不思議なクリスマスの夜/渋谷O-West(10/12/25)

サードクラス・知久寿焼・ワタナベイビー・TOMVSKY・大木温之


(全員)

1.きよしこの夜

(サードクラス)ベース:ワタナベイビー

2.どたんばのパワー

3.やさしさの中のおせっかい

4.めめしいときのうた

5.キモノのワタシ(残り3人乱入)

6.ある一日(全員)

(ワタナベイビー)

7.ヘイお嬢さん

8.ショパンにありったけ( TOMOVSKYドラムで乱入)

9.二人でナポリタンを(初演)

10.ワタナベイビー結婚(初演/全員)

11.スピリチャル(全員)

(TOMOVSKY)バック:サードクラス、大木温之

12.クリスマスも45歳

13.後ろ向きでOK

14.我に返るスキマを埋めろ

15.美人が消えた日

16.秒針SKA(全員登場)

17.メリークリスマス

(大木温之)全員出演のまま

18.北風小僧のかんたろう

19.I Saw Her Standing there

20.カラーゲ

(知久寿焼)バック:サードクラス、ワタナベイビー

21.おるすばん

22.ひとだま音頭

23.いたわさ(大塚ヤヨイ、クメムラヒトミと)

24.でんちう(ワタナベイビーと)

25.おーホーリーナイト(全員)

(全員セッション)

26.冬のリビエラ(はかまだ卓)

27.駒場北四丁目(サードクラス)

28.スマイル(ワタナベイビー)

29.ちょっと今ココだけのうた(知久寿焼)

30.スポンジマン(TOMOVSKY)

31.ハッピークリスマス (大木温之)

32.不思議なクリスマスの夜(全員)

(アンコール)

33.もものうた(全員)



とりあえずの短評


(サードクラス)
新曲と代表曲中心の、オーソドックスな選曲と構成であった。
不思議シリーズのライブは主催であるため、ゲストでなくホスト的役割なので仕方がないところはある。
バックでの貢献は高く、ほぼ出ずっぱりであったが、やはりあのビジュアルはアットホームな雰囲気にさせる。
サードクラスの曲を堪能するなら、やはりワンマンがお薦めである。
30曲以上様々な曲目が、一夜にして楽しめる。
ワタナベイビー作の「キモノのワタシ」が、唯一異質な雰囲気であったか。
「ハチのムサシは死んだのさ(ウルトラマンエースでも作品中歌われていた記憶がある)」的な、昔の歌謡曲風の曲調がサードクラスには合致していた。


(ワタナベイビー)
元々持っていた早熟な才能が、惜しみなく披露されたステージであった。
ネットテレビにてライブの宣伝でワンコーラス披露された「二人でナポリタンを」は中学2年のときの作品だったようである。
「ベサメムーチョ」を想い起こさせるラテンのリズムに、「人の妻」と二人で食する背伸びした歌詞が非凡である。
「大人の口紅」に絡めて「口からはみ出すケチャップ」を描くウイットも見事で、これが中学校の友人たちの人気ランキングNo.1を維持し続けたのも頷ける。
ちなみに、No.2はホフディランでシングル売りもされた「キミのカオ」とのことで、この疾走感あるメロディを中学時代に生み出したのも驚きであった。
自分の結婚を祝した「ワタナベイビー結婚」も初演で、この2曲は非常に珍しい。
ベースも含め、サードクラス同様出ずっぱりであったが、この日一番見どころは多かった。


(TOMOVSKY)
知らないうちに、「我に返るスキマを埋めろ」が矢沢永吉を連想させる「タオルソング」になっていた。
タオル分布はセンターラインと後方、ファンの位置分布が確認できた。
重い歌詞で、このようなノリを魅せるのがTOMOVSKY最大の特色である。
個人的にはもう少し三拍子系の曲を聴きたかったが、カステラ時代の「メリークリスマス」が聴けたのには驚かされた。
キーが高いことを口にしながらも、当時の雰囲気を少しアットホームにし、この日に相応しい演奏として披露してくれたのは素晴らしかった。
この曲が、個人的には一番嬉しかった。


(大木温之)
個人的には、もっとピーズのオリジナル曲を聴いてみたいところであった。
遠慮があったのかもしれないが、この日の客はそれを受け入れる度量はあったはずである。
ただ、ベースは「ベーシストのベース」らしく、ビジュアル的にもよかった。
個人的に、普段、ギターも弾くベーシストの演奏を聴くことが多く、よく聴く元来のベーシストはフレットレス弾きばかりなので、ノリよくおもちゃのように楽器を操る様は、雰囲気の形成に一役買っていた。
次回は、オリジナル曲ももう数曲聴けることを期待したい。


(知久寿焼)
とにかくいつでも安定しているので、「驚くような」選曲や演奏はない。
ただ、他のファンで初めて聴く観客は、この声質で突き抜けるように響く歌声に度肝を抜かれたことと予想される。
リコーダーを手にした大塚ヤヨイとクメムラヒトミを両脇にコーラスとして付けた「いたわさ」は、柔らかく可愛らしい演奏で興味深かった。
毎度の定番曲だが、ワタナベイビーとの「でんちう」は、四人のたまが現存していたらこのようなハーモニーが聴けるのであろうと、いつも感じさせる。
当時のハーモニーを一番再現した演奏を聴けるのは、おそらくこの二人の「でんちう」であろう。
「おーホーリーナイト」も、この日に聴けると格別である。
サードクラスとの共演は、たま時代の曲がかなり合っているので、もう一曲あの編成で聴きたかったところである、というのは贅沢であろうか。


(雑感)
サードクラスから篠田鉱平が脱退し、はかまだ卓が病に倒れ、ホフディランが活動再開と続いていったとき(実際にはそれぞれ結構期間はあるが)、もうこのシリーズは再開されないかもしれないとも感じていた。
それだけに、まずは再開されたことは嬉しい。
ワタナベイビー、ZTOMOVSKYはこの企画に特に思い入れがあるようで、マンネリにならない新鮮な試みを労力として注ぐことを惜しまないところが垣間見える。
レッドクラスのサードクラスワンマン以来の立ちっぱなしライブだったので、足は疲れたが、「来てよかった、次回も訪れてほしい」と思わずにいられなかった(稲生座の原マスミも観たかったが)。


いつもどおりのライブレポがいつ仕上がるか予想も付かないので、この程度で一度公開記事にすることにしたい。

※以下のレポはまだ書きかけですが、双葉双一分だけ書きあがったので、限定記事にせずに公開することにします。


無言ライブ/高円寺円盤(12/12/06)
双葉双一・ジョンソンtsu・oono yuuki


本当は、未記載のライブレポを全部並べてから新しいレポを記そうと考えていたが、やはり近いライブの方が印象も強く残っている。
後先になるのは引っ掛かるが、とりあえず最近聴いたライブを採り上げることにしたい。



(以下、第3部双葉双一セットリスト)

1.手に捧げる歌
2.消極的な仕返し
3.レベル5
4.二段階右折エレジー
5.束の間の二日間
6.あたしのハート
7.ミルク・ミー
8.もう少し歌うから
9.郵便配達人に告ぐ


10.点(ギター:oono yuuki)
11.ローラースケート日和(ギター:ジョンソンtsu)
12.クリスマスに誕生日(ギター:oono yuukiとジョンソンtsu) 


第3部で、双葉双一の登場である。
衣装は黒いが、ズボンは微妙に濃緑のチェックか何かの柄が入っていた記憶がある。
青葉市子との共演時の写真を以前ネットで確認したときより、幾分か長髪がカットされていたような気がした。
もっとも、そのときは二人とも長すぎで、青葉市子はその後30cm髪を切っても誰にも気付かれなかったらしい。


いつもどおりに、挨拶なしで演奏が始まる。
そして、随分と久しぶりに、「手に捧げる歌」が演奏されるのを聴く。
昨年末のムジカジャポニカのライブでは(もしかするとU.F.O.クラブのワンマンも?)「難しいから」ということで「口パク・手パク」で演奏(?)されたが、この日は16ビートの速いストロークが手馴れた風の軽い刻みで演奏される。
曲の演奏自体は昨年より細かに表現されるようになったが、この作品自体アウェーでは演奏しにくい曲である。
「女、子どもには売れません」と自ら口にした5thアルバムのタイトル曲であり、「お嬢さん」シリーズに代表される双葉双一的記号とまさに対極にある位置取りであるからである。
悪夢の妄想、幻想といった風情が速いテンポで表されるので、おそらくこうした語彙に抵抗の少ない男性ファンからはそこそこ受け入れられているところはあろう。
本人の希望に沿ってかは知らないが、男性客が1年ほど前やたらに多かった気がしたのは、当時の新曲群の方向性にも起因しているであろう。


「消極的な仕返し」も珍しい。
ジョンソンtsuや沢田ナオヤとの共演時には、比較的レア曲の演奏が多い気がするが、最初の2曲はそれを感じさせる。
最初の曲同様にビートがあり(3+3+2の八分の刻み)、ギターの響き自体は心地よい。
だが、双葉双一にとってはこのビートやリズムは諸刃の剣で、この心地よさに耳を捕られる瞬間が何度かあり、主題である「仕返し」の歌詞の印象が稀釈される。
もっとも、このビートに「仕返し」のテーマを覆わせることが、「消極的な」の表現形態なのかもしれないが。


そして、一転して定番曲の「レベル5」が演奏されるが、MCは全く入らず淡々と進む。
やはり、この曲のコード進行は聴きやすく、前曲から続く3+3+2の刻みも心地よい。
この曲は、何度も聴いていることもあるが、歌詞の全体像が掴みやすい。
CからE(カポ付だが)へと擬似転調的な響きの部分で、和歌の二句切れのような小さな収束があり、セクションごとを認識しやすい歌詞構成になっているのもその一因であろう。
それから、関係ないが、「ドラゴンクエスト」というゲームは現在、「レベル5」という会社が製作しているらしい。

この曲から先は、アルバム未収録曲が多く続いた。
あまりにも音源化を先延ばしにしていたので、新譜は2枚組みにするという説もある。
「レベル5」は、2枚組みにならなくても必ず入る曲であろうが(シングルでも選択される可能性がある)、2枚にコンセプト分けをしたときには「表」側のイメージが強い。
「陽と陰」「光と影」などと分類したとき、「レベル5」「ミルクミー」「ローラースケート日和」などは前者で、「追走曲」「マスク」「夢のつづき」あたりは後者だろうか。
どちらかと言えば後者の方が伝統的な双葉双一の系譜であるのだが、死や不吉さなどを以前以上にクローズアップしているという特質が現在のこちらの方向性にはある。
そして、前者と後者を繋ぐ楔となるのが「旅に出なさい」あたりの、人間の本来持つ精神性の尊重あたりではないか。
「旅に出なさい」はめっきり演奏機会も減ったように感じるが、初聴時の歌詞の印象は今も鮮烈である。
5thアルバムは、この境地・世界に辿り着くには通らねばならなかった関門だったのではないかとさえ感じる。
ともあれ、アルバムを何らかのコンセプトで結晶化させるだけのストックは十分にあるので、おそらく1枚でも2枚でも意味付けを行っていくものと予想される。


