Yuki Ikawa・辻隼人・青葉市子・山田庵巳/池袋鈴ん小屋(10/05/21)


(Yuki Ikawa)
前半不明
・オネスティ
・絆


(辻隼人)
1.牝牛
2.鬼殺し
3.四海(しかい)
4.エリーゼのくせに
5.セントマーガレット医院
6.羊の歩み


(青葉市子)
1.不和リン
2.ココロノセカイ
3.レエスのむこう
4.日時計
5.色彩都市
6.重たい睫毛


(山田庵巳)
1.模範的な黒
2.右手に松明
3.山羊でした
4.窓辺のダンスホール
5.ぱぷりかぁな
6.寒がりな羊を見かけたら
7.砂の道
8.命の傍らに
9.高速バナナに飛び乗って


10.羊のアンソニー



本当は、この日の目当ては山田庵巳であった。
だが、共演の弟子である青葉市子、及びピアノの鬼才辻隼人の演奏は特筆に価するものであった。
ライブには標題も何も記されていなかったが、特別な企画とも取れるだけの価値は間違いなく存在した。


Yuki Ikawa(http://www.yukiikawa.com )の演奏は、残念ながら最後の2曲だけしか聴けなかった。
MCで、ピアノの勉強に行ったドイツで一度ライブを行ったことや、韓国でも演奏してみたいといったことなどを話していた。
ピアノや歌は、「正統」なスタイルである。
この後の3人の印象があまりに強すぎてしまったので、少々この日の演奏の印象はかき消されてしまったところはあるが。
声も他の共演者のハイトーンと異なり、中音域で響く音質であり、高音のトップ部分は若い歌い手特有のファルセットで処理しようとしていた。
ビリージョエルのカバーの「オネスティ」は原譜通りの伴奏で(以前ピアノピースを購入したことがるが寸分違いはなかった)、自分の癖を織り込まずに真面目に曲に向かっていた。
「絆」も、健全な精神から生まれる前向きな曲で、MCも含め真面目に音楽に長年取り組んでいるところから生まれる姿勢が垣間見られる。
悪く言えば模範的過ぎて面白みのないMCであるが、秋葉原ドレス辺りに行くとこういう模範的なMCばかりであるので、1人ぐらいはこういう色も必要なのかもしれない。
この後のステージからは、針が振り切れるぐらいに極端な世界が待ち受けていた。


辻隼人は、長身で正装、髪は上げていたような記憶がある。
アップライトの向こう側で演奏場面を確認できなかったが、トイピアノかグロッケンのソロの音が遠くから響いてくる。
「牝牛」という曲のようだが、動物性をあまり感じさせない。
オルゴールのような静かで小さく整った創りの音楽である。
音源の確認を取っていないが、記憶の中で昔の映画「エレファントマン」の主題曲に近い印象を持った。
完全なインスト曲だが、完成度も高く先が楽しみになる。


続いて、酔っ払って作ったという「鬼殺し」が演奏される。
この曲からはボーカルが入るが、これがまた凄い。
声自体は佐藤伸治のようなお化けが出そうなよい高音で、心地よい。
歌詞が全く聴き取れない(歌詞があるかも確認できない)のだけが残念だが、意味が分からないおかげで想像力が増強されるところはあるかもしれない。
最初の静かな部分が終わると、流行歌にはありえない民族楽派のクラシックにも近いリズムの連続と、統制されたシャウトが奇妙な調和(または不調和)を生み出し、ますます音楽に引き込まれることになる。


「四海(しかい)」は、どこかヨーロッパの古謡の響きを感じさせる。
とは言え、ケルト的な民族性でなく、もう少し中欧~東欧あたりの、バルカンかブルガリアあたりのリズムや和音、旋律に近いと感じられる(個人的にはそう感じた)。
この曲が、おそらく一般社会との接点も多いと感じられ、一番耳当たりもよい曲であると感じた。
延々と続くモードの中、展開を見せていく旋律、そして突然の収束、誰にでも勧められる名曲である(他の曲を勧めるのには勇気が要る)。


「エリーゼのくせに」は、静かなゆったりとしたピアノアルペジオから始まる。
タイトルから、ベートーベンの有名曲のモチーフがあったかと予想したが、全くそうではなかった。
冒頭部が終わると、すぐにピアノに抑揚とリズムが生まれ、ボーカルだけならロックにも感じられる力強いアウトラインの曲線が高音の肉声で画かれる。
声の発声にも技術があり、金管楽器の弱音器を付けたような響きのまま「エリーゼー(ここだけは聴き取れた)」などとシャウトしているところは一人で二台の楽器をセッションしているかのような印象を与える。
ホーミーの絶叫があるとするとこんな感じになるのかもしれないが、サッと普通の歌い方に切り替わる部分もあり、力任せに叫んでいるのではないことが分かる。


「セントマーガレット医院」は、千葉県に実在する演奏者の地元の病院である。
その病院でひどい目に会ったことから、曲名になったとのことである。
現代曲的な不協和の響きから始まった後は、やはり静かで月光でも射し込んでいるかのような夜を感じさせる。
この曲も、お化けが出そうな欧羅巴の夜の静けさがあり、よい。
どの曲にも言えることだが、全ての曲で世界をぶち壊すことなく、完璧なまでに緻密な演奏をする。
その上で、五線紙の上だけではない部分で、様々な表情を曲に織り込んでいく。
おそらく、アプローチとしては主題や様式が先にあるのではなく、表現すべき映像か時間軸も伴った世界の流れを先に意図し、それを全ての手法を排さずに汲み取る音をモザイク状に張り巡らせているのであろう。


最後に、「羊の歩み」が演奏されるが、これは圧巻である。
夜のモンスターハウスに足を踏み入れてしまったかのような異世界が待ち受けており、これは一聴の価値がある。
一言で片付けるのであれば「前衛的」という言葉だが、奇を衒っているのではなく、表現しようとする方向に適切に考えられない技法が用いられている。
アップライトの天板を開き、ピアノの「弦」をダイレクトにスクラッチしたり撥弦したりする部分も、決して音楽の流れや調和を崩さず、最後まで鎖は繋がっている。
クラシックギターの作曲家で言えば、ブルガリアのウルクズノフあたりの前衛さに近い気もするが、楽器が違う分表現の幅も大きい。
辻隼人は、ピアノの化け物である。
好みは別として、人生あるうちに一度は聴いておきたい。
最後の長い静かなリフレインと最後のスポルツァンドの不協和音は、モンスターハウスから逃げ出した静寂さ、そしてホッとしている間に一瞬のうちに断末魔を迎える映像が個人的には浮かんできた。
「羊」がどのようなところを表現したのかは分からなかったが、辻隼人の目立つところを集めた集大成の音楽である。


辻隼人を一度だけ聴いた印象で評すれば、「静寂と狂気の同居と調和」とでも言えようか。
楽器も声も技術があり、中間色の微妙な世界からグラデーションのまま原色の狂気まで、繋ぎ目なしに自在に動き回る。
この日の一番の収穫は、実はこの辻隼人だったかもしれない。
どこかの空間で、再び演奏と世界に触れることができる日を待ちたいと思う。



次の青葉市子のステージも、緊張感溢れるよいステージであった。
それまで山田庵巳や大貫妙子の代用以上の存在価値を見つけきれずにいたのだが、この日で青葉市子自体の強い価値を見出すことができた。
まず、冒頭からよかった。
「不和リン」が始まったとき、そこが「風の谷」にいるかのような錯覚に陥り、荒涼とした広い大地に風が吹き荒んでいるかのような光景が映った。
twitterでも記したが、よいライブは演者と客席の間の空気の色が音楽とともに変化する。
池袋の繁華街のライブハウスにいることを完全に忘れさせ、澄んだ空気が声と呼吸とともに循環しているのが感じられる。
開放弦を含むギターアルペジオは、純粋な上昇系などの完全な定型でない動きが見られ、それが飽きさせないバリエーションに自然となっている。
次の「ココロノセカイ」へとつなぎ目無しに移行するのは師匠譲りか。
「不和リン」よりもメジャー和音の部分が多く、この声質で明るい曲調で歌われると、どこか少女のバレリーナが背をスッと伸ばして動くかのような清々しい印象を与える。
マイナー和音の曲は映像や空気などの外部に働きかけるが、メジャー和音の青葉市子曲はどちらかと言えば感覚や心情に働きかける。


自己紹介を行った後、「レエスのむこう」が演奏されるが、この曲あたりは大貫妙子の影響を(少なくとも音楽的には)大きく受けていることをうかがわせる。
「不和リン」型か「ココロノセカイ」型かと考えると、「レエスのむこう」は後者の方に近い。
異世界の映像を映写することはないが、やはり心に働きかけ、生活の中で目にするささやかな美しいものに触れたときの感動に近い感覚を、曲中絶えることなく感じ取ることができる。


「日時計」は、サンジャック「ひくつ系音楽会」で耳にしたときは冒頭しか生み出されておらず、それでも非凡な世界の萌芽を感じさせており、どのような方向に曲が方向付けられるのか実は楽しみにしていた。
実は、ギターの技量的にもこの「日時計」は一番華があり、緩急を繰り返す部分部分で高速のアルペジオやラズゲアードが額縁からはみ出さないようにアクセントの楔を打ち込んでいた。
この日は、2/3ほど出来上がっていたようである。
組曲と呼ぶにも近い、部分部分で全く異なる表情を見せる曲で、飽きさせることなく主題を次々に展開させている。
この文章を書いている時点では既に完成しているらしいが、その完成形を確認できる日を待ちたい。


次いで、大貫妙子のカバー曲コーナーになり、「色彩都市」が演奏される。
前回観たときは「いつも通り」と「黒のクレール」であったので、おそらくしている曲があり、演奏していく予定があるのであろう。
細かい部分は別として、曲後感は「レエスのむこう」に近く、ややテンポがあり軽いカッティングが入るといった違いがある。


「この後は皆さんお待ちかねのY.A.氏です」と次の師匠の紹介をして、「重たい睫毛」が演奏される。
この曲は、「不和リン」型か「ココロノセカイ」型かと考えると、完全に前者である。
「不和リン」以上に映像が浮かび上がり、鳥肌が立つほどの高みの異世界に連れて行かれる。
個人的に好きな部分は、開放弦を用いたミの音の同音アルペジオから微妙な和音に変化していき下降していくところである。
音楽はリズムという名の乗り物に乗って移動することだけが楽しみではなく、素足で大地を踏みしめて一つ一つの足元の草花に目を向けていくこともかけがえがないことだと教えてくれる。
山田庵巳以上に素を見せない緻密な音創りと空気、それとコントラストをなす脱力感のあるMC、MCが素晴らしいと絶賛することはないがあのMCから刹那のうちに遥か離れた世界にテレポートする力は評価するべきであろう。


青葉市子は、翌日大きなイベントが大阪であり、師匠の終演後に少し早めに鈴ん小屋を後にしたはずである。
また、表参道でのワンマンも直後にあり、チケットも場内で数多く売れていた。
もう何年かすると、大きなも催しに引っ張りだこの存在となる予感もある。
そうなると、所持金が3000円の生活ともお別れすることになるのだろうか。
いずれにしても、演奏に関しては緊張感と緻密さがあり、素晴らしいひと時であった。


もうここまでで相当満足してしまったが、ここで帰る訳にはいかない(もっとも帰ることはあまりないが)。
当初の目的の、山田庵巳の出演である。
実際、この数日後から忙しくなることが決定していたので(直後の新宿SACTのライブは2回とも行けなかった)、十二分に堪能しておきたい気持ちもあった。
BGMの中の長い指鳴らしの後、いよいよ冒頭の定番曲「模範的な黒」が演奏される。
やはり、下に2本低い弦がある分、青葉市子の弾き語り的な伴奏よりも「小さなオーケストラ」的な伴奏の響きを感じる。
指は、この日はよく動いていたように思えた。


「夏です、二の腕の季節がやってまいりました、こんばんは、Yです」と紹介があり、予想された「右手に松明」が演奏される。
この曲は、他の数多くの山田庵巳作品と異なり、他の演奏家にカバーされる可能性の低い曲である。
組曲的な要素があり、部分部分は美しいメロディも存在するが、曲全体を貫くテーマが「二の腕」であるので、印象に強く残る代わりに美しいだけの曲より喉越しが強い。
「埼玉県と千葉県と二人の関係は遠恋か」などの、毎回異なる台詞が曲中に組み込まれ、何事もなかったかのようにいつもの調子で曲は続く。
「君の太陽を知ったときから~」以降の部分は、やはりゾクッと来るものがあり、この部分のためにそこまでの部分があるのではないかとさえ感じさせる。
この日のギターはこの曲で一番冴え渡っていたようにも思える。
裏の拍で効果的な音が何度も入り込んで、


さっきから何かガサガサ言っていると言って、ペグに取り付けた「マカロン」に手を触れる。
チューニングをしながら、「昨日弦変えたんだよ、信じられない話だけど7弦がまた切れた」と、神楽坂EXPLOISIONで起きたのと同じ事件が起きた報告を行う。
「弦全部変えると3000円かかるんだよ、そういえば青葉さんの財布も3000円、ステージで所持金言う人初めて見た」と呟いた後、「山羊でした」が演奏される。
白馬に乗った王子様だと思ったら山羊であったなどという、山田庵巳作品の中では希少な歌自体に笑いの要素が入った曲である。
「何だったかな」と前奏を弾きながら曲が分からなくなり、「重症だな」といいながら「ぱぷりかぁな」を始める。
途中で、先ほどの「山羊でした」に入り、「休職中なんだ、俺は」などと本当か偽りかも分からない呟きが入り、元の曲に戻らないまま終了する。
何度も先ほどのマカロンを触りながら調弦する。
調弦中、「素晴らしいミュージシャンの方々に~幸せに思います」という言葉が出たのは、おそらく本音であろう。


