~資地計築~ 建築デザイン 木下 稔 -119ページ目

悩み無用 〜毒をもって毒を制す?〜

今日は融心館でテコンドーの練習です。

それほど広くない道場に26名の練習生、満杯です。

にも関わらず、エアコンの無い古式ゆかしいこの道場はガリガリ君より中年男の体力をガリガリ削ります。

小学生、女子、男子と交代で休憩しながらの練習は

結構、過酷。

みんな若い人ばかりなので、この中年男がくたばりそうな顔をしてハァハァ言っているのが

きっと理解できないでしょう。

若い頃のことは言いたくありませんが、今、どうしようもなく体力がないのです。

先週を見ても、忙しい中2回の練習と日曜の夜には6.5kmほど走り

体幹を意識して歩くようにし

それでも、去年と比べてガックリ体力自体が落ちています。

毎年、ガックリ体力が落ち続けてます。

キョルギ(組手)の時

そんな状態の中でも、今日練習にきていた山崎優輝くんやフナト先生に、
出来る限り挑みました。


●毎日仕事している中では、自分でもどうしようもない「やるせない事」が沢山あります。


彼らと対戦するということは、僕自身が普段無意識に持っている

「リミッター」

を完全に外して挑むことができる機会です。

今日も脇腹蹴られて悶絶し

オリグル(上段)蹴られ過ぎて頭がガンガン痛く

ノーモーションのアッチュオリグルアッチャギ(中足顔面前蹴り)をカウンターで喰らい

ボロボロです。

そして、その結果「頭が痛くなるようなやるせない悩み」は体も動かないぐらいの疲れと

「物理的に痛い頭」に

すっかり消え去りました。

「頭が痛くなるような(非現実)」という心の毒は

「頭が痛くなる程の(現実)」という物理毒で制したということでしょうか。

すっかり真っ白な自分になりました。

現実の対戦の中では、バカスカ蹴りを喰らいつつも最後には

マエダくんとの対戦で右カウンターティッチャギ(後ろ蹴り)でダウンを取り、そのままKO。

その直後のフナト先生にポイント取られながらも、同じ右カウンターティッチャギをクリーンヒット。

カウンターキッカーのフナト先生に逆にカウンターを喰らわせれたのは大きな収穫でした。

この右カウンターティッチャギ、極限状態の無意識で出るようです。

以前、ハヤテくん戦で出た無意識カウンターティッチャギ 以来

クレモト師範が僕の中に残してくれたこの「槍」は

出る度に

切ない心も意識なく出て来ます。


僕のいま

頭ガンガン痛い

蹴られすぎた

しかし、タナカくん来ないな。(ボソ)















棄て去ること 〜革新を思う時〜②

棄て去ること ~革新を思う時~① の続きです

42歳から始めたテコンドーという競技

不惑42の厄災の歳に、何の気無しに始めた事でしたが

若い頃には分からなかったことが沢山ありました。

「楽して強くなる」ことは絶対に無く

苦しんで苦しんで「楽する」より、より遠い道を選んだ事が結果を出し

懸命に努力した事が全力以上の何かを出すことに繋がりました。


革新を求めるとき、人は「楽したい」の支配があることに気づきません。

「やることが増える」「時間がない」「面倒くさい」

出来ない理由を延々と、しかも生き生きと雄弁に語ります。

こうして改革は見送られ、抜本的な改善案を求めても出て来ず
 
どっかの知事のお題目のように「変わらなきゃいかん、変わらんと!」と言って

一番変わらないようにしている張本人であることを、自分自身で隠そうとしています。

確かに、やる事も増えます。

面倒くさいかもしれません。

しかし、自らが言う「革新や変化」を求める事が、ウソでないなら

出来ない理由ではなく

出来る理由を探させない「楽したい」を棄てること。


新しい事への挑戦は辛く苦しいに決まっています

変わる事は時間がかかるに決まっています

革新は
手間ヒマ面倒くさいに決まっています

求める結果は、これらが出来た後にしか出ませんから。

少なくとも、僕はどこか「変わりたい」と思ってテコンドーを始めたと思います。

この3年、僕は変わったと感じます。

それは「健全な肉体を作れば精神は健全となる」

の、結果だったのではないかと思います。

「楽する」ことを棄てて

行く末、先が見えなくても努力を続けた結果

行動が心を支配したという現象とも言えるのでしょうか。


仕事においても、何においても

「楽したい」

これを棄てないと、不平不満と出来ない理由で

前へ進めません。

これを棄てると、不平不満や出来ない理由は

出て来ません。


人は、社会は、物事は、必ず変えられる

しかし、そこには「出来ない理由」で楽しようとする心が横たわっています。


僕に言えること

出来そうになくても、疑わず信じること


努力は絶対に裏切らないから




棄て去ること 〜革新を思う時〜①

 先日、自分の中にある「すがってしまうもの」

これを潔く「棄てる」

何と難しいことかと書きました。
 
人は知らず知らずのうちに、自分の過去の成功、やり慣れた事、都合や時間に「すがってしまい」

中々変化できない生き物です。

人は知らず知らずのうちに「楽したい」ということに支配されており

変化や革新を求められたり、決められた場合

大体が不平不満を言います。

革新を求める人の考えをそうでない人が理解できない大きな理由の根幹は

「楽したい」に他なりません。

「こんな事やり始めたら、今やっていることが出来なくなる

「これでは、
うまく行かないに違い無いから、やっても無駄。 なんでこんな事強要されなければならない」

「こんな難しいこと、今更覚えられる訳が無い。やる気が起きない」

「返って、効率が悪くなる、こんなことも分からんのか」etc.


僕自身、若い頃はそう思っていました。

それは、血気盛んでやる気に満ちた自分にそんな「楽したい」という影の支配が存在することをツユとも知らなかった上に

逆に自分がバカであることに気づいていなかったからです。


新しい事にチャレンジするとき

やった事がないから効率が悪いに決まっています。
 
新しいものを習得する時

やった事がないから身に付くまでやらなければならない(時間がかかる)
 
新しいものを渡された時

使った事がないから、これを組み込んだしくみが無いのは当たり前

なのに誰しもが何かの危機を感じる時

「このままじゃダメだ、改革!革新が必要」と言うにも関わらず…