そこで双葉双一が最前列の観客に耳打ちし、伝言ゲームのように最後尾の店のスタッフまで伝わると、舞台上に水が運ばれた。
ジョンソンtsu同様(以上)に、「無言ライブ」の趣旨どおりに進んでいく。
こういう一見どうでもよさそうなことに対しては、双葉双一はかなり忠実に守り貫くところがある気がする。
もっとも、「どうでもよくないどうでもいいこと」を全部切り捨てたとき、記号的な意味合いの双葉双一以外失われてしまう危険性が感じられ、これは譲れない部分なのかもしれない。
関係ないが、この店「円盤」の水を入れる器はなかなかよいデザインであった。


「二段階右折エレジー」に曲が移ると、マイナーの6あたりを含んだ和音が2回に1度の収束部で奏でられる。
エレジーにそぐわない大きな展開はあえて行わず、あくまでも単調な二つの和音の往復が基調となっている。
この歌は、先ほどの「消極的な仕返し」と比べ、歌詞が届く。
詞と曲の初聴時印象の比率で言えば、「消極的な仕返し」が4対6ぐらいであったのに対し、「二段階右折エレジー」は8対2ぐらいの印象である(個人内比較、なおデータは個人差があります)。
映像が浮かび上がる場面も何箇所もあり、何度かハッとさせられる。
特に、交差点で右折をする際に「交差点を通り過ぎた、前の人の友だちの振りをして」と歌われる部分は、自分がまさに同じことを行っているかのような気にさせられる。


名曲「束の間の二日間」は、記憶のない静かな前奏が加わり(二拍三連の例のストロークで始まっていた印象しかないが、単に忘れていただけかもしれない)、
高い位置のカポタストで、美しい高音のストローク音が響く。
この日強く感じたが、双葉双一のギターは単に無機質なリズムを刻むための打楽器的な使い方をする道具ではない。
特にゆったりしたテンポの曲で、ダウンよりアップの返しのストロークで顕著だが、マーチン0021の高音弦の美しい音色を美しく響かせるのを重視している(ダウンストロークは多少テンポも重視している)。
音楽の三要素は「メロディ」「リズム」「ハーモニー」とされるが、双葉双一はそれが全てではないと考えているかのようである。
ギターの音色とともに聴こえてくる研かれた言葉の粒とその響き、これらの重層が唯一無二の双葉双一音楽を形成していると述べても過言ではない。


この日の演奏だが、二拍三連と四分音符+♪+♪の中間ぐらいの間合いで弾かれる。
音色の美しさに浸っていたが、ワンコーラス終わると同時に、カポタストを一フレ落とすという荒技を突如行う(当然半音下がる)。
だが、こちらの方が耳慣れた響きであり、やがて最初からそうであったかのように自然に聴こえてくる。
それにしても、「後悔クラブ」という場の設定は、いつ聴いても斬新に感じられる。
因島で迷って生まれた曲というのは嘘だとは思われないが、どこをどうしたらこの曲に繋がるのかが未だに解釈できない。
「タワーホテル」「お嬢さんよろこんで」の他に、もう一曲だけ他人に薦めるとしたらこの「束の間の二日間」あたりだろうか(未音源曲なら「追走曲」も捨てがたい)。


曲後、また伝言ゲームかと思いきや、斜め後ろの男性(確か先月の共演者)で止まり、次の台詞を口に出させていた。
「何でしゃべらないかと言うと、歌以外に大事な声を使い使いたくないから」
その言葉を確認した後、当然何も言及せずにまた次の曲に移る。


「あたしのハート」は、いろいろな意味で感心する。
職業作詞家が生み出す記号的少女像と内面の描写ではなく、一人称で「あたし」を用い等身大の視点と言葉で世界を描いている。
この世界の一人称的な歌を熱唱する歌い手を、あまり自分は知らない。
あえて言えば、若干言葉の選び方と透明度は異なるが、ワタナベイビーあたりが近いか。
サードクラスがいるときにしか演奏されない「恋かしら」は、双葉ファンにも薦めたい曲である。
ワタナベイビーの乙女一人称的な曲の愛好家も、双葉双一世界に共感できると思われる。
もちろん、違いを挙げたらきりがないのではあるが。
この曲のストロークはそれまでよりおおらかな印象で、そのあたりが「等身大」的内面を音像化する。


双葉双一のTwitter上のセットリストでは「もう少し歌うから」が先になっているが、実際は「ミルク・ミー」が先に演奏されている。
テンポが自由であった初期の演奏と比べると、ウクレレ演奏のようにゆったり安定したテンポが刻まれるようになり、その分聴いていて歌詞に心を割く余裕が生まれる。
様々なバリエーションを耳にしたせいか、実際にこの日に行われていない歌い方が脳内では多重に鳴っていて、もしかするとこれこそが双葉双一が狙った効果ではないかと思わせる。
冒頭の「空にかかった」のところでは「ソレソレ」と合いの手が、「まだまだ~の」の部分では「ピー」という伏音が、それぞれ聴こえるような気がした。
最後の「愛と平和」のコーラスは無茶苦茶で、「歌おう友よ!」と力強く訴えたかと思うと、「シャラップ!」とコーラスを遮りクローズさせる。
往年のドリフの泥棒コントの冒頭(「おっす!(おっす!)」「元気がないぞ!」「おっす!(おっす!)」「静かにしろ!」)と共通するものがある。
最近聴いていないが「人生やってこい(完全版)」あたりも前言撤回系の笑いをもたらし、このあたりが双葉喜劇の一つの路線であることは間違いなさそうである。


「もう少し歌うから」は、表面的な歌詞内容とは逆に催しの終演を予感させる曲である。
原マスミの「海のふた」ほどの定番性はないが、「終わりが近づく」ということに対しては似たような気分をもたらす。
最近の民放はあまり視ないので知らないが、「番組はまだまだ続くよ」といったテロップが出たら放送終了時間間近であるのと同じようなものである。
アンコール1曲目で歌われたのもよい置き位置だと感じたが、アンコールの特性から終演という情報は最初から伝わっている。
むしろ、この位置のほうが催し全体の収束を印象付け、より適切な置き位置なのかもしれない。


この曲のような、音楽を生み出すことや歌うこと自体を歌詞にして歌う、言わば「メタ音楽」的な作品は、通常表現活動初期には生み出されず、一通り主な作品を生み出した後に生まれやすい。
柳原陽一郎「はじまりの歌」や原マスミ「耳の夢」(ZABADAKの「遠い音楽」も原マスミ作詞)なども、自分の目の前の音楽が一つの人格を持った有機体として形になり認識されるようになってから生まれたはずである(事実誤認があればあらかじめお詫びしておきたい)。
双葉双一の「メタ音楽」(厳密にはメタ演奏かもしれないが)は、他にまだ知らないが、もう既にある程度目の前の音楽が人格を持ち現れてきたといえるのではないか。


本編最後の「郵便配達人に告ぐ」は初めて聴くが、曲自体の質と演奏の質を考えると、この日一番の出来であったと個人的には感じた。
歌う前に多少小細工が入り、郵便配達人風の帽子を被り、そして黙って歌い始める。
この曲は、自分に手紙が届かないことに対して、郵便配達人を逆恨みする内容の歌詞である。


曲調は、ストロークバージョンの「隣人(旧題「私の隣人」)」に近い印象を持ったが、もう少し低音弦のスライド弾きなど演奏的に迫力が強く、熱演であった。
この曲は、柴草玲の強い情念を歌う楽曲を想い起こさせる。
歌詞の最後の部分の自虐的な落としどころも、柴草玲の新曲や「ローランドカークが聴こえる」あたりの自身を卑小に認識させる表現に近く、共通項を感じさせる。
暮れのサンジャックでニアミス(翌日が日比谷カタンと柴草玲)があるので、柴草玲にも聴かせたい名曲である(もっとも演奏頻度は低い曲だが)。
「手紙が来ない」「郵便配達人が通り過ぎる」という事実描写以外はひたすら一人称の内面描写に徹していて、これを生み出す労力は想像に難くない。
おそらく、人物や場面は表現されない部分も含めて緻密に設定されてあるはずである。
その上で、その主人公になりきり、その設定であればこのように感じてこのように行動するという事項の詳細な描写を、一つ一つ丁寧に行う。
これは、舞台役者が時には殺人犯人にもなりきるのと同様なもので、素も楽屋もほとんど観せない双葉双一の姿勢も実はそうしたところから生まれているのではないかと感じる。
そう言えば、昔観た台湾作品だったと記憶しているが「恋恋風塵」という映画は、毎日徴兵先から幼なじみの恋人に手紙を送り続けていたら、最後その恋人が郵便配達人と結婚してしまうという「オチ」で終わる。
メッセージや姿を運ぶ中間物(メディア)は透明な中立的な存在ではなく、投影されやすい存在であるという認識は、万国共通のものなのであろうか。
歌に話を戻すと、個人的に一番印象に残ったのは「そうだ、このことを手紙に書こう」と、いわゆる「テレビの中のテレビ」的な二重構造を持たせた部分である。
この部分があるからこそ、この曲は一面的なテーマで終わらず、ミルフィーユの重層のような立体感が生まれ、他の歌い手の近い世界の楽曲との差別化が行われている。


「無言ライブ」の欠陥点は、最後の曲が「最後の曲」であると認識させにくいことである。
さすがに「インザナイトフェスティバル」でも演奏して、後奏の途中でステージから引っ込んでしまえば最後だと分かるが、そうでもしない限りプロセス中の1曲と認識される。
だが、双葉双一は「無言で」アンコールの手拍子を要求し、観客もそれに応える。
このあたりは、さすが手馴れたものである。


アンコールは全て双葉双一のピアノで、それぞれ「oono yuuki」「ジョンソンtsu」「両方」とのセッションとなった。
ジョンソンtsuとのセッションが観られたのは昨年の京都拾得以来で、おそらく実際にそれ以来だったのではないだろうか(関西で飛び入り共演があれば分からないが)。
「夜の底」をジョンソンtsuが弓で弾いたり、双葉双一が「波動」の文字の書いてあるサングラスをかけて乱入したり、今想い出しても充実したライブであった。
この日も演奏機会の期待はしたが、実際に聴けたのはやはり嬉しい。


「点」は新曲系の未聴曲だったが、最近よく弾かれるピアノに準備の跡を感じた。
ピアノのレパートリーもずいぶん増え、1年後にはピアノだけのライブもできそうな勢いである。
もっとも、愛器マーティン(通称「まちこさん」、今日マチ子の作品ではない)の出番がないのは、考えにくいことではある。


偶然か狙ったのか分からないが、Aメロ部でのoono yuukiのギターのスティール弦の高音が別の生命体が躍動しているかのように入り、音楽を立体化させる。
三拍子の偶数小節の頭の拍で十六分音符が定期的に入ってくるように聴こえたのも、星の瞬きを感じさせて胸高鳴るものであった。
この日はジョンソンtsuを観にきたところはあったのだが、正直なところセッションそのものはジョンソンtsu抜きのこの曲が印象深かった。
これは、演奏技術の問題ではなくて、ピアノとガットギターの相性の悪さ(どちらもある意味撥弦系の響きがあり、力の弱いガットギターはラズゲアードなどを除き打弦のピアノに喰われる)にも起因したのかもしれない。
そのため、ジョンソンtsuは音色の変化を求めてトレモロや得意の口笛を多用していた。

新曲(何度かは演奏されているようだが)なので歌詞の細かいところは未確認だが、「星はただの点」という部分だけはよく記憶に残っている。
月や星は昔から創り手の特別な想いが投影されやすく、光源からの距離も含めて星の表現はとかく拡散しがちである。
だが、「星はただの点」と地上から確認できる純粋な情報だけを切り離し、何も足さずに歌詞としたこの視点は気が付きそうでありながら、実は誰も行っていなかったのではないか。
「点」をどのような存在として捉えていったのかは、今後また聴く機会もあると思われるので、そのときにでも掘り下げていきたい。


