崩れた旧家が
南相馬の親戚
5月の連休後、遅まきながら南相馬の親戚の見舞いに行ってきました。
浦和の亡き父母はそちらの出身なので、たくさんの親戚がある。
朝10時弟と大宮駅で待ち合わせ。3年前の相馬の野馬追の時には常磐線スーパー日立で行ったのだが。震災後1年以上経った現在でも常磐線の完全復旧のめどはたっていない。原発傍の線路には近づけない、近づきたくないからだとも言われている。
今回は仙台まで行って、仙台でレンタカーを借りて南相馬に行くプランになっている。初めての東北新幹線は快適で、1時間ちょっとで着くというのも驚きです。
車窓から見える風景に今は震災の跡はない。田んぼには水が張られ、苗が風に揺れる田園はいつものものである。それが南相馬市に入ると俄然様相が変わる。雑草があたり一面を覆いあぜ道もわからない、悲しい姿と変わる。
昔子供の頃よく遊んだ従妹の家は津波で流されてしまった。その海岸に行ってみた。津波で家も田んぼも流され、ところどころに土台の鉄筋がむき出しになっている草だらけの平地になっている。海岸は松が何本か残っており、決壊した堤防から波のしぶきが見える。
山のようなガレキをショベルカーが丁寧に分別していた。太い柱の山、石の山、プラスティックの山等と。
入ることも許されない双葉町、波江町の隣の小高町は最近通行だけ可能になったというので、そのまま車で向かった。
震災の跡はそのままで、誰もいない。空屋の庭には壊れた家具が山積みされている。壁が落ちたり、傾いたりの家々、土壁がむき出しになった蔵。以前は立派な旧家を忍ばせる、重い瓦の家が無残にも崩れていた。この家は度重なる余震でとうとうやられてしまったのだとか。
最近は都会も田舎も家の建て方は同じになってきたようだ。大きなモダンな新しい家が無傷のまま放置されている。庭に芝桜のじゅうたんが地面を埋め尽くしていた。ピンク色の鮮やかな一角だけが妙に輝いていた。丹精込めて育てたこの家の人は今どうしているのだろう。涙が流れた。
鳥の鳴き声もない、シーンと静まり返ったこの町にいるのは、我々の車と巡回しているパトカーだけである。
夕方叔父さんの家にたどり着いた。おじさんの家は原発から28km、地震からも津波からも最少の被害で済んだようだ。既に従妹たちは集まっていた。家を失った家族も来てくれた。
しばらく何も出来ないで、体を持て余していた親戚の人たちもようやく前に向かって歩みだしたようだ。乳牛は続けられなくなった酪農の従兄は、親牛を飼い、子牛を産ませて2年間育てて売るというやり方に変えた。
家を流された従弟は家の建設に踏み出そうとしている。5軒が一緒に申請すれば補助が受けられるらしい。
野菜作りの名人叔母さんは、今年は例年のようにたくさん種を捲いたという。出来た作物の数値が悪かったら食べなければいいのだからと。昨年の玉ねぎは上出来だったらしい。食べるに食べれず、路上に置いておいたら誰かが持って行ったらしい。畑や田んぼを放置していればもう作れなくなる。体も弱る。いつも働いていた農家の人にとって、何もやることがないことほど困ることはないとのこと。
何の苦情も言わず、前進するひたむきな姿に原発さえなかったらと嘆くのみである。