「寒がりな羊を見かけたら」は、山田庵巳を聴くことの幸せをつくづく実感する曲である。
サビよりも冒頭の部分に、伸びのある高音と繊細なメロディのコントロールが感じられ、鳥肌が立つ思いをする。
2番3番と聴き続けたいと思いながら、すぐ曲が終わってしまい、懐石料理のような腹八分目感が続く。


製氷機の音がして、「氷ができた」とチューニング中に呟く。
「ああそうだ」の後、「水下さい」と大きな声で注文した後、小さく「氷、○たやつ」と言い足した。
「入ったやつ」なのか「抜いたやつ」なのか、少なくとも席によっては確認できなかったが、店員には後者に聴こえたようだ。
水を手渡された山田庵巳は、「氷がない」と、残念そうな声を上げる。
文脈からは明らかに前者なのだが、ここは店員を責められないところはある。


「砂の道」も、か細い高音で、やはり美しい。
定番曲だが、何度聴いても飽きがこないのは完成度の高さ故であろう。
最後に「高速バナナに飛び乗って」が演奏される。
青葉市子の曲の一節が挿入され、「ちょっとやってみたかったんだ」とすぐ曲に戻る。
青葉市子に詳しい客がいる場であるがための、演出と試行であろう。
「お帰りの際はくれぐれも気をつけて、世知辛い世が待っております」と、日比谷カタンの口癖で本編終了する。
客層的にも、これには反応がよかった。


「ありがとうございます」とは決して言わず、「本当に困ります」とアンコールが始まる。
カポをセットしたものの、アンコール定番の「砂の道」も「ぱぷりかぁな」も演奏済みのため、何を演奏しようかと思案する。
「私、来年の春には父親になります、嘘です」「ちょっと言ってみたかったんだ」と最後まで飛ばしまくり、「羊のアンソニー」で終了する。
伸びやかな切ない音楽の後、「素敵な夜更かしを」の言葉で締めた。
今回も「機械仕掛乃宇宙」「春夏秋冬」が、青葉市子、山田庵巳どちらからも演奏されなかったのは残念だったが、共演者に引っ張られるようにクオリティの高いステージが続き、満足いく時間を過ごすことができた。
なお、鈴ん小屋は靴を脱いで入る寛げる空間で、緩い演奏ならば座布団を折りたたんで寝転びたくなるのんびり感がある。
だが、ステージ上はそれと対極にある緊張感(少なくとも音楽上は)が継続していて、そのような欲求を誘うことはなかった。


5月終わりと6月の新宿SACTの公演は終わってしまったので、次回の確認できる山田庵巳のライブは7/23の秋葉原ドレスである(※7/9に新宿SACTがあるとのメッセージを頂きました、ありがとうございます、10回分の半券を持っていくと1回無料で聴けるライブハウスです、皆様ぜひ足をお運びください)。
どうも、山田庵巳自身の企画らしいが、詳細はよく分からない。
山田庵巳の音源は、どうもほとんど販売されていないようだが、「かぼちゃのスープ」だけは確認できた。
iTuneやミュージコにはなく、MORAで158円であった。


http://mora.jp/package/80328008/HLMR-1005/


ただ、コピー回数の制約もあるようなので、CDを入手するか、下記のサイトの方がよいかもしれない。


http://www.cheerup.in/A0000189/index.html


こちらは100円だが、支払いがビットキャッシュのみである。
早いところ、多くの音源が公開されてほしいと、ファンの一人としては望みたい。



※追記ついでに、書き忘れた山田庵巳のMCを幾つか追記(言い回しは微妙に相違があるかもしれない)。

・アロマテラピーの勉強をしなくちゃ(休職中、の話題の部分で)。

・モチベーションという言葉は300回ぐらい~(メモが読めない)。

・レッドブル2本~(飲んだと思われる、メモ不足)。

・嬉しいんだ、青葉さんが芸人みたいになってくれて。

・本当は寂しいんだ、twitterのやりかたもわからないし。

・そう言えば真夏日になったところもあったみたいですね(と全く同じ言い回しを時間を空けて2回)。

・鈴ん小屋の水は美味しいなあ(氷の入っていない水を2回目に飲んだときの言葉、多分正直な感想)。

・いいなあ、ワンマン。26日にライブがあるので、よかったら、来て、下さい、場所は忘れましたけどね。


なお、衣装は短いズボンではなかった。

青ジーンズとメモにはあるが、全く思い出せない。

黒○○とあるのは、メモも読めない。

また、横に音に合わせて踊る花の鉢植えが置いてあったが、新宿SACTのときと違い、全く踊らなかった。






アメーバイチ押しグルメ情報 グルブロ 参加中

NATARAJ ナタラジ 荻窪店 NATARAJ ナタラジ 荻窪店
住所:東京都杉並区荻窪5-30-6 福村産業ビルB1F
電話番号:03-3398-5108


本文はここから



最近、カレーのエントリーをほとんど挙げていない。
店に足を運んでいないわけでもないので、ライブレポの合間によい店は紹介していきたい。


このナタラジは実はチェーン店で、外苑前にもあるらしい。
それを今まで知らなかったのは、南青山マンダラと反対方向の出口だったからのようで、機会があればそちらの店舗にも出向いてはみたい。
荻窪店は、おそらく中野以西の印度料理店の中では一番知名度があると思われる。
もちろん、後述するように味もよいのだが、最大の特色は「菜食主義を貫いている」という点である。
多くの印度料理店やカレーショップで、ベジタリアンメニューを目にすることはある。
だが、それは「選択肢としての菜食主義」であって、献立の頁をめくると香ばしい色のタンドリーチキンや骨付き肉のカレーなどがすぐ顔を覗かせる。
ノンベジタリアンメニューの方が肉の種類や調理法によってバリエーションを出しやすく、客の満足度もそこから生まれやすいからであろう。
ところが、ナタラジには印度料理店に付き物のタンドリーチキンなどの肉料理は献立から排している。
それだけであれば主義主張を持つ料理店で稀に見かけることもあるが、ナタラジが際立った存在であるのは「その制約を逆に楽しむかのように工夫で補っている」ところである。


その精神を代表し、一番有名なのがナタラジカレーである。
予備知識なしに、口へとカレーの具材を放り込むと、ほぼ間違いなく肉の塊が調理されているかのような錯覚に陥る。
肉が入っていないはずのベジタリアン料理店で、背徳にも近い味が甘美に口の中で溶けていく。
種明かしを先にすると、大豆グルテンを固めてカレーに合った味付けをして、肉に近い食感を用意したのである。
ナタラジカレーは辛口で食べ放題メニューにはないが、訪れたときにカレー・ビュッフェの選択肢に、中辛でこの大豆グルテンが入ったカレーが用意されていた。
辛いカレーをどうしてもというのであれば前者を注文するしかないが(これはこれで美味しい)、やはりコストパフォーマンスが高くお薦めなのはカレービュッフェである。


夜のメニューは、残念ながら食したことはない。
だが、昼のメニューからそのクオリティの高さは十分伺える。
カレーが複数種類食べ放題の印度料理屋は多いが、肉が異なるだけでカレーそのものの味はさほど違わない、ということも少なくない。
また、辛さや甘さのグラデーションが極端で、食の好みによっては4種のうち実際美味しく食べられるのは2種だけということも多い。
そうした店では、結局1つの味を多く摂り込むことになり、満足感よりも飽食感を味わうこととなる。
それに対し、ナタラジは4種の日替わりカレーのどれもが個性的な味であり、辛さではなく味の違いを主体として楽しむことができる。
4種の名前を控えてこなかったのは残念だが、先の大豆グルテンの入ったカレー、林檎などのフルーツも入った甘口のカレー、ダル豆のカレー、茸か何かのコルマカレーと、全部が全部美味しかった。


ナンは、天然酵母の炭火焼である。
サフランライスよりも、この店はナンの方がお薦めである。
サラダもドレッシングが3種類から選べ、自家製の個性的な味のものもある。
魔法瓶に入った珈琲はカレーによく合い美味しいが、紅茶はミントか何かの癖がある香りがあり、好みが分かれるかもしれない。
他に、ヨーグルトか何かのデザートがあったはずだが、今思い出すことができない。
帰宅後写真を探してみて、見つかるようなら追記してみたい。


多くの料理を口にし、味わい、堪能して、平日のみであるが税込みで1000円である。
味と内容を考えると、これは素晴らしい。
不思議なのは、店を後にするときに、あれだけ胃に詰め込んだはずなのに苦しさが全くないことである。
食べ放題の店はつい盛りすぎてしまい、食後食べ物を見るのも匂いを嗅ぐのも嫌になることがあるものである。
元を取ろうとするばかりに体も苦しく、食後に飛び跳ねて胸の苦しさを和らげようとしたり、顔を何度も洗って小さな頭痛を抑えようとしたりする経験は自分以外にもあるのではないかと思う。
だが、ナタラジの食後はそれがない。
肉の油は当然含まれておらず、天然の菜種油で代用している。
また、量を食するのではなく種類を味わったという満足感が、体に心地よさをもたらしているのかもしれない。
さすがに、近くの店の仏蘭西菓子を別腹に入れようとまでは考えなかったが、普通に横を通り味を想像することはできた。


本来、毎日足を運ぶわけでもない料理で「健康」を論じることは乱暴かもしれない。
だが、直感的にナタラジの料理のような食生活を続けることは、体に優しいのではないかと感じる。
「一口食して美味しく感じる」料理でなく、「食後の優しい余韻を大切にする」料理を提供する料理店が、この店の後に続いて現れていくことを期待したい。


http://www.nataraj.co.jp/



原マスミバンドライブ/吉祥寺S.P.C.(10/05/20)

原マスミ[vo,g],近藤達郎[key,acc],堀越信泰[g],楠均[drs],内田ken太郎[b]


1.ムー
2.夕月
3.千年に一人
4.ずっと君が好きだった
5.血と皿
6.約束の満月
7.イナフ
8.空
9.夜の幸


10.も・いちど
11.悲しいのはいやだ
12.フトンメイキン
13.ステレオ
14.海のふた
15.アイス!アイス!アイス!
16.ブレーメン
17.教室


18.さよなら


19.トラキアの女


心を亡ぼす長い日々が、やっとのことで通り過ぎた。
twitterはともかく、今月になって一度もブログを更新できていなかったので、ライブレポも1ヶ月以上過ぎたものになってしまった。
本当はできるだけライブの日に近い日に日付をごまかして更新しようと考えたが、いつにしてよいかも分からないので、そのままの日付で更新することにした。
この1ヶ月、足を運んだライブはそこまで数多くないが、外れなしの印象的なものばかりである。
冬から春にかけての手付かずのレポもあるが、とりあえず近いほうから少しずつ、忘れないうちに記しておきたい。



残念ながら「サードクラス企画~素敵なお祭り」とは日が被ってしまったが、外せない予定とは被るものが何もなく、いつものように吉祥寺に向かう。
開場時間には遅れたものの、日程的に前にも後にも原マスミ出演のライブやイベントがあったせいか、椅子は大変ゆったりとした配置で並べられており、よい位置で観ることはできた。
この日は開演近くの時刻に土砂降りの雨が降っていたらしく(もう既に中にいたので分からないが)、当日券予定の来場を見送った観客が多かったのではないかと思われる。
舞台上には青いgodinギターだけが置かれ、黒いギターはなかった。
あとは、いつものメンバーを予想させる見慣れた楽器が並び、開演を待つのみであった。


「ムー」の、特徴ある半音単位の動きを持つシンセの響きから、この日のステージは始まる。
堀越信泰と内田ken太郎は、帽子を被っていた。
フロント側に4つくらいベルトが付いた、上着のような白いシャツを着て原マスミが登場する。
毎回どこか凝った市販されていないようなデザインの服を羽織っているので、自作の服なのではないかという気がする。
曲に話を戻すと、右手一本で近藤達郎の奏でるシンセの響きと、透明感ある堀越信泰の高音のギターの音色が幻想性を生み出す。
「ムー」は他の原マスミ作品よりも、どこか童話的というか絵本的というか、映像的な世界が最優先で伝わってくる印象がある。
過去のリストを見てみると、「ムー」は最初の方に置かれていることが多いようだが、確かに1曲目から会場の空気を変える力は持つ。
「夕月」は、バンドアレンジで演奏されるのは2回目である。
この曲については、全編通して流れるベースパターンが底流にあり、その部分がやはり印象に残るが、他の楽器の工夫についてもこの日は確認することができた。
その後、「千年に一人」「ずっと君が好きだった」と、定番曲が続く。


「血と皿」も、「夕月」同様に最近バンドアレンジがなされ、弾き語り以外でも聴くことができるようになった。
ただ、まだ現在のままのアレンジの場合、原曲の選られた言葉の口どけが、ギター1本で演奏されたときほど魅力的なものには感じられない。
弾き語りの場合、前奏もなく静寂な響きの中、ただただ食卓や街の映像だけがイメージの中でくっきりと浮かび上がってくる。
1番が終わり間奏の導入の小セーハで1フレットずつ上がるところで、絵本のページは大きくめくられ、場面が大きく転換する。
「心配」や「月面から目薬」のような凝りに凝った奏法が織り込まれているわけではないが、「この歌詞にはこの伴奏ではなくてはならない」と言い切れるほど、歌詞を大きく引き立たせる効果を持っている。
「血と皿」のバンドアレンジは、「食事をしてる」の部分の音の構成のバランスは非常によい。
最初と最後でこの部分が出てくるのは今後も歓迎であり、むしろこの響きに体を委ねたい。
だが、この後続く重低音のベースラインやドラムのビート感は、この曲を安定させすぎているような気がしてならない。
実際、バンドアレンジの「血と皿」はカウチに腰を下ろしてテレビを見るかのように、安心して聴くことができる。
しかし、「血と皿」が聴き手の心を惹きつけて止まないのは、体が引き裂かれそうになるほどの不安定な状態の心を、内面を覗き込んだかのように緻密に描写し、それをその状態のまますぐ傍で全面的に受容しているためであろう。
「君の好きなようにしていいよ 笑ってる君の顔が好きだよ」「信号機の横の凹んだところで しゃがみこんでしまったの」などといった部分は、ロージャス流クライエント中心療法で言うところの「共感的理解」「非指示的」などにも結びついている。
では、もし自分が「血と皿」のアレンジを行うなら、どうしたいだろうか。
5弦ベースとしての重低音よりも、フレットレスベースとしての流動感を強調したい。
ドラムも、ビートが全て失われる部分を設けたい。
そして、最初と最後とに安定した主題で収束させ、不安定な心とのコントラストを付けたい。
おそらく、アレンジされて間もないこの曲は、今後様々な試行が施されていくであろう。
その際に、できれば「不安定な内面」を汲み取る音で構成されていくことを期待したい。
一素人の勝手な感想であるが、やはりバンドアレンジでも「安心して聴くことのできない」感覚をこの曲には求めてしまう。