無言でジョンソンtsuを呼び寄せ、今度は「ローラースケート日和」が演奏される。
普段は、出番が終わると着替えることの多いジョンソンtsuがそのままの衣装だったので、おそらく打ち合わせの段階で決まっていたのであろう。


「ローラースケート日和」は、最近の曲では「追走曲」に匹敵するほどの名曲と述べると、この曲を持ち上げすぎであろうか。
他の曲もそうだが、この曲は特に言葉自身が持つ響きが、見事に楽曲の響きと結合されているのである。
双葉双一の楽曲は、たとえ聴き流していても、言葉の粒が通り過ぎてしまわず、心の一端に留まり堆積されていく。
先にTwitterでも記したが、これは双葉双一の歌が、言葉の響きも音楽もどちらも犠牲にしていないためだと考えられる。
例えば、「あなた」の音素を「ドミソ」に強引に置いていっても、どこか言葉が元来持っていた響きを犠牲にするように感じられることについては、既にTwitterで述べた。
ところが、双葉双一の「どこまで行っても静岡県で嫌になっちゃうよね」などという一連の言葉は、言葉の選択自体も非凡で、リアリティも感じさせる(18切符ユーザーですら同じ感覚は抱くはずである)。
そればかりでなく、言葉自体の響きを勝手に縮めたり引き伸ばしたりすることなく、それでいて口ずさみたくなるような自然な旋律と結びついていることには戦慄さえ覚える。
ジョンソンtsuのカポタストが二度ほど落ちるアクシデントはあったが、それをものともしない完成度であった。


演奏は、ジョンソンtsuがカバーしたバージョンの「四月下旬並みの陽気」に近い高音トレモロストロークが多用される。
遠征でなければ、スティール弦の高音ギターだともっと雰囲気が出たはずである。
この曲「ローラースケート日和」は、大笑いできるほど純粋に面白い歌詞である。
だが、なぜそこまで面白く感じられるかと言えば、歌を聴きながら次々と映像が浮かび上がってくるからである。
ローラースケートのデモ集団が一瞬で通り過ぎたり、電動自転車を追い抜いていったり、漫画やアニメーションレベルで躍動する人物たちが言葉と音楽だけで表現される。
他人の評価はまるで分からないが、個人的にはこの曲の評価は高い。


「クリスマスに誕生日」で終了となるが、この時季にはよく演奏される。
スティールとガットと、二種類の弦のギターがストローク音を響かせ、賑やかなパーティーの一場面を連想させる。
「チャイナドールに黒魔術」「君の姉さんストリップ」など、解読が困難なキーワードが何度も繰り返される。
「マリア様は私のお友達」が、客席の耳にすり込まれたところで「無言ライブ」は終了する。


この日は、大阪からはるばるやってきたジョンソンtsuを観るのが第一の目的だったはずだが(そしてその演奏のクオリティも前回より高かったが)、双葉双一の演奏の方が強く印象に残る夜だった。
アルバムや記憶の中で鳴る双葉双一の音楽より、生で目の前で披露される双葉双一の音楽の方が、遥かに印象深く、楽しめるのは間違いないことである。
この日、双葉双一のストロークの特色や、言葉の響きについて新しい発見もあり、「なぜ双葉双一の音楽に飽きが来ないのか」とても理解することができた有意義なライブであった。







今月、多少時間が取れそうなので、溜まりに溜まったライブレポなどを片付けていきたいと考えています(予定は未定)。

前に記したように、書きかけのもの(リストのみ、など)はアメンバー限定記事にして、まあ仕上がったと思われるところになったら一般公開にしておきます。

そのため、「記事が仕上がったら読む」というだけなら、以前どおりです。

ただ、「リストだけでも」という方は、アメンバー申請していただければ、中途の記事を読めるようにしておきます。

一番下にリンクボタンを置いておきますが、アメブロ自体の登録が必要になります。

「他人に知られないように」という方は、「ナイショにする」にチェックを入れていただければ、登録は他の方から確認できないはずです。

返信機能がないのでこちらからもアメンバー申請する場合もありますが、これはご自由に拒否していただいて結構です(こちらからは「ナイショにする」で申請するので、こちらも他の方からは分からないはずです)。

なお、ライブ以外のテーマ(カレーやテレビなど)は、書きかけでアメンバー限定記事にするようなこともないと思われます。



一応、ご注意点ですが、現在の書きかけライブは、多い方から



山田庵巳>>ジョンソンtsu>原マスミ、双葉双一>元たま



のような割合なので、世間の需要とは逆です。

お気をつけ下さい。



今日あたりから、書きかけのものを幾つか記す予定です。

何の情報もない記事の更新で申し訳ありません。






アメンバー募集中

オレとナオヤの残暑厳しい阿佐ヶ谷でロングトーン/阿佐ヶ谷にぎやかな風(10/09/03)


(双葉双一)
1.冬の歌
2.霧の中で
3.悪い空想
4.八月のほんの少し
5.さようならプロスティテュート
6.星の上
7.岬の上


(沢田ナオヤ)
8.夏の夢
9.毎日の今日
10.アイライクユー
11.抜け殻
12.町外れの小屋
13.舌先の靴の時計
14.夕焼け空
15.トナカイの唄
16.点線と恋
17.月夜のカルテット
18.チキンライス


残暑もとっくの昔に過ぎ去ってしまったが、要望があったので幾つかのライブを後回しにしてこちらのレポを記したい。
いつも一番苦労するセットリスト作成に、毎度毎度ご協力くださる「よし」様に感謝申し上げます。
何も御礼はできませんが、拙い文章を捧げたいと思います(以上、ですます調、終わり)。


阿佐ヶ谷で双葉双一といえば、やはり「名曲喫茶ヴィオロン」が第一に連想される。
「定期演奏会」と銘打たれた音楽会は3回ほど行われ、「ライブ」と呼ぶにはあまりに神聖で、「催し」というより「儀式」に近い印象であった。
過去のレポを読んでいただいたほうが早いが、満員で静まり返った会場からは、流し場の水の音もライターの摩擦音すらも聴こえず、アンプラグドの双葉双一の歌とギターの音だけがバランスに取れた残響とともに客席に満たされる。
他の会場ではありえない、囁きよりも小さなストロークや歌までもが隅々まで届き、真のダイナミックレンジはこのようなものであると教えてくれる。
今年のクリスマスイブに次の定期演奏会が予定されていて、それをヴィオロンでの最後の演奏にするという本人の言葉がTwitterで記されていたが、残念ながら12/24の公演は流れてしまったらしい。
だが、ヴィオロンのスケジュールを確認すると、まだ12/24に「双葉」という2文字が残っている。
アルバムのPVを撮影するためであればむしろ大歓迎であるのだが、内輪のパーティでも行うならそれもよいかもしれない。

http://www.geocities.jp/violon_plikkkeenoo/violonlive.htm

残念なのは、来年の予定にまだ「双葉」の文字がないことである(もちろん「因島」の文字もない)。
値段などいくらに上げてもらっても構わないので、いずれヴィオロン定期演奏会が復活してほしいものである。


ヴィオロンライブの最大の欠点は、「何もかもが素晴らしすぎること」である。
アンプラグドでも柔らかな音響、美しい調度品、囁きよりも小さなギターや歌声まで通る環境、どのクラシック会場よりもマナーのよい観客、これで1000円ドリンク付きはありえない。
正直、ヴィオロンで聴くと、他の会場で演奏を聴くのが怖くなるぐらいの戦慄を覚える。
双葉双一のライブ会場の中では、抜群に千葉寄りであるのも千葉県民には嬉しい。
個人的な希望を記せば、もう少々東側の会場でライブが多いと千葉県民としては非常に助かる。
国立も西八王子も会場としては悪くないのであろうが、帰路を考慮した立地を考えると、どうしても見送らざるを得ないライブが増える。
山田庵巳の最西端は西荻窪で、双葉双一の再東端は阿佐ヶ谷(高円寺U.F.O.CLUBは全然近くない)であり、8/31に続きライブが被ってしまったが、共演者も含め検討しこの日は阿佐ヶ谷で下車した(もちろん西荻窪にも未練たっぷりではあったが)。


この日の会場は、「にぎやかな風」という施設で福祉作業所かその販売所か、とにかく普段ライブなど行われるようなスペースではないはずの場所であった。
だが、その職員か何かで音楽関係者(多分、ヤング100Vの人)が関わっているようで、かなり集客力のあるはずの演奏家のライブを頻繁に行っている。
入口や横には販売されている「作品」や「商品」が並べられていて、奥の壁面には大きく描かれた施設利用者の作品と思われる絵があった。
開場時、知久寿焼のマネージャーが受付を行っていた。
サードクラスでも双葉双一でもライブ会場でよく見かけるが、知久寿焼が目をかけるミュージシャンのマネージメントも行っているのであろうか。
実際、沢田ナオヤも双葉双一も知久寿焼との共演で自分は知ったので、何の違和感も感じはしなかった。
なお、線路の下で場所的には音楽に向かないはずの立地なのだが、不思議と中央線が通り過ぎる騒音は全く感じなかった。


やがて、開演となる。
予想に反して、双葉双一が最初の出番であった。
どうも、直前になって一方的に出演順の変更が告げられたらしい(もちろん、「オレ」が「ナオヤ」に)。
衣装も双葉双一らしいものであったが、服の名前をあまり知らないのでここではあまり書かないでおく。


「冬の歌」は初めて聴いたが、いろいろと凄い歌である。
淡々としたストロークに乗せられて、「私の赤ちゃん」がテーマに歌われる。
それだけであれば、ステレオタイプ的な「生命の誕生」への賛美が歌われているように思われるかもしれないが、「冬の歌」は全く異なる切り口である。
七尾旅人「私の赤ちゃん」が一点をただ深く掘り下げた世界とするなら、双葉双一「冬の歌」は裏側ばかりを掘り進めて、表面上からは伺えない深淵を楽曲の中に用意している。
歌詞は双葉双一のブログに全文記載されているので読んでもらうことにしたいが、「あなたは私の赤ちゃん」「二人で暮らしましょう」という状況に「冬の歌」というラベルを付したところに、大いなるメタファーを感じる。
おそらくは、シングルマザーで精神的にも経済的にも頼れる存在はない、厳しい状況が推測される。
もちろん、この解釈自体が大いなるステレオタイプなのかもしれないが、時季的な世界としての冬だけではなく、やがて終わるはずの恵まれない状況を「冬」という一語で置き換えているように感じられてならない。
双葉双一の歌詞は、タイトリングを含めた上で非凡さが明らかで、別の人間が同じ世界を描いたときにはもう少し直接的なタイトルが付けられるであろう。
今日は暑いので「冬の歌」から始めてみました、とのことであったが、淡々と凄いことを歌われて、空間はすっかり双葉双一色に染まる。


「霧の中で」も、タイトルは涼しそうである。
全く関係ないが、昔、夏になると必ず「霧が峰」というエアコンのCMが流された。
それはさておき、「霧の中で」は「冬の歌」ほどの重さはないが、「霧の中」という歌詞に誘引されての聴き手による補完作業を伴った映像化が各自において行われる分、歌詞からの世界の限定は希釈されてソフトフォーカスに支配されたイメージ化がされる。
この日の曲の中では、ストロークの軽快度も高めで(他はノンビートも多かった)、聴きやすさや心地よさは多少あった。


