棄て去ること 〜革新を思う時〜②
棄て去ること ~革新を思う時~①
の続きです
42歳から始めたテコンドーという競技
不惑42の厄災の歳に、何の気無しに始めた事でしたが
若い頃には分からなかったことが沢山ありました。
「楽して強くなる」ことは絶対に無く
苦しんで苦しんで「楽する」より、より遠い道を選んだ事が結果を出し
懸命に努力した事が全力以上の何かを出すことに繋がりました。
革新を求めるとき、人は「楽したい」の支配があることに気づきません。
「やることが増える」「時間がない」「面倒くさい」
出来ない理由を延々と、しかも生き生きと雄弁に語ります。
こうして改革は見送られ、抜本的な改善案を求めても出て来ず
どっかの知事のお題目のように「変わらなきゃいかん、変わらんと!」と言って
一番変わらないようにしている張本人であることを、自分自身で隠そうとしています。
確かに、やる事も増えます。
面倒くさいかもしれません。
しかし、自らが言う「革新や変化」を求める事が、ウソでないなら
出来ない理由ではなく
出来る理由を探させない「楽したい」を棄てること。
新しい事への挑戦は辛く苦しいに決まっています
変わる事は時間がかかるに決まっています
革新は手間ヒマ面倒くさいに決まっています
求める結果は、これらが出来た後にしか出ませんから。
少なくとも、僕はどこか「変わりたい」と思ってテコンドーを始めたと思います。
この3年、僕は変わったと感じます。
それは「健全な肉体を作れば精神は健全となる」
の、結果だったのではないかと思います。
「楽する」ことを棄てて
行く末、先が見えなくても努力を続けた結果
行動が心を支配したという現象とも言えるのでしょうか。
仕事においても、何においても
「楽したい」
これを棄てないと、不平不満と出来ない理由で
前へ進めません。
これを棄てると、不平不満や出来ない理由は
出て来ません。
人は、社会は、物事は、必ず変えられる
しかし、そこには「出来ない理由」で楽しようとする心が横たわっています。
僕に言えること
出来そうになくても、疑わず信じること
努力は絶対に裏切らないから
42歳から始めたテコンドーという競技
不惑42の厄災の歳に、何の気無しに始めた事でしたが
若い頃には分からなかったことが沢山ありました。
「楽して強くなる」ことは絶対に無く
苦しんで苦しんで「楽する」より、より遠い道を選んだ事が結果を出し
懸命に努力した事が全力以上の何かを出すことに繋がりました。
革新を求めるとき、人は「楽したい」の支配があることに気づきません。
「やることが増える」「時間がない」「面倒くさい」
出来ない理由を延々と、しかも生き生きと雄弁に語ります。
こうして改革は見送られ、抜本的な改善案を求めても出て来ず
どっかの知事のお題目のように「変わらなきゃいかん、変わらんと!」と言って
一番変わらないようにしている張本人であることを、自分自身で隠そうとしています。
確かに、やる事も増えます。
面倒くさいかもしれません。
しかし、自らが言う「革新や変化」を求める事が、ウソでないなら
出来ない理由ではなく
出来る理由を探させない「楽したい」を棄てること。
新しい事への挑戦は辛く苦しいに決まっています
変わる事は時間がかかるに決まっています
革新は手間ヒマ面倒くさいに決まっています
求める結果は、これらが出来た後にしか出ませんから。
少なくとも、僕はどこか「変わりたい」と思ってテコンドーを始めたと思います。
この3年、僕は変わったと感じます。
それは「健全な肉体を作れば精神は健全となる」
の、結果だったのではないかと思います。
「楽する」ことを棄てて
行く末、先が見えなくても努力を続けた結果
行動が心を支配したという現象とも言えるのでしょうか。
仕事においても、何においても
「楽したい」
これを棄てないと、不平不満と出来ない理由で
前へ進めません。
これを棄てると、不平不満や出来ない理由は
出て来ません。
人は、社会は、物事は、必ず変えられる
しかし、そこには「出来ない理由」で楽しようとする心が横たわっています。
僕に言えること
出来そうになくても、疑わず信じること
努力は絶対に裏切らないから