前の記事にも記したが、ブログの更新が1月半滞った。
これは、いつもエディタで空き時間に文章を打っているミニノート(EeePC)が通電せず、通常のモードでものを考えたり書いたりできたかったからである。


最初の症状は、よく足を運ぶ小岩のファーストフードで現れた。
新宿西口ヨドバシ前のマクドナルドなど、PC電源席が撤去される店舗が増えつつあるような気がするが、小岩はPC電源席が埋まっていることが少ないのでよく使う。
充電中であれば橙色の点灯、要充電であれば橙色の点滅、充電不要であれば消灯の表示が、バッテリーランプに示されるのが通常である。
だが、その日はそのいずれでもなかった。
厳密に言えば点滅なのだが、数秒間点灯したかと思うと数秒間消灯して、それが継続して続いた。
何かおかしいと感じつつその日の作業を終え、帰宅後残り少なくなったPCに通電しようとACアダプターに繋いだところ、いつもの橙色点灯の表示が現れなかった。


実は、過去のノートPCも似たような症状が出ていた。
あるPCはACアダプターを繋いでいるときには利用できるが、外した途端に電源が落ちてしまった
また、別のPCはACアダプターを繋いでも通電せず、別の同じ機種のPCで充電したバッテリーを入れ替えて使うことができた。
今回もおそらく後者であろうと直感し、金銭的余裕がない中、面倒なことになったという思いで一杯になった。
100円PCであるが、修理には何万かかかる(と聞いた)。
池袋のソフマップ中古館(ビックのアウトレット館の上)で1万円台で買えるはずだが、それもいろいろ余裕がなかった。
一応、自宅にはデスクトップPCがあるのだが、昔から自宅では昔から原稿が書けたためしがないのを自分が一番よく分かっていたので、何とかミニノートPCを復旧させたかった。


しばらく、PCを復旧させる手立てはないものかネットで検索もしたのだが、どこかの箇所をある強さで叩くといったような、古いブラウン管テレビにしか通用しない手法ぐらいしか見当たらなかった。
だが、購入元のヨドバシカメラに行き、PCラボという相談所に訪れたところ、何とPCは普通でACアダプターが通電していないことが判明した。
ACアダプターのショートのみの場合、伸ばしたり縮めたりすることにより通電する瞬間がよくあるので、おそらくそれ以外の故障ではないかと考えている。
ACアダプターの適用機種を購入し、3000円弱の料金でめでたく100円PCは復旧し、今に至る。


本当は、この期間WiMAX30日間無料の期間であったのだが、その大半はこの騒動に奪われてしまった。
もともとEモバイル解約後にWilcomで屋外環境を維持するつもりであったが、無料でWiMAX端末を入手できる機会があり、解約と同時にこちらに引き続けるように手続きした。
まだまだ確認できていないことも多いのだが、現在まで利用の感想をEモバイルとの比較で少し記してみたい。


・Eモバイルは8メガの機種でも1メガ出ていなかったことが多いが、WiMAXは繋がれば速い。一瞬で画面が切り替わる。
・Eモバイルは一度無電波地帯に入り切断されると最初から接続ツールで繋ぎ直しなのだが、WiMAXは勝手に復旧し繋ぎ直す。通勤経路に無電波地域を抱える身としてはこれは非常に助かる。
・それほど小さくない駅(特に地下鉄)でも、無電波のことが結構ある。新京成線で言えばEモバイルのときは「くぬぎ山」が最大の難所だったが、WiMAXでは現段階で「五香」でこれに近いことが起こる。
・仕様かもしれないが、WiMAXは長時間繋いでいてもさほど端末が熱くならない。Eモバイルの頃はカイロ代わりになるくらいの熱量があった。


Eモバイルが「越後湯沢」などでも繋がったことを考えると、まだまだ評価を保留すべきところはあるのだが、値段が安くなり環境もおおむね快適なことを考えると、WiMAXの契約は悪い選択ではなかったと現段階では判断される。
まだ割引期間もしばらく続くので、利用してみて気付いたことがあれば追記したい。
それにしても、EeePC4GのCドライブの空き領域を増やすよい手立てはないものだろうか。





DRESS AKIBA HALL 2ndAnniversary Live「奇人達のお茶会」/秋葉原ドレス(10/07/23)

出演:山田庵巳/原大介/土佐拓也/アサダマオ

(山田庵巳)
1.ほしあかりつきあかり
2.冷たい指先のワルツ
3.春夏秋冬
4.あまつぶ
5.刑事キャノンボ
6.サメの背びれも気にしない
7.山羊でした
8.狼の夜想曲
9.窓辺のダンスホール
10.命の傍らに
11.無題
12.火の玉


(アサダマオ)
1.HAPPY
2.みんなのブルース
3.(「いまから海へ行こうぜ」で始まる曲)
4.真実
5.ドライフラワー
6.ダンス


(原大介)
1.(インスト曲)
2.(「泣いてる子はいないかい」で始まる曲)
3.チャッキリ節
4.春夏秋冬
5.狐の嫁入り
6.即興演奏
7.ロバのウタ
8.Summer(久石譲曲インスト曲)


(土佐拓也)
1.close to you
2.バニラ
3.ポタージュ
4.花火
5.distance
6.hungry butterfly
7.月の砂漠に



1月半ぶりの更新であり、レポを記していないライブも相当溜まってしまった。
ミニノートPCのACアダプターが壊れていたためだが、言い訳は次の機会に譲るとして、山田庵巳の誕生日のうちに1本ライブレポを上げておきたい。
手短ではあるが、これから毎日1記事のつもりで更新したい。
twitterでは記しているが、山田庵巳の次回ライブも記すと、10/1に代官山「晴れたら空に豆まいて」、10/6に新宿サクトである。
携帯ページもできたようなので、便利になった。
http://anmusic.main.jp/



この日は、今回で5回目となる山田庵巳の「引退ライブ」であるとともに、珍しい山田庵巳自身の企画ライブでもあった。
半月後に既に次のライブが予定されている中の「引退」の真意はさておき、「これが最期のステージになっても」という熱意で舞台に上がろうという心構えではないかと、自分には感じられた。
今後も「引退」と刻印された山田庵巳のライブは、それだけの決意が秘められたステージであることが予想され、期待できるものとなるはずである。
また、この企画には「奇人達のお茶会」という洒落た名称が用意され、その名に違わぬ世界が披露された。
「山田庵巳のリスペクトするアーティスト」というコンセプトで集められたギター弾き達は、商業主義の枠から大きく外れてはいるが、それを極限まで貫き通した演奏を聴かせた。
なお、土佐拓也だけは「ゲスト」の表記があったが、これはメジャーを目指し「奇人」の称号を剥奪されたからであり、他の共演者の方が低い地位にいるという訳ではない。


会場は秋葉原ドレスで、月例ライブが行われているわけではないが山田庵巳が重用されているライブハウスである。
照明も音色も規模の割に美しく、缶のまま出てくるドリンクは味気ないが、キッコーマン製のマンダリンオレンジジュースはなかなか美味しい。
電車を降りてから改札までの距離より、改札から会場までの距離の方が短く、アクセスがよいのも助かる。
料金も良心的で(この日は前売り1500円+ドリンク代)、都内で「西高東低」と言われるライブハウス状況を打破したいというこのホールの意気込みは感じられないでもない。


山田庵巳のこの日の服装であるが、帽子はハットタイプでシャツの襟は水玉柄のものでなかなか凝ったものであった。
ズボンは短めのものでなく長めの広がりのあるタイプを着用しており、トレードマークの一つであるはずのくるぶしはズボンの裾に隠れたままだった。
後ろ髪を束ねていて中性的な雰囲気が強いところも、前回のサクト同様であった。
今回は自分の企画であるためであろうが、1番目の出演で、その後は司会進行に徹した。


いつもどおりに「模範的な黒」の導入となる前奏が始まり途中まで進むが、この日はいつもの小さな呟きに入る前にスローな伴奏に移行し、「つきあかり ほしあかり」が演奏された。
そのため、ふだんよりゆったりとした印象でステージが始まり、「いつもと少し趣が異なる」感がその辺りにも感じられた。
続いて演奏された「あなたの髪に飾る星を探して」で始まる「冷たい指先のワルツ」は、個人的には初聴である。
もともと三拍子の曲は好きだが、中間部の伸びやかな旋律で歌い上げながらdimの和音で主題に戻す(確かそうだった気がする)王道は、三拍子が三位一体と結びついているという調和を体感させた。
続いて「春夏秋冬」の前奏が流れてきて、木漏れ日のような光と温もりとが8弦ギターの表面から伝わってくる。
1番だけの演奏のことが多く短く感じられる曲だが歌詞も曲も美しく、この曲の前奏の響きが聴こえてくると、交差点の角を曲がったときに予想もせずに可憐な花が咲き誇っているような、そんな目を奪われる風景が現れてきたような感覚を覚える。
この曲についてはたくさん記したいことはあるが、溜まりに溜まったライブレポが残されているので、次の機会に記すことにする。
ただ、この「春夏秋冬」については、前奏が流れてきたときから幸福感を覚えるだけの名曲であると感じている。


曲後、やっとギターを弾きながらのMCが入り、「今年で5回目になります、5回も僕引退してます」と「引退ライブ」であることが告げられるが、会場で額面どおりにそれを受け止める者はいない。
冒頭の曲同様ゆるやかな「あまつぶ」が、同じようなペースで歌われる。
普段の山田庵巳のライブは、鳥肌が立つ瞬間や胸が苦しくなる切なさを味わう瞬間が何度も訪れるのだが、この日はそれを極力均等化し、ゆったりと観客が聴ける曲を並べていた(少なくとも途中までは)。


「3番目の方がまだ到着していません、許可を得ましたので電話をかけてみます」とラインで繋いだ携帯電話を取り出し(この時点で明らかに仕込である)、「到着していない」原大介に電話をかける。
「近くまで来ている」「オタ芸を見たいので探している」といった会話があり、「着きました着きました」ということで会場に到着し現れるという、台本どおりの猿芝居が行われた。
原大介が着席した後、また演奏は再開され、この日の中では多少物語的要素がないでもない曲が演奏される。
眠らない犯罪都市といえば「江古田」とのことで、「刑事キャノンボ」であるが曲的には華やかなところが感じられる。
「刑事」というよりは「宇宙刑事」シリーズのような勢いがあり、ヒーローもののような疾走感が爽快である。
個人的には「踊るよデカ(刑事)ダンス」という、さりげない言葉が感心させられる。
そして、間奏に入る前に、原大介と「オタ芸どうだった?」「見てない」と短い会話が入り、「江古田」が海浜都市でもあるということが語られた後、そのまま「サメの背びれも気にしない」が演奏される。
この曲もこの日初めて聴いたはずだが、前曲からの流れと温度があまりに自然であったので、最初はこの曲は前曲の一部ではないかと思い違いをしてしまったところがあった。
あまり盛り上がらないとのことで(そんなことは決してないのだが)、「2番もあるけど1番だけで」と終了になる。


やはりゆったりと聴ける「山羊でした」が弾かれた後、これも一つの曲の連続かと思い違いする「狼の夜想曲」が続くが、これも初めて聴く曲である。
「やわらかおおかみ」とどちらが正式名称かは分からないが、ここでいつもの山田庵巳ライブで味わう想いを強く感じることになる。
途中までは前曲と同じくらいの温度でゆったりと聴いて油断をしていたら、サビの部分で胸の中をえぐり出されるほどの感覚が突然訪れる。
まさに満月の夜に変身した「狼」のように、「柔らかな君の声で子守唄聴かせておくれよ」の言葉と響きに引き出されて、心がかき乱される。
3番か4番まで曲があったら本当に変身してしまっていたところであるが、そこは抑えて、有名なショパンのノクターンが弾かれ、「窓辺のダンスホール」に移行する。
「歌いたいんじゃない、しゃべりたいんだ」とのMCがあり、この日はあくまでも「主役は他の3人」と共演者を立てる方向性を示す。
「あ、司会のマイクが立っている」と舞台脇の司会用マイクの存在を示し、非常に非常に珍しい山田庵巳の総合司会を堪能できることが表明された。


「命の傍らに」とタイトルのない曲が、連続して演奏される。
「命の傍らに」は定番曲であるが、この日はどうしてもその次の「タイトルのない曲」と一緒に歌う必要があったのであろう。
「タイトルのない曲(これは曲名ではなく、本当にタイトルがないことを示す、信頼の置ける筋より確認済み)」は、「最近友人とお別れをする機会があって」と特定の人物に捧げられた曲であることが告げられた。
音楽の構成はメロディアスなリフレインを用いるようなものでなく、言葉(メッセージの方が正しい)が初めにあり、それを気持ちを込めて会場の最後列で立って聴いているであろうその「友」に向かって精一杯歌っているような気迫が伝わってきた。
優しすぎて才能に長けた「友」が自分の感情を押し殺し、最終的な結果に繋がったことに対しての、抑え切れない想いを二人称で歌った短編は、この後続く「奇人」のステージを全て通り過ぎた後も、まるで烙印を押されたかのように強烈に印象に残り続けた。
もしかすると、この曲を理想的な形で自分の用意したステージで歌うためだけに、この日のリストは組まれたのではないかとさえ感じられた。


「満足です、歌いたいものが全部歌えました」と述べた後、やはり前曲の余韻を上書きすることのない「火の玉」で終了する。
「愛が全てでなく、愛が滑って」であるという前回同様の言葉で、山田庵巳ステージ終了となる。
そして、余韻に浸ることもなく、「ここからが本職でございます」と司会マイクのところに行き、「私、総合司会を務めさせていただきます山田でございます」といったような挨拶をして頭を下げる。
もっともっと聴きたいところではあったが、さらに珍しいものが観られるという喜びもあり、胸は高まる。


山田庵巳と入れ違いに、次のアサダマオ(この人はトリプルアクセルはしない)が登場する。
にこりともせず準備に気が向いていて、せっかく山田庵巳が「今回アサダさんをお呼びできたことを光栄に思います」と持ち上げているのに、気付いたのか気付かなかったのか無反応であった。
「実は仲が悪いんです」と山田庵巳が言葉を入れても、何も返って来ず、そのまま「ではどうぞ」とアサダマオのステージが始まる。
今から思えば、どう考えても分が悪い山田庵巳の後のステージということで、緊張が多少なりともあったのではないかと思われる。
なお、今回のレポを記すに当たって、アサダマオと原大介についてはマイスペースとYouTubeに上がっている曲を全部確認したのだが、アサダマオのこの日の身なりは動画と異なり額を出すような髪の留め方をしていた(ムーミンに出てくるミーに近かった印象がある)。


エレキギターの高音の2つの弦を使って、淡々とした八分音符が爪弾かれ、最初の曲の「HAPPY」が始まる。
和音はオーソドックスな循環系で、女声としては高くない中音主体の、歌唱と朗読の中間ぐらいの、流れていくような演奏が続く。
山田庵巳の女性の共演者は、比較的高音で絶叫するタイプの歌い手が多かったので、聴いていての疲労度が少ないという点では非常に助かる。
歌詞はYouTubeで確認できるので詳細は省くが、響きとしては七五調の定型の語呂を重視しているところが感じられ、ラップやブルースと似たようなことを行おうとしている割には聴きやすく、メロディラインが浮彫にされてくる。
最後のテーマ「ハッピー、素晴らしい」の部分で、「サン、ハイ」とリフレインを要求する。
不意打ちを突かれた客席がすぐに反応できないところで、「山田庵巳が見てるで」と関西言葉で語るが、会場で一番反応してくれなさそうな人間の名前を出すところには無理がある。
それでも、一曲目の演奏後には客席に謝意を表し、「嬉しい」旨の言葉があった。


「みんなのブルース」は、歌詞はマグロを盗んで捕まった野良猫や勉強のできない子など、具体性のある対象を内面を含み描いているので、意外と飽きずに聴けた。
この曲もまた、最後の「ブルースが聴こえる」のリフレインが客席合唱の形態で、「サン、ハイ」が入り「じゃあ、次男の子」などと指定まで入った。
曲の内容や印象は別として、コード進行は原マスミの「心配」に近かった。


「今から海へ行こうぜ」で始まる曲は、ネットでは曲名などを確認することはできなかった。
用いられる一つ一つの語は、耳当たりのよいキーワードではあるが、多少別の場所、別の口からも聴いたことのあるような固有名詞は記号として感じられないでもなかった。
言葉の響きの部分は重視して組み立てられているような感はあったが、この曲はワンコーラス曲なのか、かなりあっさりと終了した。


「真実」は、酒場のマスターと「孤独」について語り合い、「汝の孤独を愛せよ」ということが「真実」である旨の内容が諭される内容である。
この曲が、というわけではないが、気になった点としては譜面台に歌詞かコードかは分からないが紙を置き、それを始終眺めながらの演奏であったところである。
本当は、ラップのような言葉主体であれば、それこそ丸腰でも構わないので客席に視線を向け続けて訴えてほしいところはある。
だが、その割には言葉は準備に準備を重ねたような内容であり、サビの収束部はブルーハーツ程度にはメロディアスなところもある。
技量的には他の3人より遥かに伸びしろがあるので、創り込められた世界を「どのように伝えるか」という手段、提示法を掘り下げていく価値はあると考えられる。