「悪い空想」は、まだよく理解しきっていないが、何故か個人的には好きな曲である。
一人称で書かれた秘密の日記をこっそり読み進めるかのような、そんな引き込ませ方が「悪い空想」には存在する。
逆に言えば、物語としての発展性はなく、それこそ「空想」のように堂々巡りと自己完結が繰り返されているのであろうが、その「空想」をガラス張りにしオープンハウス化したところに、つい足を踏み入れたくなる敷居の低さがある。
曲自体はAメロだけで、やはり楽曲自体からは物語性を排している。
音楽的に淡々としている分歌い方は毎回異なっており、節をつなげたり切り離したりを自在に行うが、この日は中庸の位置にあった。


このあたりにMCが入ったと記憶しているが、普段は材木屋などで演奏活動を行っているなどと、この日の観客であれば誰もが信じるはずのない法螺貝を演奏する。
会場に並べられている作品などについても、言葉を加えていた記憶がある。


「八月のほんの少し」は、温度的には「霧の中で」と同じくらいの体感である。
だが、「霧の中で」が、オバケや妖精など訳の分からないものが沸いて出てきそうな幻想性をも含んでいるのに対して(勝手な印象だが)、「八月のほんの少し」には双葉双一には珍しくその季節の日常性と言うか平凡性と言うか、生活空間を切り取って作品にした(ウォーホルのキャンベルの缶詰の絵画のようなものか)ようなリフレインが一聴では感じられた。
誤解を恐れずに記せば、タイプはまるで違うはずなのに大滝詠一(「恋するカレン」あたりより少し前の頃か)的な印象さえ感じられた。
柔らかな「3・3・2」のビートが刻まれていたからでなく、極力その季節の背景と空気そのものを描こうとしたところがあったのか、声高に叫ばない日常性としての風景が伝わってくる。
ただ、音楽的にはいわゆるサビらしいサビが出てこない構成の曲がここまで(そしてここからも)続き、かなり挑戦的な姿勢で演奏を行っていることが感じられずにいられなかった。


「さようならプロスティテュート」は何度か聴いていたはずだが、この日は個人的には印象が異なった。
この曲もブログに歌詞が出ているが、これを一読して理解した気になってしまうより、まず双葉双一の用意した間合いと語調とで、まず聴いてほしい。
初めてこの曲を聴いたとき、名画座で上映されている白黒フィルムの海外作品が浮かび上がってきた気がした。
現代の都心の喧騒とは別世界の、貴族・上流階級の文化が社会にしっかりと根を下ろしていた頃の、セピアがかったモノトーンの映像が音楽とともに生動していた。
だが、この日感じたのは、「決して創作上の別世界としてこの作品がこしらえられたのではない」ということである。
おそらく、この世界が描かれたとき、双葉双一は高みから見物するのみではなかった。
高みから主人公の肩の高さにまで降りて、いや、降りただけではなくその主人公自身になりきって、その場面の中で自身で感じ取った感覚をもキャンバスに叩き付けているように感じられてならない。
特に、「時には本当の奥さんのように」や「なんともギラギラ光って」の部分などは、自分でその世界を通り抜け一通り経験していなければ生じないくらいの表現である。
この曲に限った話ではないが、双葉双一の描く作品世界が決して「ステレオタイプの再生産(引用リンク先消滅)」になってしまっていないのは、この「なりきって描く」ためではないだろうか。
「半径50メートルの文学」ばかりが出回っていると叫ばれ、真のフィクションが生まれにくくなっているこの時代において、音楽世界においてそれを体現している双葉双一の存在は貴重である。
余談だが、双葉双一のMCには一見虚言癖とも解釈されうる内容のものが非常に多い。
だが、これは「虚言倶楽部」のグループの影響というよりは、むしろフィクション作家の美学としての楽屋からの排除性を貫いている行為の現れであると思われる。
なお、この日の演奏は、やはりビートを付けないストロークの往復に合わせ、普段以上に自在な間合いで(もしかすると小節数の縛りからも自在に)物語世界の言葉を置き続けていた。


「星の上」は、6分程度の曲だったはずだが、印象的には「インザナイトマイフェスティバル」や「タワーホテル」にも匹敵するぐらいの大曲に感じてしまう。
ちなみに、サンジャックの「やりなおしだよ! 全員集合」では双葉ステージの最後に置かれた。
この曲は、先に挙げた大曲と異なり、音楽的に印象的なリフレインがあるわけでない。
「星の上」という言葉が用いられるサビは、最後の最後でやっと登場する。
「双葉ストローク」とも呼べるビートを排したストロークも、ppからffまでグラデーションを描くように広がりを魅せる。
滝本晃司で言えば「夏の前日」のような構成であり、流行歌にするには不向きであるが、全体を一つの完成体と捉えるのであれば壮大さをもたらす効果があると考えられる。
おそらく、音楽においても文藝においても、現代はサイコロステーキ的な甘やかしが提供側に存在し、食べやすさが商業主義では第一義に重きを置かれているようなところはある。
一人の半生や成長をモノローグの形で、いわば「姿焼き」のような形で食卓に置かれたとき、我々はナイフとフォークのあまりの小ささにしばし戸惑いを覚える。
だが、食事でなく料理は、栄養を摂り味覚を満足させるためだけのものではない。
素材と表現者の持つ重みやメッセージをも、感じさせるものであるのではなかろうか。


「次のナオヤ君はどんな面白いものを見せてくれるのでしょうか」「どんな水着姿で現れるのでしょうか」「どんな竹原ピストルメドレーを聴かせてくれるのでしょうか」などと、沢田ナオヤステージへの期待をさんざん持たせた後、最後の曲ということで曲目を紹介した。


すっかり満腹になり、最後は「明日からギリシャに行く」とのことで(真偽は不明、多分後者)、「岬の上」が演奏された。
この日のリストの中では唯一ホッとする選曲で、シンコペーションとビートとが印象的な分、歌詞を背景のように鑑賞することがこの曲だけは可能であった(他は歌詞がメイン)。
「岬の上」を、双葉双一自身がどのように捉えているのか、まだ聴き手として理解してはいない。
ただ、比較的演奏機会の多い曲であり、何らかの「成功」をこの曲の中に感じているのではないかということだけは想像させられる。
「サスペンス岬の上」といった曲名で紹介したことが、一度ある。
もしかすると、「フィクションと流行歌との融合」としてのバランスのよさに何か感じるものがあり、双葉双一的記号が裸のままで表出される曲群のん地テーゼのようなものを抱いているのかもしれない。
まあ、「岬の上」については3人称的な描写の映像ばかりが鮮烈であるので、まだ深く掘り下げていない。
雑感は、また次の機会にも記すことにしたい。


この日の双葉双一の総括であるが、数日前の他流試合(後述)を「厳選された代表曲」中心のリストとするなら、ファンしか存在しないこの日のリストは「一見さんお断り」に近い組み合わせであった。
もちろん、このリストでも分かる人にはよさが分かるが、「タワーホテル」や「お嬢さんよろこんで」のような分かりやすい記号が前面に出ているわけでもなく、「レベル5」や「ミルクミー」のような聴きやすく唱えやすい旋律が置かれているわけでもない。
ちなみに、この3日前に渋谷クアトロで行われたイベント(七尾旅人や曽我部恵一出演)のリストは、「だれのためのお客さん、さてきみは?/家の中で花火/タワーホテル/束の間の二日間/ウルスリ/レベル5/お嬢さんよろこんで」とのことである。
この日は柏WUUで山田庵巳を観ていたが、Twitter上でご教授いただくことができた(感謝の気持ちを込めて、無断リンクを貼っておきます http://closetique.blog100.fc2.com/  日比谷カタンレビューは日本一詳しいと思われます)。
渋谷クアトロの曲群は、まさに代表曲(本人はこの言葉や存在を肯定していないようであるが、記号としての双葉双一性は強い曲群である)が並び、双葉双一を知らない層にはかなり魅力的なリストである。
だが、双葉双一のファンばかりの(少なくとも双葉双一を知らない客が一人もいない)阿佐ヶ谷の曲群は、容赦のない選曲である。
スパワールド屋上のプールで戯れようと考えていたら、ウォータースライダーの出口で待っていたのが純文学の深い深い海であったようなものである。
もちろん、それはそれで魅力的に感じる層は存在するはずだが、印象的なリフレインの「タワーホテル」や口ずさみやすい「レベル5」などと比すると、レア曲を楽しめる層向きである。
双葉双一の曲のレア度は、「ロングトーン」>「ワンマン」>「アウェー」というのが大雑把な印象だろうか。
会場にいたかは分からないが、渋谷クアトロで双葉双一を初めて聴き、そのまま阿佐ヶ谷になだれ込んだ客がいれば、おそらく何らかの衝撃を受けたはずである。


「1分24秒のインターバルを置いてナオヤ君が登場します」との無茶振りの後、常識的なインターバルを置いて沢田ナオヤの登場となる。


さて、沢田ナオヤは散髪し髭も剃ったとの前情報があったが、やはり以前の長髪に髭の風貌とはまるで異なっていた。
由美かおる風の女性で言えばショートカットで、痩せた体の鎖骨が出るようなシャツで、「年齢不詳」のような以前の姿より若々しく感じられた。
ギターは、おそらく入手して初披露となるタイミングの、ギブソン1969年製B-25(双葉双一はマーチン0021とのこと)が登場した。


調弦の後、「始めてもいいですかね、水着でないですけれども」と語り、「夏の歌から」とギターを弾き始める。
「夏の夢」で第2部が始まり、郷愁を誘う音楽と歌詞が聴こえてくる。
ギターの音質については、まだ正直なところ楽器の違いはよく分からない。
歌唱については、普段の「ロングトーン」シリーズとはかなり違った。


沢田ナオヤの歌唱は、両立が難しいはずの二つの要素で構成されている。
右手には地声が見え隠れする独特の中音域で、これが沢田ナオヤの最大の魅力であり、差別化に繋がっている。
左手には高音の抜いたファルセットで、曲の節々でこれが用いられるために上品な仕上がりを見せている。
その針が右に左に振り切れてしまわないようにバランスを取らなければならないので、よいコンディションを準備するのは相当困難なはずである。
歌い込み過ぎると針が右に振り切れ、喉を休めすぎると今度は針が左に振れと、一筋縄ではいかなそうである。
幸い、以前のvol.1や新春ロングトーンは、歌唱においてはなかなかよいバランスであった。
だが、この日はライブが続いていたのであろうか、ファルセットが弱く、かなり針が右に触れていた。
理想を5対5とすると、この日は8対2ぐらいであっただろうか。
もちろん、歌い込んだと思われる地声の鳴りはよい。
ファルセットの少ない曲を中心のリストに変更することも、十分可能ではあったはずである。
また、会場が異なれば(マンダラグループあたりなど)、PAで多少調節も可能だったかもしれないが、ファルセットの音域だけを拾い上げるほどの優れた音響機器はそもそもここには(どこにも?)存在しない。
だが、沢田ナオヤは、少なくとも「ロングトーン」企画のときには、そうした「逃げ」は行わない。
良くも悪くも、普段の調子と変わらぬセットリストをぶつけてくる。