「約束の満月」は、普段にも増して近藤達郎のピアノの音が美しかった。
何度書いたか分からないが、流れるように演奏されるピアノの音にフレットレスベースのスライドされて動く音が重なり、数あるバンドアレンジの中でもこの曲は完成されたアレンジや演奏を味わうことができる。
ただ、照明が多少幻想を損なうところがあり、客電の方が強く感じられるところがあった。
この前の「血と皿」の照明も赤のスポットであったが、「人間の秘密」でよくやる全体を赤くする照明の方が効果的ではないかとも感じた。


曲後、メンバーの指摘に、「今しようと思ったの」と口に出した後、godinギターに手をかけ「イナフ」の前奏の、4指で和音を爪弾く部分を演奏しながら他のメンバーの音が加わっていく。
マンダラグループでいつも感心するのは、ギターなどのタッチの音が多少荒く感じられても、曲中で改善されていき後半になると最初からその音で演奏されていたかのような響きに収束している点である。
おそらく、途中で耳が慣れたという次元ではなく、PAが職人的な作業を行っているのであろう。
この日の照明は満足ではなかったが、PAはいつも素晴らしい。
「イナフ」に話を戻すと、堀越信泰のギター間奏の高音のアドリブ部分が印象的であった(とメモ書きには記してあった)。


「空」に入るとき、godinギターを置こうとするが、すぐさま内田ken太郎に制止される。
原マスミの歌詞は、どこか鳥瞰的な、人間や世界など全体に光を当てているところが感じられるが、「空」は等身大の人間の視点そのものである。
「ムー」で絵本的な世界に連れてこられた聴衆は、ここで現在生きている世界に再度引き戻されることとなる。
だが、そこにある現実は、いわゆるルーティンな見慣れた日常光景ではない。
生と死との根幹に関わる部分を見据えた上で初めて辿り着ける、そんな境地としての光景である。
「空」だけは、どんなに他の楽器の演奏が見事でも歌詞を一言一句噛み締めてしまうのは、そこに象徴化された普遍性が存在するからだと考える。
あくまでも、視点は一人称の個人からのものであり、用いられる言葉も日常生活用品の延長線上であるが、歌われる内容は生活の中でふと我に返ったときに誰しも一度は思い耽るものである。
「いつか返す日が来る」の実感の余韻は長い後奏に反映され、見つめなおした後の残りの人生の決意がその時間の中で消化されていく。


感動的な演奏が終わると、「曲順、堀越信泰」と、今回も曲順は堀越信泰が考えてきたことを、こと大げさに紹介する。
堀越信泰は、以前は寡黙な職人といった風情であったが、復帰後はある意味近藤達郎以上に積極的に関わっている。
相対的に近藤達郎が丸くなった印象があり、10年ぐらい前によく観られた神経質そうな表情でピアノを奏でる場面はあまり見かけなくなっている。


「夜の幸」も、「空」同様に原マスミの言葉が直接伝わってくる。
表現者は歌をこしらえ五線紙をなぞって終わりではない、ということが、原マスミの歌を聴くとつくづく感じられる。
小さなささやきも声の抑揚も、優れた宣教師のメッセージのように精神に働きかけ、文字や録音物に接するのとは別格の高揚感をもたらす。
朗読にも言えるが、言葉に生命が吹き込まれ、言葉が一つの生き物のように聴き手に働きかける。
おそらく、どこの誰が「夜の幸」をカバーして歌っても、原マスミのそれとは決して同じにはならない、
だからこそ、一度でも多くこの耳に刻印付けておきたいと感じる。


後半は衣装替えがあり、ノーマルな白い襟のあるシャツになっていた(とメモには記してある)。
「人間の秘密」からの連続の印象が強い「も・いちど」から始まるのは珍しい。
「も・いちど」はアレンジが楽しく、アコーディオンの響きや踊りたくなるようなドラムのリズムなど、聴き所は多い。
最初のコーラス2人のマイクが入っていなかったようだが、すぐ修正された。
この曲か次の「悲しいのはいやだ」か忘れたが、ギターのカッティングやドラムソロが聴かれた。


「フトンメイキン」は、やはりバンドライブの醍醐味を感じる。
弾き語りライブでは観られない、シュールレアリスムス的な鮮やかな色彩が、この編成では存在する。
意外だったのが、中間部で近藤達郎の生ピアノの演奏が入らなかったことである。
毎回完全に同じ編曲が用いられているのではないということが、こうしたところから確認できる。
個人的には、電気楽器の音の中にごまかしの効かない生ピアノの即興的不協和音が入った方が、より非現実的なリアリティを感じられるようには思える。
「ステレオ」は、「フトンメイキン」ほどは歌詞のインパクトが強くないが(「日本料理」も出てこない)、詩人としてのセンスは見事である。
「飲み物のように」「映画が街から飛び出して」などといった言葉は、初めて曲を耳にする客にも惹き付かせるものがあるはずである。
楠均の乾いたドラムの響きはいつ聴いてもこの曲にマッチしており、曲に華を添える。
「海のふた」は、一度パスカルズのバージョンを耳にしたせいか、このバンドバージョンの特徴もより感じられるようになった。
導入部分は編曲もおとなしく、後半の盛り上がりとのコントラストを強調させる。
エンディング直前の三拍子の間奏で全開にして、それにより最後の静けさがまた引き立つ。
パスカルズバージョンもなかなかよかったのだが、聴き慣れたバージョンもやはりよくできている。


「アイス!アイス!アイス!」で前曲で張り巡らされた夜が明け、ボトルネックの高音とともに白い雲が流れる。
「ブレーメン」も定番曲で、プログラムの終了がそろそろ予感される。
そして、「教室なう」と紹介し、本編最後の曲である「教室」が演奏される。
原マスミがtwitterをしているかは分からないが、どこかで情報は仕入れているらしい(ちなみに近藤達郎のtwitterアカウントは確認できる)。
最後に「ロッケンロール」と叫びたいからか、「教室」は本編最後の定番曲となりつつあるが、「君」とは誰のことなのであろうか。
「僕は学ぶよ」「君に会う日のために」の「君」は、特定の個人のことと考えるには、あまりに取って付けた感がありすぎる。
「教室」自体が、「震えながら見た流星」「室町、大都市、廃墟などへの旅」などの、義務教育を離れた人生上の経験そのものを「教室」と当てており、今後もこの「教室」での経験を糧に学び続けていこうという決意の表明がある。
では、そのようなことを学び続け、どのような「君」と出会うというのであろう。
ありきたりな言葉を用いれば、「真実」「神」「人生の終着点」などになるのであろうが、正直そう単純な言葉で言い表せるものではない気がする。
もっとつかみ所がなく、もっと包括的な存在を「君」という言葉に置換していると考えたが、いずれまた考え直してみたい。


アンコールで、この置き位置に最も相応しいと思われる「さよなら」が演奏される。
この曲が作られたとき、きっとアンコールの定番曲として定着するであろうと感じたものであったが、実際は数年後「ブレーメン」が完成するとそうはならなくなった。
「ブレーメン」が音楽的にはAメロからCメロまである充実した構成であるのに対し、「さよなら」はもう少しシンプルな構成になっているためかもしれない。
だが、「さよなら」のテーマは「別れ」ではなく「再会の約束」にあり、楽しかったライブに「別れ」を告げつつも、「カレンダーに印をつけて」次のライブを待ち望む心を代弁しており、この位置に置かれるにはやはり相応しいと思える。


再度のアンコールで、再度の登場となる。
どうも最後にアカペラの「ウイミン」を考えていたようだが、「トラキアの女」のタイトルを何故か口にしてしまい、一部の客席からも支持を受けて意外な曲で締めることとなった。
予定されていた曲でないので楽譜もないメンバーもいたはずだが、全くそれを感じさせない演奏であった。
この調子なら、オールリクエストバンドライブも可能ではないかと考えてしまう。
なお、遠藤賢司と共演したとき、お互い週3回ぐらい走っているという話題が出たらしい。
そういえば、友部正人も国内外でフルマラソンを走っている。
この日、「走っていないとバンドライブのステージをこなせない」旨の言葉があったが、昔と変わらぬステージを維持しているのは日頃の陰の努力があるからだと、今更ながらに理解した。


吉祥寺駅までの帰路で、この日のサードクラス企画のライブが素晴らしかった旨のメールが届く。
原マスミもやはり素晴らしかった旨の返信をし、次に同じようなライブのバッティングがあっても同じ選択をするであろうと思いながら改札を抜けた。



サード・クラス企画~素敵なお祭り/新高円寺クラブライナー(10/05/20)

出演:
サード・クラス
ピラニアンズ(リトルピラ:ピアニカ前田+塚本功+長山雄治)
トモフスキーのお絵描き教室



(TOMOVSKY)
お絵かき教室


(ピラニアンズ)
全8曲
リスト調査中
「チキンズパレード」「サボテンマン」「オスマン帝国の逆襲」など


(サード・クラス)
1.どたんばのパワー
2.起きる理由
3.男の事情
4.やさしさの中のおせっかい
5.めめしいときの歌
6.この頃
7.あわせたいあわせたい
8.駒場北四丁目


(TOMOVSKY&ワタナベイビー)
ショパンにくびったけ
(HBT)
かんちがいの海
(ほぼ全員)
ワルクナイヨワクナイ
ある一日



原マスミバンドライブと日程が被ってしまい、行きたかったが行けなかったライブのレポである(長くなるはずの原マスミレポは後回し)。
当然、会場には足を運んでいないが、代わりに密偵を手配し、まるで観てきたかのように記すことにする(密偵レポ第2弾)。
今回のライブは全編撮影されており、なおかつとても充実したものだったとのことなので、DVDなどで音源化されることを祈念してのことである。
なお、曲抜けや不完全な情報も多いと思われるが、確認できたものから随時修正を加えていきたい。


最初の登場は、TOMOVSKYでお絵かき教室の企画であった。
詳細は分からぬが、「月」の絵を描いたこと、歌を歌いながら描いていたらしいことは、伝え聞いた。
最後は観客にプレゼントされたらしいが、もう少し情報があれば後日追記したい。


第2部はドラムなし編成のピラニアンズ(リトルピラ)で、メインのピアニカ前田の他に、小島麻由美の後ろでよく演奏している二人、ギターの塚本功とウッドベースの長山雄治との三人編成であった。
ピアニカ前田の髪は、公共広告機構のCMに出演していたときよりも白いものが混じるようになっており、昔とは別な意味で年齢は不詳である。
はかまだ卓同様の「鬼太郎」的な髪型だったようで、「今回呼ばれたのは、髪型が理由ではないか」との感想が語られた。
実際は、はかまだ卓が純粋にピラニアンズのファンで、演奏を聴かせたかったかららしい。
関係ないが、ピアニカ前田はレッドクロスのサードクラスワンマンになぜか訪れている。
おそらく、そのときに今回の話が持ち上がったのではないかと考えているが、もともとサードクラスの音楽に関心があったのか、謎である。
また、第1部の「お絵描き教室」にも触れ、「これなら自分も教室ができる」ようなことを述べていたらしい。
何でも、起き上がりこぼしをよく作っているらしく、公式ページにはメンバー全員の似顔絵付きのこぼしが載っている(http://www.suzakmusik.com/piranhans/ )。


ワタナベイビーのブログで知って意外だったのは、ギターの塚本功をワタナベイビーはアマチュア時代から知っていて大ファンだったということである(http://ameblo.jp/watanababy-blog/entry-10540677591.html
ちょいワル風味の外観からは意外だったが、実はこの次の日に40歳の誕生日を迎え、30代最後の演奏であった(ワタナベイビーより年下には見えなかった)。
塚本功の経歴は長く、小島麻由美は「19歳の頃から知っている」とのことで、未成年の頃から第一線で活躍していたようである。
塚本功の一番の聴き所は見事なギターのカッティングで、小島麻由美やピラニアンズで耳にすることがあれば、ぜひ注目してほしい。
おそらく、この日もクラブライナーの空間を、打楽器がないことも忘れさせるカッティングの音で刻み込んでいたはずである。


曲は全部で8曲演奏されて、どれも素晴らしかったらしい。
最初は、多分「チキンズパレード」で始まっている(確認は取れないが)。
NHK「スタジオパークからこんにちは」の、初代オープニングソングとして親しまれた曲である。
ファーストアルバム「ピラニアンズ(バンド名とタイトルが同一)」当時では、「日本一音の小さいバンド」といった紹介があった気がするが、それを感じさせない元気さがある。
セカンドアルバムと同タイトルの「サボテンマン」が、一番素晴らしかったらしい(どう素晴らしかったかは確認していない)。
「ピラニアンズ」は、440とかJIROKICHIとか個人的に馴染みのあるライブハウスでよく演奏している(柳原陽一郎もよく使う)。
高円寺のJIROKICHIは音が地上の入口まで上がってくるが、たまたまウッドベースとギターでよい雰囲気の音に誘われてふらっと入り込んだ客が、いきなり「オスマン帝国の逆襲」のピアニカの音が入り込んで仰天したという。