「ドライフラワー」は、注文なしに非常によかった。
変声期前の少年のボーイソプラノのように、真っ直ぐな耳当たりのよい高音で、メロディアスな旋律が何度も何度も繰り返し歌われる。
「ドライドライフラワー、夢など見ない、ドライドライフラワー、あなたは枯れた」という1つ目のテーマと、「レイレイレイニー、雨が降る、レイレイレイニー、雨が落ちる」という2つ目のテーマと、それぞれがミルフィーユのように何層も重なり合っていく。
乾いているのか湿っているのかどちらか分からない、突っ込みどころが残っているのも素晴らしい。
後付けの理屈付けを考えるなら、「表面的にはドライにさめてしまっているように見えても、心の中は涙の雨が降っている」と強引に処理できるかもしれないが、まあそんなことはどうでもよい。
2つのテーマが繰り返された後、本来であればエンディング主題となるはずの4ビートのスローな旋律が歌い込まれ、ゆっくりしていくたびに心の中で収束を予感させるが、それは裏切られる。
さらに最初の主題に戻り、また延々と元のリフレインが続く。
このあたりがおそらく、アサダマオの真骨頂なのではないかと思う。
ラップやブルース的に言葉を五線の枠からはみ出して唱えるよりも、中学校の音楽の教科書に載せられるような素直な旋律に乗せて、本当に伝えたい言葉だけを愚直にリフレインさせていくスタイルが、この歌い手の魅力に繋がっている。
「音楽の教科書」と記したが、この日の演奏ではなくマイスペースやYouTubeを確認する限り、アサダマオの旋律は素直なおおらかな優しさが感じられる。
このタイプの音楽は量産しにくいところはあるが、音楽の中身そのものは魅力的であるので、妥協することなく原石を磨き続けてほしいものである。
アサダマオの作品はマイスペースでもYouTubeでも聴くことができるが、アサダマオを1曲だけ試聴してみるのであれば、この「ドライフラワー」がお薦めである。
ちなみに、「ドライフラワー」は6分を超える曲であるが、アサダマオのマイスペースの曲目リストを確認すると「ドライフラワー」が一番短い曲であった。
普段は、おそらく長めの曲主体の演奏を行っているものと思われる。


曲後、自分は27歳で、結婚してもうすぐ1年経つことが語られる。
「山田庵巳のイベントやからそんな人来へんやろ」と思っていたら、「めっちゃ人多い」と驚いていた。
実際、この日は山田庵巳の通常のライブより遥かに客入りはよかった。
山田庵巳企画というだけではなく、原大介の集客力があったのかもしれないが、この企画に多くの足が運ばれたのは素直に嬉しい。
最後に、自分や山田庵巳の音楽が世に認められていくことにより、自殺する人も減るのではないか、といったようなことを述べ、最後の「ダンス」が歌われた。
ちなみに、この曲の前に会場にゴキブリが現れ、「ゴキブリゴキブリ~」と節を付けて即興で歌ったのはよかった。


「ダンス」は、ネット上の動画を観る限り、本人の一番の気に入った作品であるようである。
途中までは、ほぼ単音で言葉だけが唱えられ、途中からは持ち味の「愚直なリフレイン」が伝えたい言葉を重ねながら繰り返される。
メッセージは、山田庵巳の言葉をヒントに組み立てられたアサダマオの人生観であり、これからも語り続けられる曲となるであろう。
「ワン、ツー、サン、ハイ」からは、耳当たりのよいメロディになり、そして客席に再々度コーラスを求め、「アサダを愛してる」「今日から俺たち友達」と歌わせたところでアサダマオの「出し物」が終了となる。


この日のアサダマオの一番の手柄は、普段本人の口からなかなか伝わってこない山田庵巳の私生活が語られたことである。
・打ち合わせの電話で、自分は早口なのに山田庵巳はゆっくり話す。
・8弦ガットを自分も弾いていたが、才能ないからガットは止めるようにアドバイスされた。
・ガリガリのような細い体だが、一緒に食事に行くとものすごくよく食べる。
・夫から、「あの人(山田庵巳)には気をつけなさい」とよく言われる。
他にもあったかもしれないが、また共演の際は興味深い情報として告知されるであろう。


アサダマオについて総括すると、ギターこそこの日の共演者の力量には劣るが(もっとも、上回るのは相当大変なメンバーだが)、体の中で鳴り続けているであろう音楽については、精一杯引き出していこうという試みが感じられた。
「山田庵巳のリスペクトするアーティストたち」というこの日のコンセプトを考えると、ギターや歌の上手さではなくこの内面に込められた音楽の存在の大きさについてを「リスペクト」していたのであろう。
個人的には、「ドライフラワー」的な、素直なメロディーを重ねていく曲を主体にした方が山田庵巳目当ての客の受けはよかったと思われるが、観客との一体感という点ではこの選曲も悪くはない。



総合司会の賛辞の後、「原君の出し物、楽しみにしてください」と、次の出演者の紹介が入る。
原大介はサウスポーであり、弾き語りには珍しいことなどが語られる。
おそらく偽りではないと思われるが、この日の観客の64パーセントが原大介目当ての観客であったとの主催者コメントがあった。
山田庵巳同様に、ネットで確認できる限り原大介はあまり自らのライブ活動の売り込みには熱心でないようであるが(おそらく、どちらもよいものを提供し続けていれば、おのずと結果は付いてくるという信念なのであろう)、機会がめっきり減った都内での原大介の演奏ということで入場者が集中したのであろう。


YouTubeなどの動画上では、少し品のよいお坊ちゃま風情だが、髪を少し切ったこの日の印象は小島よしおあたりの暑苦しさに近い。
MCなどに垣間見られるぎこちなさ、スマートでない滑舌なども、その印象を強めるものであった。
正直、この時点ではこのギタリストに大きな期待は抱いてはいなかったし、「奇人」に属する別な部分で何か観るべきものがあればよいくらいに考えていた。
この日唯一のスティール弦のアコースティックギターを、左利き仕様でストラップからぶら下げて、立ちながらの演奏であった。
「洗練」という言葉と対極のステージが用意されていると予感させられたが、その予感は裏切られたとも正しかったともいえない結果が待っていた。


そして、1曲目が始まる。
低音はミュートしながらの高速のスリーフィンガーかツーフィンガーで伴奏を、高音弦はミュートなしの伸ばしの音が旋律として、それぞれ奏でられる。
ピックは用いずサウスポーの左手の指で直接弾かれるが、その際弦自体を指先で叩くようなパーカッションの要素が加わり、ビートやリズムが直接的にギターを通して演奏される。
動画でもこの曲は確認できるが、この日の演奏はもう少し速かった印象がある。
音楽の構成自体はEmとB7が主体のオーソドックスなマイナー調の進行だが、部分と部分とのつなぎのところで日本的な響き(上手く言葉にできず申し訳ない)がある。
歌詞のないインスト曲ではあるのだが、原大介の音楽の特性がよく感じられる曲であり、この後の期待が高まる。
ちなみに、下のアドレスでこの曲も動画で確認できるが(冒頭曲)、動画の速さよりもっと速い速度で演奏されていた記憶がある。

この動画のシリーズで他の回を確認すると、この日の曲の大半を確認できる。

ギター弾きは一度、この奏法に驚いておく価値はある。


http://www.youtube.com/watch?v=XOtOkktpqhQ


曲後、間を置かずに次の曲に移ったが、この曲には歌詞があった(現段階で曲目不明)。
「泣いてる子はいないかい、弱い子はいないかい、君を喰っちゃうぞ」という部分が主体の歌詞であったように記憶しているが、ナマハゲか何かをテーマにした曲であろうか。
この歌がオリジナルか伝統古謡かは分からないが、歌詞も歌い方もかなり土着的な雰囲気がある。
民謡か民族音楽かのルーツが、どこか部分的にでもあるかと感じられるものであった。
歌い方は、喉を鳴らすタイプの歌唱法で、山田庵巳あたりとは対極である。
だが、その歌唱法自体が洗練されてはいけない民族性土着性を、程よく保管しているように思えた。


そして、次の「チャッキリ節」が演奏されると、その印象が確かなものとなった。
ネットの動画で観ることができるが、故郷の静岡にゆかりのある曲を必死に練習してものにしていったところがよく伺える。
歌に入る直前で、「アサダマオがコール&レスポンスを強制しないでやりっぱなし」であることに感心していたが、当の本人は「はー、チャッキリチャッキリチャッキリな、カモン」を高らかに歌い上げ、強制ではないにせよコール&レスポンスを求めていた。
そこで、客席に出身地を問うアンケートを行ったが、これも「やりっぱなし」感があってよかった。
ただ、静岡出身だが、今は「関西が熱い」と、関西で頑張っていて活動の中心としていることが語られる。


「真面目な歌を一曲やるぞ」と、「春夏秋冬」が演奏される。
読み方は分からないが、山田庵巳の同タイトル曲(こちらの読みは「はるなつあきふゆ」)とは別の曲である。
原大介のマイスペースでも冒頭部を聴くことができるが、前の演奏された2曲の土着的な雰囲気は完全に消え去り、少なくとも音楽的には洗練された構成になっている。
3拍子の3拍目に弦をナックルで叩く独自の奏法は入るが、和音進行も定型の循環型から距離を置きつつも美しい微妙な調和と安定があり、「奇人」ではない聴衆の人口にも膾炙する作品であった。
実際、この日の曲の中でも頭抜けて音楽自体のクオリティは高く、歌わなければ小松原俊あたりのアコースティックインストゥルメンタルギターの作品と並べても違和感がない。


歌詞は四季折々を歌うというよりは時の流れの速さを歌にしたという印象で、冒頭から1小節ごとに季節が次々と移ろっていく。
このあたりは、山田庵巳の一つ一つの季節にそれぞれの重みを置いている世界とは若干相違がある。
「時が経つにつれて『君』が離れていく」というテーマがおそらくは主題だが、一箇所「花の種を風と鳥が運んでいくよ」といったような歌詞があった記憶があり、その部分は印象に残っている。
おそらく、その部分からの印象のためであろうが、地に着いた感覚ではなく鳥のような一つ高い視点から自分を含めた世界を瞰視していると感じられる。
自分の周りで起こること、感じることも、大きな季節を含めた時の流れからすると、埋もれ消えてしまうちっぽけなことであるという想いが、見事な演奏の裏で語られていく。


と、ここまでの流れをそのままで収束させ、しっとりした余韻を残したまま曲を終えることも可能なはずだった。
だが、この日のこの企画一番の「奇人」と考えられる原大介は、それをよしとしなかった。
途中、歌のマイクを床に置き、また前奏と同じ美しい間奏をギターで奏でる。
何が始まるのであろうと聴いていたら、原大介はいきなり舞台上で横になり、首だけをマイクの置かれたステージ側に向け、そのまま歌とギターを続けた。
舞台上には長身の男性一人だけが横になり、ギターを抱えて弾き、声を張り上げて歌うという異様な光景があった。
そのちょうど最中、タイミングよく会場に訪れた「幸運な」観客がいた。
原大介ステージ終演後、山田庵巳も「一番面白かった」と語っていたのもまさにその場面で、「最初に眼に焼きついたのがこの光景で、どのような印象を持ったのだろうか」と想像すると、可笑しさはやはり感じられずにはいられない。
ちなみに、別の曲だが同じことを行っている動画が見つかったので貼っておく。


http://www.youtube.com/watch?v=NO6DnbV4Jk8

曲後、「座るか」とやっと椅子に座り、「めっちゃ練習しました、一人で」と繰り返し練習したことを報告する。
その後、「服は人の醜さを隠すためにある」話をして、話と全く関係ない曲に続いていく。
ちなみに、この日の演奏にはなかったが、ネットの動画を確認するとドラえもんの主題歌の演奏が確認できる。
この編曲は『現代ギター』というクラシックギターの雑誌に載っていた楽譜がベースの演奏で、おそらく原大介のギタールーツの一つにはクラシックが存在する。
シタールのタブラー奏法なども強い影響を受けたらしく、コピーだけでなく自分自身で消化した上で、オリジナルのものを紡ぎだしている点が山田庵巳のリスペクトする大きな要素なのではなかろうか。


「狐の嫁入り」は、動画で確認する限り7拍子と思われる。
といっても、4拍子と3拍子が交互にやってくる複合拍子なので、会場で聴いていたときには「間合いが詰まっているかもしれない」程度の違和感のみで、最も目と耳が行くところはやはりギターであった。
冒頭は、ギタリストのアヘンと呼ばれる(もっともこの通称が一般的かは知らないが)1弦の開放と2弦の音を半音でぶつけてくる和音が多用される(ロドリゴのファンダンゴ的な和音)
原大介は、オリジナルにこだわらず、ギターが生きるのであれば比較的カバー曲も多く演奏するようなので、この曲もオリジナルかカバーかは分からない。
だが、どちらにしても「音楽的複雑さ」と「伝統的日本的懐かしさ」を同居させているこの曲は、原大介世界に相応しい曲である。
歌詞は、「あの娘に会いたい」というテーマで、狐の嫁入りの自然現象(いわゆる天気雨)に結び付けて描いている。

 


「ここで今までのことを全部台無しにするかもしれないことをやります」と、今一番夢中になっているという「即興演奏」を行った。
冒頭こそ、沖縄音階に近い旋律か緩やかに奏でられるが、メインはギターの叩き(弦の音のあるなしを含めて)であり、1拍の間に3種の叩きを複合させる(3連符)パターンがかなり続いていた記憶がある。
最後に、地声で「おーい」と叫び、ストロークが何本か入って演奏は無事終了した。
見事な演奏であったが、曲が終わり「ちょっとずるかったね、最後考えてきた」と、黙っていれば分からないものを、種明かしを行った。
このあたりも、親しまれるキャラクターの元になっている一部であろう。


「希望の歌を一曲」と歌われたのは「ロバのウタ」で、マイスペースは冒頭だけだが、YouTubeではフルで聴くことができる。
この曲は、歌詞も曲も似たもののないまさに原大介世界の真骨頂(先ほどもこの言葉を使ってしまったが)であり、代表曲として挙げるならばこの曲以外にはない。
伴奏は叩きを含む特有の高速演奏で、疾走感が強い。
1番が終わった後の間奏で、ppになり遠くから近づくようにまた膨らんでいくのが、音楽的なダイナミックさを上手に表現している。。
次の土佐拓也も「天才だ」と褒めていたが、歌詞も凡人には生み出せないものであった。
「あのときロバを助けていればな」という何度も繰り返される主題が、まずどう移入してよいのか聴き手は試される。
「ロバ」は具体的な対象がいるのか、象徴的な意味合いで用いられているのか、寓話的な表現の中に解釈の拡大の可能性を残す。
分かりやすく記すと、「ロバ」のような他者を肯定的に捉える必要があったのか、それとも自分の内面的な「ロバ」的要素を大切にすべきだったのか、「物語でない」と指定するだけでも何通りかの文脈が存在する。
おそらく、「ロバ」には自分自身の投影がどこかにあるはずなのだが、それを「助けておく」という本来他者に対する行動と結び付けているところが興味深い。
曲後盛大な拍手が起こり、「いつも一人で駐車場で練習していても誰も拍手してくれない」と素直に喜びの言葉を口にした。


「今ので燃え尽きた」「今のが最後の曲で、アンコールが来たと仮定して、次はアンコール」ともう一曲だけ演奏することが告げられる。
また、蝶ネクタイをいつもするが忘れたので、この日は時刻表を破いて作ってきたということも、蝶ネクタイを解いて客席に示した。
そして、会場の最前列の男性に声をかけ、「僕のお手伝いをしてほしい」との言葉があった。
そこでは、合図をしたら「おっちゃん名前何てーの?」と言ってほしいというリクエストを要望していた。
演奏されたのはトヨタ自動車のCMや映画の主題歌でも用いられた「Summer」で、歌詞のないインスト曲であった。
個人的には、「奇人」ぶりを示すオリジナル曲を演奏してほしいところであったが、思ったよりも曲の展開がありギター自体の諸技法が顔を見せたので楽しむことはできた。
最後の観客とのやり取りであるが、これはステージの種明かしになってしまうので、何と切り返したかは記さずにおくが(別会場でもおそらくやっているだろう)、これも準備あってのものであることが十分に伺えた。