「毎日の今日」も定番曲であり、アルファベットでなく平仮名で記されたように発音される「サンデー、マンデー」などの言葉が、等身大の日常性を感じさせる効果を持つ。
折々に入る美しい口笛の旋律も、歌う部分よりも複雑に動くように感じられ、上品な印象を感じさせるはずの曲である。
だが、この曲もやはり(というより最初の2曲が一番顕著であったが)地声の魅力的な倍音に反して、ボリュームを絞ったかのようなファルセットとのバランスが前者に極度に偏り、どうしてもそちらに印象が行ってしまう。
「眠るまで」と歌う部分などで、ファルセットを断念した歌い方をした部分もあった。
双葉双一と比べ、相当多いステージ数が喉に負担をかけているのかもしれないとも感じた。
ファルセット向きではなく、力強い歌い方向きの声質に、体がシフトをしているのではないかと思われる。
だが、これは、演奏が悪いということでは決してない。
魅力的な要素は、十分に魅力的なのである。
だが、安食堂の安定食のご飯と味噌汁に違和感を感じない客も、美味しいご飯に少し冷めた味噌汁が組み合わされると、どうしても反実仮想的に理想を求めてしまうところがある。
特に、よいときの「奇跡の沢田ナオヤ」の絶妙のバランスを知っていると、(酷ではあるのだが)全ての要素で最高の演奏を期待してしまうところはある。


「アイライクユー」という曲名は初めて聴いたが、「アイライクストライク」と曲調は同じであった。
3拍子のストロークで、2人称の「君」に対しての素直な想いをタイトルどおりの内容で歌っていた。


沢田ナオヤのMCは、相変わらずの調子である。
少し早口で、思いついたことを打ち上げ花火のように打ち上げ、そのまま不発させる。
その儚げな余韻は、残暑厳しいとは言え夏の終わりをも感じさせ、趣深いものであった。
この日は、確か「暑さが厳しくて得をした人も損をした人もいるだろうが、損をした人の方が多かったのではないか」というようなことについて語っていた記憶がある。
ただ、この後は比較的曲紹介以外のMCは入らず、淡々と曲が消化されていった。


「抜け殻」は、同じく3拍子ストロークの曲である。
去年の夏に生まれた曲のようだが、この日の曲の中では沢田ナオヤの上品さが歌詞と旋律とともに感じられ、個人的には一番満足できた。
特に、「珈琲カップに沈んだお月様」など、サビの部分で映像的で印象的な言葉が染みこんできて、曲後の余韻もある。
「町外れの小屋」は、町外れで孤独に暮らす老人を描いている。
何となく、スピリの『ハイジ』の原作版の、アルムおんじが山を下りて教会に向かう以前の人物像が浮かび上がる。
もしかすると一点で描いたのかもしれないが、物語性がどことなくこの曲には見え隠れする。
「舌先の靴の時計」は、今年の夏に生まれた新曲のようである。
ゆったりしたアルペジオに、一つ一つの音符に丁寧に言葉を置き、サビの部分以外は本当におとなしく淡々と歌い込まれる。
「針のない時計に影のいたずら」「直角に折れ曲がり、午前六時を指す」という象徴的な描き方が、往年の沢田ナオヤの世界らしい。
ただ、まだこのタイトルの意味を理解できていないので、いずれ掘り下げてみたい。


「夕焼け空」は、「チキンライス」を思わせるゆったりした爪弾き(低音ミュート)から始まり、本当にデリケートな気持ちをCメロまで用意して歌い込む名曲である。
「君の街まで」が行動を伴う人生の応援歌とするならば、「夕焼け空」は弱い心もさらけ出す「素直な」気持ちで正直に生きていくことの真実を歌った歌であろうか。
この日の沢田ナオヤの声はこの曲を歌うには十分なバランスを保っていて、演奏自体も満足できるものであり、「抜け殻」同様に聴くことができてよかったと感じた曲である。


双葉双一も「冬の歌」から始まったのでと、「トナカイの唄」の熱唱でひとまず予定の曲は終了する。
「サンタークロースを乗せていないトナカイ」など、沢田ナオヤにしては珍しく(あまり曲を知っている方ではないが)抽象的でも象徴的でも日常的でもない歌詞世界であり、クリスマスの一場面が非日常的な形で描かれるかのようである。
また、沢田ナオヤのそっと呟く高くない音程の言葉の響きは、どこか純粋な少年の心の言葉のようにも感じられる。
それが、聴く者の幼き過去のどこか一点と重なり合う瞬間を存在させ、歌に惹かれながらも時折ハッとさせる感情を引き起こさせるのではないか。


途中何曲か飛ばしながらどんどん演奏していたとのことで、最後の曲が終わっても時間に余裕があった。
「6曲ぐらい」と冗談のように口にしたが、時間を確認して、その後「3曲メドレーで」と何を弾くか考えて、迷いながらも結論を出し「アンコールメドレー」が始まる。
最初は、「点線と恋」で、同名のアルバムも存在するがこの曲は入っていなかったはずである。
やはり、ファルセット部は歌いにくそうではあったが、他も抑えた曲調であったので最初の2曲ほどは気にならない。
ゆったりと歌い込まれ、すっかりいい気分になったところで、曲が終わる。
「月夜のカルテット」「チキンライス」は、おそらく沢田ナオヤが渋谷クアトロの弾き語りイベントに参加していたら間違いなく演奏されていた代表曲である(アルバム「点線と恋」の曲群と「毎日の今日」「星の地図」あたりが代表曲メドレーか)。
「月夜のカルテット」は、2拍目と3拍目の和音を短く消音し、ワルツ感が他の曲より強く感じられる。
「チキンライス」も、「夕焼け空」同様に低音のミュート音から浮かび上がってくる高音弦と朝の爽やかな言葉が、やはり心地よい。
最高のコンディションと言えない中、安定して聴かせることができる曲を持っているのは、沢田ナオヤの強みといえるであろう。


そう言えば、「チキンライス」の作詞に関わった共作の高柿たくろう(拓郎)のホームページ(掲示板だが)を見ると、2年ぐらい更新されていなかったのが今年の2月からライブの告知など更新が確認できる。

http://www2.ezbbs.net/27/cheaphearts/

今年の2月の書込みは意味深で、それまで音楽を離れていたのか、何か特別な活動を行っていたのか、全く分からないが、何か立ち返りの決意と感謝の想いが記されていて、興味深い。
関西を活動の拠点としているようなので歌も声も全く知ることはないのだが、「チキンライス」世界の半分は少なくともこの作詞家が切り開いたものと予想されるので、遠い地から声援を勝手に送りたいところではある。


残り時間を計算しての「最後の3曲」であったが、さらにアンコールの手拍子がかかりかかったところで、沢田ナオヤが「終わり」と口にし、この日の催しが終了する。
双葉双一はTwitterで、この日本当はこの後多くの演奏を予定していたことを記していたが、沢田ナオヤの行動を考えるとそれはなかったのではないかとは思われる(確かに、曲数的には双葉双一の曲があと何曲かあってもおかしくはないが)。
ともあれ、ホーム感満載のこの日のライブは終了し、体調もあまりよくなかったので早々に会場を後にした。
双葉双一のリストを考えると、もう少し体調のよいときに真剣に向き合いたい構成であったとは思うし、沢田ナオヤの声のバランスについても聴き手側の欲がなかったわけではない。
だが、西荻窪に行かず後悔があったかと言えばそうでもなく、やはりこの二人は今後も聞き続けていきたいと再確認した方が大きい。
むしろ、日程的にも金銭的にも都合がずっとつかなかったので、久々に聴けてよかった。


この「ロングトーン」の企画が始まったとき(下北沢440でのVol.1)、沢田ナオヤは「ムーブメントを起こしたい」といったことを述べていた記憶がある。
だが、これは断言して構わないと思うが、今の方向性では間違いなく「ムーブメント」は起きない。
この一ヵ月後に観た弾き語りイベント(代々木原シゲルとsuzumokuの静岡出身の二人の企画)のレポでもまた記したいと考えているが、現在の「ロングトーン」シリーズは料理で言えばフルコースを味わう満足感がある(もう一つの企画は腹八分目にもならない)
「ムーブメント」が、「広がり」「繋がり」を意味するとするなら、「ロングトーン」企画はあまりに深化ばかりしているのである。
コアなファンが喜ぶリストと、一人一人の演奏を十二分に堪能できる時間配分、常連客のリピートイベントとして定着することはあっても、新しい風は吹き込まれない。
あくまでも「ムーブメント」にこだわるならば、人選の必須要素とされた「リスペクト」を抜きにして(ゲストがある場合)、若き原石や雑草を舞台に引き込むことさえも必要なのかもしれない。
だが、「ムーブメント」にこだわりさえ持たないのであれば、これはこれで両者のファンにとってこれ以上ないホームのイベントであり、需要は少なくない。
ただ、「深化」にも「広がり」にもこだわりを持たず、試行錯誤していく自由さもまた貴重であるので、外野の戯言には耳を貸さずに企画は続けてほしいものである。


追記

お気づきであろうが、レポを記していないライブが溜まりに溜まっている。
駄文は読む気はないがリストは見たいという層も相当存在するはずなので(むしろそちらが多いか)、書きかけのレポもとりあえず上げてしまうことにする予定である。
ただ、さすがに書き掛けばかりを堂々と並べるのは気がひけるので、「アメンバー限定」で記すつもりである。
ルームからはアメンバーのリストを外すようにしたが、それでも名前が記されることに抵抗があれば、アメンバーを表記しない申請にチェックを入れることもできる。
とりあえず、アメンバー限定記事を記す際は再告知をするが、書きあがったら全員に公開になるので無理に申請していただかなくても最終的なレポ自体は全て見ることができるかと思われます。






※明日、11/24(水)も、同じ会場、同じ時間で山田庵巳ワンマンが開催されます。

前回(下記告知)にご都合の付かなかった方は、ぜひこの機会にご覧になってください。

前回は3ステージで、それぞれのテーマがあり、充実した夜でした(レポは今年中には何とか書きたいです、すみません)。




当日まで1週間を切ったこのタイミングで、まさかの山田庵巳ワンマンライブが決まった。

普段は、twitterでこういったことは記しているのだが、あまりにも時間がないのでブログの方でも今回は告知しておきたい。

なお、twitterは以下のIDで、ライブ情報に興味があればどなたでもご自由にフォローしてください。



http://twitter.com/sprawlworld



基本的に日常生活の友人知人のフォロワーは一人もいないので、このブログと芸風と文体は変わらず。

ほとんどの方がBOTと思ってフォローしているようですが、ごくたまに話しかけることがあるので気をつけてください。

こちらからのフォローは、内容が理解できて全文追える気力がある場合にはすることもあります。

ただ、フォローしていなくても、基本フォロワーの書込みは全部目を通しています(以上、ですます調終わり)。





早速本題であるが、

日時:2010/10/18(月) 19時半開場、開演20時半

会場:渋谷テラプレーン(http://www.terraplane-blues.com )、予約は不要とのこと。

料金:1500円+ドリンク

で、2年振りのワンマンライブである。



代官山のイベントalternative soloist vol.4でも語られていたが、山田庵巳は「音源や告知はない主義」とのことで(「勝手に録音してください」などとも言っていた)、ファンは「出演していそうな」ライブハウスのスケジュールをこまめにチェックしたり、同好者のブログやtwitterをチェックし合い、何とかライブに足を運んでいる。

それでも、出演依頼や共演依頼はひっきりなしで、先の代官山イベント以外にも前回の渋谷テラプレーンや柏WUUなども共演者の強い希望でライブが決まった(共演者のMCで確認済み)。

