何のためにやるのかも忘れるほど没頭する
同じ禅宗にも、曹洞宗と臨済宗では、大きな違いがあります。
臨済宗では「古則公案」 いわゆる問答を通して徹底的に自分を追い込み。価値観や判断を打ち壊すことで、悟りを得ようとする。
それに対して、曹洞宗では「只管打坐」 ただひたすら座ることによって、その境地に到ろうとします。 ただ座るとは、何も求めないこと。

悟りを開く、意思を強くする、健康になる、知恵を磨く・・・ そんなものは一切求めず、座っていることさえ忘れ、心を空っぽにするのです。 坐禅に徹することで、意思が強固になったり、知恵がついてきたり、さらには悟りの境地に辿り着くこともできますが、それはあくまで結果として、ついてきたものだと考えます。
私たちは「目的のために何かをする」ことに慣れています。 しかしそれは、裏を返せば、何か得ようとする目的がなければ、何もしないということです。
そうではなくて、ただ一つのことに打ち込んでみるのが禅の精神です。 目的もなく、心を空っぽにすることで、感じること、見えるものがあるはずです。
「禅 心の大そうじ」より