この原大介ステージは、まさにこの日のテーマ「奇人達のお茶会」に相応しいものであり、充実したひと時であった。
関西に出て(それにしても、反対方向は多いが東京から関西に出るのは珍しい)まださほど長い活動を行っている訳ではないので、おそらくライブでの集客力や知名度はまだそれほどではないと予想される。
だが、この真似のできないギターの特殊奏法、それと対極の洗練されていないMCとパフォーマンスは、「とてもくだらないことに、とても大きな労力をかける」ことを評価する(と思われる)大阪の空気に合致するはずである。
関西のライブハウスで、おそらく原大介の名前が見られる場面はこれからもあるはずである。
もし、そのとき記憶にあれば、原大介のステージに足を運んでほしい。
唯一無二のギター、音楽世界であることだけは保証する。
山田庵巳も日比谷カタンもギターの技術は非常に高いが、「似たものがない」といった点では原大介を上回る奏者を知らない。
できれば、関西で名を高めて、今度は原大介企画で関西で「奇人達の~」を主催し、関西に山田庵巳を紹介してほしいとも期待したい。
日比谷カタンあたりにムジカジャポニカまで連れて行ってもらうほうが早そうだが、原大介も非常に興味深い演奏家なので活躍してほしいと切に祈る。



原大介ステージが終了しても、なかなか原大介は引っ込まず、山田庵巳との会話がステージ上で行われた。

「2番目と3番目の出演者が濃すぎて、もはや私が誰なのかも皆さん覚えていない」と、労をねぎらう。
「デザート」「口直し」「お詫び」といった言葉で土佐拓也が表現され、これからのアコースティック音楽の中核を担うとの言葉までもあった。
山田庵巳がそこまで評価するのはどれほどの才能なのか、期待は膨らむ。
原大介が「土佐君」と普通に呼び、「めっちゃ、人」と呟き、登場した(確かに客は次々と入り、会場の規模を考えると超満員であった)。
その後、出会ったきっかけなどの会話があった後、「土佐拓也君に盛大な拍手は」「なし!」と紹介し、柔らかなタッチのアルペジオの前奏が奏でられる。


1曲目、カーペンターズのカバーである「close to you」が、少しテンポ感のあるサンバかボサノバの調で演奏される。
ギターの響きはノイジーなところがまったくない、手堅く丁寧な奏法であった。
原大介のギターの鍛錬が「耳驚かせる」要素の準備であるなら、土佐拓也のギターの鍛錬は「耳和ませる」要素の準備がなされている。
中音域で糖度を増す声質で、高音域は他の出演者と異なり、高音は力を加えて通すタイプでなく、軽いファルセットで力を抜く音質を用いていた。
先ほどのステージが、喉からの地声を鳴らす歌唱法であったので、音響的には不協和な倍音が存在せず、聴き心地のよい楽器演奏のようであった。
「聴きやすいでしょう」と自ら述べたが、この「聴きやすい」がこのステージ全般を通した長所でもあり、弱点でもあると、後で感じることとなった。


「バニラ」は、山田庵巳の「ぱぷりかぁな」と同様に、四分音符のベースラインを奏でながら和音を裏で打ち込んでいく奏法である。
実際、この伴奏のまま「ぱぷりかぁな」の歌詞を当てはめ、歌うこともできるのではないかとも思われた。
間奏で芸達者なところを魅せてくれ、ミュートトランペットの音質を口で奏で、一人二重奏を披露する。
「あのときロバを助けておけば」と、即興で先ほどの原大介のフレーズを織り込んでくるところも芸達者である。
正直、全編通して歌詞であまり印象に残っている部分はないのだが、「誰も触れることのないギリシャ神話のように」というフレーズだけはなぜか印象に残った。
言葉自体が持つ響きと旋律の動きとが、この部分については完全に調和して感じられたからと考えるが、はたしてどうか。
また、この曲が一番顕著だったが、右手の親指の動きが緻密かつ高速であり、この特筆すべき技術が土佐拓也の音楽の根底を支えていると述べても過言ではない。


「ポタージュ」も、やはり柔らかなギターの響きが支配する。
「土佐君のギターが小さく感じる」と、このステージ前に山田庵巳の言葉があったが、もしかすると本当にショートスケールの、テンションを下げたギターを用いていたのかもしれない(全くの未確認)
「ポタージュ」は、CMソングでそのまま用いることができそうなぐらい、柔らかな舌触りのポタージュ感が感じられる曲であった。
曲の印象だけで言えば、柴草玲の「おやすみ」あたりに近いか。
朝の光を浴びた食卓の爽やかさと柔らかな明るさがあり、朝食のBGM向きであるとは感じた。


「バラードやります」と演奏された「花火」も芸達者の延長線上で、打ち上げ花火が上がり「パッ」と音を立てるところを、口のみで擬音化している。
「花火が終われば君とさよなら」といった場面描写が主題の曲で、個人的にはバラードというより音楽による情景描写の絵画に近い印象を持った。
秀逸だったのは、通常の「花火」の「ドカーン」といった力強さを全く出さずに、遠くに上がる花火の小さな響きを儚げに表現していたところである。
おそらく、この日初めて聴く観客の多く(自分もだが)は、この「花火」が一番印象に残ったのではないだろうか。


「またサンバのリズムで」と、「distance」が演奏される。
何も引っかかるところのないスムーズなサンバのリズムが刻まれるが、この辺りが土佐拓也最大の弱点かもしれない。
聴いていて、あまりにもスルッと通り抜けていくのである。
「見事だ」という印象だけはあるが、研ぎ澄まされた軟水のように引っかかるところない喉越しなのである。
「スラリと読めてキラリと光る文章」が受験小論文の極意だとすれば、「スラリ」はあるが「キラリ」を抑えてしまっている印象がある。
パレード用サンバでよく存在する二拍三連の引っ掛かりなどを音や言葉のアクセントとして用いれば、もう少し印象が強く残ったかもしれない。
もちろん、これは完璧なまでの技術があった上での要望ではあるのだが。


「hungry butterfly」は、多めの音節を2ビートの曲に乗せて、軽快に歌い込まれる。
放っておいてもスラリとした流れがあるので、このくらい言葉数があったほうがちょうどよい。
個人的には、土佐拓也のステージではこの曲が一番楽しめた。
この曲も、間奏で管楽器を模した口での演奏が入る。
その前で、打楽器か何か別な楽器も模していた記憶もある。
間奏部分で、「コール&レスポンスのコーナーがやってきました」「チャッキリチャッキリチャッキリな」と、先ほどの原大介をリスペクトした演奏が
この辺りの方向性と芸達者ぶりを貫けば、「奇人」の称号は剥奪されることなく、一定の地位を保ち続けていたことであろう。


最後は、「一番大事にしている超スーパーバラード」と述べる「月の砂漠に」で、全編が終了となる。
歌い方としては、スターダストレビューあたりの歌唱が一番近いだろうか。
高音部で搾り出す音質を用意することで感情の揺らぎを表現しようという意図か、自然とそうしているのか分からないが、歌の技量も緻密なところがあるのできっと何らかの意図での歌唱と思われる。
主催者の山田庵巳や遠方から訪れた原大介らに賛辞を贈り、この日の素晴らしい企画は終了となった。


土佐拓也の演奏を聴き、「メジャーとは針を振り切らないこと」であると直感した。
昔の安物のカセットテープは、音声入力のレベルの針が振り切れてしまうと音が歪んでしまうため、エアチェック時には針とにらめっこの状態であった。
それと同じように、芸達者な技術で他の歌い手であればffで声を張り上げるところにスッと、ppを持ってくる緻密さがある。
「これからのアコースティックギター界の中核を担う」という山田庵巳による紹介は、技術面においては間違いなく存在し、今後も期待できるものである。
ただ、中核となるだけの何か芯のようなもの(それが何かは分からないが)を、この日の一度では発見することができなかった。

器用なだけでない、その音楽を生み出す核となる精神の一端に、次にライブで接するときには触れることができたら、と期待したい。

なお、セットリストは「土佐日記(このネーミングだけは素晴らしい)」で確認できた。


アサダマオと土佐拓也は関西出身、原大介は静岡出身だが現在関西で暮らし活躍している。
山田庵巳の共演者は、以前の共演の暮部拓哉なども含め、関西方面にゆかりがあることが多い。
非常に少ないサンプルでの勝手な印象だが、京都楽派は独自の音楽的色彩を貫き、大阪楽派は技術を徹底させていく傾向が何となくあるように感じる。
東京は分母が多いだけ多様性はあるのだが、その分だけ本流の存在は大きく、本流から外れた方向性を際物扱いしてしまうところはある。
山田庵巳が諸方面に多大な負担をかけて今回の企画、人選を行ったのは、商業主義の「本流」から外れた独自の世界を貫くことの美学を、多くの観客に伝えるため場を設けたかったからであると、個人的には考えている。
いや、もしかすると何か使命感のようなものもあったのかもしれない。
自分を売り込むことには淡白な山田庵巳ではあるが(原大介にもそれを感じる)、自分以上に細い道を歩き続ける(「切り開き続ける」の方が的確か)音楽家に対して、精一杯の情熱を傾けたことについて評価される日が来てほしいと切に願う。


これだけ充実した音楽会であったが、帰り道に頭の中を流れていたのは山田庵巳の「友を偲んだ曲」であった。

その余韻が、あれだけの時間と世界を通り抜けてもその力を失っていなかったところに驚きを感じながら帰路に着いた。





Sactone-Proud!2010/新宿SACT(10/07/09)
出演:暮部拓哉・山田庵巳・吉田あきら


(暮部拓哉)
1.恋の山手ライン
2.夕立と雷の中で
3.初恋
4.Rainy Day
5.恋のハジマリ
6.HANA
7.FLY


(山田庵巳)
1.模範的な黒
2.砂の道
3.水辺の妖精
4.旭日をつれて
5.あまつぶ
6.赤い月(~三丁目の鈴木さんのポチバージョン)
7.プリンスポプリは振り向かない
8.火の玉


(吉田あきら)
1.SLOELIFE SLOWRIDE
2.ENDLESS SUMMER
3.アイスクリーム
4.はじまったばかり
5.OVER
6.ターコイズブルー
7.君ニ捧グ



毎月山田庵巳がライブをしている新宿のSACTであるが、6月は行けずじまいであった(6月は「ジョンソンtsuり(書くことがありすぎてレポがなかなか上がらない)」と「くりくら音楽会」のみ一杯一杯で鑑賞)。
その前の池袋鈴ん小屋のライブがよかったのでその余韻はしばらく残ってはいたが、さすがに亡びた心を回復させたいと、新宿SACTに向かった。


5月は共演者の分も含めて少ない客入りであったが、この回はまずまずの入りで安心した。
山田庵巳の客の数も少なくなく(とは言っても山田庵巳ファンのシンボルとなる客席の帽子の数を数えただけであるが)、貴重な月例ライブの場として定着しつつあることを感じる(鈴ん小屋、秋葉原ドレスは毎月聴ける訳ではない)。
ドリンクに100円を追加してフロートにし、開演を待った。


暮部拓哉の部であるが、3人で登場した。
キーボードに村上通(このキーボードは非常によかった、後述)、ドラムにわだみつひこが参加しており、暮部拓哉はボディ底部が広く深い、重低音の共鳴を重視したアコースティックギターを抱えた。
最初の曲「恋の山手ライン」の始まりのところで、ヴィブラフォンのようなノイズレスでアタック音が透き通って響く音質で、村上通のキーボードが奏でられる。
前奏の何小節かを耳にしただけで、すぐにピアノ心と歌心に満ち溢れた演奏家ということが分かる。
予想外に山田庵巳の前の出演者の演奏を堪能することができたのだが、それはこの村上通の演奏の力も大きかったに違いない。
むしろ、村上通自身の作品の演奏も聴いてみたいとさえ感じさせた。
ドラムは茶筅とも文化箒とも付かない、「音が鳴り過ぎない」刷毛的な叩き物と素手とで演奏するスタイルを採ったが、もしかするとこれは会場の都合だったのかもしれない。
ともあれ、「耳障りな音が一つも出ない」共演者に挟まれて、少なくとも音楽的には何の不足も感じさせない編成であった。
歌詞は「13番線の山手線は」で始まり、新宿駅が舞台であることをさりげなく伝える(東京や品川、上野は、確か若い番号のホームであったはずである)。
「恋の~」といったタイトルは、二昔以上前の映画タイトルの邦訳などを彷彿とさせるが、メロディラインは決して古いスタイルでなく純粋に楽しませてくれる。
「恋の山手」からの部分でバックのコーラスが入り(この曲に限った話ではないが)、バックの二人が寸分の狂いもなく声を重ねられる力量の持ち主であることも分かる。
特に、村上通の声は美しく上声にコーティングする。
次が山田庵巳でなかったら、次がすっかり霞んでしまう充実度である。


一応、暮部拓哉自身についての印象も、簡単に記す。
声の音域や倍音などは、ピッチを3度落とした小田和正と槇原敬之とを大体2対1ぐらいで融合させた印象である。
フレーズの中途の部分で音を膨らませて声を響かせ、フレーズ最後の単語はあまり伸ばさず黒い音符を当てて、次のフレーズまでの間に聴衆が息を大きく吸えるだけの間を与える。
とてつもない高音が出るわけではないが、ファルセットとの中間でのギリギリの高音では言葉の儚げさも増長させる効果があり、この歌い手の一つの大きな聴かせどころとなっている。
ギターについては、聴き手を驚かすような演奏は好んでいない。
どちらかと言えば、根がメロディメーカーであり、それを壊さないようなギターの伴奏を第一義に考えている。
実際、4拍目の和音がコードチェンジの際早めに手を離しているところは見られた気がしたので、バックが二人いてのあの音であるとは感じた。


「夕立と雷の中で」も、メロディメーカーとしての暮部拓哉の魅力が発揮されていた。
具体的に言えば、メロディメーカーに必要なのは歌が始まって2小節目にハッとさせる工夫である。
例えば、Gの和音の次の小節に何のためらいもなくEmのコードを持ってきて歌い込む人間は、別なところで勝負どころを持ってこなくてはならない。
そっと歌い始めても(音楽的に)飽きさせずハッと思わせるには、楽典や和声楽の書籍から離れて音と響きを根気強く見つけていく作業が必要となる。
暮部拓哉の音楽は大変聴きやすく、日常のどうした生活場面の中で流れていても決して邪魔することのない自然さがある。
だが、その自然さとは裏腹に、おそらく試行錯誤を繰り返して「目新しい響き」を生み出し、初聴の観客にも印象を植えつけることに成功している。
演奏・曲自体は清涼感に溢れたもので、アレンジ・コーラスも含めた完成度は高い。


暮部拓哉の新宿SACT出演は初めてであるが、前に来訪したときには日清の建物を目印にしていたらしい。
今回、東新宿駅で降り、駅の地図で場所を確認したところ、日清は見つからなかったが、何とSACTが表示されていたという。
東新宿は帰りにしか使ったことがないので気付かなかったが、小さなライブハウスが駅の地図に記載されているのは非常に珍しい。


「初恋」は、最近久々に演奏して、また演奏し続けたいと感じたという曲である。
先述の小田和正のように、フレーズごとに伸ばさず短く切り、一つ一つの言葉の余韻を残そうという意図が強く感じられた。


「雨つながり」とのことでもう1曲雨の曲が演奏されたが、この「Rainy Day」は個人的には一番気に入った作品である。
徳永英明の「レイニーブルー」と、高橋真梨子のユニマットのCMソングの中間ぐらいの温度感があり、カラオケでも歌いたくなるくらいの普遍性もある。
特に、「泣かないでRainy Day」のサビの部分は、CMで使っても映像を浮き立たせるだけの浮力があり、この曲だけのために物販のCDを買わせるだけのクオリティがある。


MCを間に挟むことなく、「恋のハジマリ」へと続く。
「恋は左胸に始まり」という歌詞で、3人のアカペラが和声通りのハーモニーを聴かせる。
その後も破綻のないハーモニーを聴かせるが、冒頭のアカペラが一番見事であり、何度も下準備を重ねたことは容易に推測させられた。


曲後、大阪の枚方市出身であることを触れた後、おそらく代表曲であろう「HANA」の紹介を行う。
「HANA」は、2008年NHK「みんなのうた」で採用された曲である。
長年視聴から離れている層には意外かもしれないが、現在の「みんなのうた」はインディーズミュージシャンの登竜門的な存在になっており、毎月大量の持込がある。
このことの是非はもちろん両方存在すると思われるが(個人的にはむしろ「非」であるが)、このような場から少しでも多くの名曲が広まっていくことを願って止まない。
個人的には、YOCCOの「ami」を「みんなのうた」に推したい。
なお、「HANA」は、母を亡くした友人から電話がかかってきたときの想いから生まれた曲とのことである。
一青拗のようにしっとり歌い上げる曲で、おそらくYouTubeでも確認できるはずである(未確認)。
それにしても、キーボードが切ないほど美しい。
正直、この村上通のキーボードを聴くだけで来場する価値がある。
今まで、ピアノの技術が高い演奏家はいくらも観てきた。
廃業した倉橋ヨエコ、七尾旅人とセッションした石橋英子、「ローランドカークが聴こえる」の前奏で度肝を抜かれた柴草玲など、数え上げたらきりがない(直近では近藤達郎も素晴らしい)。
だが、技術の高さを全く見せ付けることなく(むしろ隠して)、人間の歌以上に鍵盤に命を吹き込むという点では、村上通の演奏は誰とも異なっている。
本当にピンでの暮部拓哉のライブが素晴らしいかは分からないが、この3人編成でのライブは間違いなくお薦めできる。