今回も、箱側の依頼があったのではないかと推測される(それでなければ、あまりに急すぎる)。



自分のよく行くライブは、結構告知には恵まれていた。

原マスミは、公式HPの管理人が完璧に情報を記載し、相当早い段階でスケジュールを調整できる。

柳原陽一郎や双葉双一もスタッフに恵まれ、少なくとも情報がなく足を運べなかったライブはない。

だが、山田庵巳はそうはいかない。

本人のHP・ブログを見ても、前日や当日に普通に告知してくる。

しかも、それすら抜けることが少なくない。



自分自身が聴きたいということと、山田庵巳の音楽に出逢わせてくれたことへの感謝、使命感から、一応twitter中心にライブ情報の告知はしておきたい。

本当はライブレポもどんどん更新したいが、今月は忙しくほとんど更新できる自信がない。

要望のあった「ロングトーン」は、何とか先に更新したいがそれも1月遅れである。

まだ記したいことはあるが、電源が危なくなってきたのでひとまずアップすることにする。


料金、予約の有無など追記済み。

開演時間追記済み。

sacton proud 2010/新宿SACT!(10/08/11)
山口晶/山田庵巳/山埼竜(from RoundMind)


(山崎竜)
1.キレイゴト
2.カケラ
3.紫陽花
4.傍に居ていいですか
5.手紙
6.Same Sky
7.凛


(山口晶)
1.うつろぎ12号線
2.集中豪雨
3.クラゲ
4.トリーハ~哀歌~
5.陽ハ出ズル
6.レインボーイ


(山田庵巳)
1.模範的な黒
2.砂の道
3.渚の係長
4.刑事キャノンボ
5.サメの背びれも気にしない
6.機械仕掛けの宇宙
7.もしあなたが
8.羊のアンソニー


9.かぼちゃのスープ



毎月、山田庵巳のライブを聴ける貴重な新宿サクトであるが、今まで「SACT」と表記していたが「SACT!」が正しい表記のようなので、今後の表記はこれで統一する。
昔解散したバンド「プトン」の表記が「PTON」でなく、「PTON!」であったのと同じである。
ボーカルの森岡純は国際結婚をして北欧に暮らすことと、ギター・作曲の朝三憲一がバックギタリストとして活躍しているのが本人のブログで確認できるが、他のメンバーの現況は分からない。
個人的には、森岡三知が何らかの活動を続けていてほしいとは思っているが、全く情報がない。
解散して久しいが、いずれ、1枚くらい旧譜のアルバムを紹介しておきたいところである。


SACT!は、会場自体のアンケートに答えたり登録したりすれば、メールマガジンが届く。
これを読んでおくと、ドリンク代が無料になる企画などいろいろ特典があることが多く、この日も出演者の名前に「山」が皆入っているので「山が入る名前の人は入場時ドリンク代無料」の情報があり、ドリンク代が浮いてしまった。
9月になりメールマガジンはまだ発行されていないようだが、このような企画はどしどし行っていただきたいものである。
この日の山田庵巳の出番は最後で、なおかつ引退ライブ後最初のライブで期待が持たれるものであった。


最初の「山」は山崎竜で、検索をかけると「奇人達のお茶会」のときの原大介同様に、たくさんの別人が引っ掛かる。
RoundMindで検索をかけてみると、依頼した職人のPCの故障以来更新されていない公式ページが見つかり、唯一情報が書き加えられ続けていたBBSを確認すると、大和でストリートライブをよく行っているということは分かった。
山田庵巳以外の日は足を運ぶことはないのだが、ライブスケジュールを見る限り、新宿SACT!はストリートミュージシャンのハレの場とよくなっているような感がある。
以前、津田沼駅前などで演奏しているのを目にした名前が、毎月のリストの中に記載されている。
魅力的な響きが街なかで聴こえてきたとき、時間に余裕のあればなるべく足を止めて耳を傾けるようにしているのだが、最近その機会が減ってしまっているところがある。
だが、力量のある演奏家に偶然出逢うことが、疲弊した精神に安らぎを与えてくれる契機となることも多く、そうした機会は大切にしたい。
後述するが、山崎竜のギターや歌唱については「ストリートの血流」のようなものが強く感じられ、ストリート系について再考させる興味深い特徴が存在した。


服装は、ネクタイがプリントされたTシャツであった。
あまり社交的な雰囲気ではなく、余計な言葉は何も付け加えず、登場後、何も語らないまま1曲目が始まる。
1拍目が四分音符で始まるストロークが、ストリート系らしいか。
声はソフトフォーカスがかかっている感があるが、弱いファルセットからそのまま一気にffまで持って行くような歌い方で、情感を込めることを優先させる印象がある。
「愛こそ全て」「願いは必ず叶う」といったJ・POPの記号(と書いてレポが上がる前に代々木原シゲルの「最近のJ・POP」を10/1に聴く、これについても記したいが後日にする)とも言うべきフレーズが、裸のまま剥き出しで歌われていたことにまず耳を奪われる。
この曲は「キレイゴト」というタイトルなので、そのような言葉を「キレイゴト」という括りで主題にしている。
だが、この歌い手がそうした記号をシニカルに用いているかといえばそうではなく、次の「カケラ」の中でも「いつだって自分らしく、君らしく」といった例の記号がふんだんに登場する。
アルペジオから始まりスローなストロークに転換していくこの曲は、BBSを確認する限り評価の高い曲のようだが、大きな類型の中に属する要素は多い。
ただ、この日この2曲を聴いて、巷のJ・POPの記号は「観客に訴えている」のではなく「自分自身にまず言い聞かせている」のではないかと直感した。


時季が過ぎてしまった断りを入れた後、「紫陽花」が演奏されるがこれはよかった。
曲的には落ち着いたアルペジオとともに、印象的に流れていってしまうところはあるが、歌詞的には擬人化した「紫陽花」と心象化した「雨」とを映像的にも悪くなく結び付けていて好感が持てた。
歌詞的には、他のこの日の曲とは一線を画していた。
それだけに、ステージ全体を通してのこの曲の印象が強かったのであろう。
逆に、次の「傍に居ていいですか」は、残念ながら印象的には全く残っていない。
ストローク主体であったことはメモ書きに残っていたが、もしかするとソロでない演奏のときは何か聴かせどころがあったのかもしれないが、次の「手紙」と最後の「凛」がしっとりしてよかったせいか、記憶が上書きされてしまったところもある。


ストリートの弾き語りは、雑踏の中まず必要な音と言葉を通行人に届けなければならない。
細かい歌唱表現よりも、多少おおらかでもMAXで出し切るところは出し切ることが重要になる。
AMラジオの低音質でも劣化しない種類の音楽が、このような場には求められる。
山崎竜も、おそらく10年の歳月の中で、こうしたスタイルを体に染み込ませていったところはあるのだろう。


「手紙」は、純粋なフォークソングである。
和音展開だけで考えると、昔の曲ならとんぼちゃんの「その日が来るまで」あたりの、正統なフォークソングの調和から逸脱していない。
だが、サビで針を振り切ってしまう歌い方は、この曲自体の持つ世界の映像を強いBGMでかき消してしまうかのようなところはある。
100いつも出すところを、ある部分は90で、または80で「振り切らない」フォルテを多用するると、「手紙」は比較的名曲として生き残れる要素はある。
一曲の中のダイナミックレンジだけでなくて、ワンステージ通してのダイナミックレンジを考えるならば、言葉の強さだけを残して音的には70~80ぐらいで振り切らない方がよかったのではないかとも思う。
手紙の文面と心情を重層化した歌詞は興味深く、男性側か女性側か強く指定されない言葉使いになっていたところも、「想像力の補填」の観点からすると悪くなかった。


「出会いがあれば別れがあるというが、別れなんかなくていい」と思う、というMCが入り、同じ題材で創った2曲「Same Sky」「凛」の2曲で、無駄の少ない最初の「山」が終了する。
曲としては、「Same Sky」が一番興味深い音楽構成ではあった。
ストリート弾き語りの場合、導入部分は中音域でどちらかと言えば説明の言葉数多く織り込まれてくるという勝手な思い込みが自分の中にはあるが、この曲の冒頭はそうした方向とは対照的であった。
冒頭の歌詞の音節は非常に少なく、二分音符程度の長い伸ばしがギリギリいっぱいの高音で搾り出される。
その部分の歌詞は記憶にないが、この紋切型でない導入がよかったのか、以降の歌詞はよく耳に入ってくる。
しっかりと刻みこまれるストロークの16ビートも、流れ往く時の流れの空気を感じさせ、心地よい。
最後の「会いたくて」の部分から繰り返される、同型の高音の繰り返しの搾り出しは、畳み掛ける借金取りの催促のように心の扉を叩き続ける。
この歌で終わらせないのはもったいない気もしたが、最後の「凛」もよかった。
ギターアルペジオに主題となる旋律の音を重ね、歌とユニゾンさせる部分が続く。
そして、別の主題を歌唱する部分になっても最初の主題がアルペジオとともに残り続け、遠いところからコーラスが響いてきているような感がある。
「ストリート」のギターは、伴奏に徹するストローク主体をスタイルとする弾き手が多いように感じているが、少なくともこの奏者のこの曲に関しては丁寧な処理を施しているように思えた。
また、これは曲自体の評価とは関係ないが、「対照的」と述べた2曲の歌詞であるが、一度聴いた限りむしろ近い感じがした。
もちろん、状況は逆かもしれないが、対象に対しての心的な距離感と指向のアプローチが同じくらいの温度であり、春と秋くらいの違いに近い。


山崎竜を総括すると、大和駅前の路上で見かけたら、間違いなく最後まで聴いた方がよい。
BBSに目を通す限り、「カタチ」以上に評判のよい曲が何曲かあるので、偶然聴くことができたならかなり得をした気分になれるだろう。
そして、心に残った一曲くらい、音源として手元に残そうと感じるかもしれない。
だが、路上での音楽活動の過多は、どうも人間をまっすぐにしすぎる傾向があるのではないかと思う。
函数電卓があればあっという間に終わる統計学の試験を、律儀に手計算で挑むかのような生真面目さが、音楽の面ではどこかにある。
これももちろん評価されてしかるべきところはあるのだが、聴くことだけを目的とした聴衆や音楽だけを目的とした空間がそこに用意されているのであれば、それを考慮に入れた演奏を心がけても罰は当たらない。
囁いても声は届き、絞り切らなくても力強さは感じられるのである。
本当に込めたい部分にだけ100を用意できる空間は、それを生かさないともったいないようには思えた。


二つ目の「山」は、名前だけだと女性か男性かも分からず、読み方も間違えそうな山口晶が登場するが、椅子に座らずストラップをかけて立っていたので、ステージ前方に威圧感を与える風貌であった。
新宿SACT!では、たいてい一人くらい声も体もボリュームのある大男が共演することが多く、これまでも山小屋でカレーを作っていそうな大男や「ほとんど丸腰」で歌い続ける大男などが共演を務めた(実際に大きかったかは記憶にないが大きく感じた)。
オレンジ色のオランダカラーに短髪モヒカンに顎鬚の外観は、そのままサッカーボールをリフティングしながらギターを弾き出しそうな風情があった。
華奢な身で世界を紡ぐ山田庵巳のファンたちにとって、新宿SACT!のブッキングは試練が続く。


ガチガチにエフェクターで調整されたギターがかき鳴らされ、歌が始まると、意外にも声は「大丈夫」であった。
全体的に高音で、ノイジーなところを削り落とした耳当たりは悪くないものであった。
だが、いろいろな意味で「体育会系」の空気は、楽曲や演奏の節々に感じるところがないでもなかった。