ピアニカ前田のピアニカは、やはり超絶的に上手かったらしい。
はじめにきよしのピアニカも相当上手かったらしい(これも密偵レポを書いておくべきであったか)が、はじめにきよしは2人編成でギターかノコギリかを相方が演奏している。
NHK教育「ふしぎだいすき」のテーマソングのような前衛的な響きを聴かせる曲もあるが(なお、はじめにきよしの後釜の曲が原マスミで、こちらもよい)、基本的には勉強のBGMにしても邪魔にならないおとなしめのものが多い。
だが、ピラニアンズはウッドベースが入る分、「オスマン帝国の逆襲」的なBGMにならない(勉強の邪魔になる)世界も構築されている。
はじめにきよしは2種類(もう1種類は「アンデス」だったか、谷山浩子の「まもるくん」でも石井AQがホイッスル的な音をこれで出していた)を使い分けていたらしいが、ピアニカ前田は3種類使い分けていたらしい。
3種類にどのような相違があるのかは分からないが、いずれ自分でも演奏を聴く機会があれば、これについても記しておきたい。


第3部のサードクラスだが、ワタナベイビーのベースはかなり上達したらしい。
2年続けて知久寿焼バースディライブでアンプから1曲音が出ない(電源オフ、繋がっていないなど)アクシデントを起こしたが、演奏そのものは相当弾き込んでいると思われる出来であった(ホフディランの練習そっちのけで一日ベースを練習しているのではないかとさえ思わせる)。
ホフディランのバックがやはりベースの名手であるので、それも一つの原因でないかと思うが、正直4人サードクラスを聴くなら5人サードクラスの日を選びたいと思われるほどの演奏効果がある。
この日はこの組み合わせでないと演奏されない「恋かしら」はリストになかったようだが、7月7日のワンマンでは聴けるものと期待したい。


はかまだ卓のMCでは、コンタクトレンズの話が出た。
子どもの頃メガネをかけてからかわれたのがトラウマとなり、今でもコンタクトしか用いないそうである。
演奏面について言及できないのが残念だが、1・7以外は比較的しっとりした曲が多く(2・3がどんな曲だったかパッと出てこないが)、4~6あたりでサードクラスらしい世界が出されたのではないかと予想している。


最後は、お待ちかねのセッションになる。
「ショパンにくびったけ」は、ショパンの「別れの曲」に歌詩をつけたものであり、TOMOVSKYとワタナベイビーにより演奏される。
次のHBTは「はかまだ・ベイビー・トモフ」の略で、「かんちがいの海」でワタナベイビーはベースをTOMOVSKYはドラムを担当した。
そして、ほぼ全員舞台に上がり「ワルクナイヨワクナイ」が演奏された。
「ほぼ」というのは、ウッドベースの長山雄治だけは入っていなかったためで、会場のスペースのせいかベースが2人要らないせいか準備がままならなかったせいかは分からない。
だが、ピアニカもカッティングギターも入る編成は圧巻だったらしく、「行って本当によかった」との密偵の言があった。
予定にはなかった「ある一日」が最後に演奏されたが、ワンマンを観たピアニカ前田はともかく、塚本功は知らない曲のはずでぶっつけであったと思われる。
だが、そんなことは微塵も感じさせないプロフェッショナルな演奏がそこにあり、「ある一日」を「特別な一日」に変える力を加えた。


重ね重ね、このライブが観られなかったのは残念であるが(とはいえ、原マスミもよいライブだった、こちらは個人的には譲れない)、音源化されてより多くの耳に伝わっていくことを願って止まない。


柳原陽一郎 20th Anniversary Live ほとんど全曲マンスリーライブ「LADIES AND GENTLEMEN!~ウシはなんでも知っている」の頃/下北沢440(10/05/05)
鬼怒無月(g)、水谷浩章(b)、外山明(d)


1.ファミリープラン
2.回れ糸車
3.19の嫁
4.GTI16V
5.サボテンちゃん
6.レイ
7.愛のSOLEA


8.辛い日々はこりごりだ
9.夏がきたんです
10.自転車道路まで
11.恋はかげろう
12.おろかな日々
13.泣いているのは君だけじゃないよ
14.ブルースを捧ぐ
15.ゲームの規則
16.ファー・フロム・ホーム


17.いたちの森
18.航海日誌
19.お経
20.5963



5ヶ月間続いた、豪華なバックの全曲ライブが終了した。
第5回は「最近の柳原」との副題が付いているが、曲によっては全然「最近」でないくらい演奏されていないものも多い。
直近のアルバム2枚ではあるが、ウェアハウスとの共作の曲目はあまり耳にする機会がなかった。



今回一番嬉しかったのは、水谷浩章がエレキベースでなく全曲コントラバスで演奏を行ったことである。
何年か前、一番演奏に興味を引かれ注目していたプレイヤーは、間違いなく水谷浩章であった。
柳原陽一郎のライブであるにも拘らず視線は大きな楽器に釘付けになり、バックを務めているというだけで柳原陽一郎以外のライブにも足を運んだ。
一番その本領が発揮される場はphonoliteであろうが、普通のコントラバスではありえない演奏が幾箇所にも見られ、言葉を絶する。
「新宿pit in」などでの3daysがあれば足を運んでもらうのが一番よいが、最近のphoniliteの演奏を知らない自分には多くを語る資格が残念ながらない。


「ファミリープラン」からスタートするが、聴き慣れたスリーフィンガーと水谷浩章のボーイングの組み合わせにはホッとさせられる。
この「ファミリープラン」と「泣いているのは君だけじゃないよ」あたりが、柳原陽一郎の現在のモードへの切替になっている曲だと思われるが、この曲あたりにはまだ、細かい言葉の選択(「流線型」「冷蔵庫」あたり)がかなり意識されていて興味深い
「回れ糸車」もよく演奏される曲であり、鬼怒無月のギターがしっとりと柔らかな高音を奏でる。
だが、この曲に関しては加藤一誠のギターバージョンも悪くない。
スティール弦の硬く済んだ響きで何度も入るチョーキングは、清涼溢れる要素をこの曲に吹き込んでくれる。


ここで、いよいよウェアハウスとの共演曲が演奏される。
日程的な相性が悪く、「ウエアハウスと柳原」は東大で一度演奏されたのを聴いただけで、実はお金を落としたことがない。
だが、そのときの印象は鬼怒無月のギターが完璧に出る音も出ない音も調整されていて、「あるべきところに正確に置かれている」といったものであった。
それを強く感じたのは「GTI16V」だったが、この日も鬼怒無月のギターは後奏も含めて無駄のない完璧な音を刻印していった。
「19の嫁」の方は、確か内容がノンフィクションであった記憶があるが、ウェアハウスとの共作についてはいわゆる「現在のモード」からこぼれてしまった曲を落穂拾いのように汲み取っているのが面白い。
アルバムとしての統一感より、こうした「雑多な」ところが、柳原陽一郎の魅力をより多く引き出していると思う。
なお、ウェアハウスの高良久美子を通じて鬼怒無月と初めて面したとき、鬼怒無月は「私がギターの神、鬼怒です」と自己紹介したという(真偽不明)。
また、水谷浩章はミュージシャンにしては珍しく、銀座に居を構えているらしい。


「サボテンちゃん」は、音楽的には水谷浩章の色彩が強い。
この曲のためだけにフルートを一人増やして披露されたPITINでの演奏は、今でも印象に残る。
アイロニカルな歌詞なのにこれだけ柔らかな印象になっているのは、ひとえに水谷浩章の貢献によるのであろう。
「レイ」は、久々に聴けた名曲である。
柴草玲の曲で「ねぐら」という言葉が用いられていて、その言葉を使うために創られた曲であったと記憶しているが、特にコメントは曲後にはなかった。
モード的にはトンネルを抜け切った感のある現在のモードより閉塞感のある以前のモードに属すると思われるが、それまでのリストの流れを完全にリセットするだけの力のある名曲なので、時折で構わないので演奏してほしい一曲である。
ちなみにウェアハウスとの共演では、大坪寛彦が前奏(別曲?)で笛を吹いた後で曲に入っていた記憶があるが、ppのガットの響きと抑えた歌唱でウェアハウス版と同様の静かな雰囲気を醸し出していた。


「愛のSOLEA」で、充実した第1部が終了する。
「ファミリープラン」よりシンプルな歌詞、シンプルなメッセージがテーマである。
柳原陽一郎の一つの到達点ではあるが、同時に通過点の一つでもあると、個人的には考えている。


第2部が開始となり、今回は最初から3人のバックも登場する。
「辛い日々はこりごりさ」は、鬼怒無月がこの曲のためだけにドブロを用意してきており、独自の遠くから聴こえてくるような撥弦の調べが、シンプルな曲調とメッセージに淡い背景色を用意する。
個人的には、この曲は初聴であったかもしれない。
「夏が来たんです」は、レイトショーの常連曲で、確か旧題が「夕立の歌」だったと記憶している。
時季的にはちょうどよい曲である。
「自転車道路まで」は、曲が創られたとき以来、久しぶりに聴く。
当時交流の多かったジャズ系のミュージシャンが変拍子を多く好んでいたため、柳原陽一郎自身が取り組んだ曲だと記憶している。
変拍子と言えば「テイクファイブ」に代表される5拍子が有名だが、実はギター1本で演奏されたときには変拍子という感じはあまりしなかった。
水谷浩章の八分音符で細かく刻みながら(八分音符で「3・1・2・1・1・1・1」の刻み)の重低音があって、初めて「らしくなる」曲である。
「シャランラーララーララン」のコーラスを要求するが、「ジャバラジャバラバ」ほど容易ではなく、会場一体のコーラスにはならない。
個人的には、この曲が2部で一番楽しめた。


ここで、ピットインで演奏することが高いステータスを持つことと考えていたことや、phonoliteのゲストでステージに上がることができたときの感激などを語っていた。
ピットインのために用意したらしい「恋はかげろう」が演奏されるが、やはり鬼怒無月のギターが入ると主役が持っていかれてしまうところがある。
このシリーズを通して、鬼怒無月のファンは随分増えたのではないだろうか。
「おろかな日々」の前に即興で何か歌おうとするが、「何にも出てこない」という旨の即興歌を歌うに留められた。
このあたりはもう完全に現在のモードで、安定した演奏である。


ここで、終曲かアンコールかと思われた2曲が意外にも続くことになる。
「ブルースを捧ぐ」は、非常によかった。
一時期も大変素晴らしく感じていたこともあったが、この曲を含め毎回演奏する曲が増えてきた時期があり、「ブルースを捧ぐ」自体のありがたみもあまり感じられなくなっていた。
今回、豪華なメンバーでなおかつ久々に聴いたこともあり、純粋にこの曲に浸ることができた。
「泣いているのは君だけじゃないよ」も同様であり、本当はここで一旦終了させてもよかったのかもしれない。
どうした意向か、「ゲームの規則」が演奏され、最後はインストで「Far From Home」で静かに終了する。


アンコールは、シリーズ全曲の中からバックの3人が選んだ曲を1曲ずつ演奏した。
「いたちの森」「航海日誌」は、どちらもしっとりした曲だが、水谷浩章と外山明とどちらがどちらを選んだのかは分からなかった。
どちらもしっとりした曲で、前者は「私のストロベリーフィールズフォーエバー」だと述べていた。
「お経」が演奏されたのは、純粋に嬉しい。
この曲とコントラバスの相性は抜群によく、第1回も「できればコントラバスで聴きたかった」と考えていたからである。
だが、この曲を希望したのは鬼怒無月だったという。
「この曲のコーラスをやらせてくれなければもう付き合いたくない」という強い希望があったとのことだったので、てっきり「だるまだまるな」あたりだと考えていたので意外であった。
この曲にコーラスらしいコーラスがあっただろうか、と考えていたが、演奏されて謎は解けた。
「坊主だよ、坊主」の部分ではなく、最後の方に連続して出てくる「ボボボボボボ」の六連符が歌いたかったのである。
柔らかな高音が印象的だった鬼怒無月のコーラスだったが、この曲のこの部分のみに関しては力強さが感じ取られた。


最後は「5963」で、長かったこのシリーズも本当に終了する。
確か「one take ok!」時代に創られた曲のはずだが、マチルダロドリゲスとの共作アルバムでは選ばれなかった。
このままお蔵入りするのではないかというぐらい演奏されない期間があったが、むしろ当時のモードよりも現在のモードに近い歌詞であるためか、最新アルバムでまさかの音源化となった。
曲のエンディングでは「~、ごくろうさんでございます」と、周囲のスタッフなどの労をねぎらい、終了した。


ちなみに、皆勤賞は丸いマグネット2つと手書きのサインのある小さな表彰状であった。
もっともカードの裏に住所なども記載したので、他に何か送られてくるのかもしれないが、今のところ上記のものだけである。


全5回のシリーズが終わり、演奏的には全てが満足なステージであったはずなのだが、何故か一片の物寂しさが残る。
おそらく、それは「これだけのメンバーのステージを聴いてしまったら、今後の普通のステージが物足りなく感じられてしまうのではないか」という不安に起因しているのであろう。
だが、それは多分問題ない。
以前、水谷シリーズで何回もステージをこなした後、ソロのリクエストライブを演ったが、心配など吹っ飛ぶ充実したステージであった。
それでも、今後何を楽しみに柳原陽一郎ライブに足を運んだらよいのかという想いはある。
ライブパレードの頃は、毎回何が飛び出すか分からない楽しみがあった(双葉双一もここら辺に近い)。
440中心のライブに移ってからは、毎回質の高い音楽の再構成を期待できていた。
だが、最近はその時代のモードの曲を磨きこんでいく傾向がある。
今回、鬼怒無月がほとんどの曲で「完成形」レベルまで磨きこんだところがあるので、「これ以上」を期待することさえ申し訳ない気がする。。
今後も、バンド・弾き語りともライブに足を運ぶとは思うが、何を期待してよいか難しいところである。