弦を幾つか下げてオープンチューニングにした後、最後の曲「FLY」が演奏される。
オープンチューニングとは思えないほどナチュラルで聴きやすい曲で、やや他の曲よりも音節数が多く音符に押し込められていて、それにより盛り上がりの加速を生んでいる。
実際、「HANA」で終了する方が完結感はあるのだが、後のステージへの連続性を優先させるのであれば(後のチューニングの手間を省く意味でも)「FLY」での終演は正解であろう。


暮部拓哉は、前述したようにメロディメーカーの才が一番強く、逆に歌詞やMC、ギター演奏では強くハッとさせられることはなかった。
あくまでも売りであるファルセットギリギリの高音での歌唱と、2小節目からハッと言わせる和音展開とメロディ、そして完璧なまでの(「ズルイ」山田庵巳談)バックの演奏、それらが聴き所であった。
山田庵巳の客も、この演奏なら十分受け入れられるはずで(前に訪れたときの共演者の演奏では皆、席を離れてしまった)、この回のブッキングは成功だったと言えよう。


いよいよ、お待ちかねの第2部であり、心が躍る。
久々に観る山田庵巳は、キャップタイプでなくハットタイプの帽子を被っていた。
髪が伸びたのか、後ろ髪を後ろで束ね、顔も普段よりも色白く感じた。
その白さたるや、末期のマイケルジャクソンにも劣らない風情であった。
椅子の横には、御馴染みの踊る花たちが置かれた。
チューニングをしながら、演奏直前にBGMの音量を上げられるといった妨害も今回は入らず、ステージ上で第2部開始の時計は動き出した。


いつものように、「模範的な黒」からスタートする。
ギターの上声よりも、ベースラインの旋律がレガートに流れ、8弦を弾くというある意味ベーシスト的な演奏家の特性がこの日は強く感じられる。
様々な技法が出現するこの曲の役割は、演奏家の最初の指慣らしでもありコンディションのチェックでもある。
譜起こしして、自分でも弾いてみたい欲求に駆られるが、残念ながら2本足りない(コントラバスギターを足元に置いてその部分だけ足で弾くぐらいなら可能か)。
この曲にいついては、いずれ掘り下げてみたい。


次の「砂の道」に入る前に、「お風呂を沸かそうと思ったんです、そしたらこんなでっかい蜘蛛がいた、こんなだよ」と、ありえないほどの大きさを両手で示し、そのまま演奏に入る。
「砂の道」は定番曲であり、完成された演奏を魅せてくれる。
それなのに、間奏部分ではまるでかけ離れたMCが常にと言っていいぐらいに入る。
山田庵巳のプロフェッショナルなところは、どんなに笑わせる言葉を口にしても、次の瞬間には刹那にして元の別世界に戻りきるというところである。
なお、蜘蛛の話題は後でも続き、蜘蛛と会話を交わしたところでオチが付いたのかどうかも分からないまま収束した。


「水辺の妖精」は、8弦ギターでありながら6弦と近い音域の部分の演奏が多く、他の曲と印象が変わるように感じられる。
ソルのギター練習曲のような響きの上で、山田庵巳の高音が二重奏のように重なり、倍音成分を補完する。
だが、山田庵巳の歌が現実世界から遠くへ連れて行ってくれる力を持つのは、おそらく歌唱やギター技術のみによるものではない。
あまり今まで触れてこなかったが、その言葉の選び方、歌詞世界にも多大な要素が存在すると考えられる。
山田庵巳は声とギター、双葉双一は歌詞世界について、その世界を論ずることは容易く、実際記すことはたくさんある。
しかし、それを補完する山田庵巳の歌詞世界、双葉双一の楽曲構成について掘り下げる必要があるように、最近思えてならない。
山田庵巳の歌詞世界は原マスミとも双葉双一とも異なるが、やはり世俗の手垢が付かない純粋世界であることを感じる。
極彩色の絵画的な原マスミ世界や現在を描くにも常に時間軸の存在が見え隠れする双葉双一世界と比べ、山田庵巳の歌詞世界は地味ではある(物語系を除く)。
だが、山田庵巳の歌詞世界には不純物や雑音を全て取り除いて、一つの純粋な結晶をまず創り上げようという意図がある。
完全な調和を持った黄金分割の世界を用意したところで、その調和を保ったまま表現の言葉が加えられていく。
決して瞬時に世界に引き込む強さを持つわけではないが、高原の澄んだ空気のごとく聴き手の体内に浸透するように働きかけ、精神を浄化していく。
「水辺の妖精」においても、単に記号的なキーワードを並べただけではない芯のある調和が感じられ、「妖精」という非日常の存在を躍動させる働きを持った。


「南関東で大雨注意報が出ていて、台風とかテンション上がっちゃいます」と、雨や湿気を好む(乾燥を好まない)志向が顔を覗かせる。
「どっちを応援するか決まったの? オランダとスペインどちらを応援するか。(この日はワールドカップ決勝前)」「でもさあ、何となくミュージシャンならスペインを応援したくなる、○か×か、一曲終わるまでに~(観客の反応はよかった)」と呟いた後、またすぐ次の前奏に入る。
「旭日をつれて」は、高速のアルペジオの中で特定の弦にアクセントが置かれ(たような気がする)、均質でなく躍動が強調される。
ちょうど、ナルシソ・イエペスがヴィラロボスのギター練習曲第1番の中間部の1段ずつ下降するところで2弦のみにアクセントを置き、強調されたのを思い出させる。
歌もギターも見事な出来なのだが、例のごとく間奏部分でMCが入る。
「一番目から、あんなに寄ってたかって音楽をやっている人たちを呼ぶなんて、ずるいんじゃないんですか」
「これからどんどん薄くなる一方ですよ」
「私はまだいいですよ、2本多いですから、次の方なんか丸腰」と、共演者について触れる。
「暮部君、見るたびにメンバーが違っている、人間的に問題があるのでは、いえいえミュージシャンの鏡」と述べた後、「お聴きいただいているのは旭日をつれて」と、また刹那にして元の世界に戻る。


山田庵巳のステージは、どこかラジオ番組(それもFM音楽番組でなく、AM放送のDJ番組)を感じさせる。
昔はAM、FM、SW問わず番組ごとエアチェックを行ったものだが、AMラジオは曲の間奏部分で交通情報が入ったり、曲と関係ない語りが入りそして曲の別世界に戻ったりという、時間と時間との落差が今想えば楽しかった気がする。
山田庵巳のステージには、曲ごとに完結して拍手が入るというピリオドが存在しない(当然、最後に一つ存在するが)。
1ステージに1曲ほどは物語的な長編曲が演奏されるが、それだけではなく実はステージ全体が一つのラジオ番組で、一つ一つの楽曲もその構成要素であるという認識なのではないだろうか。


「ここは地下だから、降ったら水が入り込むでしょ。今か今かと楽しみにしている」と、以前サンジャックで日比谷カタンが「終末のひととき」のMCで語ったのと近い願望を口にする。
実際そうなったら大変ではあるが、映像世界的には分からないでもない。
全く関係のない話であるが、著名な映画「タイタニック」をテレビで視たときに個人的に一番印象に残ったのは、沈みゆく船体の上で弦楽カルテットが次々と楽器を手にし音楽を奏でる場面である。
終わり行く世界の中で日常と変わりなく心と行動を維持する、その行動は「パンを焼きながら静かに待つ」終末の行動と同じくらい魅力的である。
「雨にちなんだ歌を歌います、『大洪水』、違うか」と、雨つながりで「あまつぶ」を演奏する。
この日は、ここまでビートを利かせず柔らかな響きを聴かせる曲目が続いた。
「雨」がテーマとして採り上げられているからではなく、曲中の雨景色の中で立ち止まって外を見つめさせるだけの間合いが、一連の曲の中に感じ取られたからである。
間奏で、やはりMCが入り、「この前お風呂沸かしたら、こんなでっかいナメクジがいた」と、今度は別な生き物が登場した。
「(昔ナメクジを家出したカタツムリと思っていて)ナメクジの方がカタツムリより繊細なんだと思っていた」ようなことを呟く。
また、サッカーの話題となり、マラドーナ率いるアルゼンチンチームが負けたところから、現役時代のマラドーナをどれだけの客が知っているか、という話になり、「20代までの人は帰ってもらって」と、何がメインのステージか分からない言葉の後「お送りしているのは、あまだれ」とまた曲に戻る。


曲後カポを外し、「カポはもういいや」と口にした次の瞬間、「次の曲は、あ、カポだ」とまたカポをギターに装着する。
「ちょっと前まで僕は木の上に住むトカゲだったんですよ」という語りから、曲の演奏は始まっていたのだろう。
「木の上」は練馬区を、「トカゲ」は都民を象徴していたのであろうか。
「トカゲ」の「地を這う生き物」的な象徴まで含んでいると、もっと掘り下げて考えなければならないが、まあ大筋には問題はない。
「木の中に図書館があって大好きで大好きで3回ぐらい読んだお話をしましょう」と、「赤い月」が紹介される。
「赤い月」は、短いバージョンと物語バージョン(三毛猫のミケ及び三丁目の山田さんのポチ)と全部で3バージョンある。
物語バージョンの前者は出会いと別れの感傷を、後者は生きることの悲哀を感じさせるが、読後感がどちらも清々しいところがある。
これは山田庵巳作品全編に渡って共通することであるが、登場する人物は苦悩の中自分の置かれた環境の中で必死に全力を尽くす。
それでも叶わぬ世の中で、決してハッピーエンドでない結末を迎えることが多い(そうでないものもあるが)。
だが、それは悪意に満ちた社会にスポイルされたのではなく、悪役のいない社会の中でも結局満たされないという「運命」の大きな力に導かれての結果が表現されている。
聴衆ももちろん叶わぬ人生を多くは送っているわけであるが、他人ではなく「運命」に起因する人生を意識させることにより諦念を含む浄化を逆説的に与えているように考えられる。
「正直者がバカを見る」「悪い者が得をする」といった描写は微塵もなく、叶わないまでも不幸の中で生きていることの物語的な美しさを自己に投影させる効果を持つ。
「夜空に浮かぶ赤い月」のメロディと張り上げる高音、伴奏(聴けば聴くほど裏拍の処理の細かさは感心させられる)は、山田庵巳随一の心も沸き立たせるほどの傑作部分であり、遠慮せずにこの曲で第3、4の曲をこしらえてもらいたいと希望する。
肝心の演奏であるが、この日の聴衆には反響がよかった。「2001年宇宙の旅」の主題のビブラートが奏でられてから最後のオチまで、普段のおとなしい山田庵巳の客より初聴の受けのよい聴衆に聴かせた方が反応はよく、弾いていてもさぞかし気持ちがよいものであろうと予想される。
曲の終わらせ方もハイセンスで、本来ここで拍手喝采のはずなのだが、やはりそれを許さずMCが続く。
「今無職なんです。失業手当が9月くらいまで出んですけど」「今仕事を探してます、自宅でできるのがいいな」と、どこまでが本当で本気か不明な言葉が続く。


「あと2曲」とのことで、「プリンスポプリは振り向かない」が初めて聴け嬉しい。
YouTubeで一番初めにかかるのがこの曲で、「デンキウナギの蒲焼食べて」で始まる曲である。
山田庵巳の頭の中で存在する映画「プリンスポプリのピンバッジ(と聴こえた気がした、違っていたら申し訳ない)」のタイトル曲となったのが「プリンスポプリは振り向かない」であるという。
また、冒頭の歌詞部分から、土用の丑の日の曲だとも述べていた。
やはり、こうしたボサノバ的南米的な曲調は、ガットの弦のギターにはよく合う。


そして、「愛と平和撲滅キャンペーンテーマソング」ということで、「火の玉」が最後に演奏される。
「ヒジョーニ、ヒジョーニー、ジョーニジョーニー」と来る部分の前は、山田庵巳にしては珍しく歌詞最優先の最低限の音の動きで導入させている。
また、歌詞の一部分は「愛が全て」ではなく、「愛が滑って」であるという注意が間奏中に唱えられる。
どの辺りが「撲滅キャンペーン」の部分かは分からないが、一通り「愛と平和」が撲滅したところで山田庵巳のステージは終了した。


全体に、MCなどは客席の反響もよく、充実したステージであった。
音質と照明は秋葉原ドレスよりは劣るが、ほとんど生音に近い代々木ブーガルよりは遥かに聴きやすい。
毎月定例ライブを行っている安心感、10回分の半券を持っていけば1回無料で入れるところ(出演者に還元されないかもしれないが)はよいので、気軽に足を運ぶにはよい空間である。


第3部は、ギター1本のみを抱えて吉田あきらが登場する。
前の山田庵巳の部で「リストを決めてこない」と紹介されたのは本当で、たくさん曲があり「決められない」とのことであった。
「僕は大阪から夜行バスに乗ってやってきました、7年前」と自己紹介をして、「SLOELIFE SLOWRIDE」を歌い始める。
この音楽が何に近いか考えてみたが、物凄く大きな区分をした場合に山崎まさよしと同じカテゴリーに入るというぐらいしか思い浮かばない。
一つのフレーズの中に多めの言葉を詰め込んで、全開で全編歌い込める芸風である。
鉄弦を音の出し漏れがないぐらいにしっかり押さえてストロークを奏で、表でミュートを加える裏での音出しが多用されていた。
タイトルの通り「スローライフ」が歌い込められていたが、ステージを見る限り「スローライフ」とは程遠いアクティブな精神が満ち溢れていた。
「ENDLESS SUMMER」はメドレーのようにそのまま突入したが、ギターストロークのパターンが近く、同じ1曲の部分ぐらいにしか感じなかった。
曲後、見田村千晴という「かわいらしい」直近の共演者の話をし、その女性と山田庵巳がよく似ていて「かわいいなあ」とのことであった。
「俺も嫌いとちゃうねんなあ」といったような言葉が漏れていたように記憶していたが、そんな人間に山田庵巳を手渡すわけには決していかない。


「アイスクリーム」は、吉田あきらのステージの中では一番印象に残った。
前2曲より、若干しっとりした伴奏が全編を流れる。
「赤いTシャツと白いコンバース」という言葉から始まる歌詞は、自身の想い出としての記号であろうか。
自分とは縁遠いキーワードばかりが並ぶ歌であるが、こうした日々を学生時代に送った聴衆には共感できるところがもしかしたらあるのかもしれない。
文科系の音楽ばかりに自分は耳を傾けてきたが、体育会系の青春音楽があるとしたら、このあたりであろうとは感じた。


「雨が降っているので雨の曲を」とのことで、「はじまったばかり」が弾かれる。
「夢のような」からソフトに歌い込める部分は、印象的ではある。
場数をこなしているであろう歌声は、中音も高音も安定しており、演奏自体の完成度は決して低くはない。
「OVER」も、弾きなれた感のあるギターが前面に出る。
だが、正直歌詞も曲も全くといっていいほど思い出せない。
この演奏家の最大の弱点もそこにあり、演奏中にそれなりのクオリティの高さは感じるのだが、帰宅後に何か印象に残る旋律・歌詞がなかったかと考えても、メモに頼らないとほとんど何も出てこない。
もちろん、何度も足を運べば生活の音楽として定着する楽曲も幾らかあると思うのだが、2小節目から工夫を凝らした旋律と和音展開を用意した暮部拓哉の方が、帰宅後の印象の残り方は大きかった。
安定はどの曲にもあるのだが、何かどこか一つの部分、一つの要素で突き抜ける瞬間、それがこの演奏家にはほしいと感じた。
前奏のギターの流動だけは多少魅力的なのだが、根が長距離走者なのであろうか、部分部分では意外なほどに冒険は少ない。


「ターコイズブルー」の前奏を弾きながらのMCで、客が反応に困り引くような場面が何度も見られ、「こういう雰囲気は好き」だと述べる。
波乗りサウンズ的なベースラインを、そのままギターで弾いたような演奏自体は印象的であった。
結構力強く弾いていたら、弦が1本切れてしまった。
その後のMCの最中、第1部の暮部拓哉が自身のギターを抱えて吉田あきらに手渡したが、オープンチューニングのままであった。
「アブノーマルチューニング」と何度も呟きながら、チューニングをしなおす。
「吉田あきらでググってもらうと、僕と民主党の吉田あきらが出てきます」と再度自己紹介をした後、借り物のギターなのでピックでなく指で前奏を奏で曲が始まる。


「個人的に大変な時期に」生まれた曲だという、「君ニ捧グ」で終了する。
タイトルは「君に」であるが、傍にいるもう一人の自分に言い聞かせているかのような歌詞に感じた。
サビの部分で伸びやかなメロディーが当てられているところは爽快感があり、最後を締めくくるには相応しい。
倍音の多い借り物ギターの響きも、よりポップな調味料となり、程よい効果が感じられた。


