8月、暑い盛りに入院した母。容態も回復、よく
話をし、退院してからの事も会話に出ました。
11月頃だったでしょうか。見舞いに行った時、
寝ている事が多かったです。
12月9日。例年通り、お寺からお坊さんが暮れ
の祈願?に来られ、床(とこ)の神様に向かわれ
ました。お正月の御札などもお持ちくださります。
その翌日です。主治医から、「ずっと付いている
ように」と言われ、前夜から兄が、当日朝、交代で
僕が付き添う事になりました。説明では、何がある
かわからないようでしたが、僕は、そんな事はない
と思っていました。
酸素マスクをした母。大きないびきが気になりま
した。(その点の知識はありました。)
ベッド横で、椅子に座り、母の顔を見つつ、持参
した本を読んでいました。途中、弟も来ました。
どれ位経ったでしょうか、母のいびきが静かに
なっていました。「酸素マスクが効いたのかな」と
思っていました。
でも、その後気になり、母の顔を覗き込みました。
呼吸音が聞こえない!口は動いているものの、その
音が聞こえません。ちょうど入室した看護士さん、こ
っちが気になったようで振り返りましたので、その旨
を伝えると、急いで、様子を見、主治医を呼びに行か
れました。
到着した診察中だった主治医、診察、心臓マッサー
ジ等、懸命に頑張ってくださいましたが、願いは叶い
ませんでした。
その時、駆けつけてくださった医師団の皆さんにも
言ったのですが、息子として、母はいつまでも生きてい
る様な気がしていました。あの、いびきが静かになった
時、すぐに知らせていれば、結果は違ったかと、悔やん
でも悔やみきれません。
電話で兄、弟に報告、二人が来ました。二人とも、泣
いたり、参っているようでした。
でも、僕は一滴も涙を流しませんでした。母親の死
です。悲しくない訳がありません。本当なら、号泣し
たい位です。でも、「悲しい」と感じる事が嫌で、自分の
心に蓋をしてしまったのです。
病院の最後の明細書に記された項目、その衣装は
「エンジェルセット」でした。
その日、一旦、自宅に帰った母。兄と弟に抱えられて。
病室で話していた帰宅が、こんな形になりました。
夜。斎場の控え室。僕が一人見守りました。母の顔は、
それまでの苦労が嘘のように穏やかでした。少しは
ホッとしました。
それから何度も母の側に寄り、顔を覗き込み、「ごめ
んな、ごめんな」と謝りました。灯を消し、横になってい
る途中、「〇〇よー」と、僕を呼ぶ声が聞こえました。
翌日は、遠く離れた場所に住んでいる、ただ一人の
肉親である弟(僕にとって叔父)夫婦も来、叔父は「
姉やん・・・」と言って泣いていました。お通夜、その後
弟が付き添い夜を明かしました。
葬儀後、順序通りに。その前は、本当に、眠っている
様だった母。その後。こんなになってしまった母。あっと
いう間に時間が経ったようでした。
その後、気づきました。「母に触っていない!」何度も
すぐ側まで寄り、顔を覗き込んだのに、体を触るのを
忘れていました。もう、取り返しがつきません。
母は短歌が好きで、同人に入っていました。棺には、
短歌の本も入れました。僕も、短歌が好きで、「母の
好きな短歌で母を偲んでみよう」と思いました。
一年間、ノートに浮かんだ歌を書いていきました。
その中から、亡くなった月にできた歌、その次の歌
二首を載せてみます。(胸に暖めているべきなのかも
しれませんが・・・。)
「母偲び二人歩いた道辿る
何処も悲し浮かぶ在りし日」
「暗がりに静かに上る線香の
煙の傍の息をせぬ母」
それから、時々母の夢をみます。決まって、幾分
若い頃で、元気で。「あれ?母は亡くなったはず
なのに。でも、いてくれるのは嬉しい。ずっといて
ほしい」と、夢の中で思います。
今年も紅葉は見事な景色を見せてくれています。
毎年、この季節になると、「母にこの景色を見せて
あげたいなあ」と思います。