のどれ1つをとっても普遍的なものがない。



その事に不安を感じた自分がいる。


今 この瞬間の自分というものは定義できるかもしれないけれど


明日には今と違う自分になっているかもしれない。

20年間を振り返ると、自分というものは本当に変わった。

身長も伸びた。体重だって増えたり減ったり。

好きだったものが嫌いになったり。

嫌いなものが好きになったり。

正しいと思ってたことが間違ってたことに気付き

辛いと思ってたことが綺麗な思い出になったり

価値観も変わる。 信念だって変わる。


確実に将来も変わらずに続くなんて

絶対に保証できない。


それなのに将来に対する決断は迫られる。

どうやって決めれば良いの?

何を軸にすれば良いの?




何も考えずに決めることはできるよ。

もしかしたらそれが1番簡単なことかもしれない。

そのことで将来 後悔はするかもしれない。でもしないかもしれないんだ。



出来ることなら

自分を喜ばせてあげたい。

楽しい気持ちにさせてあげたい。

生きることに価値を見出させてあげたい。



だけど、どうすればそれが実現できるかさっぱりなんだよ。

何に対して喜ぶか

何をすれば楽しいのか

何が生きる価値となるのか

それについての予測ができない。


だから難しいんだ。


これをね

友達から相談されたら

私はけろっとした顔で

「今の自分をベースにして考えれば良い」


なんてアドバイスしそう。

将来のことなんて分からないんだから

そんなのは気にしないで

将来になって違うと思ったら変えば良いんだよ。

ってね。


やっばり人間は自分が当事者にならないと

真に迫る答えは思いつかないんだ。

その場で友達のために考えつくしたような気になっていても

答えが出るという時点で真剣に考えてない。

自分が当事者だったら考えすぎて答えなんて出ないんだから。



でも悩んで終わるくらいなら

適当に区切りをつけて妥協して

答えを出した方が良い。


友達に相談されたらなんて答えるか

てゆうシュミレーションは役に立つね。

そうゆう意味で。



よし 


じゃあ 取りあえず

今の自分ベースで考えよう。





















普段の日常生活で必要とされている能力と

何か問題が起きた時に必要されている能力って

違うよね。

もちろん平時だろうが問題が起きた時だろうが

普遍的に必要な能力もあるとは思うけれど。



問題が起きた時に必要となるのは冷静さ。

時には人間関係とか捨ててでも

冷酷になって問題を切り抜けなくてはならない。

マイノリティーを切り捨てなくてはいけない時もあるかもしれない。


そうした面は 平時では受け入れられないかもしれない。

普段はやはり荒波を立てない無難さが受け入れやすい。



人間に対する評価なんてケースバイケースなんだろうなぁ。


偉業を成したとして後世に語り継がれるような人も

生きている時は評価されない場合もあるしね。




意見を言いやすい人になりたい。

たまに(自分から見て)意見を言いづらい人っているよね。

人から指摘されると機嫌悪くなったり

そもそも人の意見聞かなかったり


そうゆう人には最初から意見を言うことを

断念しちゃう場合がある。



これって絶対に損。

確かに人から意見や指摘されるのは

耳が痛いかもしれない。

だけど人間て完璧じゃないし

自分が間違えてることは実は結構あると思うんだ。

気付いてないだけでさ。

それなのに誰からも意見を言ってもらえなかったら

直すべきことに気付けない。

これが人の上に立つ立場の人だったら

重大問題だ。

そうした意味で、自分は

話しかけやすい人、意見を言いやすい人でいたいわけなの。





あともう1つ。最近思うこと。

人を上手く使える人になりたいな。

使うって言い方は上から目線かもだけど。


(最近、「それって上から目線じゃない」論議が
様々な場で見られました。
皆気にしているんだなー。
確かに気をつけるべきだけど、気にしすぎるのも
逆に上から目線な気が…)


全部1人で抱え込んで1人で完璧にこなそうとする。


これは直すべき。

やっぱり人に上手く協力を求められる人の方が

社会では必要だと思うんだ。
人間は平等じゃない。

ふ 当たり前のことを。て思うかもしれないけれど

小学校や中学校の公民とかで「法の下の平等」を習ったあたしは

結構信じこんでた。

老も若も男も女も平等だって。

だから未だにその名残がある。

でも法の下の平等はあくまで法という面だけの話。

権利とかね。

実際の生身の人間が平等だなんて少しも言っちゃいない。


皆 命は平等てゆうけどそれだって現実を無視した寝言だよ。


現実は不平等。格差があって当たり前。


知っているくせに覆い隠して




本当はどう思ってるの??

やっぱり

存在価値のある人間になりたいよね。

人間は不平等だからこそ

存在価値がある人とない人が出てくる。

存在価値がある人になりたいと思うことは


存在価値のない人がいることを認めることになるけれど


それでも良いよ。変に良い子ぶりたくない。
ある教授からめったんこに怒られました。

家族以外の他人からここまで避難を受けるのは

ほとんどない経験。

冷静に考えれば100%私が悪いし

悪い部分は反省したいと思っています。

しかし、あそこまで人は怒るものなのでしょうか。

若干、愚痴にもなっている気がします。

私という個人の考え方は完全に無視されています。

やはり、人が過ちをおかしてしまった時

きちんと叱るという行為は大事です。

そしてその叱り方も同様に大事です。

単純に自分の怒りをぶつけているのか

それとも、本当に相手のためを思って「直してほしい」

という気持ちで叱っているのかで

ずいぶんと叱るという行為が違ったものになると思います。


いずれにせよ、言われたことは真摯に受け止め

以後気を付けたいと思います。