最初の曲「うつろぎ12号線」は、曲自体の完成度は一番高かった。
「ポケットに」からの部分は旋律が印象にも残り、ギターの伴奏も音程の取り方もかなり手堅い演奏である。
もっと評価してもよいはずなのだが、風貌の威圧感から少々引いてしまう。
情感込めて歌う一つ目の「山」と比べて五線紙の枠からはみ出てくる音や間合いが極端に少ないためか、歌詞が音素としての部分しかあまり記憶に残らない。
コンクールのようなものであれば大変高い評価が与えられるはずだが、音楽と言葉のうち前者だけが客席に届く気がした。
おそらく、メトロノームに合わせて30分間ストロークを続けるかのような、それこそ「体育会系」のような鍛錬がギターにおいても歌においても行われていると予想される。
断っておくが、届く音は非常に心地よい。
何が足りないのか、もしくは足りないわけではなく別の要素があるのか分からないが、おそらく表現者の意図が伝わりきっていないように感じるのは、本当に伝えたいピンポイントの言葉や音がやや抑え目になっていて全体像として曲群を捉えるしかないところがあるからかもしれない。


「集中豪雨」は、歌もアコースティックギターもエフェクターでリバーブをかけまくり、中近東のオリエンタルな映像が浮かび上がる演奏であった。
ギター1本でよくここまで頑張っている、という思いと同時に、歌詞世界などが別のものに目を奪われて、やはり印象に残りづらくなっていることは感じた。
実際、この2曲はタイトルとの関連が最後まで分からず(気付かず)、その次の「クラゲ」も歌詞で一箇所「クラゲ」という語が用いられていたが、全体像への連関は一聴では確認できなかった。
その「クラゲ」であるが、静かな曲で「孤独なパレードが行く」という歌詞だけが何とか記憶に残っている。


一番驚いたのは、クラシックギターの有名曲「トリーハ」に歌詞が付いて歌われたところである。
モレロ・トローバは、スペインギターコンクールなどでは「ソナチネ」が多くの参加者に演奏され一番有名だが、組曲『スペインの城』の中の1曲で、クラシックギターの曲集に載っている数少ないトローバ作品なので知名度はあり、楽譜をなぞった楽徒も少なくないであろう。
6弦をDに落とし、前奏でクラシック的な奏法が弾かれ、やはり直感するものはあった。
そして、聴き覚えのある臨時記号や人工ハーモニクスが出てきて、確信へと至った。
次のステージで山田庵巳が指摘しなかったのは、むしろ意外でもあった。
間違いなく、この演奏者にもクラシックのバックボーンが幾らか存在する。
浪漫派あたりに属する楽曲で「歌詞を付けて歌いたい」衝動に駆られる作品は多く存在するが、それを実際に形にした演奏を聴く機会は少なかったので、興味深い時間であった。
とは言え、この「トリーハ」に歌詞を付けて歌うこと自体に注意が全て行ってしまい、これまた歌詞の内容はほとんど覚えていない。


曲後、この日一番長いMCが入る。
「白い犬」の話から、携帯の不具合から遊びに遠くから出向いた友人と連絡が取れず、それでも「いい夜中のドライブができたよ」「事故にあっていたのではないかと心配していた」と逆に言ってくれたよい友人の話が語られ、その不具合を起こしていた携帯が「白い犬」の携帯であったというオチで終わる。
携帯を知らず知らずのうちに信用してしまっていたところがあったが、そうではなく手に届くところに入る人をこそ大切にすべきという旨の総括があった。
その後、自分のMCですっかり失われてしまったとのことで、「高揚感を出して」とハーモニカも出し、「陽ハ出ズル」が演奏されるが、ハーモニカも文句の付け所がない。
音の立ち上がりでヴィブラートとトリルの中間くらいの力強い音色が奏でられ、横にアルトサックスの奏者が一人存在するかのような「高揚感」を生み出した。
16分の短いストロークとミュートとが重層化した歯切れのよい伴奏で、まるで荒野のガンマンが決戦を迎える日の昇陽を迎えているかの緊迫感が感じられる。
朝を迎えることの清々しさや心浮き立つ気持ちなど微塵も感じさせない、醒めた冷静な目で朝を捉えているところはこの歌い手の表現的傾向といえるのかもしれない。
そのあたりを「硬派で男性的」と記すか「体育会系的」と記すか、いろいろ表現のしようがあるとは思われるが、演奏面も歌詞の面も非常にストイックな、自己満足とは対照的な精緻な作業が深い土台として根を下ろしている。
冒頭で自身のライブについて「コール&レスポンス等とは無縁」「キョトンとして聴いてくれるのが正しい聴き方」といった言葉があったが、これもこのストイックな信念がそうさせるのであろう。


「皆さんに久しぶりにお知らせがあります」「次の曲で最後です」と、次で終わることが告知のような口ぶりで話し始めた後、今後のライブ告知を始めた。
誕生日ライブが10月にあるが、今年で最後にするといった告知もあった。
そう言えば、今年は柳原陽一郎の誕生日ライブが存在しなかった。
ファンにとっても本人にとっても他の日のライブとは異なる意味を持つイベントも、毎年繰り返されることにより何か縛られ、自分の意図を込めにくくなる存在となっていくところが、もしかするとあるのかもしれない。


「レインボーイ」が演奏され、二番目の「山」が無事に通り過ぎる。
冒頭の曲と同様、声量と伸びのある声がまるで楽器のようにしっかりと鳴り続け、最後まで少なくとも音楽的には破綻させることなく自分の世界を貫き通す。
サビの「僕らの心の中は」の部分は、天辺の高音の音からジェットコースターのように高速で駆け抜けるかのような高揚感をもたらし、登場時に心配した違和感は全編通して音楽的には感じさせることがなかった。


さて、この二つ目の「山」を総括すると、どのステージに足を運んでも、歌も演奏も期待を裏切らないであろう、という安心感はある。
楽器の音も歌唱法についても、これでもかというくらいに作り込み、それをストイックなまでに仕上げて披露する姿勢にも頭が下がる。
だが、音響学的な部分を除いて、歌詞が全くと言っていいほど印象に残っていない。
純粋に意味論的な意味としての言葉について、心の琴線に触れることがなかったのは、次に山田庵巳が控えていたためばかりではないだろう。
最初の「山」は、言葉にソフトフォーカスを被せてしまう声質ではあったが、情感を五線紙からはみ出す歌唱により伝えようとしており、少なくとも「紫陽花」「手紙」など何曲かは客席にまで届いた。
だが、あまりにも気高い、機械のように完璧な緻密さがある二番目の「山」は、敬意を抱かせるものであったとしても、等身大の対象に対する皮膚感覚をもたらさないという点で、共感に繋がりにくいところがある。
6つに割れた筋肉美を晒すボディビルダーのように、一般人には自分に置き換えできない敬意のようなものが、この演奏家にはある。
何があればよかったのかは、一聴しただけなので分からない。
個人的には、歌と歌との間の間奏部分で、「語り」「朗読」「叫びに近い内面の発露」が示されると、それに対蹠する外的な描写が全体的な必然性を持って伝わってくるのではないか、とも感じた。
もっとも、それを全曲通して満遍なく演られると、バイキング料理の食後感のようにお腹一杯になってしまうとは思われるが。



そして、いよいよ最後の「山」、山田庵巳の登場となる。
夏の間はどうも短いズボンは穿かないようであり、黒い靴にいつものように帽子を被って現れる。
表面板にクジラが張られていたが、結局張られていたのは後にも先にもこの日だけだったので、真意は分からない。
最近は踊る花が置かれていないことも多く、この日も踊る花たちはステージ上に確認することができなかった。
個人的には、山田庵巳のときだけでも指慣らしや調弦のときからBGMを消してもらいたいとは思うが、まあ最後音を絞ってくれるなら仕方ないと思いながら演奏が始まるのを待つ。
いつもどおり「模範的な黒」でスタートされるが、高音弦から低音弦へと逆側にかき鳴らす部分の後のところで、一度極度に速度を落としまた徐々に速度を上げる余裕も見せた。
パブロフ流の強化付け理論だけでは説明が付かぬはずだが、「模範的な黒」の前奏、囁き、「曖昧に染まった」の部分で急激に輪郭線の太くなる絵が描かれる頃には、もう他の世界には目が行かない状況になっている。
続いて、「砂の道」の前奏が奏でられて、いつもの流れになるかと思われたが、この日はそうではなかった。
「砂の道」の伴奏が底流に置かれたまま、「夏休み特別企画、自分発見キャンペーン」と掛け声がかかり、この日「三つの物語」が披露されることが告知される。
「これはあなた自身の物語です」と付け加えることも、忘れてはいなかった。
そして、何事もなかったかのように「砂の道」がまた歌われ、「自分発見」に繋がる「三つの物語」へと進んでいった。
最近、物語の導入に専用の音楽が置かれることが多く、この日も(もしかするとこの日が初めてだったかもしれないが)トカゲが物語を読んでいる、といったような設定で各物語が


まず最初は、「ある係長の話です」と、「渚の係長」が一つ目の物語であることが確認できる。
「ベンチャーズとクイーンとバッハを足して5で割って、足りない分は水で薄めた」と、音楽的な諸要素については本歌取りが採用されていることも紹介される。
係長の冒頭と結末を結びつける文脈は、実はまだ解読できていないので、この全体像については今回はまだ論じることができない。
だが、クイーンの「ボヘミアンラプソディ」を連想させる和音展開の中間部、「ママーもう一杯くれないか」で始まる部分に付いては、人生を犠牲にギターに打ち込んできた多くの市井のギタリストにとっては本当に「あなた自身」の物語として響いてくる。
「社会復帰は24歳が限度かな」と歌い込める部分があるが、多分24歳では自分の場合手遅れであったと思われるし、人によっては14歳でももう手遅れかもしれない。
ただ、生まれ変わってもやはりギターを手にする人生でありたいと感じるし、世界中のギターで人生をダメにした奏者たちも同様の想いを持ち続けているであろう。
そうした対象に対しての配慮として「渚の係長」の結末はおそらく用意されており、その結末に結びつく文脈は各自が「自分自身の物語として」考えていかなければならない提言が言外に付されているのではないか。
それにしても、身の回りのギター弾きは独身率が異様に高く(特に男性)、いろいろな意味でギターが人生に影響を及ぼしている。
これがまだバロックアンサンブルあたりをたしなんでいるのであれば、まだ傷も浅い(むしろよい影響があるかもしれない)。
だが、「手を出してはいけない曲」が何曲かあり、それらの曲に手を出すと底なしの世界が待っている。
ギターは自由を体現した楽器であり、創るにしても演奏するにしても他の楽器より制約が少なく、意思の力をその音に反映させやすい。
逆に、時間的・経済的・志向的様々な点で自由を失った人間からは、ギターは見放し、ギターの方から離れていく。
そうした意味で、埃を被ったギターはそうした存在に対しての一つの象徴的な記号となりうる。


話を曲に戻すと、途中バッハの有名な「アリア」の一節が入り、もう一度クイーンに戻った後、最初のビーチボーイズに戻る。
これだけ多くの曲を連想させておきながら、著作権的に何の問題もないのも面白い(コード進行、タイトルなどは権利が発生しない)。
「パイプライン」型の伴奏形式から「電撃ネットワークのテーマ(曲名を知らない)」型の伴奏に移り、「この先はみんなの協力を求めるかもしれないけどね」「コール&レスポンスは無視する権利も保証されています」と語った後、「あいつは渚の係長」という主題に戻る。
「あいつは渚の係長、エヴィバディ」「あいつは渚の係長、どうしたどうした」などと珍しく会場に参加を呼びかけた後(この曲でならば珍しくはないのかもしれないが)、一つ目の物語の裏表紙が閉じられる。
「道なき道を行く」「あいつが歩けばそこが道になる」というメッセージが、収束の言葉となる。