やり直しだョ! 全員集合/西荻窪サンジャック(10/04/27)
出演:山田庵巳、双葉双一、日比谷カタン


(山田庵巳)
1.模範的な黒
2.ほしあかりつきあかり
3.砂の道
4.機械仕掛けの宇宙(前半)
5.羊のアンソニー
6.ミルクティ
7.旭日をつれて
8.機械仕掛けの宇宙(後半)
9.赤い月
10.命の傍らに


(双葉双一)
1.夢のつづき
2.ベッド上上機嫌 
3.涙の小鳥
4.あそぼうよ
5.ミルク・ミー
6.レベル5
7.お嬢さん気をつけて
8.イン・ベッド 
9.星の上


(日比谷カタン)
1.蟲愛ずる姫君たちへ
2.窃視108度
3.体液がクロノグラフ
4.ウスロヴノスチの切符切り
5.不和リン
6.ヲマヂナイ
7.不和リン(エンディング部分)
8.ベビースキンの世界紀行
9.終末のひととき
10.対話の可能性
11.あっちの空っていいな



2月に行われた「ひくつ系音楽会vol.2」で、なぜか日比谷カタンが出演キャンセルになったのは以前記した。
その理由が何も述べられていなかったので頭の中で想像は膨らみ、温厚そうなサンジャックのマスターと細身の日比谷カタンが、ギャグマンガのワンシーンのようにドタバタと取っ組み合いをする図が、何度も頭の中でリフレインされていた。
結局、めでたくこうして仕切り直しが行われ、類型の少ない音楽家ばかりの催しに足を運ぶことができた。


第1部は山田庵巳であるが、直近のライブで用いられたグッズはこの日は使われなかった。
衣装は普段よりもステージ衣装的な風情で、長めに折り返した袖の裏地がチェックになっている上着とくるぶしが見えない長さの黒いショートブーツ、キャップでなくハットタイプの帽子と、若干いつもよりフォーマル的ではあった。
軽く調弦を行った後、いつものように「模範的な黒」から演奏が始まる。
歌は冒頭の極端なppからスポルツァンドのffが入り、ギターもトレモロや速いパッセージがあり、この曲を最初に演奏しておくと後の曲にもよい影響があるためこの位置に置かれているのであろう。
「ほしあかりつきあかり」は、四分音符主体のゆったりしたアルペジオで、ごまかしが利かないボーカルだけが浮かび上がる。
間奏の間に、「こんなポジションは嫌なんですけれども」との前置きが入り、今回の企画のタイトルが告げられる。
「やり直しだよ!」の掛け声の後に、観客の「全員集合」のまばらな声が返ってきて、「チャンスはまだ何度かある」とこの後の出演者も同様の儀式を行う旨の告知があった。
その後、何事もなかったようにまた澄んだ声で歌が始まるところも、いつもながら職人魂を感じさせる。
友人が犬を飼い始めて、「私は多くの男性と知り合うたびに犬が好きになる」という詩を思い出したことを述べるが、客席からは反応がない。
「砂の道」の間奏部分でもこの一説を繰り返すが、やはり反応はなかった。


そして、「機械仕掛けの宇宙」が演奏される。
「名もないことで有名な」哀れな男性が、2人分だけの太陽を創る物語である。
大曲であり、かつ山田庵巳一番の名曲でもあろうが、曲の途中で一旦中断させ、前半と後半とに分けたのは新しい試みであった。
ちなみに青葉市子のブログでは「機械仕掛乃宇宙」「はるなつあきふゆ」といった曲名表記であるが、mixiの山田庵巳コミュニティ(http://mixi.jp/view_community.pl?id=1781262 )では「機械仕掛けの宇宙」「春夏秋冬」の表記になっている。
音源化されて出版されているわけではないのでどちらでもよいのかもしれないが、山田庵巳の演奏に関しては後者の表記で統一することにする。
歌に話を戻す。
山田庵巳は、力量のありすぎるギターと歌にばかり耳が行ってしまいがちなのであるが、歌詞についても特筆すべき点が多い。
七五調の定型的な語呂のよさを守りつつ、生活の手垢を排した言葉選びを貫き、想像力を喚起させながらも引っかかるノイズがない。
「機械仕掛けの宇宙」に関しては、「誰にも内緒だよ」の部分や呪文の「メルクリウス~」の部分など、響き自体も魅力的で何度聴いても飽きが来ない。
本来詩とは多義的なものであると昔、天沢退二郎は述べていたが、その意味で物語形式の歌は多義性に乏しく飽きが早いはずなのである。
だが、山田庵巳の物語を組み立てる一つ一つの言葉は、ありきたりの生活雑貨でなく詩的なガラス細工である。
光を浴びた透明なガラスが反射して様々な表情を見せ、飽きる前にその世界に吸い込まれ、内側から物語に浸らされるのである。


ソルの練習曲のような(「水の妖精」かもしれない)フレーズを弾き、「機械仕掛けの宇宙」を中断した後は「羊のアンソニー」が演奏される。
こんな曲がテレビのワンシーンで用いられていたら、息を呑んで惹き付けられてしまうだろう。
「好きって言えたら愛してるって言いたくなって、君の太陽を知ったら全てがほしくなって」と張り上げるところが、突き抜けるせつなさや感傷を神経シナプスに直接働きかける。
「ミルクティ」を少し弾き始めたところで、再度チューニングを行い、撥弦の響きが純化される。
この日は雨で少し肌寒かったこともあり、この「ミルクティ」や前の「羊のアンソニー」に出てくる「ホットミルク」という言葉が五感にリアリティを持って働きかける。
「ミルクティ」は初めて聴くが、やはり上品な構成である。
山田庵巳の曲は、耳障りの悪い不純物は取り除かれ、透明度が他のどの創り手よりも高い。
それでも、ゆったりしたアルペジオに、予定調和ではない和音での収束をぶつけており、高いクオリティを保ち続けている。


「いつもズボンが短くて申し訳ありません」「サンジャックはローテーションの関係でこうなってしまうんです」との言葉が入る。
だが、山田庵巳は実際はほとんどが短いズボンを穿いている。
出演前に普通のズボンを穿いていることもあるが、ステージに上がると短く縮んでいるので、おそらくメインのステージ衣装なのであろう。
そして、「旭日をつれて」で高速アルペジオに移る。
この曲が、おそらくこの日一番ギターの技量が映える曲であったと思われる。
そこで、いよいよ「機械仕掛けの宇宙」の後半が始まる。
2回同型で繰り返される伴奏フレーズも、1回目はゴルペを入れるなど変化を付けるなどの工夫があり、ギターの演奏を単なる伴奏ではなく声とギターのデュエットとして捉えているかのようであった。
ギターのキュッキュという音を鳴らして「ソラシソラシ」とポジションが上昇していくところは、哀れな青年が本当にハンドルをキコキコ回しているような軋みが感じられ効果的であった。
「この後も素晴らしいアーティストが~」「この後はただの酔っ払いとして~」「私も盛り上げたい気持ちはあるんですよ」というMCは、数日前の新宿サクトと同じ言い回しが入る。


最後は、「赤い月」の短いバージョンとのことだが、例の山田庵巳の最高傑作とも言える主題部分だけでなく短いバージョンのみ存在するフレーズも美しかった。
ショートバージョンの「赤い月」は物語形式ではないが、短い時間でもあのサビを聴けるのであれば聴く価値の高い曲である。
「命の傍らに」でしっとりと終了し、「すみませんでした」の定型句で第1部が終了する。
正直なところ「ぱぷりかぁな」や「高速バナナに飛び乗って」で終了するより物語自体の余韻が残り、それを意図するのであれば効果的であるように感じる。
第1部からクオリティの高いステージであり、このステージだけで満足してしまいそうになるが、まだ「この後も素晴らしいアーティストが」残っている。
なお、山田庵巳の次回ライブはざっと調べたところ、5月は新宿SACTの谷口崇のオープニングアクト(何と豪華な前座か)、6月は秋葉原dressで確認できた。(追記、5月に池袋の「鈴ん小屋(りんごや)」で、青葉市子との共演が確認できた。原マスミのバンドライブと連日だが、こちらは何とか足を運びたい。)



第2部の双葉双一の衣装は、なかなかコンセプトが感じられた。
完全にフォーマルな黒い上着とズボンの中、ボタンのない色物のシャツを着るのは同じだが、橙色に近い黄色のシャツは一面にサングラスやメガネの柄が施されていた。
そして、確かシャツの首部分と上着の部分とに、本物のサングラスとメガネを挿していた。
何か「眼鏡の乙女」のようなテーマでも新曲で用意されたのかと予想したが、別にそういうわけではなかったようだ。


「夢のつづき」は、「予知夢予知夢」「屋根の上で烏が~」などと縁起が悪くて陰のある語を用いながらも、「青い空白い雲」という紋切り型の語句をあえてリフレインさせることにより、「春と乙女」ほどの陰惨さを感じさせない仕上がりになっている。
いや、もしかしたら本当はそこには「青い空」も「白い雲」も存在しないのかもしれない(もしかしたら逆で、目の前にあるのが「青い空白い雲」だけで他が幻影かもしれないが、表裏一体なのでまあどちらでもよい)。
受け入れがたい眼前の光景から目を背けて、そこに存在しないはずの「青い空」「白い雲」を感じ取っているのかもしれない。
スピッツの「Y」だったか、「君は鳥になる」「風に揺れる麦」などと、当然そこに存在するはずもない美しいものがサビで現れる歌がある。
この歌などは現実から目を遠ざける曲の真骨頂で、現実の雑音を完全にシャットアウトした一種の芸術である。
前にも記した気がするが、フィッシュマンズの「忘れちゃうひととき」だったか、「僕は何も見たくないよ、今は何も見えていないよ」と意識しているうちはまだ完全ではない。
話を双葉双一に戻すと、第1曲目からギターも歌も山田庵巳の後であるのに何の見劣りもしない名演であった。
「ベッド上上機嫌」も、双葉双一のギターや歌詞の特徴がよく表出された作品である。
ギターは、高フレットにカポタストを構え、1弦や2弦に開放音を当てて3弦や4弦のハイポジ音でぶつけてくる。
6弦ギターでありながら12弦ギターなどの複弦的な響きを錯覚させ、そこに倍音よりも芯が強調される双葉双一の声質とある調和を見せている。
「スパンコールの~」「80歳のお姫様」など印象的な表現も多く、「わたしの人魚姫1」などと同様に多彩な材料を用いているのに、統一感のある全体像が感じられるのが不思議なところである。
歌い方も、一つの音節に複数の音符を充て言葉に表情を付ける表現については、以前よりも自然に感じられるようになった。


渋谷の「青い部屋」のときに用いられなかったハーモニカを構えて、「涙の小鳥」が演奏される。
つい双葉双一のライブに足を運びすぎてしまう原因の一つとして、何回会場を訪れてもそのたびに異なる世界が繰り広げられるので全く飽きが来ないところが挙げられるであろう。
完成されたステージを魅せる表現者は多くいるが、その多くは臆病とも裏腹で冒険も挑戦も少ない。
だが、双葉双一はプロセスの途中にある世界までも、惜しげもなくそのとき目の前にいる観客に披露し続けている。
「涙の小鳥」は決して演奏頻度の高い曲ではないはずだが、演奏されるときにはまるで昔からの定番曲であるようにもったいぶらずに演奏され、静かでありながら美しい(こう記すのは陳腐だが、よい表現が見つからない)世界が提示される。
なぜこの曲がこんなに素晴らしく感じたのか、自分の中でまだ理解し切れていない。
気が付いたことを一つだけ挙げてみると、サビのところで声を張り上げずに柔らかな声で力を抜いて歌っているところがある。
癒し系などに分類される女性の歌い手には散見されるが、男性でこうした歌い方をする歌い手があまり思いつかない(あえて探せば滝本晃司あたりか)。
これが、音楽的な高揚を犠牲にする代わりに強すぎない柔らかな光で言葉を照らし、全体像を聴き手に認識させる効果があるのではないかと感じた。
この日の一番の演奏は、「夢のつづき」か「涙の小鳥」か、甲乙付けがたい。
「あそぼうよ」は、曲調こそ単調な繰り返しているが、不思議と飽きが来ない曲である。
「あそぼうよ」に関しては、歌詞そのものが「君」に語りかけられているメッセージであり、(自分も含め)外に出るのがあまり好きではない双葉双一ファンにとっては直接語りかけられているかのように感じられるからであろう。
それと同時に、双葉双一が内面の双葉双一自身に語りかけた曲だと考えることもできないだろうか。
臆病にならずに外に出て行くことを促すメッセージは、双葉双一の超自我が理想とする自己像に近づけるために発せられたと考えると興味深い。
双葉双一には数枚のアルバムを出した後、音楽的に「空白」とも言える数年間が存在し、「再教育」や「陰気な二人旅」などの過程を経てここに辿り着いた。
その空白期の双葉双一、またそれに類する存在に向けてのメッセージであると、とりあえずは解釈しておくことにする。


