古人に目を向けると、迷いをも悟りをも超え、死をこともなく乗り越えていくような祖師方がおられたが、それもひとえにこの坐禅の妙力のなせるわざである。さらにまた、指・竿・針・鎚・払・拳・棒・喝といった古則公案(古人の悟りの由縁)における、祖師方の絶妙な禅的働きや師弟間の見事な合致も、とうてい思慮分別で理解できるようなものではなく、また神通力の及ぶところのものでもない。それは色・声・香・味・触・法という六つの塵にとらわれる迷いの境界(きょうがい)を離れた堂々たる境地であって、分別知識の及ばない天地の法則にほかならないのである。
だから、智慧の有る無しにかかわらず、利口であるか否かを問わず、とにかく一心不乱に坐ることだ。これが正に仏道を行じているということなのである。専一に修行する中に証(さとり)があり、そこには自ずから汚れがない。その修行の道を歩むにも日常がすべて大道にかなっているのでゆらぐことがない。
およそ、この世界だけでなくあらゆる世界において仏法は繁栄してきたが、それは皆等しく坐禅によって仏の心印を直々に伝承してきたからである。ただ堂々と坐って坐禅に自己を投げ入れていくのである。人々の境界(きょうがい)には千差万別があるが、ただひたすらに坐ることだ。どうして自分の足元にある安心の坐禅の場を離れ、むやみに迷いを重ねてあちこちとうろつきまわることがあろうか。少しでも理知や分別を働かせるようなことがあれば、たちまちに行き詰ってしまうと知るべきである。
こうして有り難くも人間として生まれて仏道を成就できる能力と機会を与えられたのだから、つかの間の人生を楽しもうなどと、その一刻一刻を無駄に過ごしてしまってはならない。それにつけても、我々の身体は草の上の露のようにはかないものであり、運命は稲妻の光のように瞬時に移りかわり、忽然として消え去り、またたく間に失われていく。
願わくば、禅を志す殊勝な人々よ、長年の間に偽物に慣れ親しんでしまい、この本物の仏法を怪しむようなことがあってはならない。直ちにそのものに成り切るという坐禅に励み、迷悟を超越した境界(きょうがい)の人を師と仰ぎ、仏祖の境界と一致して、その三昧の境地を受け継いでゆくのだ。たゆまずそのように努めていったならば、必ずその境地を手に入れられる。我々が本来そなえている仏性の宝の蔵が自然と開かれて自由自在に自分のものとして使いこなせるようになるであろう。
仏教悩み相談室より引用
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床にハシゴ状のラダーをおいて、いろいろなステップで四角いマスの中に足を入れては出す。単純だけど、きつい。
神戸女学院スカッシュクラブの部員に基礎体力をつけさせようと、取り入れてみることにしたトレーニング。
まずはメニュー作りに自主トレ。30分で、足がもつれてきたあ。;^_^A
一夜明けたら、脚のインナーマッスルに効いているのを実感。
プロ選手も取り入れるトレーニング、効果あり!です。p(^_^)q
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さて、坐禅をするときは、静かな部屋ですべきであり、飲食に節度をもって、雑事を忘れ、全ての関わりから離れ、事の是非、善悪を思わず、心に念が浮かぶことも意識に想像することも、何かを観じるという認識作用も働かせてはならず、また仏に成ろうと思ってもいけない。
坐禅は行住坐臥に行ずべきものである。しかし通常は厚く敷物を敷き、その上に坐蒲を置いて坐る。足の組み方には、結跏趺坐と半跏趺坐があり、そのどちらでもよい。結跏趺坐は、まず右の足を左の腿(もも)の上に置き、次に左の足を右の腿の上へのせる。半跏趺坐は左の足を右の腿の上へのせるだけでよい。衣服はゆったりしたものが良いがきちんと整えること。
次に右の手を左の足の上にのせ、左の手を右の手のひらの中に置き、両方の手の親指の先を少しつけるようにする(法界定印)。そして背筋を伸ばし、左に曲がったり、右に傾いたり、前にのめったり、後ろに反り返ってはいけない。耳と肩、鼻と臍がそれぞれ一直線上になるようにする。舌は上顎につけ、口は閉じて唇と歯が離れないようにする。目は必ず開いておくようにする。呼吸は鼻から静かにする。以上で身体の姿勢が調った。
そこで、口を少し開けて深く息を吸い込み、腹の底からゆっくりと吐き出す(2、3回程度)。そして左右にゆっくり身体を揺らし(はじめは小さく次第に大きく10回から20回程度)、坐が落ち着いたところで静止し、不動の姿勢で山のようにどっしりと坐り込む。そして見れば見たまま、聞けば聞いたまま、思えば思ったまま、ただ鏡のように、少しも選り好みせず、善悪を分別しないこと。これが坐禅の秘訣である。
いわゆる坐禅というものは、単に心を落ち着けたり、迷いを離れて仏に成ろうとする修行ではない。坐禅とは、すなわち仏の境界(きょうがい)であり、解脱の姿そのものであって、それは最高の安楽を体験する法門なのである。差別即平等、平等即差別の妙法そのままの自己となりきり、網から抜け出た魚や籠から解き放たれた鳥のように束縛に捕えられることがない。もしこの意味を体得できたなら、あたかも龍が水を得て天に昇るように、また、虎が山に入って力を得たように、真の自己の自由闊達で偉大な力を発揮できるようになる。すべての物事の実相が手に取るように現前し、迷いの心は消滅してしまう。坐禅を終えて坐を立つときにはゆっくりと身体を動かし、静かに立ち上がり、急に立つようなことはしてはいけない。
つづく
仏教悩み相談室より引用
これは、曹洞宗開祖 道元禅師が坐禅をひろめるために書き残した書物の内容を簡略化したものです。
そもそも仏法というものは、全てのものにゆきわたっており、我々が修行したり、悟り証したりすることもないはずである。真理や教えも自在に手に入れることができるので、何も修行をこらしたりする必要もないはずである。まして物事の本然の姿は、全て塵や汚れから離れたものであり、誰が塵を払う手立てなど信じるだろうか。遠くまで修行に出かけずとも、その身そのままでよいはずである。
しかしながら、ほんの僅かでも方向性を誤れば、天と地ほども悟りから隔たってしまうのであり、僅かでも分別心が生ずれば、たちまち本心を失ってしまうものである。たとえ、自らの仏法の理解を誇ったり、悟りを多く重ねたと自負し、僅かな智慧と通力をもって仏道を得た、心を明らめた、といって有頂天になって騒いでみても、それは、ほとんど自らの解脱の道をふさいでしまっているのに等しいのだ。
言うまでもなく、彼のお釈迦様がお悟りを開かれるまで、六年間端座された事蹟は誰もが知っている。また面壁九年といわれる達磨大師の修行は、今尚その名声が聞かれるのである。昔の聖人でさえ、これほど修行をされたのに今の人が何故修行しないでよいはずがあろう。
それ故に、書物などの言葉を研究し理解しようとするような自己の外へ向かっての行はやめるべきであり、自らの内に向かって光を当て悟りを照らし出す行を行うべきである。そのとき、身も心も自然に意識から脱落して、自らの本来の面目が現前するであろう。そうした悟りを得ようと思うなら、さっそくそのことつまり坐禅に務めるがよい。
つづく
仏教悩み相談室より引用
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