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スカッシュコーチGのブログ

スカッシュコーチの悲哀を綴ったサクセスストーリー
になるはずが、いつのまにやら禅の道に迷い込み・・・


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運がいい悪いという言い方をよくします。それは何となく変えようのないものと捉えられていて、人間の力が及ばない世界のように思われがちです。しかし運というものは、実は自分自身で変えられるものだということを知っておいてください。

「ご縁」という言葉があります。人間関係、仕事、恋愛、結婚、私たちはご縁を結んだからこそ関わり合うことができる。私たちはそれを「因縁を結ぶ」という言い方をします。

「因」というのは「原因」のこと。何か原因があるから、ご縁を結ぶことができる。そして善きご縁を結ぶには、その原因を作り出す普段の努力が大切ということです。

また、ご縁というものは万人に平等にやってくるもので、例えれば、それは風のようなものです。誰のところにも風は平等に吹く。その風を自分が持っている帆で受け止められるかどうか。

風が吹いた時、帆をピンと張っていなければ船は前に進みません。それゆえ日頃から帆を張っていなければならないのです。ならば仕事などで帆を張るにはどうすればいいのか。それには初めに訪れた小さなチャンスを見逃さないことです。

上司が「誰かこの仕事をやってくれないか」と言ったとします。あまり重要な仕事ではなく周囲もやりすごそうとしている。その時に、真っ先に手を上げ、「私にやらせてください」と言う。

小さな仕事。それはそよ風のようなものかもしれない。それでもその風を受け止めて、少しでも前に進もうとする。そういう姿勢こそが大事です。

初めに受け止めたそよ風は、やがては大きく力強い風になっていきます。つまりは、どんどん大きな仕事を任されるということになるのです。

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この状態を称して「縁起がいい」というのです。 縁起と言うのは、字の如く「一つの縁を起こす」ということです。

つまり、ご縁を結ぶ行為を始めるという意味でもあります。ですから最初の縁は大事にしなければなりません。

最初にいい縁を結べば、次々にいい縁が訪れます。最初の小さな仕事であっても一生懸命取り組めば、必ずや重要な仕事が任されるようになるものです。

逆に、初めに悪い縁を結ぶと、その縁はあなたを悪い方向へ引きずっていきます。

損得勘定ばかりで仕事をしていれば、やがて自分の周りには損得しか考えない人間しかいなくなる。それでは幸せな人生にはなりません。

「自分は仕事の運や縁に恵まれない」と嘆く人がいますが、恵まれない原因は誰のせいでもなく、「その人自身の縁の起こし方」にあるのです。

日頃から怠らず努力を重ねることです。いつ小さな風が吹いてきても受け取れるよう、柔軟な心をもつことです。

人間関係もしかりです。あの人と一緒に食事がしたいな。そう思っているのなら、真正面からぶつかることです。

心を込めてぶつかってみる。断られることを怖がってはいけません。もしうまくいかなかったときには、その人とはご縁がなかったと思えばいいのですから。縁というものは、自分自身が生み出すものです。

    「頭が冴える禅的思考」より





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早くこいこい ファイブ~

次はケースやな!?



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ある禅僧が修行中に師匠と交わした禅問答にこんなものがある。
「先生、道とはどんなものでしょう」
「平常心是道(いつもの心こそ道である)」

禅僧は重ねて問うた。
「その心はどのように目指せばいいのでしょう」
「目指したってだめだ。すぐに逃げてしまう」
「目標がなければ、どれが正しい道なのか知ることができません」
「道というのは知るとか知らないとかいうものではない。つまり知識云々の話ではないのだ。真の道に達すれば、誰だって、これが道だ、と感じることができるだろよ」

師匠のいう「平常心」とは「何事にも動じない強い心」ではないのである。「何事があっても、それを飲み込んでしまう広い心」である。

どんな名選手でも、試合となれば緊張するだろう。逆に緊張しないようでは名選手になれない。緊張し固くなっている自分自身を「人間とはこういうものだ」と理解して許容してしまうことが肝要なのだ。緊張しないよう努力してもせんないことなのである。

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また、「心頭滅却すれば火もまた涼し」という言葉がある。これも「すべてを捨て去れば火だって涼しく感じることができる」とのとらえ方では不十分である。

苦悩に直面したとき、それを感じない強い心を持て、ということではない。
苦悩を苦悩として許容する広い心を持てということである。

心の中には様々なモノが詰まっている。「思いやり」「親切」「妬み」「そねみ」「悪意」「愛情」・・・心が妬むからこそ「妬み」が生じる。心が企むからこそ「悪意」が生じる。心が悩むからこそ「苦悩」が生じる。