「ミルクミー(旧題「ピクニック」)」からは、驚きばかりが続いた(「R1指定バージョン」とのこと)。
最初の1節で記すと、「レインボー」の後に「それそれ」、「高原牧場」の後に「ふわふわ」と一人で合いの手を入れ、それを一定の間保ち続けた。
また、曲のところどころで自分で「ピー」と音を発し、歌詞世界の幾箇所かに黒墨を塗りつける。
「誰かがピーを踏めば」を伏せるのはまだ分かるが、「愛とピーのギャグ精神」の部分は、本来伏せる必要はない。
もしかしたら、「ピー」の音は「ピース=平和」を象徴していたのであろうか。
最後の方は伏せていたはずの言葉を誤って口にしたりもしたが、これも計算の上であったのだろうか。
今までこの曲に求められていたのは最後の「愛と平和」というコーラスだけであったが、今後は「それそれ」「ふわふわ」と合いの手を入れることが求められているのかもしれない。
「レベル5」も、前曲以上に驚かされた。
本来、双葉双一の身長に見合った、一番声が響くキーは決して高くない。
それを多少キーを上げることにより、不安定ながらも微妙な均衡を保ち、作品世界の表現の一つの材料にもなっている。
だが、それを放棄して、喉の奥の方で音を響かせ開口量を減らして、言葉一つ一つの張りを大きくしている。
ナッシュビルバージョンと双葉双一のtwitterには記載があったが、正直ナッシュビルについて詳細に論じる力量はないしそのつもりもない。
個人的には、三輪明宏のシャンソンのように地声の土台を鳴らしながらファルセットの倍音をコーティングする歌い方に近いと感じた。
普段の歌い方と乖離があるので客席から初めは笑い声が漏れるが、全編通されると最初からこのタイプの歌い手であったのかという錯覚さえ起こさせる。
楽器としての声の使い方としては、面白い試みであり決して悪くはなかった。
この歌い方を双葉双一が表現の一つとして定着させるか、裏芸の一つに留めるかは分からない。
だが、試行錯誤のプロセスをこうして披露してくるところが、双葉双一の今後の可能性と相関していると言えるであろう。
なお、「レベル5」は「ドラゴンクエスト」などのロールプレイングゲームのようなシチュエーションの「レベル」だと思われる。
次の「お嬢さん気をつけて」も、「レベル5」と同じ歌い方であった。
「塀の中では」からはアカペラで歌うが、「女たちの残した」で本人が噴出して、そこで演奏もストップした。
双葉双一はいつもクールで無表情の印象があるため、なかなか笑うところを見かける機会はない。
珍しいものを観られたという思いと、もう少し聴いていたかったという想いが交錯する。


「インベッド」からは、また元の静かなしっとりした世界に回帰する。
前の数曲とのギャップがある分、コントラストも大きくステージとしては面白い。
「そう簡単にはやり直させねーよ、という感じです」と、例の「全員集合」の掛け声を拒否する(前回の「日比谷さん、いや日比谷!」を踏襲していると思われる)。
「星の上」は、一部歌詞が「ピー」と伏せられてしまったが演奏自体は圧巻であった。
例の、8ビートの音型でビートを入れない双葉ストロークを用いて、次々と世界が展開されていく。
アクセントどころか表と返しのストロークまでを均一にすることにより、どこまでも続く管弦楽器の音の継続のようにも感じさせる。
それが、なぜか「わたし」で始まったはずの世界のはずなのに宇宙の広大さを映像化させ、そこに自分が置かれているかのようにも感じさせる。
そして「夢のつづき」から始まって宇宙の広大さに辿り着いたステージは終焉を迎える。


第2部は、最初の4曲で既に満足できてしまうだけのメインディッシュを並べて、中間でリラックスさせ、最後に後味の余韻を整える品が加えられた風情であった。
次に足を運ぶ予定なのは、5月末のヴィオロン第3回定期演奏会で、双葉双一が一番映えると述べても過言ではない会場である。
会場の調度品は美しくコンセプトがあり並べられ、観客も物音一つ立てず双葉双一の小さなささやき声までも音楽の表現として受け入れる(クラシックの会場でもここまで行儀がよいところはめったにない)。
音響も素晴らしく、名曲喫茶のために造られた壁や天井は、アンプラグドでありながら全ての音を隅々に響かせる。
珈琲でないことだけが残念だが、1000円でこのクオリティの高さは類を見ない(山田庵巳もこの会場でワンマンをやってもらえないだろうか)。
双葉双一を初めて聴くなら、ぜひこの会場に足を運んでほしいと思う。



第3部の日比谷カタンは、観る機会を何度も逃しているので、期待感という点だけなら一番楽しみにしていたステージであった。
最初ステージに置かれていたギターは、ジャンゴラインハルトと同タイプのギター(昔クロサワ楽器で見たが、名前を忘れてしまった)だと思われる。
サウンドホールはアクリル板で覆い、表面版の大きさから甘い音色を奏でるが、急速に響きを減衰させて音の流動のみを強調させる。
演奏前、ジョンソン&ジョンソンのベビーパウダーを左手にふりかけ、ほのかな香料の特色ある香りが客席に届く。
そういえば、6月にはムジカジャポニカでジョンソン祭りが開かれる。
土曜日とのことで休みを取らなくてよいのはよいが、泊まる場所が混むことは心配である。
ジョンソンtsuと藤井寿光とのセッションなど興味深いステージは多く、先のことだが楽しみである。
話を日比谷カタンに戻す。
山田庵巳と比較すると、クラシックギターで喩えるとアルベニスとブローウェルほどの違い、社会学ではハーバーマスとルーマンほどの違いまでも感じ取れるが、類稀なギタリストとしての敬意は双方持っているようである。
細身で長髪で長身のイメージを持っていたが、細身の免疫ができてしまったせいか、見た目は驚愕するほどの細身ではなかった。
メイクなどしてはいないだろうが、唇に紅みが何となく感じられ、フレームの太い眼鏡の印象も加わり、男性音楽家ではなく職場で一番偉いOLのようにも見えた。


そろそろ曲について述べると、さすがにギターは凄い。
細かいパッセージが、インテンポで軽々と曲のあちらこちらで入り込んでくる。
山田庵巳が一つの構築された世界だとすると、日比谷カタンは幾つかの断章の部品が組み合って偶然性も絡み合った全体像に繋がっているようにも感じた。
歌詞であるが、今回Webに記載されていた全曲の歌詞に目を通し、この催しの前半で披露された世界が日比谷カタンのメインストリーミングではないことを知った。
下記のページは「終末のひととき」の歌詞であるが、左側のリストを選択するとこの日のカバー曲以外の歌詞が確認できる。

http://katanhiviya.com/songs_shumatsu.html

歌い方は、部分部分で音色を変える工夫が随所に施されている。
基本的には喉の力を脱力させ自然に響く声を大事にし、いざという場所(3箇所ぐらいあった)では声を張り上げコントラストをつける。
前半は、個人的には「ウスロヴノスチの切符切り」が異国情緒がふんだんに感じられ、聴き心地がよかった。


そろそろ合言葉をでてっきり「全員集合」が来るかと思えば、忘れもしない前回の青葉市子の冒頭曲「不和リン」が演奏される。
「やり直し」のコンセプトの催しであるが、まさか前回をそのまま「やり直す」とは予想がつかなかった。
別曲に入り、最後にもう一度「不和リン」のエンディングが用いられ、長い長いメドレーが終わる。
前回はどう非難されているかWebをロムっていたこと、青葉市子が熱を出してこの日来ることが出来なかったことなどを述べる。


後半は、どの曲もそれなりに面白かった。
「ベビースキンの世界紀行」は、テーマこそ時事ネタではあるが、フリッパーズギター的な渋谷系のサウンドのクオリティを高めて、軽めの当たりの言葉の響きを楽しませた。
「終末のひととき」だけは、歌詞世界も興味深かった。
聴いているときは最後の「暑いね」が「熱いね」と思っていたが、先に挙げたページに目を通す限りどうもそうではないらしい。
黙示録さながらの場面の中、自らが焼かれていくのを淡々と静かな叙情を加えて歌にしているのだと思っていた。
実際は、この歌詞カード通りなら、もう少し余裕のある場面のようである。
さすがに、「パンを焼きながら静かに待つ」ほどの余裕はなかろうが。
最後の曲の定番とも思われる「対話の可能性」がボサノバ風(いわゆるバーデンパウエル風の細かい刻みではなく、小野リサあたりのゆったりした風情)で弾き始められたのも驚きであった。
Youtubeあたりだと、先ほどの「パンを焼きながら静かに待つ」歌の前奏にも近い音の響きが、目一杯の高速ストロークで「対話の可能性」の到来を告げるからである。
後半はさすがに動画通りの演奏が再現され、イエペスのリサイタルで「禁じられた遊び」が最後に演奏されるぐらいの高揚を伴う安堵感を客席にもたらす。
「あっちの空っていいな」は、日本のわらべ歌をも意識させる懐かしい世界が感じられ、前半の歌詞世界から考えるとまったく別の帰着点に辿り着く。
個人的には、このあたりの世界が好きだが、おそらく次回のどこかのライブに足を運んだ際には、前半とも後半とも異なる別な世界が披露されるはずである。


第3部、日比谷カタンの評価は、今回1回だけで論じることができない。
山田庵巳の音楽はかなり普遍性を持って評価されてしかるべきで、おそらく数百年レベルではびくともしないほど後世の人間が聴いても感銘を与えるはずである。
だが、日比谷カタンは古典落語に対する新作落語のように、評価がその場所や時間によって右にも左にも針が振り切れる可能性がある。
熱狂的に支持される種類の演奏や場はあるはずだが、日比谷カタンという様式を固めず断片・断章をその場で自在に組み立てていくスタイルは感覚だけで近接していくには敷居が高い。
ごく一部のギターフリークだけは間違いなく熱狂的な支持に回るが、国内で日比谷カタンというジャンルで売るより海外で解説付きで演奏していったほうがマーケットは広いかもしれない。


まあ、ともあれ普段のライブの3倍以上の密度の西荻窪の夜はこうして終了した。
サンジャックの料理も美味しく、この組み合わせの再演があるといいなと思いながら、前回より多少余裕のある中央線の帰路に着いた。





春のディナーショー'10/南青山マンダラ(10/04/23)
出演:知久寿焼・ひとりTOMOVSKY


1.ねむけざましのうた
2.あんてな
3.ひとだま音頭
4.いわしのこもりうた
5.電車かもしれない
6.月食仮面
7.あたまのふくれたこどもたち
8.おるがん
9.いちょうの樹の下で
10.むりなおみやげ
11.死んぢゃってからも
12.月がみてたよ


13.時々しか
14.歌う44歳
15.いとしのワンダ
16.5時のチャイム
17.タイクツカラ
18.ユウウツに慣れちゃいけない
19.BAD DREAMS ALSO COME TRUE
20.現在位置(スネオヘアーのカバー)
21.アイタイヒトトダケ
22.天才ワルツ
23.幻想特急
24.スポンジマン
25.歌う44歳


26.学習
27.カンチガイの海
28.ちょっと今ココだけの歌
29.ワルクナイヨワクナイ
30.歌う44歳


南青山マンダラは、大晦日の原マスミ以来なので今年初めて足を運ぶ。
外苑前のハーゲンダッツは閉店してしまったが、その後にできた店ももう店じまいをしてしまっていた。
このライブハウスは昔、原マスミと柳原陽一郎と倉橋ルイ子くらいしかライブに行かなかった頃、ここでほぼ全てのライブを聴いていたので今でも一番落ち着きホッとする。
いつ休んでいるのだろうかと思うくらい、受付のスタッフがいつも同じなのもよい。
そう言えば、この前の日は倉橋ルイ子がここで歌っていた。
所要でこの日も行けず、数年聴いていないが(代わりに倉橋ヨエコは何度か行っていた、廃業してしまったが)、ベースの恵美直也も出ていたようなので次の機会にはフル編成の「ラストシーンに愛を込めて」を聴きたいところである。


ディナーショーは、「不思議なディナーショー」以来だったと思うので、相当久しぶりである。
篠田鉱平がサードクラス脱退を発表した日のことで、知的で澄んだ感性の篠田鉱平の楽曲に触れることができたのは非常に印象深い。
もう1回ぐらいTOMOVSKYのディナーショーには行っていたはずだが(七夕だけの頃だったと思う)、終演が23時を過ぎ終電がなかなか厳しかった覚えがある(このディナーショーと地球屋の双葉双一は終電要注意ライブである)。
ディナーショー形式のライブは人気が高く、原マスミもkuukuuのクリスマスライブは予約が取りにくかった覚えがある。
TOMOVSKY側に往復葉書を出したものは「ハズレネコ」が印刷されて戻ってきたが、知久商会側は定員に届かず全員当選で、とりあえず無事鑑賞することができた。
なお、会場でも別に前売りを発売していたので、仕事を早退できるのであればそれで買うことはできたようである(休日だったようではあるが)。
今回もTOMOVSKYディナーショーの料理は凝っており、TOMOVSKYが最後の方で述べていた「この値段で料理が付いていたら、誰かが損をしているのではないか」という思いは、正直全く同じようにいつも考えている。
なお、はかまだ卓のブログによれば、招待客(おそらくはかまだ卓一人)には料理が出ないようで、最後に頑張って踊ったら料理を出してくれたらしい。
考えてみればもっともなことであるし、ただ来るはずの客が来れずに料理が余っただけなのかもしれないが、あの場所で一人だけお腹を空かせているのは非常に気の毒なことである。
アボガドも入った良質なハンバーガー(横浜サムズアップに近い)、2人の名前が入れられたブラウニー、TOMOVSKYのマークの焼印や星型に刻まれた野菜など、見た目も美しく味も良質であり、調理スタッフの職人魂を感じさせる。
この日、無謀にも昼にインド料理バイキングで食事を取ったにも拘らず、この料理の質のおかげで青山の夕餉を楽しむことができた(ただし、ブラウニーは持って帰って翌日食した、美味しかった)。


整理番号のない今回の入場券に起因して、開場の2時間以上前から入口に行列ができる。
その間、TOMOVSKY本人などが頻繁に前を通り、それなりに楽しいひと時であったが、春なのに25度を超える2日前とは打って変わった寒さで、小雨もちらついていた。
それを心配してであろうか、開場時間まで1時間を切ってからではあったが、急遽整理券が配られて束の間の暖を各々取ることができた。
やがて開場となり、被りつき席やソファーシート席など人気のある席から埋まってゆく。
客層の男女比は、1:20ぐらいか。
原マスミも、渋谷クアトロは男性客が多かったが、kuukuuクリスマスディナーショーは女性比率が高かった。
バスドラムがTOMOVSKY側の椅子の前に置かれ、「ワイト島の奇蹟」の際と同様のギターを弾きながらバスドラムを踏む演奏が予想された。


