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スカッシュコーチGのブログ

スカッシュコーチの悲哀を綴ったサクセスストーリー
になるはずが、いつのまにやら禅の道に迷い込み・・・



何のためにやるのかも忘れるほど没頭する

同じ禅宗にも、曹洞宗と臨済宗では、大きな違いがあります。

臨済宗では「古則公案」 いわゆる問答を通して徹底的に自分を追い込み。価値観や判断を打ち壊すことで、悟りを得ようとする。

それに対して、曹洞宗では「只管打坐」  ただひたすら座ることによって、その境地に到ろうとします。 ただ座るとは、何も求めないこと。

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悟りを開く、意思を強くする、健康になる、知恵を磨く・・・ そんなものは一切求めず、座っていることさえ忘れ、心を空っぽにするのです。 坐禅に徹することで、意思が強固になったり、知恵がついてきたり、さらには悟りの境地に辿り着くこともできますが、それはあくまで結果として、ついてきたものだと考えます。

私たちは「目的のために何かをする」ことに慣れています。 しかしそれは、裏を返せば、何か得ようとする目的がなければ、何もしないということです。

そうではなくて、ただ一つのことに打ち込んでみるのが禅の精神です。 目的もなく、心を空っぽにすることで、感じること、見えるものがあるはずです。


「禅 心の大そうじ」より







石をまたぐごとに、心が清らかになる

大きな寺や神社には本堂へと続く参道に、三つの門や鳥居が設けられています。 参道はお参りをする「浄域」に入るまでに心を整える空間なのです。 時間をかけて歩きながら、空間を仕切る結界である門や鳥居をくぐり、一つくぐるごとに心を清めていくのです。

この考えを茶の湯に取り入れたのが千利休です。 茶室への参道にあたるのが、庭の「露地」です。

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飛び石を並べた露地は、心を「露(あら)わ」にするためのものです。飛び石を踏んでゆっくりと歩を進めながら、客は心にたまったホコリを払い落とし、露わな裸の心(生まれ持った清らかな心)になって、浄域である茶室に入っていく、というわけです。禅に通じ、茶道でもその精神を体現しようとした利休ならではの発想です。 

今度、神社仏閣にいく機会があったら、今まで何気なく歩いていた参道を、思いを新たにして歩いてみてください。



「禅 心の大そうじ」より




日曜の早朝坐禅で、見えてきたものがありました。

半眼の向こうに、集中が高まってくるといつも白い雲のようものが見えてくるのですが、ついその雲の出現を頭の中でせいてしまい、雲が出現しなくなりました。それと同じくして、マブタの端が痙攣しだしたのです。

その時、ふっとせくのをやめて、ジッとしていたら・・・出てきました白い雲が・・・

その後、思ったのですが、見たい(得たい)ものをせいて追いかけると、そのものは逃げては消え、見たいという気持ちの焦りを捨てると、そのものもジッとして見えてくる。
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この時、見たいがために、集中しなければならないと急ぎ、心がジタバタしていたのだと思います。マブタの痙攣でそれに気づかされ、追うのをやめた途端に見えてきたもの。

この「心がジタバタする」「追う」ということが、すなわち「己の欲」であると気付きました。

心が落ち着かないのは欲にとらわれているから。心が落ち着くのは欲から離れているから。 そんなことを考えた早朝坐禅でした。




iPhoneからの投稿


禅の庭は自分と対話する場所

「京都に行くのですが、どこのお庭を見たらいいですか」 そんな質問をされることがよくあります。 具体的な名をあげると、「あっ、そこは前に行きました。写真も撮ったし・・・」という答え。 そうではないんですね。

禅の庭に使われている素材は、すべてが自然のもの。「石心」といって、石にも心があるとするのが日本の伝統的な精神風土です。

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自然のものは、命をもって息づいている。だから、見るたびに趣が変わります。同じ庭でも、今日の趣と明日の趣は違う。刻一刻と変化し続けています。

でもそれは、庭そのものが変わるのではありません。庭の石は石として、樹木は樹木としてそこにあって、それぞれが天地いっぱいの命を全うしています。

しかし、見る人の受けとり方は変わります。 喜びを胸いっぱいに抱えて見る時、悲しみに沈んで庭の前に立つ時、庭はまったく違った姿をみせるでしょう。

庭は自分自身の心なのです。 観光で庭を見にいくときも、心を探しにいく、そんな見方をしてみましょう。



「禅 心の大そうじ」より



ときには、周囲の声を「雑音」だと割り切る。

なぜか突然、自分がやっていることの意味がないように感じられる。それは、周囲の環境に流されてしまい、自分の信念がぶれているから起きることです、

「水急不流月」 水がいくら急に流れても、水面に映る月が流されることはない、という意味の禅語です。

禅ではしばしば真理を月に例えますが、真理とは時代が移ろうと、周囲の状況がどう変わろうと、まったく微動だにせず。同じ姿のままそこにあるものといえます。

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真理は、信念とも言い換えられます。めまぐるしく環境が変わる現代で、ときには、その変化に惑わされたり、呑み込まれたり、流されたりしている感覚に陥るかもしれません。