一応、吉田あきらについて考えてみると、第1部の暮部拓哉と異なり「ギターを弾きながら曲を作っていく」タイプであると感じられた。
このタイプは、何曲でも曲を量産でき、1曲ができあがる時間も早い。
桑田佳祐や忌野清志郎も確かこのタイプで、楽器を弾きながら心のまま言葉を音符に乗せていく。
この場合、歌唱法や編曲、歌詞そのものなどに魅力がないと単調な音楽になってしまいがちであるが、その点については彼らには余りあるものが一応あった。
逆に、吉田あきらはギターをそこそこ弾けるので、曲そのものは決して単調ではない。
だが、1曲の中の広義のダイナミックレンジが乏しく、最初から最後まで全力投球の感があるので、曲をすり抜けたときに感じる印象が拡散する。
もっと「ずるい」表現者であれば、一点だけ力を込めて伝えたい部分を用意したら、他はあえて印象に残らない(残さない)ように手を抜く。
その「ずるさ」を全く持ち合わせないところが、吉田あきらの精神でも弱点でもあるのだろう。


今回のSACTは、前回来訪時と比べてステージからステージへの曲線がなだらかで、その移行を楽しむことができた(前回来訪時は大きな段差があった)。
毎月毎月、順列組み合わせで共演者を取り替えているので、別な共演者目当てで山田庵巳を知り、ミイラ取りがミイラに(もっと適切な表現が力量不足で浮かばなかった、申し訳ない)なっている例も存在するであろう。
この月例の空間が、表現者山田庵巳の試行と実践の貴重な場となっていくことを、心から願って止まない。





『くりくら音楽会 』vol.7 「ことばとピアノと」/門前仲町・門仲天井ホール(10/06/17)

出演:原マスミ(vo,g,朗読)、近藤達郎(p)


1.朗読「注文の多い料理店」序(宮澤賢治)
2.約束の満月
3.フトンメイキン
4.教室
5.月化
6.朗読「音痴」(家庭の医学)
7.ピアノ
8.映画「クヒオ大佐」より
9.伝道の書・第十三章


10.人間の秘密
11.スタァダスト
12.朗読「おきなぐさ」(宮澤賢治)
13.海のふた
14.血と皿
15.夜の幸
16.夢の四倍
17.ブレーメン


18.哀しみのソレアード




教室ライブがなくなってしまった今、もう二度と観られないかもしれないと諦めていた、近藤達郎(「こんどうたつお」だが、だいたいどこの場所でも「たつろう」と紹介されることが多い、本人は慣れっこになってしまったのだろうか)の伴奏付きの原マスミの朗読を再び鑑賞することができた。
個人的にはライブを観たりブログを記したりする余裕がとてもないはずの時期であったが、何とか時間を工面し(レポは大幅に後回しにし)、今まで一度も降りたことのない門前仲町駅の階段を上った。
案の定、人生と同様に道を誤り、整理番号を何十番か遅らせてしまう。
もっとも、どの席もよい席だったので、一人客にはあまり問題はなかった。
会場は、とりあえずエレベーターで何人かずつ順番に上がっていく「鶯谷キネマクラブ(倉橋ヨエコ廃業ライブの地)」方式であった(帰りもエレベーターが動いているところは違うが)。
眺めがたいへんよく、本来ライブハウスといった空間とは違った会場のはずなのだが、企画に協賛企業が幾つか付いていてドリンク込みの演奏会であった。


やがて、主催者の挨拶があり、時間を置いていよいよ「ことばとピアノと」の企画に相応しい二人が登場となる。
原マスミはギターを持たずに朗読用の眼鏡を身に付け、朗読作品から披露されることが確認できた。
そして、静かに鍵盤の沈むのに合わせて奏でられるピアノの響きが発せられる。
教室コンサートのときよりも澄んだ美しく光るピアノの音の粒子が、空間の中で広がっていく。
やはり多目的ではない、特別に用意された空間という感覚がある。


冒頭の朗読は、非常によかった。
宮沢賢治の詩は、平凡な言葉を積み重ねているようでいて、実は俗的な感覚(特に内的なもの)を排除しており、純化された「一見、日常世界」を提示することによりその世界に触れる人の心までも純化してゆく。
「私が~頃」というような、当たり障りのないようなことを言葉に表しながら、その一連の群から日常生活の雑音を取り除いていて、記憶の純化作用と同様に(またはそれ以上に)過去のイメージ像を美化させる力を持つ。
原マスミの朗読は、一般的な安定と収束で勝負しておらず、むしろ浮遊と拡散が感じられる。
一フレーズ終わらせるところでトーンと声量を落とすのではなく、むしろピッチを上げ抜けるように声を通すことによって、フレームから自由な絵画のように、世界が無限の広がりをもっていく。
一連の美しき言葉を聴き終えるとき、自分の決して美しくはない過去も薄汚れた現在も、そんなものは存在しなかったかのように天然色へと脚色され、ひと時の心地よさを提供する。
もちろん、ピアノの音の美しさも、それを増長させたところはあるだろう。


朗読が連続することなく、そのまま音楽へと移る。
「約束の満月」は、バンドバージョンでも完成された伴奏が付くが、ピアノ一本でもそれと同じだけのクオリティを持った音楽を提示する。
近藤達郎のピアノは、音楽を輪切りにするビートやリズムを削ぎ落とし、流動的な音の粒により夜空に浮かぶ雲の動きや月の瞬きなど連続性を持った映像を投影する。
空に浮かぶ映像ばかりでなく、澄んだ夜の空気の冷たさや立ち竦む足の感覚までも、この音楽には伝える力を持つ。
夜景の美しい会場であったが、ここで満月でも観賞できればさぞかしつきづきしく感じられたことであろう。


聴き覚えのない、三拍子の静かでゆったりしたピアノの前奏が奏でられる。
サティ的ともウインダムヒル的とも言い表せないようなジャズらしい曲で、昔々のラオックスのCMで聴いたような雰囲気の曲(これで分かる人は一人もいない)で、夜中に何もないフローリングの室内で丸い玉を転がしたような感覚があった(ますます分かりにくい表現である)。
もちろん、そのときは何の曲が始まるのか、全く予想も付かなかった。
「フトンメイキン」であると判明したのは、歌詞が始まってからである。
「一重まぶたの三日月」「日本料理になってしまったんだね」など、「ことば」のテーマに相応しい印象に残りやすい歌詞が次々とピアノの流動の上に浮かび上がる。
個人的には「陽炎に揺らめく街の景色」から始まる部分の世界が、超現実的な絵画をイメージさせ気に入っているが、バンドアレンジと異なり、ことば全体をモノトーンの静的な色彩で包み込ませる印象であった。
「ハヤク、フトン、メイキン」の部分も、このアレンジでは声の楽器的要素を少なくし、意味が伝わるような朗読との中間的な表現を心がけているように感じた。
なお、曲後、今回のテーマを想定したのか、「今日、ずっと表現しなければだめ」なのかと、誰にともなく問いかけていた。


いつもの調子で「教室」の前奏をベンチャーズのようなテケテケで始めた後、ピアノの落ち着いたフレーズが流れる。
「教室」の歌詞自体は広義の「教室」を表現しており、「学ぶ」という気持ちを持つことにより旅の場でも眺める星空でも新鮮な感覚を味わうことができることを伝えている。
ただ、その中で前奏や間奏で近藤達郎のピアノの音が、シルエットのように本当の「教室」の空間をイメージさせ、二種類の「教室」を音楽の中で融合させる力を持つ。
本当は、こんなよい音の出るピアノでなくても、アタック音だけが強調される安いピアノでも十分なのだが。


朗読「音痴」は、以前にスターパインズカフェでのバンドライブで、何かの曲の間奏部分において披露されたことがある。
『家庭の医学』を朗読するといった発想のない多くの聴衆は、言葉が進んでいくにつれ小さな笑い声を漏らし、おそらくこれも意図の一つではあったと思われる。
だが、この朗読は、いろいろな意味で画期的であり、実は「音痴」の朗読を期待していた身としては非常に嬉しいところがあった。
まず、情報としての内容の興味深さである。
「音痴」という概念のメカニズムを一般人にも分かるように説明しながら、それでいて「そうだ」と自論を代弁してくれたかのような深い掘り下げが幾箇所かに見られ、つい内容に聴き入ってしまう。
次に、やはり一般的な朗読の概念を打ち破る題材を採り上げたことである。
喩えるならば、炊飯器や扇風機の説明書にそのまま曲をつけて歌い込めるような暴挙であり、美しい言葉たちのみを朗読すべきという価値観の持ち主は卒倒してしまうことであろう。
もう一つは、伴奏と一定の間合いを持って朗読されると、このような内容の文章でも「飲み物のように」驚くほどスッと入っていくことである。
これは、いろいろなところに応用できるはずである。
例えば、職人の名調子で朗読された様々な無機質な文章を音源化し茶の間に持ち込むことにより、有機的な彩りを生活にもたらしていくことであろう。
とにかく、この朗読「音痴」は実験的・前衛的という括りではラベリングすることはできず、次に披露されることがあったら、おそらくまたさらなる可能性を提示してくれることであろう。


第1部の最後の原マスミ曲の演奏は、ギターに挿さったケーブルが抜けていて、再度挿しなおしての仕切り直しになった。
そこで、昔話が語られるが、18歳で上京して当時創ったのが「ピアノ」であったということに、ひどく驚かされる。
18歳で「ピアノ」を、20歳で「仕度」の歌詞を生み出す才能は、どこから生まれてきたのであろうか。
これは、生まれつきの才にのみ起因させたり教育などの環境にのみに起因させたりするのは、あまりにも無理がある。
音楽より以前から絵を描き続けていて、その画力を基に「音楽」や「言葉」という画材を用いて世界を描写しようとした故の「ピアノ」や「仕度」だったのではなかろうか。
また、「表現」とは単に技術の部分によって差異が生まれるのではなく、表現しようとする内容の源泉自体の大きさによって生まれるものに差異が生じるところがあると考えられる。
ワタナベイビーが忌野清志郎のことを「あれだけ表現したいことがあるのが凄い」と評していたことがあるが、源泉自体の深さや大きさが、詩の大きさに比例してくるのではないか。
大衆歌謡の世界では、おそらく森高千里あたりの作詞の頃から「職人作詞家」から「等身大の一般人」の視点に歌詞世界が少しずつシフトしてきたように感じているが、実はどちらも「詩人」の視点ではないという点では共通している。
石川セリなどのように寺山修司や谷川俊太郎の詩を用いた楽曲も中には存在するが、メインストリームではいつの時代も決してなかった。
素数より最大公約数が重宝される商業主義音楽の世界では見向きもされないかもしれないが、原マスミのような詩人の言葉は既製商品の味に飽き足らない層にとっては、別の方向軸の栄養素となる成分で溢れている。
肝心の「ピアノ」の演奏であるが、「ピアノ」を本物のピアノ入りの編成で聴けるという意外にも希少な機会を得て、「土星の輪っか」も「濡れながら飛んでくヒコーキの銀色」も、よりクリアに映るような気がした。


一部の最後に、珍しい近藤達郎のソロコーナーがあった。
今回の企画者が、原マスミ以前から近藤達郎の活動を目にしており、設けられたらしい。
教室ライブでも目黒美術館でも、忠実に原マスミ世界を引き出すための役割に徹し、プロフェッショナルな演奏でその枠をはみ出ることはなかった。
だが、今回は原マスミの引き立て役ではなく、一人の独立したピアニストとして招聘されており、こうして独自世界を披露する場が与えられた。


まず最初に、近藤達郎が音楽を担当した映画「クヒオ大佐」より1曲披露された。
近藤達郎は映画や舞台、テレビなど、様々な媒体で音楽を担当している。
一番知名度があるのが、CMソングの「リゲインのテーマ」であるが、さすがにこれは今回のテーマとは異なるのか演奏されなかった。
「クヒオ大佐」は実在した結婚詐欺師をモデルにした内容で、ずっこけた話の中で一部分だけ幻想的なところがあり、そこに付けた曲とのことである。
きらめく光を感じさせる高音鍵を多用させる曲で、オクターブが同音か確認できなかったがアルペジオの中で同じ響きを持つ音がぶつかり合い、不思議な印象を持たせる。
例としてはヴィラロボスのギター練習曲11番やアルベニスのレイエンダなどのような音形だが、旋律にオクターブ音が付与されているのでなくアルペジオの音形そのものの動きが音楽を形作っていて、後期印象派の絵画のようにソフトフォーカスに包まれた映像に眩しいほどの輝きだけが強調される。


もう一曲は、今回のテーマに相応しい、如月小春とともに活動を行っていたときの作品が演奏された。
近藤達郎自身が朗読をしながらピアノの音を奏でていくのだが、完全に音節単位で声を出していくスタイルであった。
一つ一つの言葉(というより文字)に対して、ある規則に従って音を当てはめていく(決まった音に決まった音程の音を当てるということ)という、いわば実験的前衛的な手法を用いていた。
例えば、「それゆえ、主はこう言われなかった」「太陽は昇らなかった」などと、末尾は否定形で統一されていた。
他には、「ん」の音には旋律ではなく、キューピー人形を握って出る音を当てていた。
「ことばとピアノと」のテーマにはよかったが、1部の終わりとしては「クヒオ大佐」の方がよい余韻が残ったかもしれない。


第2部は、まず原マスミ一人で登場し、定番曲の「人間の秘密」が演奏された。
近藤達郎と一緒に演奏するならアコーディオンの響きが楽しめたところであるが、この日の趣旨のためか荷物が増えるためか、ギター一本での演奏となった。
「人間の秘密」も「血と皿」同様に破壊力のある歌詞で、曲が生まれるまでの何十年かの「人間とは何か」といった自問自答の答えが、一つの完成形として3番までの歌詞の中に織り込まれている。
最新アルバム以降の曲群の中で、おそらくこの曲は代表曲の筆頭に挙げられるであろう。


その後、「月面から目薬」の前奏が奏でられた気がしたが、中途で中断し「何やろうかな」と、なかったようになってしまった。
やはりこの曲も言葉が人を喰った面白い曲であるので聴きたいところではあったが、まあ仕方ないところではある。
だが、「大ちゃん一緒にスタァダストやろうか」と、楽譜の準備もないはずの曲が急遽演奏される。
せっかくなのだから1曲でも多く二人で、という点ではよい流れである。
有名な「スターダスト」のカバーではあるが、この曲の一番の聴き所は近藤達郎の流れるようなピアノソロではない。
「夜はなぜやってくるの」「それは地球が磁石だから」などという、名曲の原曲をまるで無視した(とは言え原曲の歌詞を知らないが)、原マスミの世界観の染料で塗られているところである。
そのため、有名な曲でありながら、月に顔が描かれているかのようなまったく別のファンタジー世界が繰り広げられ、日常も忘れさせるところがある。


ここで、前の2つの朗読と異なり、会話文のある作品の朗読が始まる。
事実上、この日のメインディッシュであり、時間も音楽の労力も多く割かれていた。
原マスミの「朗読」は、「音楽」「絵画」「詩」と比較しても、プロフェッショナルを特に感じさせる。
他の3つももちろん非凡で、他の創り手にはありえない作品を生み出している。
だが、これらはある程度受け手側の好みの影響を受け、一部の愛好家に熱狂的な支持を受ける性質のものである。
しかし、原マスミの「朗読」には職人的な緻密さを感じさせる。
言葉の意味や音だけを伝えるのでなく、その場の心や表情をも伝え、聴き手は自分がまるでその輪の中に存在し自分に関係する世界の中でその物語が繰り広げられているかのような錯覚を覚える。
パスカルズとの共演のとき、原マスミは他人の歌であるはずなのに歌詞カードにも譜面台にも目を通すことなく、暗譜暗唱した上で披露していた。
おそらく、音程や言葉の音を伝えるのでなく、自分自身の体に消化した上で解釈した自己世界を立体化させるにはその方法しかなかったのであろう。
内容は、おきなぐさ(別な通称があったようだが)に対して周囲からかけがえのない存在と捉えられていることなどが、どちらかというと三人称的な視点から描かれていた。
最後に空に飛んで行き、変光星になったのではないかというくだりは、映像的にも美しく、朗読者自身が想定した絵を用意した上で読み上げていることが素人の自分でも感じられた。
近藤達郎のピアノも、一つのドラマのBGMを全編制作するのに近い密度で構築され、原稿用紙の行間に淡いパステルの色彩を敷き詰める役割を果たした。
朗読後、「宮沢賢治って知ってますよね、共産党の」との言葉があった。
「宮本」とすぐに、横のピアニストから指摘が入り、ここは突っ込むところと知らない層も増えつつある客席に親切なフォローの心掛けが感じられた。
なお実際、昔、浜田幸一がこの二人を取り違えて国会で発言したこともあった(何とか委員長をやっていた頃)。
今回の企画には、まあ関係のない話ではあるが。