第1部は、知久寿焼からスタートする。
ネコがヒトに進化していく、面白い絵柄のシャツを着ていた(「猫背の人の祖先は猫」の文字あり)。
最近は比較的よく演奏される、「ねむけざましのうた」「あんてな」で始まり、「ひとだま音頭」へと続く。
そして、「いわしのこもりうた」だが、原マスミとの共演ライブのときに「この曲は黒姫で作った」と述べていた。
知久寿焼の歌は「曲先」でなく「詩先」のイメージがあるが、この曲は「曲先」であり、帰りの電車で歌詞は作ったらしい。
たま時代の曲で「いわしのこもりうた」同様に透明感が感じられる柳原作品「ふしぎな夜のうた」も「曲先」であることを、現在進行中の全曲ライブで知った(ちなみに「自転車」もそう)。
クオリティは別として、楽曲自体の透明度を高めるには、ある程度は先に曲側を濾過しておく必要があるのかもしれないと、多少興味深く覚えた。
それから、この曲に透明感を与えているもう一つの要素は、知久寿焼の特徴ある高音である。
一言で形容すると、「高速の(「光速の」と呼んでもよい)高音」である。
原マスミやワタナベイビーなどと比べて、高周波の倍音成分に到達するまでの時間が短く、言葉を感じ取ったと思う間もなくその音が突き抜けていく。
同じ音程を、アルトリコーダーでなく使い込んだソプラノリコーダーで出すような相違が、そこには感じられる。


そして、定番曲の「電車かもしれない」に続き、「月食仮面」「あたまのふくれたこどもたち」とギター伴奏に細かい工夫が多用された曲が続く。
「月食仮面」は、前からあそこまで細かく表現していただろうか。
「あたまのふくれたこどもたち」は、例の6弦をオクターブ落とすチューニングである。
「おるがん」は、歌詞が素晴らしい。
「僕が死んだ日」で始まるその歌詞は、物語の世界のようでありながら写実的なリアリティがあり、それだけで一つの世界として完結している。
おそらく病気で亡くなったであろう子どもの、煙になり天に昇っていく様の表現、そしてその角度からの視点、それらは机の上で言葉を探しても決して出てこない世界であり、初めてこの歌詞を通して目にしたとき身震いする思いがした。
並んでいるときから、「おるがん」が聴きたいと思っていたところであったので、聴けたのはよかった。
ここで、ウクレレに持ち替えて「いちょうの樹の下で」「むりなおみやげ」「死んぢゃってからも」と、近年作られた曲が続く。
以前は、10年以上歌っているギター曲と日が浅いウクレレ曲との間には多少温度差があったが、この日は曲そのものにもちろん違いはあるが、演奏面に関しては温度差が感じられなかった。
程よく力が抜けながらも、歌詞の断片断片に心が込められるのが感じられた。
「雪の下で蕗のつぼみが膨らみ始めてる」という言葉には、季節の到来だけではなく人生における何かの象徴まで感じさせるところがあった。
この前の日もライブがあり、「起きたら昨日歌ってた店でした」とのことであった。
再びギターに持ち替え、「月がみてたよ」で第1部終了。
後奏にハミングで音を入り、月光が音楽の中にも射し込んでいるような明るさが感じられた。


第2部は、TOMOVSKYのステージで、登場早々「雪になりました」とほら貝を吹きまくり、飛ばしまくっていた。
知久寿焼の本名を「下川久(しもかわひさし)」とでっち上げ、最後には11月11日のディナーショー(声が全く出なかった伝説のディナーショー)に来た客は「マンダラ発の飛行機が墜落して、もういない」と天を見上げるにまで至った。
TOMOVSKYの嘘MCは、全身全霊を込めてあらゆる引き出しから引っ張り出しているので、いろいろ感心させられることが多い。
スーツ姿がよく似合うTOMOVSKYであるが、シャツを黒くしたら特殊な職業の人物に見えてしまうところがあり、この日はそれをネタにしていろいろなポーズを取っていた。


いつものように「歌う44歳」で始まるかと思えば、「気を使え」という趣旨のさらに短い曲が演奏される。
ステージと客席との間の相互コミュニケーションを大切にしましょうという、暗黙のルールを明文化したものであろう。
そして、「歌う44歳」「いとしのワンダ」と続く。
「いとしのワンダ」は、TOMOVSKY2号や3号(宅録)との共演が面白いが、この日は普通にギターで演奏される。
その代わり、持参したキーボードで「5時のチャイム」「タイクツカラ」が続けて演奏される。
「5時のチャイム」は、「強制ハミング」とわざわざメモに書いてきたのに観客に伝えるのを忘れてしまった。
だが、「タイクツカラ」は素晴らしかった。
この曲は、曲だけで言えばTOMOVSKY最大の名曲だと思う。
歌詞だけであれば「忘却toハピネス」など、TOMOVSKYに名曲はたくさんある。
だが、「タイクツカラ」の曲はミュージカル音楽のように展開・構成が存在し、曲を聴くだけでも一つの物語のような広がりが感じられる。
特に、最後の高音で上り詰めるメロディは、「TOMOVSKYのライブに足を運んで本当によかった」と実感させる幸福感を引き起こさせる。


ギターに戻り(バスドラムも叩いているが)、「ユウウツに慣れちゃいけない」「BAD DREAMS ALSO COME TRUE」と続く。
それにしても、TOMOVSKYの歌には驚くほどラブソングが少ない(そもそも存在するのだろうか)。
まるで、「恋愛」という事象は安易に非日常性を創り出す記号に過ぎず、それを社会的に生産していく装置に自らの音楽を貶めたくないとでも主張するかのように。
前奏の伴奏が全く同じとのことで、スネオヘアーの「現在位置」をワンコーラスだけおぼろげに歌い、「アイタイヒトトダケ」が歌われる。
「アイタイヒトトダケ」は、昔PVか何かを観て一度聴きたいと感じていたが、リアリティのない別世界に感じたその音源とは少し印象が違った。
当時のキーで演奏していないのかもしれないし、レコーディングで低い周波数をカットするなどの調整を行っていたのかもしれない。
「それにしても」が続くが、TOMOVSKYの曲名はカタカナが多い。
知久寿焼のひらがなが多いのはおそらく語感の柔らかさを求めてのものであろうが、TOMOVSKYの場合はおそらく何かを排するために機械的にも見えるカタカナ表記を用いているのであろう。
いずれ、それが何か思いついたら記してみたい。


「天才ワルツ」「幻想特急」に続き、「スポンジマン」がいろいろな楽器を混ぜた音でキーボードを用い演奏される。
「不思議な~」シリーズが定例化されていた頃、ワタナベイビーやサードクラスがツアーのために新曲を作るのに感化されて作った曲と記憶している。
そのため、「スポンジマン」だけはその当時の記憶がフラッシュバックのように鮮やかに甦り、「タイクツカラ」とはまた異なる高揚感を覚える。
ワタナベイビーやTOMOVSKYが本気で楽しみサードクラスに感謝をしていた「不思議な~」ツアーは、またいずれ再開してほしいものだと思う。
そして、「歌う44歳」で第2部は終了する。


第3部は本来2人の共演ステージであるが(しかも最初の3曲はTOMOVSKYはドラム)、飛び入りさせられたはかまだ卓が全部持っていった。
「学習」こそ2人で演奏されたものの、「カンチガイの海」でははかまだ卓がコーラス以外にいつもの踊りを披露し観客の視線もそちらにおのずと惹きつけられる。
「カンチガイの海」も結構な大曲で、展開も豊富なのに、全く飽きさせなかったのはさすがである。
ここで一旦引っ込むが、2人の強い要望で「ちょっと今ココだけの歌」からも再登場する。
虫のように這って登場する様は、2人の予想を遥かに超えていたらしく、真剣に取り組む姿勢を感じさせる。
TOMOVSKYも、「全ての人が真剣に行動した故のステージ」について絶賛していた。
「ワルクナイヨワクナイ」では、TOMOVSKYからドラムのスティックを手渡されたが、意図的にか自然にかは分からないが空振りしたりして見せ場は多く作っていた。
はかまだ卓の以前ブログに記載があったが、「普段どこで踊っているんですか」と本来方向違いの質問をされたときに、「呼ばれればどこでも踊ります」と見事な返事をしていた。
最後は「歌う44歳」を歌い終了し、22時50分ぐらいで帰ることができた。


なお、次回のディナーショーは8月8日とのことで、7月7日が固定でないことは意外であった。
もしかすると、サードクラスのワンマンが7月7日にあるため、TOMOVSKY自身がその日を外したのかもしれない。
いずれにしても、この日のディナーショーは帰路を幸福感で包み、また機会があれば行きたいと感じさせるものであった。




Sactone-Proud!2010/新宿SACT(10/04/21)
出演:山田庵巳・ワタナベミユキ・川口純平


(山田庵巳)
1.模範的な黒
2.砂の道
3.春夏秋冬
4.機械仕掛けの宇宙
5.窓辺のダンスホール
6.ぱぷりかぁな
7.赤い月~桃子は三度振り返る
8.命の傍らに


(ワタナベミユキ)
1.君と2月のinsider
2.日回り
3.反比例
4.センチメンタリズミカル
5.陣取り(仮)
6.ステインサイダーランドリー


(川口純平)
1.
2.
3.
4.あらぶる魂
5.
6.
7.
8.タンヤオサンアンコウドラ3
9.さらばよさらば


春なのに25度を超えることもあるのを実感させるこの日、東新宿の近くの足を運んだことのないライブハウスに向かった。
新宿SACTの位置は紅布(レッドクロス)の近くで、牛丼屋を挟んで反対側にあった。
開演までは舞台の前にスクリーンが降りている新宿LOFTと同じ様式で(ただし手動)、音楽専門チャンネルを流していた。
客入りは多くなく、今まで足を運んだライブの中では一番出演者を独占できる入りであった(ライブハウスの運営が心配になる、谷口崇辺りの日で回収するのだろうか)。
山田庵巳の出演は最初であり、その後に集客力に優れた出演者がいるのかと思えば、やはり連休前の平日のど真ん中にそこまで増えることはなかった(というか、減った)。


さて、山田庵巳の出番であるが、今回は少し広めの裾の黒いズボンで、トレードマークのようなくるぶしはいつものように披露されなかった。
ここで、会場側に少し注文をつけておくと、まず会場のBGMが演奏が始まる前に逆に大きくなっていたが、これは音でチューニングするギタリストには邪魔でたまらない。
ピックアップを用いてチューナーを用いる演奏者は構わないが、細かい響きの調和で整えていくのには関係ない音があそこまで大きいと困る。
代々木ブーガルほど静かでなくてもよいが、改善してほしいところである。
また、照明も出演者と打ち合わせて詰めておくべきである。
山田庵巳はキャップタイプの帽子をよく被っているので、通常の方向(上や前)からの光であればまだ問題は少なかったであろう。
だが、ギターのヘッドと逆方向、真横からの強いスポットが当たり、演奏にさえ妨げを与えた(秋葉原ドレスの照明は美しい)。
演奏の効果を最大限に引き出すのが運営側の役割のはずで、そのあたりは改善を求めたい。
だが、音響面は悪くなく(概して縦に長いより横幅の方がある箱の方が音響はよい気がする)、新宿の穴場的な空間になりうるとは思う。


話を山田庵巳に戻すと、この日は新しい「メンバー」が壇上にいた。
彼らは小さな台の上で、山田庵巳の奏でる音楽に合わせて健気な踊りを披露してくれたが、おそらく数日後の「ひくつ系音楽会」の仕切り直しでも登場することであろう。
そこで、細かく記すのは今回やめておくことにする。
細かいレポはいずれ挙げるとして(いつになるやら)、簡単に感想を羅列する。


・客入りこそ少なかったが、今回のリストはなかなか豪華で「窓辺のダンスホール」まで聴くことができた。いわゆる「他流試合」のライブでこのリストであれば、新規の固定客が付いてもおかしくない選曲である。残念ながら、双葉双一ほど集客力がある共演者ではなかったようではあるが。
・山田庵巳の歌声の最大の魅力は、メロディが高音部に切り替わる際のファルセットの音質、正確な音程、力をそこで抜くのではなく易々と風が通り抜けるかのように出し切る清涼感、それらがこの日の曲には随所に見られる。「砂の道」の「風が~」の部分や、「機械仕掛けの宇宙」の「回り続ける」の部分、「赤い月」の主題部などは鳥肌が立つ思いをする。中でも、「春夏秋冬」の「~夜(星?)には」の部分は、この声に出会えたことへの感謝の念さえ満ち溢れてくる。ラテン的な曲にはギターの上手さを感じるが、歌い込める曲は山田庵巳の声が主人公である。
・事前にリクエストが入ったらしく、その曲が演奏されたようだが、「窓辺のダンスホール」だったのか「赤い月~桃子は三度振り返る」だったのかは分からなかった。人付き合いが苦手な者同士の友情のあり方について、そのときに語っていた。
・「赤い月~桃子は三度振り返る」の前奏扱いで「ぱぷりかぁな」を、後奏扱いで「命の傍らに」を持ってきていて、「ぱぷりかぁな」を先に持ってきているのは珍しいと感じた。だが、情緒的な余韻が一番残ると思われる「赤い月~桃子は三度振り返る」のエコーとして「命の傍らに」は最高で、長編映画の最後のロールエンドのような効果をもたらしていた。
・最後は、「すみませんでした」の定型句で終了。前回の秋葉原のように、「頑張りましょう」みたいなことは当然述べていない。最後に、双葉双一的なつま先をちょこんと立てるお辞儀をした。