人は「苦悩」から逃げようとするが、それでは何事も解決しない。立ち向かえといっているのではない。

苦悩を苦悩としてしまえばそれでいい。そうすれば「逃げる」こともなくなり、解決の糸口も見えてくるのである。それこそが平常心なのである。

    「頭が冴える禅的思考」より



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禅では、よく「あるがまま、ありのまま」という言い方をします。

これは、人は生きていくとき、自然界の一部となって自分は生かされているんだということをよくかみしめ、そして感謝しなさい、ということを言っています。

春には花がさき、夏には鳥がなき、秋には野山が色づき、冬には雪・・・そんな自然の移ろいを日々感じとることを忘れなさんな、ということ。同じように人もまた、移ろうもの、それすらも、あるがまま、ありのままに受け止める、それが、心を無にする、空にすることにつながるのです。

生きるとはどういうことなのか、人は生まれ、いずれ死にゆきます。これを諸行無常という言葉で表します。世の中の物事は常ではない、移りゆき変わりゆくものである、ということです。

では、なんのために生きるのか、それは「生きるために生きる」というのも究極の言い方です。

その生きるために「生きる」とは・・・

分別を超える、これも禅ならではの表現です。
分別、たとえば好き嫌い、善い悪い・・・という判断は、本来精神世界の中には存在しないものであり、それは人のおごりであって、個々人のもつ基準(価値観)がそうさせているだけなのです。

また、その分別(価値観)は往々にして、人の欲(煩悩)から発するものなのです。

さらに欲(煩悩)は、人を悩ませ、苦しませ、傷つけ、不安にさせ、と生きていく中で、心にまとわり付き、なかなか切り離すことができないものなのです。その欲を捨て去ること、日々を謳歌して生きること・・・それを説いているのが禅という道なのです。

いま、あなたの周りに起こっていること、それも世の諸行無常の中にあります。悩み苦しみ、恨み、傷つき、怒り・・・それらは、全て己の欲(煩悩)から発している、そのことに気づかされるのは、まだまだ遠い先かもしれませんが・・・

大抵この話をすると決まって、相手だって、周りだって、となるのですが、そこは「他はこれ吾にあらず」であって、まず、自分の心の置き処をぶれさせない(揺れ動かされない)、それが最も肝心なことなのです。

「今このとき」ここをどう生きるか。今を積み重ねてきたのが過去であり、今を積み重ねていくのが未来です。今を精一杯生きる、なんて必要はありません。いまを感じて、いま自分がしたいことをする、それがなんなのか、どういうことなのか、それを見出すことが第一歩なのです。

本来の自分とはなんなのか、それを集中して思い巡らすのが坐禅なのです。人間関係がある限り、人はまずもって、人に振り回されやすくできています。振り回されないためには「自分はどういう人間なのか」「善いとか悪いとか」「強いとか弱いとか」どんな人間なのかを見つめる時間が坐禅なのです。

禅では、日々の生活にこそ修行の場があるとも言っています。朝起きて、夜床につくまで、その1日1日が修行の日々であり、禅的生活の実践の場なのだと言っています。

いま、まさに、あなたはその最中(さなか)にあります。この文の中に気づいてもらいたい言葉をちりばめました。しかし、いまは困難だと思います。少し時間がたって、大きな深呼吸ができるようになったら、また、読み返してみてください。 きっとお役に立てることと願っています。 小龍





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横浜鶴見の総持寺参禅、今年は二泊三日の長丁場?

老師の講義とか、めちゃめちゃ高度で、理解困難 f^_^;)

修行僧やお寺の住職向けの内容なので、かなりコアな内容。((((;゚Д゚)))))))

只今二日目後半。三時起きの寝不足に坐禅に朝課。。。疲れた。。


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随処作主(ずいしょさくしゅ)という禅語があります。

自分の周りの環境や境遇などに左右されずに、どんな処にあっても主体性を保つ。

すると自ずと道が開け、成果が得られる。

周りに流されることなく、主体的に生きていくことが大切であることを、諭しています。

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ゲリラ雷雨のあとの花火大会、夏も終盤。

蝉も静かになりました。

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銀は、金より良いと書く。
銅は、金と同じと書く。



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世の中には、ひとつとして我がものというものはなし

すべてただ因縁によって、我に集まりたるものにすぎず

ただ預かるのみ

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『法句譬喩経』



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