メインディッシュはこれで終了し、後は音楽の時間が続く。
「海のふた」は、演奏されないはずがない大作であり、物語的な流れの中間部でフラッシュバックのように「日常生活の中の日常的な言葉」が矢継早に提示される。
初演のとき「だんだん耳に馴染んできますので」との言葉があったこの曲は、その言葉がその響きで発せられるのが一番自然な状態であるかのような次元まで上り詰めている。
演奏的には、三拍子のところのピアノの部分が、この日に用意された音のように感じられた。
もしかすると、普段のバンド編成でも他の楽器を引き算していくと同じものになるのかもしれないが、少なくともこの日のこの演奏自体には、特別な響きが感じられた。


「血と皿」は、この日の「ことばとピアノと」の副題に、おそらく最も相応しい曲である。
この曲にどこまで共感でき、どこまで浸ることができるかは、聴き手個人の歴史の要素が大きいかもしれない。
「血と皿」を初めて聴いたときに、「この曲をもっと自分のものとして感じることができる生き方をしていたなら、さぞかしこの曲は自分の中に今以上に入ってきたことであろう」と少し悔しくも感じたものであった。
だが、この曲の歌詞は全体であれ部分的であれ、誰にとっても一度聴いたら忘れられない特別さがある。
この曲の誕生日を自分は知らないが、おそらく社会が成長型の時代のはずで、成長から取り残された存在に現在ほど光が当てられてはいない頃のはずである。
そのような時代に、社会の群集に溶け込むことができない対象を見てきたかのように描き(本当に見たのかもしれないが)、リアルすぎるほどにその心に光を当てている。


「夜の幸」は、純粋に妖精ファンタジー的な絵画的な美しさがある。
シュールレアリスムス的な描写はこの曲に限っては存在せず、初期の色鉛筆絵画時代の原マスミ作品の作品映像に最も近く感じられる。


「夢の四倍」は、本当に驚いた。
まさか、この日にこの編成で聴くことができるとは、予想していなかった。
小峰公子が編成に入らなくなってからは、少なくともバンド編成では一度も演奏していないはずである。
「フトンメイキン」と並び、言葉によって超現実的なダリやマグリット的な色彩を感じさせる曲の筆頭である。
「この企画だから演奏された」ということはもちろんあろうが、以前とは別人のように意欲を見せる(以前は寡黙な職人のイメージ)堀越信泰や一番コーラスを楽しんでいる(と思われる)楠均などとともに、この曲がバンドライブで披露されてほしいと心より願う。


第2部最後の「ブレーメン」は、クールダウン的な終曲であろうか。
「フォーク系の人はこういうのが得意で」と前奏を奏でながらMCをしようとするが、どうしてもMCに節が付いてしまい、演奏を中断させて今後の予定の告知があった。
バンドライブも「10月7日木曜日」とアナウンスされ、「10月なう」とtwitter的な(もっとも、この文脈に相応しいのは「ナウ」ではないが)用語が用いられた。
また、近藤達郎が、如月小春などの文化人と接点があったことについて触れ、「文化人って、俺、空缶評論家の石川浩司君しかいない」という言葉が出た。
矢川澄子あたりは相当な文化人だと思うが、石川浩司のほうが上だったのであろうか。
正直なところ、個人的には「夢を見るのはもう止めよう」の言葉が原マスミの中から生まれたことにあまり納得ができず、自然主義文学に転向した島崎藤村と被る陰さえ当時は感じられた。
メロディ的には秀逸ではあるのだが、「なぜ」という想いはしばらく消えることはなかった。
だが最近は、この曲は「夢を見て夢に破れて」を強調しているのではなく、人間が「それでもまた夢を見て」しまう生き物であることを強調しているのではないか、と感じるようになった。
夢を見ることこそが人間の全ての源泉であり、それによりたとえ裏切られたとしても未来に繋がる灯火を掲げていくことになるということを伝えたかったのではなかろうか。


最後に、カバー曲の「哀しみのソレアード」が、アンコールとして演奏される。
ピアノ入りの演奏は初めてだが、カックラキン放送局などで有名な曲であるからかこなれた演奏で、最後のデザートとしてはよい余韻を提供してくれた。


本当はそのまま会場に残っていれば、観客も参加可能な打ち上げが、実費負担でその場所のまま行われるはずだった。
だが、あまりにも心を亡ぼしていた時期であったため、名残惜しくエレベーターを下りて東西線の改札にICカードをかざした。
「多分、次があるであろう。そのときは、何が朗読されるのであろうか」と、全く根拠はないが確信に近い想いを抱きながら、地下鉄の揺れを楽しんでいた。





まず、長年愛用していた圧力鍋が実はリコール対象だったので、それから記したい。


http://www2.nikkeikin.co.jp/npc/npchp.nsf/owabi?openform


仕様で強火にすると回転蓋が外れるものだと思っていたが、どうもそうではなかったらしい。
ちなみに、毎日のように使い込んだ中古の圧力鍋が、買値相当の高値で下取りされた。
街のドンキホーテで値段を調べると、小さな圧力鍋であれば2つ買えるらしい。
玄米炊きは、現在土鍋に戻してしまっているが、いずれまた購入したい。
当時、理研の圧力鍋はかなりのシェアがあったと思われるので、眠っている圧力鍋があれば型番を調べてみるのがよいと思われる。


本来、このスープカレーも圧力鍋を多用して作っていたはずだが、ないものは仕方ないので、家の一番大きい土鍋でこしらえることにした。
何度か材料を変えて試してみたが、以下、直近の材料である。


・カレールー(コスモのフレーク状の「スープカレー」、カルディコーヒ-ファームで販売されている)
・トリモモ肉2枚(もちろん、最初からカットされているものでも構わないと思われる)+塩コショウ少々
・ジャガイモ5~6個(好みで)
・インゲン1袋(これも好みで)
・ニンジン2本(好みでなくてもダシ取りに)
・ピーマン1個(嫌いでもダシ取りに)
・マイタケ1パック
・シメジ1パック
・ひよこ豆適当に(生豆使用だが、調理済みの缶詰でもよいと思われる)
・ゆで卵2~3個(カットしたほうが味は染みるが、君が崩れやすくなる)
・コーン1缶(本当はピーターコーンなど、生のものを入れたかった)
・水菜たくさん


以前入れたことがあるものとしては、エリンギ、銀杏、レンズマメ、カリフラワー、豆苗、大根などがある。
本当は、カシューナッツやヘイゼルナッツなどがあれば入れるのが好きなのだが、ないため実現していない。


1)トリモモ肉を、熱していないフライパンの上に皮が下になるように乗せ、弱火でゆっくり熱する。本当は生のまま鍋で煮た方が、肉自体は柔らかく食せる。だが、余計な油が外に出て他の食材の調理に使え、皮もクリスピーになるのでこのようにしている。
2)その油が残ったフライパンの上で、皮を剥いたジャガイモを弱火で焦げ目が付くまで熱する。丸ごとでも美味しかったが、スライスしたのも悪くなかった。もちろん、生のまま鍋に入れてもよいはずだが、夏なので足がチーターよりも豹よりも速いため、熱はおまじないのように余計に通している。
3)ひよこ豆を軽くゆで、網にあける。本来なら、圧力鍋でそのまま一緒に煮込んでいたところである。
4)ゆで卵を作り、皮を剥く。本当は先ほどのフライパンの油で熱しようと考えていたが、忘れてしまった。
5)インゲンは両サイドをカットし、3等分に切断する。
6)ニンジンもピーマンもダシを取るだけなので2等分にしたが、好みでもっと小さくてもよい。だが、基本的にはスープカレーは大き目のカットでよいはずである。
7)キノコ類は、小さく手でちぎっておく。
8)水菜は意外かもしれないが、スープカレーにはとても合うように感じられた。具材をあまり入れられないときも、水菜だけは入れたい、お薦めである。ハサミで思いっきり細かく刻む。
9)家にある一番大きな土鍋に、上記のもの全て入れて、ミネラルウォーターを並々と注ぐ。水道水でもよいのかもしれないが、スープカレーの味がとてもよかったのは水のせいかもしれないので、水道水は試していない。
10)煮込んで沸騰したら、カレールーを入れる。このルーが素晴らしい。想定量を遥かに超えたカレーを作っているのにしっかりとスパイシーな味があり、具が少なく汁だけ飲んだとしても美味しい。このルーのおかげで、自分はスープカレーを作る勇気が湧いてきた。
11)弱火で長時間に込んだら火を止め、とりあえず1晩味を染み込ませる。


出来上がってすぐぐらいがスープは一番美味しく、毎日熱しているとだんだん味がぼけてくる。
だが、それと反比例するように、根菜系の野菜には味が染み込んでいき、スープカレーならではの喜びを与えてくれる。
本当は徹底的に味の染み込んだ具材を取り出し、新しいスープに入れるとよいのだろうが、そこまでは試していない。


現在まで、スープカレーのルーは複数のメーカーから発売されていたが、このコスモフーズのものは味、手軽さなど、多くの面で優れている。
他のメーカーのものは器にオイルを入れたり、辛さパウダーで辛さを調節したりと、フレキシブルなようで実際に大鍋からよそって食するには不便なことが多かった。
辛さパウダーを多めに入れると、スープカレーの味のバランスまでも損なわれるようで、スープカレー作りから遠ざかる日々が続いた。
このコスモからは「薬膳カレー」のフレークも発売されていて、これもカルディで購入することができるが、こちらは残念ながらそれほどでもない。
国立の「カフェれら」で薬膳カレーとスープカレーを注文したとき、ともに通いたくなる味を実感したのだが、少なくともスープカレーについてはこのルーのおかげでいろいろ研究ができそうである。
よい具材やよい追加香辛料を見つけたら、またそのときは記したいと考えている。
また、よい情報があれば、ご教示いただきたい。


柳原陽一郎 20th Anniversary Live Encore“やなぴの歌返し~20年20曲”/下北沢440(10/07/10)


1.ロックンロールレイディオ
2.航海日誌
3.寒い星(以上16位3曲)
4.おもひで小道
5.さよなら人類(シングルバージョン)
6.クリスマスベル
7.つらい日々はこりごりだ
8.19位メドレー(マリンバ・ばいばいばく・ホーベン・ブルーアイズ・夜のどん帳・夏がきたんです・オリオンビールの唄・自転車道路まで・ふしぎな夜のうた・GTI16V・君を気にしてる)

9.5963(以上11位5曲)


10.私は音楽家
11.SATOKOちゃん
12.あえて旅人(以上8位)
13.ブルースを捧ぐ
14.おろかな日々
15.満月小唄(以上5位)
16.ハレルヤ(4位)
17.だるまだまるな(3位)
18.ハニームーン
19.奇跡の人(以上1位)


20.あの娘は雨女
21.ふたりは遊牧民(以上アンコール)



本当は、まだ上げていないレポが幾つかあり、そちらから順に記すのが筋だと思うが、一気に書き上げられそうなところがあるので、後先で記すとする。


1月から5月まで続いた柳原陽一郎ほぼ全曲ライブは終了したが、今回は追加公演で評判のよかったベスト20を採り上げて演奏する企画であった。
「好きな曲」を選んで毎年レイトショーは行っていたものの、実際に演奏された曲の印象をランキング化したものはなく、興味深いところでは遭った。
ただ、今回はソロであり、鬼怒無月のギターが素晴らしくてランキングに入った曲も、曲自体の手柄になってしまう格好になり、「この曲がここに来るのは意外でした」というコメントが頻発することになった。
先に全体の印象を記してしまうと、見事な過去のセッションの記憶が甦ることはあっても、ソロの演奏が物足りなく感じることはなかった。
このあたりが柳原陽一郎ライブの不思議なところで、「前回ほどは期待できないだろう」などと予想値を低めて会場の門をくぐっても、演奏が始まると見事にそれらが裏切られることになる。


「ロックンロールレディオ」で、この日の演奏はスタートした。
ギター1本であっても、バンド編成のときと変わらずよく声も通る。
カバーアルバム「ドライブスルーアメリカ」からの曲であるが、個人的にはこの曲がベスト20に残ったことが意外に感じた。
メンバーの3人が好きだったという「航海日誌」「寒い星」までが、16位3曲であった。
「航海日誌」は、第5回目の「メンバーが選ぶアンコール曲」でも採り上げられており、もともと人気も高い曲である。
「寒い星」は本人がそこまで気に入っている曲ではないようだが、曲を思い出しながら演奏したリクエストライブのときとは異なる完成度も高い演奏を聴かせた。
現実社会の空間から、どこまで遠くまでその音楽が連れて行ってくれるかを考えたとき、周りが蒸した夏の空気であっても「寒い星」は暗く澄んで少し冷たい空気を聴き手に感じさせ異世界の映像をよりリアルに実感させる。


その後は、11位が5曲続いた。
「バンド編成でなく、弾き語りで弾いた曲が選ばれてしまうこともある」と呟いていたが、「おもひで小道」は選ばれて仕方のない曲である。
ライブで演奏されないレア曲だからというからではなく、曲の生まれた背景、おそらくそれを想い起こしてと思われる当日の演奏を考えると、聴き手の胸にも来るものがあったからである。
「さよなら人類」は、前奏だけナゴムバージョンで、それ以外は非常に珍しいシングルバージョンであった。
『ヤナソロジー』を読む限り、本人はそれほどシングルバージョンを嫌ってはいないようだが、周囲の評判があまりよくないためあまり演奏されていない。
少なくとも自分がライブで聴いたのは、これが初めてであった。
だが、「牛を忘れた牛小屋」あたりに柳原陽一郎らしさがオリジナルバージョン以上に感じられ、弾き語りの場合、曲自体も締まった印象があった。
「クリスマスベル」は、入って当然のレア曲である。
音楽的にも一番辛い時期の曲であるので、「この曲が」という思いのようであったが、メロディメーカーとしての柳原陽一郎(当時は幼一郎)の才は発揮されている。
柳原陽一郎がしっくりいかない曲は「詞先」でなく「曲先」の曲などが多く(今はその方法では創っていないようだが)、メロディ自体は悪くなくても言葉の世界に結びついていない不安定さに音楽のリアルさを実感できなかったのではないかと感じる。
後で出てくる「私は音楽家」同様にディレクターからいろいろ注文が付き、「これじゃあ売れないから、子どものコーラスを被せる」というように手を加えられたらしい。
「意外」との言葉が出た「辛い日々はこりごりだ」がランクインしたのは、おそらく鬼怒無月の手柄である。
マンドリンかソプラノギターか忘れたが、フォーク調のゆったりした単調さの中に清涼感のある高音の響きが重なり、よい雰囲気であった。
ギター一本でも悪い曲ではもちろんないが、バンド編成でなければここまでの順位にはなっていなかったであろう。


11位最後の曲の前に、11曲あったという19位のメドレーが一気に演奏される。
「ホーベン」「オリオンビールの唄」のような超人気曲もあれば、「夜のどん帳」「自転車道路まで」のようにバンド演奏がよかった曲もあり、メドレーにはもったいない曲が続く。
「ふしぎな夜のうた」は、バンド編成ならもっと上に行ったのではないだろうか(シリーズ中はソロ演奏)。
個人的には、「君を気にしてる」をフルで聴きたかったところではある。
前半最後は、これも意外な「5963(ごくろーさん)」であった。
今回、意外な曲はアンコールも含めたセットリストの最後に置かれた曲が多く、「5963」は第5回の最後の曲である。
「初頭効果」「近接効果」は、記憶の心理学実験での重要用語であるが、2部制のライブでは「初頭効果」よりは「近接効果」の方が現れやすい。
特に、第2回から第4回までは一度弾かれた曲が再度最後に演奏されたので、学習効果までもがアンケートに反映されたかと思われる。


後半はいよいよベスト10であるが、やはりレア曲の「私は音楽家」が発表される。
「クリスマスベル」のカップリング曲で、アルバム未収録である。
軽く使った曲で、この曲がこの位置に置かれていることに違和感を感じているようであった。
「SATOKOちゃん」は第4回の最後の曲、「あえて旅人」はその前のアンコール前半の最終曲であった。
鬼怒無月のギターは印象的だったが、置かれていた位置の要素は大きい。
「SATOKOちゃん」あたりでは結構熱唱になり、後に控えているであろう「満月小唄」まで喉が持つのか心配になる。


ここで、大曲が続く。
おそらく、柳原陽一郎本人は、この3曲あたりをレイトショーのベスト3ぐらいの気持ちで演奏していたのではないだろうか。
ファンと本人と好きな曲については温度差があるが、この曲についてはよい具合に一致していると「ブルースを捧ぐ」が演奏される。
正直、毎回演奏されていた時期(「帰宅部」ですら演奏した)にはありがたみが薄れてしまっていたときもあったが、第5回で久々に聴いたときはかなりよかった。
よく通る声は、この日何度かマイクから口を外し、生声を客席に届けた。
全5回を通して、一度苦労して高みに上げられた曲たちは、ギターやピアノ1本でも品質をを損なうことなく、逆に全5回のライブの演奏をフラッシュバックさせる力を持った。
「おろかな日々」も、ほぼ同様のポジションである。
「満月小唄」は、最初「満月小太郎のテーマ」と名付けたらしいが、それではあんまりだとのことで改題されたとのことである。
長いので、特別なときしか演奏しないとのことだが、毎回ライブに行っていると年に何度かは演奏している印象はある。