ワタナベミユキの出番となり、山田庵巳目当ての客が客席から離れ、さらに人が少ない空間に変わる。
表面板にピック跡の残るギターと、反対側にはキーボードが並べられた。
服飾の知識はまるでないのでなんだが、黒いイブニングドレス(というのが正しいのか分からないが)を着て、登場と同時に両手を大きく横に広げてご挨拶する。
「君と2月のinsider」だけは、キーボードの弾き語りであった。
声量もあり音程などに難があるわけでもないのだが、楽器的な歌い方のため言葉の文字が曇りガラス越しに入ってくるようで、歌詞が心に届きにくく感じられた。
何でも、去年の夏からピアノを始めたようで、この曲は歌の音域的にも楽器の演奏的にもそこまで無茶はしていないように感じられた。
この曲のみに関しては、キーを少し上げた方が言葉はクリアになるかもしれないと感じた(思い付きかもしれないが)。
ジャズシンガーで用いるようなタイプの「こぶし」が多用されているのも、歌い方の特徴であった。
個人的には、声そのものに魅力があるか、歌詞の世界が伝わりやすい歌い方か、どちらかのタイプが好みであるが、このあたりは評価もいろいろと分かれよう。


残りの全曲はギターで演奏され、1曲のために重たいキーボードを抱えてくるのは大変ではないかと、要らぬ心配をついしてしまう。
サウンドホールのさらにヘッドよりの位置でストロークを安定して鳴らし、返しのバッキングを効かせてくるところは心地がよい。
ハウリングが最初あったが、このくらいはどこの箱でもまあ仕方ないか。
曲的には「センチメンタリズミカル」あたりが一番耳馴染みがよかった気がするが、あまりよく覚えていない。
むしろ、曲的には単調であっても「ステインサイダーランドリー」は語り部分から入り、主題がそれを踏まえて繰り返されていくので、伏線がある分言葉のありがたみが生じてくる効果はあった。
全力で力を込める歌い手の一人であろうが、緩急・強弱のある表現の方が、かえって言葉もメッセージも吸収できる気がした。
入っていたチラシには「音楽の上では嘘が吐けません」と記されてあり、そこだけ見ると前回のマリエにも近いように見えるが、少し違っているように感じた。
メッセージの内容ではなくあくまでも手法であるが、マリエは直線的で一途なのに対し、ワタナベミユキには多少器用さや表現方法の幅があり、多少思考錯誤の中、道を探しているところがあるように感じた。
もう少し長い時間聴いていれば、メッセージそのものにも特色が見出せるのかもしれないが、残念ながらそれを掴み取るだけの力が自分にはなかった。


ワタナベミユキの客が帰り、川口純平の客と入れ替わる。
出演者の組み合わせのせいかもしれないが、他の出演者の演奏を聴いて帰るという習慣がこのライブハウスにはないのであろうか。
川口純平は、山田庵巳の共演者ということからイメージしていたのとはまるで異なる大男であった。
背が高いだけなら双葉双一も高いが、剛健な体格をしており大きなリュックをらくらくと背負って山に登り、余力で山小屋でカレーでも作ってしまいそうな雰囲気である。
山田庵巳の細く繊細な風貌とは、まるで対極的であった。
ギターも、ヤマハの音叉3本のマークがヘッドにあるギターを用い、表面版にはテプラで黒いテープに打ち込んだものを、一面に貼り付けていた。
川口純平を知らない1/3の客のために名乗り、自己紹介を行う。


曲目は、紹介があった曲以外はタイトルが分からない。
1曲目から、力で押し切るタイプの歌い方を全開させる。
音域的には高音をあまり用いず、中音域を多用する。
音域面だけで言えば、ブルーハーツの曲のつくりに近い(見た目が近いわけでは決してない)。
難しくない言葉で分かりやすいメッセージを歌い込める世界は、外見的な華が少ないとは言え(ジョンソンtsuや双葉双一など美しい歌い手を観過ぎてしまったせいである)観客の共感できる部分は少なくないはずである。
個人的には、曲としてよかったのは3曲目「ドンレンミーダーウン、オーレーニーはー」と韻も踏んでいた)、ギターは6曲目がよかった。
一番好みに近かったのは「タンヤオサンアンコウドラ3」であり、麻雀の内容だが、この世界を別な対象の象徴化として扱うことができるのであれば、多大なる可能性のある曲だと思う。
バンドのときはもう少し「崩れて」いるとのことだが、弾き語りでは言葉そのものはよく伝わってはきた。
「さよなら思い出よ、幸せになっておくれ」と歌うメッセージも(1曲目)、分からなくもない。
7曲目と「さらばよさらば」あたりは、一般受けもさほど悪くはないであろうとは思われる。
とは言え、正直なところあまり聴くことの少なかったタイプの歌い手であるので、今後また耳にする機会があるかは分からない。


この日は何もかもが新鮮であった、と、とりあえず総括しておくことにしよう。
次の週には、前回日比谷カタン不在のおかげで、また双葉双一と山田庵巳の共演が楽しめる(もちろんやっと聴ける日比谷カタンも楽しみである)。
サンジャックの美味しい料理と豪華な演奏を、今から楽しみに待ちたい。




なかなか過去のライブレポも新しいカレー屋の紹介も書けないので、街で見かけて撮影した写真でも載せることにしたい。





sprawl world-chiiba
千葉県の国体のキャラクターである「チーバくん」であるが、他県にはなじみが薄いかもしれない。
千葉県の形をしている、おそらく犬だと思われるのだが、「体育」という感じがあまりしない。
この写真は、チーバくんが美味しそうにソフトクリームを食べているのだと、そう信じて疑わなかった。
高く掲げていない手、食べたくて仕方なさそうな舌、メタボ体型の腹と、開会式の聖火を感じさせない要素ばかりである。
なお、チーバくんが車いすに座りソフトクリームを持っているバージョンのポスターもある。





sprawl world-wan


これは難しい。
犬が犬であることのアイデンティティを、飼い主が放棄させることに他ならない。






sprawl world-nyuuyokuzumi


籠の中の彼等もまた、「入浴済」なのであろうか。


































アシッド・フォークの宵 vol.2 ~ 貴族的な、あまりに貴族的な/渋谷青い部屋(10/04/09)


出演:双葉双一/ラピス(ex.FRICTION)/ジョンソンtsu(from ポートカス)/Yo-screamer(from happy dispatch,ヤッホーデルモンテ)


とりあえず、双葉&ジョンソンのリストのみ


(双葉双一)
1.体は食卓 頭は雲の上
2.瞬き分の夜
3.マスク
4.あそぼうよ
5.追走曲
6.レベル5
7.だれでもいいから踊りましょう


(ジョンソンtsu)
1.マリア
2.(「アラビ?」聴き取れず、昨年の地球屋の1曲目))
3.ドックナム
4.変な外人


いろいろ書いたはずのメモが見つからず数日経ってしまったが、2人のリストと簡単な感想のみ先に記しておく。
レポについては、いずれきちんと記したい(本当に全部書けるのか心配になってきたが)。


双葉双一は、予想外に2番目の出演であった。
ジョンソンtsuより前に出演したのを聴くのは、今回が初めてである。
髪もサラサラで目元も涼しく、衣装も場に相応しく、絵画か物語の世界から飛び出したかと思われる美しさが感じ取られる。
最初の1曲目だけであるが、エレキギターに高萩裕司、ドラムになんと予定になかったはずの藤井寿光(ANATAKIKOU)が出演していた(http://www.youtube.com/watch?v=n92WRiusBEY )。
高萩裕司のブログ(http://takahagi.exblog.jp/13134295 )によると、この1曲ドラムを叩くのに1000円で急遽引き受けたとのことである(真偽不明)。
「体は食卓 頭は雲の上」の3拍子で、2小節ごとに訪れるサイドドラムの叩きのやや不響和な響きが、この歌の主題であろう「心ここにあらず」感を補完しており、楽曲のクオリティを高めている。
双葉双一の直線的な歌唱は、バックの音に負けずに言葉の持つ響きや意味を打ち消さず、双葉双一的世界を壊さない枠組みの中で力強い輪郭線を描き出していた。
正直なところ、この日の最大の目的はジョンソンtsuであったのだが、この演奏については何物にも変えがたい興奮が湧き上がるのを感じた。
おそらく、双葉双一が複数存在して音を重ねていったらこのような音楽を組み立てていたであろうという形を、この演奏の中に感じ取ることができたからである。


以前、双葉双一は「歌がうまいと言われるのが一番嬉しい」とブログで述べていたが、本来方向性としてはこのように称されにくい存在であった。
ジョンソンtsuや山田庵巳を聴くと「上手い」と感じさせられずにはいられないが、双葉双一は「上手い」とか「下手」ということを忘れさせてしまう圧倒的な存在感(目に見える部分も見えない部分も)があるのである。
上手く伝わるか分からないがあえて誤解を恐れず喩えてみると、「上手い」「下手」「双葉」と3つの方向軸があり、聴くものに「双葉」という方向軸の強さを感じさせるのである。
双葉双一の場合、ジョンソンtsuや山田庵巳で「上手い」と感じさせるのに用いられている労力が、全て双葉双一的世界を結晶化させるために用いられている。
出来合いのパーツを組み合わせるのではなく、部品の一つ一つまでもがオーダーメイドで、比較できるものがない「双葉」という座標を高みに持ってくるのである(これは「原マスミ」という座標なども近い)。
この日決して登場することがなかったハーモニカ(きっと大阪行きの鞄の中にしまい込んでいたのであろう)だけは「上手い」の座標も表れてくるが、他は実際は上手く感じても「双葉」という座標の認識が一番強くなるところはある。
今回もやはりそうではあるのだが、言葉が埋もれないように歌い込んだ跡が、双葉双一のその歌唱の中に感じ取られた。


今回の7曲中、定番曲は「瞬き分の夜」のみ(自在に、いろいろな歌い方を試している印象がある)。
過半数の曲は未音源化曲であり(前奏だけでやめてしまった「くらいはなし」もアルバム収録されていない)、新しいアルバムに向けた曲を磨く作業の最中と思われる。前回アルバムと大きく異なるのは、アルバム「手に捧げる歌」が従来の双葉双一的世界で描いていない部分に足を踏み入れようとした作品であったのに対し、今回は従来の双葉双一的世界の延長でありながらまだ辿り着いていない部分を描こうとしているところである。
そのため、ほとんどアルバム発表前にステージ演奏されなかった前アルバム曲と比べ、遥かに演奏機会が多く歌唱も本人の中で消化されてきている感がある。
弁証法的に述べるなら、「お嬢さんよろこんで」的世界をテーゼ、「手に捧げる歌」をアンチテーゼ、新アルバムはアウフヘーベン(バウムクーヘンではない)と置き換えることができるかもしれない。
前作という闇を通って初めて、新作の境地に辿り着けたのであろう。
ヘッセの『デミアン』の二つの世界のように、不可分である反対の側面に光を当てての結果がこれであろう。
今回は、双葉双一の新作のレポではない。
アルバムについては、さらに緻密に方向付けがされた作品になろうが、愛好者の一人としてはそれを静かに待ちたい。


「マスク」「追走曲」の歌詞世界については、音楽とともに提示されると身震いがする深淵を感じさせる。
そこには表面的ではない「死」への注視があり(特に「マスク」)、それを真摯に捉え考え抜いた上で「生」の姿を浮彫にさせている。
双葉双一のブログには、「全歌詞」として全文記されている曲が何曲もあり、おそらくは次回アルバムの候補曲となっているであろう。
だが、あの「詩集」は本来演奏を聴き、余韻の中で言葉を再度響かせるためのものである。
ぜひ、機会があれば双葉双一の演奏の場に足を運んで、世界の一端に触れてほしいと思う。


全然レポでなく、雑感だらけで申し訳ない。



3番目の出演が、ジョンソンtsuであった。
双葉双一とはタイプが異なるが、何度観ても演奏も姿も美しく、2人の王子の連続の登場は目の保養に十分すぎるものであった。
本当は、この前日にジョンソンtsuが高円寺U.F.O.クラブで出演があり(ANATAKIKOUの藤井寿光がドラム)、所用があったので密偵を放ちレポを挙げるつもりでいた。
この2人だけの組み合わせの演奏は関西でも思い当たらず、観に行けないのは少々残念に思っていた。
藤井寿光は、自分の知る中で一番技量があり、ためらいなく正確な高速リズムを軽々と刻む姿は否応無しに目が行ってしまう。
2人でどのような密度の濃い世界が生まれるのか、非常に興味深かった。
だが、幸いにして、この渋谷の青い部屋でも全く同じリスト、同じ2人の組み合わせを耳にすることができた。
以下、初日と二日目とで異なる点を、簡単に箇条書きで記す。
・初日は帽子を被っておらず、サングラス(「波動」とは書いていなかったらしい)をかけて登場。「美しい顔を隠すのはもったいない」と考えていたら、すぐに外したらしい。服はほぼ同じ。
・初日の「変な外人」は、U.F.O.クラブの電動カーテンのような幕が、最後にサッと引かれて終演となったらしい。例のパフォーマンスがそれにより増強され、観衆の大爆笑も初日の方が大きかったとのことである(ただ免疫がある客が少なかったせいかもしれない)。
・二日目は青い部屋関係のチラシしかなかったが、初日にはジョンソン祭りのチラシが入っていた。初日の一番の収穫はこれであった。
・初日のライブで、ジョンソンtsuの「tsu」の意味を知ることができた。これも、「森に住んだり小川を飛び越えたり」することぐらい意味深いことである。


ジョンソンtsuの演奏は、圧倒的な技術力によって「相当凄いことを軽々とこなし、余力でパフォーマンスまで行う」別格さがある。
「町内会の回覧板譜面たて」「口笛チューニング」「日本語の台詞の準備」などは、緻密に計画された前菜であり、楽屋を決して見せないプロ意識がそこにも感じられる。
演奏は、前回ライブ(去年の地球屋)やアルバムとはまた異なる、「進化」というよりは「自在」で「多彩」な響きを聴かせてくれた。
藤井寿光のドラムも素晴らしく、「マリア」やプログレ組曲といわれる「ドックナム(「ドグナム」と発音するのかもしれない)」など、早さも拍子も自在に切り替わっていく音楽を、まるで本の頁をめくるがごとく、軽々と表現して魅せた。
曲ごとの印象は以前にも記したが、また再度、後ほど挙げたいと思う。
それにしても、よいライブであった。



最初と最後の演奏についても雑感はあるが、こちらもそのうちに記すことにしたい。