例えば、上司に言われて、嫌々残業とかをしていたとします

そして「こうして言われた通りに我慢してやっていれば、そのうち
上司も認めてくれて、いいこともあるだろう」などと自分を納得させた
としても、そんな虫のいい果報を期待してはいけないと、禅は考える
のです。

明日、交通事故にあうかもしれないし、地震がきて会社が潰れてしまう
かもしれません。だから将来に果報を期待するのではなく、今という
時間から果報をすべて得てしまう、というのです。
それは、つまり「今」を最大限に楽しむということなのです。


白隠禅師は「因果一如」と表現されました。たとえば、善因善果と
いうけれども、もともと善悪の判断自体が人間の勝手なものだし、
結果なんていつどこに現れるかわからないのだから、そんなもの
を期待して「今」と言う時間を殺すな。

因でもあり、同時に果でもある瞬間として「今」を味わい尽くせと
おっしゃるのです。我慢して時を過ごすのは時間の殺生であり、
禅ではそれを重大な殺生と考えるのです。

もっと言えば、楽しめないならおやめなさい、ということです。
「遊戯三昧」とも言いますが、それは「今」に最大限没入して楽しみ
尽くしている状態なのです。むろんそう言われても現実には楽しい
ことばかり選んでするわけにはいかないでしょう。

だから「楽しいことをする」のではなく、「することを楽しむ」

と禅では発想するのです。
楽しみ、遊んでいる時間は因果で未来につなげる必要がないから
「因果に落ちず」と言われるのです。
そういう時間は積み重ねることができない。だから禅は終着のない
「道」なのです。

禅的生活より