ベスト4は、「ハレルヤ」から始まる。
直近の冬季オリンピックの開会式でも演奏された曲だが、おそらく日本で一番長く歌い続けているのは柳原陽一郎ではないだろうか。
訳詞もオリジナルといってもよいぐらいに消化した感があり、曲後の余韻もよい。
同じ第3回の最後に演奏された「だるまだまるな」も、本人は意外なようだった。
「とこやはどこや」の二番煎じのようなタイトルについて言及があったが、「だるまだまるな」は鬼怒無月の上声でのコーラスが意外によく、第3回の演奏の中ではやはり秀でていた。


1位は2曲あり、「ハニームーン」と「奇跡の人」だったが、「奇跡の人」は第4回の最終曲である。
だが、「ハニームーン」は前半最後の曲というだけだが、本当に素晴らしい演奏であった。
好き嫌いを抜きにして、純粋に「一番の演奏」というだけであれば、全5回で「ハニームーン」がやはりNo.1であったと思われる。
アンダルシアの風が吹き抜け、一流のフラメンコのような印象を持つものだった。
この日は初めてキーボード一本で演奏したが、「難しい」と口にしつつ、最後まで熱演を続けた。
「お経」や「マンモウ開拓団」あたりも来ると考えたが、さすがに来なかった。


アンコールがあり登場するが、「何にもない」とまず口にする。
「雨女」の声が会場から上がり、時季的に相応しいからか、演奏し盛り上がりを見せる。
「二人は遊牧民」は、おそらく演奏されなかった曲のなかでは思い入れがあるのであろう、たまにこうしたところで演奏される。


この後アルバムの制作に入り、都心でのライブはしばらくお休みとのことである。
加藤一誠など、関わりのある演奏家が参加するであろうと予想されるが、楽しみではある。
アルバム完成記念のライブなどもおそらくあると思われるので、それまで待つことにしたい。


なお、この日一番のニュースは、山に登って迷惑をかけないために、とうとう携帯電話を購入したことである。
とは言え、8人ぐらいにしか番号を伝えていないので、全く電話がかかってこないとのことであった。


終演後、すぐ近くのlete(滝本晃司ライブ)の前に向かうと、予想外にこちらは終演前であり、アンコールで名曲「星を食べる」の音が漏れ来るのを耳にすることができた。
どのように弾き、どのように歌っていたのかは当然想像するしかないが、小さな空間の中でおそらく繁華街の賑わいを忘れさせる空気に満たされているのではないかと感じた。
大変興味のある空間で、個人的に足を運ぶ演奏者の出演も多いので、いずれドアノブを捻ってみたい店である。




ヨドバシカメラで100円PCを購入し、24ヶ月目を迎えた。
100円玉の形の団扇を持ってEmobileの販促を店員が行っていた時期が懐かしいが、もうそれから2年の時が経った。
この2年という期間は実は重要な意味を持ち、2年縛りの特別プランで高い料金を支払っていた顧客にとって、その料金から解放されるタイミングなのである。
今月、24ヶ月目の解約はまだ手数料がかかる。
24ヶ月目の解約は2900円の解約料であり、ネットを全く使わなかったときの料金と等しい。
もう使わないと腹を決めれば解約してもよいのだが、何かの時に使うかもしれないと考えたので、8月1日に解約することにした。
解約金はかからず、日割りの1日分の請求だけになるらしい。
もちろん、2年縛りの高いプランが終われば1000円ほど、放っておいても安くなる。
さらに1年の縛りをつければ、もう1000円ぐらい安くなるはずである。
だが、利用状況と電波状況、機器状況を考えて、一旦解約することに決めている。
もし、再度利用するなら、ISP経由でレンタル利用できる手段で契約すると思う(IIJ予定)


肌身離さず持ち歩いていたので、様々な場面で役には立っていたのであるが、とりあえず、不満であったところを羅列する。

1)電波がやはり途絶えてしまう区間は、やはり結構ある。新京成だとくぬぎ山近辺を含め3箇所、常磐線も松戸から金町に行くところはかなり苦しい。出先で使うことが目的であれば、デッドな区間が長くなることはそれだけ作業の制限や停滞に繋がる。

2)USBから繋いでいたケーブルが、結構な頻度でショートしてネットが切断されてしまう。最初に付いていた2種類の長さのケーブルは既に使えなくなり、似たような色のケーブルを購入したものまでショートしてしまっている。直挿しの機器の方がその点は優れていると思う。

3)速度は、PCの性能もあるかもしれないが、やはりあまり出ない。ハイスペックの機器をレンタルすることも考えたが、PC性能を考えるともったいない気がした。公衆無線LANはそこそこのスピードが出ているので、値段に見合っていないところはあった。

4)今後、1日あたり約300メガ程度の利用で帯域規制が入るという報道があった。たまにではあるが、音楽や動画ファイルを落とすこともあることを考えると、システムのアップデートですら超えてしまいそうな帯域での規制は、解約へと足を速めた。

5)これは、回線に罪があるのではないが、「常に繋がる環境」があると、ダラダラと巡回ネットコースを散歩して無駄に時間を費やしてしまう。津田沼駅やマクドナルドなど、公衆無線LANが繋がる場所はあるのだから、そこまでは文章でも打ち、記事の更新などにのみネットを接続するのでよいように思われた。

6)やはり、家に帰ればマンションフレッツが引いてあるのに、7000円近い追加料金は負担だったかもしれない。100円PCの同機種は池袋のビックカメラのアウトレット(ソフマップ中古だったか)で10000円ちょっとで購入できる。無理して次の購入で2年縛りを続けることはない。

7)ウイルコムの学生専用の使い放題プランSが、2年以上利用のユーザーも同額で利用できるようになった。ブログやtwitter、メールなどは正直なところこれで間に合う。



というわけで、EMOBILEについてはしばらく利用をストップする予定であるが、ぼろぼろに使い込んだEeePC4Gについても少し記しておく。


1)結構自転車の籠から落としてしまっている。そのためか、ACアダプターを挿すところの横あたりが開閉のときに中を大きく見せるように開いてしまっている。

2)4GのCドライブは、やはり最近厳しさを感じる。WinXPのSP3を入れただけでデフラグもできなくなり、いろいろな不要ファイルを削除しまくったが、10パーセントも空きがない。やはり、制約を楽しむにしても8Gは欲しい。

3)このPCで一番気に入っているのは、「軽さ」と「静かさ」である。ドライブが回らず静かで、左手一本で携帯のように持って操作できるので、ちょこちょこ文章を打ちたい人間には悪くはない。

4)画面の小ささは、「慣れた」というのが本当のところである。麻雀や将棋のネット対戦では不自由したが、克服法を開拓したら逆にあまりやらなくなった。

5)一番の不満は、電池消耗度の速さである。これ以降のミニPCのCPUは消費電力の少ないものになったが、それ以前のものなのでネットを繋ぐと1時間程度しか持たない。

6)安いので仕方ないのかもしれないが、指先で動かすマウス部分が熱を持つ。指をマウス部分に触れたまま眠ってしまうと、火傷をするぐらいである。なお、キーボード下の右クリックは作動しなくなってしまった。

7)これは当初からであるが、3度に2度は右側のキーを打ち落とす。「O」のキーを、一番落としてしまうことが多い。キーボードが詰まっているせいであろう。


まだ今後も使うつもりなので、このPCを総括はできないが、個人的には決して嫌いではない。
また、何か特記することがあれば、その機会を設けたい。




今でも、失われし店の味を想い起こすことが少なくない。
二和向台の「ニューデリー」、過去に何度かカレーレポを挙げ、毎月昼か夜の献立を食する幸せな日々がそこに存在した。
当時のマスターの腕は確かで、人柄もよく、サービスでいろいろなものがおまけで付いてきた(特にフェルニーというデザートは美味しかった)。
あるとき、改装中の休業となり、再オープンとなった後訪問したところ、マスターも店の味もまったく別のものに変わってしまっていた。
最近全く足を運んでいないので詳細は分からないが、おそらく、二人の料理人で店を回していると思われ、片方はまずまず、もう片方はカレーを残してしまうくらいの力量であった。
値段設定だけは良心的な以前のままであろうと思われるが(それすら未確認)、今でも以前のカレーの味が恋しい。
あのマスターは、今どこで何をしているのであろうか。
日本のどこかで店を構えているのであれば、少々遠くても定期的に通いたいところである。


今回、当時美味しかった料理の足元にも及ばないが、自宅でチーズナンをこしらえてみようと思い立った。
一つ一つ、当時楽しんでいた料理を模擬再現することにより、当時を偲んでみたいと考えたからである。
幸い、無印良品で購入した、とっくに賞味期限の切れたナン作りのセットが家の中にあり、マニュアルにもないチーズナンの製作に取り掛かった。
なお、現在無印良品のテレビCMで、このナン作りセットの紹介シーンが少しだけ流れる。


記憶の中で、ナン作りの手順は次のようなものだったと記憶している。
健忘部もあるかもしれないが、まずオーソドックスな手順を記す。


1)ボウルに水と粉を混ぜ、こねる。→ここが一番面倒
2)4等分(今回は)し、丸い団子状にする。
3)ラップをかけてしばらく放置、発酵させる。
4)まな板に乗せ、麺棒で平たく伸ばす。→ここまで来るとそこそこ楽しい
5)フライパンにオリーブオイルを敷いて、弱火で焼き上げる。


もっとも、オーブンがあったり鉄板石板などがあれば、もっと別の調理法もあるのであろう。
今回は、この調理法の3)と4)の間で、ウォッシュチーズのホールを半分にし、それを4等分(八分の一)して、平らに伸ばす前に中に包み込んだ。
結論を先に記すと、もっと多めにチーズを入れても問題なかったと思われる(四分の一でも問題ない)。
また、パルメザンなどの粉チーズを振ってから伸ばしても、チーズ味の支配する部分が拡大して、面白かったと思われる。
カレーを食すという視点に立てば、プレーンにほんのりチーズ味がコーティングされているぐらいで上品なのだが、外にはみ出したチーズに熱変成を加えるぐらいが料理としては魅力的である。
写真を撮ってみたものの、あまり美しくはない。
後で気が向けば、写真も追加したい。


さて、ここでナンによく合うカレーを用意しなければならない。
幸か不幸か、ちょうどこのとき家のカレー貯蔵庫は在庫を切らしていた。
近所の「やまや」まで自転車を飛ばし、一つ残っていた記憶のあるカレーを求めに行くと、幸い一つだけ棚の上に在庫が置かれていた。
「MCC 小野員裕の鳥肌の立つカレー キーマカレー」
確か、10年は前に商品化されて、今でも販売されているロングセラーカレーである。
ナンを本格的に味わうのであれば、カレーも本格的な辛さや食感を持つ必要がある。
求めやすい商品の中で、このカレーは一番そうした意味での「本格さ」を持つものであった。


レトルトの封を切らず、湯で熱する。
小さな深みのある小皿に移したとき、これしか入っていないのか、という想いが一瞬だけ湧く。
だが、視覚的には別の驚きがある。
真っ赤なオイルが浮かび上がり、キーマの挽肉を沈殿させている。
おそらく手製のカレーではお目にかかれず、レトルトでもなかなか見かけない(以前食した「男乃カレー」は多少赤いオイルっぽかった)見た目である。
香辛料はそこまで詳しくなく申し訳ないが、この手の辛さは篭らず突き抜ける辛さであり、少し付けてナンを味わうだけでチーズのまろやかさと強い辛味のコントラストが楽しめ、日常と乖離した味同士の融合が生活の中に強いアクセントの符合を刻み込ませる。
一体となった挽肉の辛味、チーズを含まない地味なプレーン部のナンとのバランスなど、幾つかの食の道のりがあり、野の花を楽しむがごとく完食まで飽きを味わうことなく歩き続けることができた。
辛いカレーが苦手でなければ、手製のナンには組み合わせてほしいカレーである。
近所では在庫切れだが、小岩駅の駅ビルの中には普通に棚に並んでいた。


今回、上手にできたのかどうかは、自己評価でしか判断することはできない。
だが、思いのほか美味しく味わうことができ、次回もと考えたのは事実である。
カレーには、他の料理と比して、一つのドラマ性があると感じる。
そのドラマにおける高揚感が、また次のドラマ性を求めさせるのであろう。
次回は、ナッツなどを豊富に用意し、別のドラマを楽しむことにしたい。




双葉双一・はかまだ卓/西荻窪サンジャック(10/06/06)


1.コインシャワー
2.ローズタウン
3.心のでき
4.マッハ
5.星うらないキラキラ
6.めめしいときのうた
7.ダチョウの歌
8.あわせたいあわせたい
9.愛くらら
10.似たもの同士
11.駒場北四丁目


12.悪い空想
13.デビリィ
14.あの子が好き
15.天使とドライブ
16.二段階右折エレジー
17.お嬢さん気をつけて
18.恢復期
19.霧の中で
20.体は食卓 頭は雲の上
21.あそぼうよ
22.不明(双葉双一の故郷の曲らしい)
23.わたしの人魚姫1


今回も、行っていないライブのレポを行ってきたかのように記す、密偵レポの第3弾である。
書き上げていないレポを優先させるのが本来筋であるが、短くて済むので月末に一本記しておく。
大変興味のある組み合わせであったが、6月はこのあたりではもう時間的に一杯一杯であったので、西荻窪まで中央線で揺られる余裕はなかった。


この二人は共通のミュージシャンと共演が多く、そのミュージシャンはこの日も客席に座っていてもおかしくないのだが、岐阜で本人のライブがあったようだ。
5/20の、サードクラス企画と原マスミバンドライブが被ったときもどちらかにいそうであったが、どうもカンボジアで虫取りの最中であったようだ。
今回サンジャックには、双葉双一は3回目(過去2回は山田庵巳と共演)、はかまだ卓は初出演とあるが、以前に客としてきていたはかまだ卓は「ひとだま音頭」で見事な踊りを披露してくれている。
この日は安くて素晴らしい阿佐ヶ谷名曲喫茶ヴィオロンの演奏会から日も経っていないので、大入りの会場というわけではなかったが、高い入場料(あくまでも前回比であるが)に見合う演奏を双葉双一は心がけていたとのことである。
なお、双葉双一の方が大人に見え、はかまだ卓は子どもの心を忘れていない存在にも感じられるが、はかまだ卓の方が少し年上のはずである。


予想どおり、はかまだ卓が第1部で登場する。
リストを先に紹介すると、1.2.5.7.10あたりはアングラ的なはかまだ卓ソロ同時の選曲。
残りはサードクラスの代表曲で、中間が全くない。


まず、「コインシャワー」「ローズタウン」、どちらも自身のバンドであるサードクラスでは演奏されていない(新宿紅布ワンマンのときにソロコーナーで演奏されている)。
「ローズタウン」などはよい曲だと思うが、バンドのメンバーの反対にあっていて、ソロでしか演奏されていない。
はかまだ卓の歌詞世界は、自身が経験した世界を私小説的に描写するが、それがあまりにも生活感が前面に出ていると四畳半四コマ的なアングラ的笑いを誘う。
「コインシャワー」は、表面板を叩いてコインの制限時間が切れるところを表現したと思われる部分が楽しい。


「心のでき」「マッハ」は、サードクラスの代表曲中の代表曲である。
自己の経験・心情を、この辺りまで普遍化・抽象化してもらえると、はかまだ卓にしか生み出せない共感を生む地に足着いた作品に仕上がる。
「心のでき」はギター1本でもそう印象が異なるとは思わないが、ベースが特徴的な「マッハ」は印象が異なったのではないかと思われる。
「マッハ」を生み出す元となった動機付けについては、おそらくこれ以上のものはそうそう残りの人生であるものではないと思われるが、また、こうした作品が生まれてほしいとは思う。


「星うらないキラキラ」は、昔の「みんなのうた」のカバーで、キキララ的なアニメーションに子どもの歌が結び付けられていた印象があったが、動画を探したら記憶と映像が少し異なっていた。
http://www.dailymotion.com/video/x1avy7_oped-op_music


蟹座がメインで採り上げられていなかったり、星座によってはあまりよく扱われていなかったりで、今テレビで放送できないのではないかとのコメントがあったようであるが、そこまでではないようには感じる。
だが、一連のオウム事件以降、広い意味でのオカルトも含めてマスメディアは扱いに慎重になっているところがあるので、「運勢」程度のどうでも言い訳が付く取り上げ方以外はあまりされないところはある。
個人的には、いろいろある流派のうち「太陽」「月」「上昇宮(だったか?)」をそれぞれ12星座に組み込む、単なる類型論を超える順列組み合わせの流派は嫌いでなく、可能性を持ったものであるとは思う。
「みんなのうた」は、昔の作品の方が「子どものために創られている感(よい意味でもそうでない意味でも)」があり、当時も今も聴いて楽しい。
現在の「みんなのうた」は、多少聴きやすいJPOPのようなものに変貌してしまっているのは残念である。
「星うらないキラキラ」を調べて驚いたのは、南らんぼう(「僕は3丁目の電柱です~」などのCM作品でも有名)の作品であったことである。
子どもが歌っているので、唱歌の作り手がこしらえたと今まで考えていた。