でも、そんな感覚は放っておくのがいいのです。何かを始めるときにしっかりと信念があったのなら、水の流れが少し速さを増したり、ゆるやかになったくらいでは、それが揺らぐことはありません。

いつでも、何でも、信念を込めてやる。  そのことだけを考えていましょう。


「禅 心の大そうじ」より





いらないものは思い切って「捨てる」

たまには街中の喧騒を離れて、静かな空気の中に身を置いてみたいものです。たとえば、平日の美術館などにぶらりと行ってみると、心にも静けさがもたらされます。

禅の修業とは、たとえどこにいても、自分の心をそんな静けさの中に置くための修行、といういい方もできます。坐禅や作務を通して、背負っているものを降ろしていくにつれ、しだいに心が騒ぐことがなくなっていきます。

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ふだん、私たちの心を一番騒がせるのは物欲かもしれません。「あれが欲しい」と思えば、心がざわつきます。

ここは逆転の発想をしてみるといいのではないでしょうか。「これはいらない」という視点で生活を見直すのです。すると、なぜ必要だと思ったのかさっぱりわからないもの、使わないままホコリをかぶっているものなどが沢山見つかるはず。思い切って、捨ててしまいましょう。

それは、幾層にも重なっている物欲を一枚一枚はがしていく作業ともいえます。これが、すぐにでも取り組めるもっともシンプルな修行です。



「禅 心の大そうじ」より




優劣を作り出しているのは「自分だ」と気づく。

私たちはものごとに優劣をつけたり、価値の大小をはかったりしがちです。「この仕事はやりがいがない」とか、「これは十分にやる価値がある」とか、いつもそんな判断をしています。

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唐代の無業という禅師は、「莫妄想」と唱え続けました。この妄想とは今の使い方とは少し違い、生死、愛憎、美醜、貧富など、ものごとを対立的にとらえる考え方のことをいいます。そういう対立的な考え方自体をしない、という意味です。

対立的にとらえたら選り好みが生じ、執着心が起こります。たとえば、「美しい、醜い」というとらえ方をすれば、誰もが美しいものを選び、それに執着してしまう。



「禅 心の大そうじ」より






縛られた自分を解放する方法

現代は、不安が蔓延しえいる時代だといってもいいでしょう。
なかでも、一番大きいのは、縛られた自分を失うことの不安です。
有名企業の誰々という肩書きをもつ自分。みな会社や肩書きに縛られていて、しかし案外それが安心感にもつながっている。縛られなくなるのが不安なんですね。

禅の祖である達磨大師と二祖・慧可の間に、こんな逸話があります。慧可が「不安でたまらない、不安を取り除いてほしい」と大師に訴える。すると大師は「ならば、その不安にさせている心をここに持っておいで」という。

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慧可は、不安にさせている心が何なのかを探しますが、見つかりません。そのことを告げると、大師はこういいます。「もう、安心しているではないか」

不安を作り出しているのは、他ならぬ自分の心だったのです。不安そのものがあるわけではない。だったら、心持ちしだいで不安を追い出すこともできる。
肩書きに固執して得られる安心感は、本物の安心感ではありません。ならば、それを失うことで生まれる不安もまた、私たちの心が生み出している偽物なのです。


「禅 心の大そうじ」より




日常生活で「嘘も方便」などといって使う「方便」ですが、もともとこれは仏教の言葉。悟りへ近づく方法、または、悟りへ近づかせる方法、というのがその意味です。

この「方便」について、お釈迦様のこんな逸話が残っています。

わが子を亡くして悲嘆に暮れているある女性に、お釈迦さまが言いました。

「死者を出したことのない家から辛子の種をもらってきなさい。そうしたら、その子が生き返る薬を作ってあげよう」

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女性は自分だけでなく、誰にも生老病死の苦しみがあることを知り、お釈迦さまの弟子となるのです。

お釈迦さまも、ときに「嘘」を方便として用いていたというわけです。

私たちにもそんな場面はあります。 真実を告げることが、必ずしも相手を思いやることにはならない。真実が相手の悲しみや痛みを深めることにしかならない、こんな時につく嘘は、方便の元来の意味にも沿うのではないでしょうか。


「禅 心の大そうじ」より


能ある鷹は爪隠す

自分の仕事に自信を持つのはもちろんいいことです。自信は意欲にもつながるし、エネルギーにもなる。しかし、ちょっとこんな言葉にも耳を傾けてください。

「和光同塵」 光を和らげて塵に同ず。 自分の才能や名声をひけらかしたりせず、俗世に同化するのがよい、という意味です。

もとは老子の言葉ですが、仏教の世界でもしばしば用いられ、菩薩が、みずからの優れた能力をあえて表わすこともなく、人間界に身を投じて人々の救済に努めるさまを、この言葉で表現します。

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自信に裏打ちされた能力や秀でた力は、自分からアピールしなくても自然に伝わるものです。むしろ、そんな素振りを見せないほうが、「あの人は何か持っている」という「凄み」が際立つのではないでしょうか。

周囲に溶け込んでいながら、いぶし銀のような光を放つ。禅では悟った自分を鼻にかけることを「悟臭」といって、とってはならない態度としています。職場で能力を見せつけるのも同じです。臭気は撒き散らさないことです。


「禅 心の大そうじ」より