「めめしいときのうた」「あわせたいあわせたい」は、アルバム「愛くらら」以降の新曲であったと記憶している(違ったらすぐ修正予定)。
壁にぶち当たり、困難も抱え、そんな中で一筋の光を探していこうという共通の理念が、新しめの曲には存在するのではないかと勝手に感じている。
生活にせよ、音楽にせよ、決して牧歌的な能天気さはないが、悲壮感を前面に出さない美学は常に忘れていない。


「ダチョウの歌」は、教科書の高村光太郎の詩に当時そのまま曲を付けたもので、最後に「倒置法」という言葉を用いて終わっている。
この曲を聴いていた級友は皆テストでこの答えが分かったが、漢字で「倒置法」とは書けなかったとのことである。


最後にサードクラスの名曲2曲を演奏して終わるはずが、演奏を忘れていた曲が1曲挟まり、「駒場北四丁目」で終了する。
双葉双一とはかまだ卓の共通点もないではないのだろうが、一番の対極点は「楽屋性」だと思われる。
双葉双一は、楽曲においてもパフォーマンスなど様式面においても、自らの真の楽屋を見せない美学を持つ。
周到な準備があるかは分からないが、素の部分を覆い隠し、純粋に曲を曲として認識させる特徴がある。
それに対しはかまだ卓は、人見知りでありながら、誰もを楽屋に招き入れてしまう。
そして、お茶とお茶請を出して、何時間でも楽屋で自分の昔話を語り出してしまうところが、音楽などにも見られる。
聴き手は、一連の言葉を切り離した断片ではなく、はかまだ卓に密接に結びついた世界と認識し、その個に移入し、もう一人のはかまだ卓になり実感する。
どちらがよくてどちらが悪いということは決してなく、どちらも他とは違う世界を生み出している点で興味深いが、今後も貫かれるかどうかまでは分からない。


ヴィオロンでも演奏された「悪い空想」から、第2部はスタートする。
おそらく1節ずつの歌い方に戻していたと思われるが、確信は持てない。
口ずさみやすく、聴きやすい冒頭に相応しい曲である。
「インザナイトフェスティバル」や「お嬢さんよろこんで」などをこの位置に持ってきたら、「目覚めにステーキ」並みの重さがある。


「デビリィ」は、「オレとナオヤのロングトーンvol.1」のときに聴いた。
歌詞はそこまで、印象にないがストロークの和音が凝っていて、パッとコピーできそうでないことは覚えている。
「あの子が好き」は、聴きたかった曲である。
「暗い陰一つ作れないあの子が好き」という視点、表現は、もっと評価されてよい。
「天使とドライブ」「二段階右折エレジー」と、2曲ドライブの曲が続く。
特に後者はレア中のレア曲で、まさかこの日に演奏されるとは予想できなかった。
後半からでも何とか無理して西荻窪の街に出向き、サンジャックの中庭のガラスにコップか聴診器でも当てて聴くのであったかと、そう思わされるような選曲であった。


「お嬢さん気をつけて」「霧の中で」「あそぼうよ」は、比較的最近演奏機会が多い曲である。
「恢復期」はムジカジャポニカでの、「体は食卓 頭は雲の上」は青い部屋でのバンド演奏が印象に残っている。
どちらも藤井寿光のドラムが素晴らしく、ギターのみもよいのかもしれないが、バンド形態のアルバムも期待してしまう。


途中まで、双葉双一の故郷(仙台?)の歌と思しき曲(曲名不明)を演奏し、最後に「わたしの人魚姫1」で終了する。
いずれ統計を取ってみたいと思うが、最後に持ってくる曲は傾向、こだわりなどがあるように思われる。
その場で聴いて楽しめるというのではなく、会場を出て帰路の列車のクロスシートに腰を下ろしたときにも、頭の中でその余韻が響き続けるような曲を選び抜いているように思える。


もう少し、衣装やMCや演奏の特徴を確認しておけば、もう少しは充実した密偵レポになっていたであろう。
だが、6月前半から中旬にかけてそんなことをする余裕はまるでなかった(「ジョンソンまつり」には行ったが)。
今回、リスト+曲に関する雑感のみで、ひとまず筆を起きたい。



双葉双一第三回ヴィオロン演奏会/阿佐ヶ谷名曲喫茶ヴィオロン(10/05/31)


1.追走曲
2.夢のつづき
3.岬の上
4.タワーホテル
5.くらいはなし
6.束の間の二日間


7.霧の中で
8.愛の伝染
9.スモールスタークラウド
10.涙の小鳥
11.悪い空想
12.レベル5
13.私の人魚姫1
14.お嬢さんよろこんで


15.もう少し歌うから


双葉双一が、おそらく一番神聖な存在として輝く場所が、ここ名曲喫茶ヴィオロンだと思われる。
この会場の双葉双一ライブは、完全生音の演奏でありながら会場の静寂に包まれて、紙が擦れるのよりもっと小さなギターの音や双葉双一の囁きまでもが、一つ一つ空間に置かれていく。
ライブというよりは演奏会、演奏会というよりは神聖な儀式に近い厳粛さがそこに感じ取られる。


ギターを抱えて、何も語らず「追走曲」から始まる。
バロック音楽的な、まさしくこの会場に相応しい静寂をも冒頭に用意した。
双葉双一の歌詞はリフレインが少なく、頁を繰るように少しずつ世界が展開されていく。
未音源曲の中でこの曲は、一二を争うほど「深み」を持っており、下手をするとその底は「人生」という境界線すらもはみ出してくる。
何度か聴いても、未だこの曲を理解しつくすことはできない。
ただ、ブログの歌詞を眺めて、その深みの一端に触れるだけである。
木管アンサンブルでも映えるはずの音の調和が、言葉の深みの中で、近くにありながら遠くへ連れて行かれてしまうかのような感覚を引き起こす。


「夢のつづき」は比較的新しい曲だが、サンジャックの「やり直しだよ、全員集合」でも聴いた。
双葉双一の王道とも言える陰のある文学的な描写が繊細で、縁起の悪い風景とそれに結びついた心情がフォーク調の3拍子に結び付けられる。
この曲については曲中の世界に感情を移入しやすく、「兄さん」と呟く少女の一人称の中に吸引されてしまうところがある。
そして、言葉だけではない行間から聴き手それぞれの物語が聴き手の数だけ生み出され、回数を重ねるごとにその世界はクリアなものとなっていく。
比較的シンプルな音楽構成と裏腹に、「夢のつづき」には聴き手がはまりやすい緻密な構造を持っている。
この2曲で、ヘンゼルとグレーテルが戻ることのできない異世界に辿り着いたかのような、そんな境地に早くも行き着く。


ハーモニカをセットし弾かれた「岬の上」は、比較的よく演奏される曲である。
今回は、どの曲も12弦ギターを用いずに、愛用のマーティンギター(まちこさん)のみの演奏であった。
前半、一番普通にポップな曲はこれぐらいで、あとは双葉双一的世界が溢れるほどに表現された曲ばかりであった。


印象的な前奏のギターの和音が鳴り、何と早くも「タワーホテル」が演奏される。
渋谷「青い部屋」では、語り部分にも旋律を当てていたが、今回は元のスタイルで演奏された。
双葉双一自身は「代表曲」という存在を好まず、多くの引き出しを用意し、舞台ごとに異なる演目を提示するのを好む。
だが、やはり「タワーホテル」は、「代表曲」と言いたくなるほどの存在感の強さがある。
「タワーホテル」より音楽的に魅力のある曲は、おそらく存在するはずである。
歌詞も、より深い共感を与えうる世界はあるはずである。
だが、「タワーホテル」的な、時間も空間も切り取られた一コマの中に、この曲と同じような手法で言葉と音とを紡いだ楽曲を自分は知らない。
誰のコピーでもない双葉奏一的なものを、他のどの曲よりもこの「タワーホテル」の中に初聴の聴衆は感じるはずなのである。
この日の演奏に話を戻すと、この「タワーホテル」あたりから、ヴィオロン演奏会独自の全開のppが多用される。
「待ってる」などの部分の言葉では、本当に消え入りそうな囁きで表現される。
この、ライブハウスではありえない、それどころかクラシック音楽の会場でもありえない、極端な弱音の多用がヴィオロン演奏会の醍醐味である。
声や言葉を聴き手に伝えるものは、決してdBレベルの音量の大きさではないということを、この会場と演奏者は教えてくれる。


同じ「タワーホテル組曲」から、「くらいはなし」が続く。
「タワーホテル」の不思議な余韻を消してしまわない、数少ない曲である。
ハイポジションの中音弦と開放の高音弦とが、倍音を違えながら同音程でぶつかる。
静けさの中で、長さを全く感じさせない心情と場面との歌詞世界が展開していき、部分部分で共感を感じさせながら静かにまた消えていく。


「申し遅れました、双葉双一になります」と、ここで初めて自己紹介があった。
そして、あと2曲で1部が終了の旨伝えられたが、実際は1曲で第1部は終了した。
「束の間の二日間」は、2拍3連のいつもの弾き方ではなく、渋谷「青い部屋」のときと同じ八分音符で刻み、2拍ごとの頭はスローストロークで「ジャラーン」と和音を響かせる(その分1拍目の裏は遅れて打たれるシャッフルもどき)。
最後の最後ではいつもの2拍3連のストロークも用いられたが、聴き慣れた曲にもバリエーションが生まれ、心地よいストロークの和音がより楽しめる演奏であった。
歌詞で、「Sさん」が「諏訪さん」と歌われていたのは、この日足を運んだ客へのサービスか。
「Sさん」が、「沢田さん」でも「双一さん」でも「シグネイチャーさん」でもないことは判明したが、「では諏訪さんとは誰か」という疑問は生じる。
なお、この曲は因島を旅行したときに作った曲のようだが、双葉双一曲はどの曲もモチーフはあれども、いったんそれを普遍化した上で物語を組み立てる。
だから、卑小な個人的「体験」に収束することはなく、森有正的に言うなら「経験」として常に新しい側面を生み出し、光を当てているところがある。
「タワーホテル」同様、小さな囁きやギター音が多用され、やはり、ヴィオロンの効果が引き出されていた。


これ以上ないと思われる第1部の演奏は終わったが、第2部も素晴らしかった。
「いつも静かに聴いてありがとうございます」「これだけお客さんが入るとざわざわざわざわなると仰ってたんですけど、静かに聴いているとマスターが感謝していました」と、双葉双一直々に感謝の言が入る。
実際、第1回からこの「神聖な儀式」的な静寂は、誰が訴えるでもなく自然にこの場に生じ、何世紀も前からそこに存在するかのように置かれ続けてきた。
「霧の中で」で、第2部は多少一般的なビートの曲が演奏されることが予想できた。
双葉双一のストロークは、ダウンストロークのみの緩やかでノンアクセントが特徴的な曲も多いが、アップとダウンのストロークで8ビートを効かせて演奏される曲もある(第1部では「岬の上」)。
そうした曲はメロディアスな旋律や流れるコードに騙されがちになるが、やはり選られた言葉の輝きと世俗に汚れていない純粋な世界は明らかにそこに存在する。
「霧の中で」も、そうした曲後の清涼感が感じられた。


「愛の伝染」は、比較的演奏機会が少ないと思われ、個人的には初聴であった。
「ハーッピー」と伸ばす部分が記憶に残るが、双葉双一の2枚目と3枚目のアルバムの曲は、どちらかというとレア度が高いように思われる。
「スモールスタークラウド」で感心するのは、双葉双一曲は冒頭から不用意に盛り上げず、抑えることの効果を知っていることである。
例えば、加山雄三が「二人を夕闇が」とトップの高さまで音程を一気に持っていくのは、ある種の効果はもちろんあるが、その後で手を変え品を変えて、その効果を維持し続けなければいけない。
「序破急」というか、冒頭で淡々と小さな言葉を積み上げていくことが、その後の世界の広がりを生み出し、この曲で言えば壮大な天の川の広がりの光景を印象付けている。


「歌ばっかり歌ってもしょうがないでしょうから、今日は楽器の説明でもしてみましょうか」と、この演奏会唯一、話題の広がりを見せる。
自身のマーティンギターを指差し、もともと家具職人であったドイツ人がアメリカに渡りギターを作ったのが始まり、との紹介がある。
また、「ピックはプラスティックや鼈甲などでできていますが、僕が使っているのは特注でして、人の爪でできている」
「中国人の爪でできていて、どの人種の爪でもいいというわけではない」という、嘘だか偽りだか分からない情報が提供される。
このライブとは関係ない話ではあるが、最高級のかつらは中国人の髪を使っているという話を聞いたことがある。
中国人の髪質がよいというわけではなく(もちろん南方系や黒人白人よりは日本人のストレートの黒髪に近いはずだが)、給料を払って特定の髪によいシャンプーなどを使う契約をしているらしい。
この発想でいくと、あながち双葉双一の「特注」ピックも、むちゃくちゃな話ではないのかもしれない。


「涙の小鳥」は、サンジャック同様、なかなか柔らかでよい演奏である。
「悪い空想」は、2節ずつブレスを入れずにメロディを続けたのが、今回の趣向であった。
過去のヴィオロン演奏会の冒頭で弾かれたときは1節ずつであり、それはそれで小さく切断された一口ステーキのように処理しやすい、小品としての魅力があった。
2節繋がる分咀嚼には時間がかかるが、連続性はより感じられ、曲の文脈は取りやすくなった。


「あまいあまい」と節をつけて何かの一節を呟くが、何も解説せずに「レベル5」へと移行する。
サンジャックのような歌い方ではなく、普通の歌い方で今回は演奏された。
果たして、レコーディングのときはどのような姿になっているのであろうか。


「あと2曲歌っておさらばです」と口にしたところで、心の中で「最後の曲は何であろうか」と予想し始める。
やはり、ハーモニカの後奏が長く続く「わたしの人魚姫1」か「お嬢さんよろこんで」がよいと考えていたが、この後予想さえしない結果が待ち構えていた。
まず、いつもより、やや弱めのストロークで「わたしの人魚姫1」が始まる。
原マスミファンが受け入れやすい言葉選びで、個人的には好きだが、最近聴いていなかったので嬉しい。
曲後、長いハーモニカの演奏が続く。
そして、何とギターのパターンがゆったりとした後、3拍子の刻みへと変化し「お嬢さんよろこんで」がメドレーで続いた。
一つ一つ言葉を大切に両手で掬うかのように、「楽しいゲーム」の世界が描かれる。
最後の曲と思えないほどの小さな呟きとギターの音で歌詞がある部分が終わり、その後でハーモニカの後奏がどんどん強くなり、アンプラグドで精一杯のffになったところで、一気にppに落とし、表情を再度つけて終了する。
正直、この2曲が、しかもメドレーで来るとは思わなかったので、余韻も有り余るぐらいであった。
いったん拍手は終了したが、「さらによい曲を求める」というよりは、素晴らしかったステージへの絶賛と思われるような形でアンコールの拍手が起こった。


「ここで皆さんに言わなくてはいけないことがあります」
「クーラーはあんまり好きなわけじゃないんですけど、かといって暑いのが好きなわけじゃない」ということを述べていた。
注意深く言葉を選んで象徴化がされていたが、おそらく匿名ネット掲示板で交わされる自身への書込みについて触れたのではないだろうか。
表現者の試行錯誤は、不安と先の見えない冒険を伴う。
それらへの理解を求めたものと考えたが、どうであろうか。


結局、アンコールは「もう少し歌うから」になった。
アンコールらしい選曲であり、「その手があったか」という想いに包まれる。
そして、デザートの最後の甘味を匙で掬い取り、そしてこのステージが一つの美しい想い出へと変換された。


ヴィオロン定期演奏会は、これが3回目である。
第1回は、第2部で「タワーホテル組曲」を4曲続けて演奏した後、3部で「そろそろ笑いたい?」と、「ミルクミー(ピクニック)」や「人生やってこい」などを演奏した。
第2回は、カバー曲を織り込みながらも、MC自体は曲名紹介などで笑える冗談があった。
だが、第3回は全く照れもなく、この会場と観客に対して自分の一番表現したいステージを創り上げる境地に至ったと思われる。
ムジカや地球屋は別として、「ヴィオロンであればこの双葉双一を」という像が用意された上でのこの日であった。
今後も、料金面などだけではなく、稀有な音楽表現が可能となる名曲喫茶ヴィオロンでの演奏会が継続することを望みたい。
第4回の開催も、双葉双一音楽を愛する者の集う神聖な儀式のような、そんな場となることであろうと思われる。