続いて、「ある海の物語なんだけどね」「ある刑事が犯罪都市の平和を守るために」「犯罪都市といえば、言わずもがな、江古田ですよね」と前回ライブの伏線があれば何のことかよく分かる前振りが入る。
二つ目の物語は、「奇人達のお茶会」でも披露された「刑事キャノンボ」と「サメの背びれも気にしない」のメドレーで、今回は後者の2番も最後まで歌われた。
「江古田は海水浴場もあり」「あまり知られていませんが、石油産出国でもあり」と、現実離れした壮大な設定が用意されており、日常空間の中に異様な存在が置かれたような映像が浮かび上がる。
メドレーと記したが、実際は最後にいつの間にか「刑事キャノンボ」に戻り、そこで収束するような構成であった。
この曲を、「あなた自身の物語」と捉えるには、自分には努力や鍛錬が足りない気がする。
だが、大切なもののために傍目から見ると奇妙に映る行動を続ける愚直さについて、もっと光を当てるべきであるという意識がそこには感じられる。
曲後、「さっき楽屋で山口さんと達成感について話していた」「音楽家はスポーツ選手と違って勝ち負けによる達成感は定められていない」といった共演者についての話題が少し出る。


そして、三つ目は「太陽の昇らない街」と紹介し、1弦の15フレットの音がヴィブラートで伸ばされる。
ここまで来ればもう安心で、「機械仕掛けの宇宙」が始まる。
これまでも、そしてこれからもこの曲を絶賛し続けてきて、そしていくのか分からないが、この曲が聴ける喜びはやはり大きい。
語りの後追いで歌が入るのではなく、歌の後追いで語りが入っていくのが、まず素晴らしい。
説明、前置きの言葉を最初に置こうという衝動は全ての語り手にあるはずだが、山田庵巳はそれを排してまず世界を構築した上で語りで補足していく。
たくさん聴かせどころはあるのだが、個人的には魔法の呪文をともに唱える部分の幻想性とその絵画的な映像がこの物語のクライマックスで、やはり息を飲みその世界に浸ってしまう。
たとえ、毎回アンコールでこの曲が演奏されても、全く苦情が出ないだけのクオリティの高さがこの曲には存在している。
まだまだこの曲について記す機会はあるはずなので後は置いておくが、この曲の方が二つ目の物語よりも身に迫るものがある。
「愚直さ」は結局、実を結ばない。
結論だけ考えると、「愚か」で括られるかもしれない。
だが、彼の行動全てを通して、傍目にどのように映るであろうか。
その行動全てが、敬意を持つに値し、美しい行動であるという印象を持つに至るのではないだろうか。
山田庵巳も、「勝ち負けによる達成感」だけを価値とはしていない。
「負け」であっても、そのプロセスを悔いなく、美しく生きることの重要性を、この物語によって示していると述べるのは過言であろうか。
ともあれ、三つ目の物語が幕を閉じ、この日の「自分発見キャンペーン」の企画は終了したかに思われたが、それは大きすぎる思い違いであるとまだこのときには気付かずにいた。


「皆さんに大切な人がいるのかそうでないのか、与り知らぬところですが」ということで、「もしあなたが」のナンバーが演奏される。
記憶が正しければ、この曲を聴くのはこの日が個人的には初めてであったはずである。
たいせつな「あなた」のために、「~になりたいな」のフレーズが言葉を替え、繰り返される。
中でも、「眠りに誘う、歌になりたいな」と、音楽にまでなりたいという表現などは、ありきたりな言葉遊びでは全く生まれない表現で、その直向さの半端でない加減が静かな力を感じさせる。
そのような言葉の力をシャワーのように浴びてしまうと、聴いていてじっとしていられなくなる衝動に駆られる。
内に秘めた力強さ、そうしたものをこのブログを書いている人間は忘れ、知らぬ振りをして生きているところがあるので、そうした想い、情熱の必要や輝きを感じ、取り戻したいという(無理かもしれないが)考えの契機にも繋がった。


「今日ライブだと気が付いたのが昨日」と、いつものように本当か分からない言葉の後、「冷蔵庫にあったものでこなしたライブで申し訳ありません」「新鮮な材料でライブをできるのは、来年の春くらいかな」と、意外にも今後に期待を持たせる単語が出てきて、驚かされる。
「プリンスポプリは振り向かない」の前奏が奏でられるが、そのまま曲は始まらず、「デンキウナギってウナギじゃないんだってね、ナマズなんだってね」と、「この日一番伝えたかったこと」が語られる。
「この曲は上手くいく気がしない」と回避し(前回のSACT!で聴けたのでそこまで残念ではなかった)、これでもないこれでもないと、「高速バナナに飛び乗って」や「ぱぷりかぁな」を選択肢から外していった。
「お詫びを込めて、一曲納品したい」「ゆっくりして楽なのがいいな」とのことで、「羊のアンソニー」に落ち着いたようである。。
「こんな時代だから手に届くところにいる人を大切にしたいよね、中途半端な物まねだけど」と、山口晶の物まねしたことさえ、伝えなければ気が付かなかった言い回しを披露した後、演奏が始まる。


「羊のアンソニー」は、聴くたびに切ない気持ちになる。
だが、その切なさは世の無常などによるものでは決してなく、澄み切って繊細な心が外からではなく内から溢れる想いによって打ち震えているところから来る。
山田庵巳の世界は、外からやってくる負の対象にはビクともしないが、想い焦がれる正の対象に対してはとてもデリケートな感受性を持つ。
その、思いやりやいたわりが大きすぎるがばかりに、自らの内面も傷付けてしまう優しさがあり、それを傍目で観る聴衆はまるで自分のことのような気持ちでその切なさを味わうのである。
「優しい切なさ」とその甘美に浸った後、最後の弦の響きが止められる。
そこで、「素敵な夜更かしを、山田庵巳でございました」と挨拶をし、一つの美しい時間にピリオドが打たれるはずであった。
少なくとも、演奏していた山田庵巳自身はそのように予想していたはずである。


だが、演奏後の拍手が一度止まった後、起点となるアンコールの拍手が起こり、それが大きくなり仕方なく山田庵巳は再登場する。
「迷惑だからね」と静止し、「仕方なく」アンコールに応えるが、この日ほど最初にアンコールの手を叩いてくれた人に感謝の気持ちを持ったことがない。
「この日、三つ伝えたかったこと(二つ目は山口晶の言葉、三つ目はその物まね)」をおさらいした後、本当に最後の曲が爪弾かれる。


「雲ひとつない空を眺めては、あなたを想い出す」という言葉で始まる「かぼちゃのスープ」が、余韻を刻印のように残していったアンコールとして演奏された。
「羊のアンソニー」の切なさは、どちらかと言えば針が縦に大きく振れる。
「羊のアンソニー」は心の、感情の揺らぎは高まったり抑えられたりするが、針の横揺れは大きくない。
だが、「かぼちゃのスープ」は感情の縦揺れを抑える代わりに、場面、想い出、表情など別座標の方向に針が横揺れを起こし、その背負った歴史の大きさに聴いている者が打ちのめされるところがある。
「羊のアンソニー」の後に、「かぼちゃのスープ」、この順は(昔は知らぬが)最近では初めての終わり方だが、これは終演後の破壊力が半端ではない、ある意味反則技レベルの力強さがある。
そして、曲が終わる。
もう、後に演奏される曲は、BGMを除いては何も存在しない。
ひたすら山田庵巳の残像だけが、舞台の上には残り続ける。
すぐには、座席を立つことなどできない、会場までは力強く歩いてきたはずの両足の力は全く入らない、そんな感覚だけが残る。
そして、この日の「自分発見キャンペーン」の真の意味がここで実感される。


人間の一生は、瓶かグラスのような原型を起点とし、ガラス職人が熱い火の前で吹き込んだ息吹から生まれるようなものである、と思う。
各人の信念や信仰に従い、「神」と置き換えてもらっても、「運命」と置き換えてもらっても構わないが、その熱い息吹により膨らみ形が出来上がった頃には、まだガラス自身の質感しか存在しない。
では、その瓶やグラスを輝かせるものは何であろうか。
外側に染料で描かれる模様や刻み込まれる刻印は、決してその瓶やグラスを輝かせることはない。
自論を述べるならば、その中に注ぎ込まれる「液体」が瓶やグラスにきらめきを与え、他の瓶とは異なる存在感を持たせる。
その「液体」についても様々な異論はあろうが、これも自論を貫くなら、「言葉」に他ならないと確信している。
瓶の中を「美しい」言葉で満たした人は、行動も内面も「美しさ」を意識する。
瓶の中を「優しい」言葉で満たした人は、「優しさ」を第一義に行き続ける。
瓶の中を「素朴な」言葉で満たした人は、おおらかな心と行動で一生を貫く。
少なくとも自分の漠然とした理想像が存在するとするならば、入力においても出力においてもそれに反した言葉を不用意に増やしたり、ましてや用いてはならない。
パーソナリティの成熟とは、瓶の中に満たした「言葉」を自分のものとして獲得し用いていくことの、その定着化そのものである。
人間は「言葉」により概念を獲得し、それを手段として用いていくことによって、自らの世界を切り開いていくからである。


かなり脱線した話題にも見えるが、なぜこのようなことを記したのかといえば、山田庵巳の用いる「言葉」について触れないわけにはいかないからである。
歌詞については、これまで原マスミや双葉双一ばかりを評価し(これはこれで素晴らしいが)、山田庵巳については美しく完成度の高い歌や演奏ばかりを評価していた気がする。
だが、ここで根底から改め、強く訴えなければならないことがある。
山田庵巳の精神の根本は、他でもなく「柔らかく美しく優しい」液体で満たされた瓶の中身(=「言葉」)なのである。
鍛錬を重ねた歌や楽器の技術、緻密に創りこんだ旋律や伴奏などはすべて、それを体言化するための手段として存在するのである。
これだけの技術がありながら、「上手いなあ」の印象で終わったライブは一度とてない。
それは、その技術の披露が目的ではなく、その背景に大きく存在している世界の伝達こそが目的であるがためである。
それだけに、聴き手であるはずの自分自身までもが、その「柔らかく美しく優しい」液体を注がれ満たされていくのを、否が応でも実感させられるのであろう。
山田庵巳を聴き続ける限り、瓶の中の液体は澄んだものとなり続け、内面も行動もそれに反することに反応できなくなっていくのである。
そして、柔らかな心の平安とともに、静かなる幸福感に満たされ(物語の登場人物はあまり幸福ではないが)、生活の中の苦しみや邪念をつまらないこととして吹き飛ばしてしまうのである。


この日、もしかすると自分は相当長い間忘れていたかもしれない、人間らしい感情や感覚などを少しかでも取り戻せたかもしれない。
少なくとも、自分という経年劣化で傷まみれの瓶に、柔らかく優しい液体が注ぎ込まれたのを、身体感覚からも実感することができた。
嬉しさ半分、感謝半分で、この後幸せな帰路に着くことになる。


このブログのライブレポで、自分は何度「余韻」という言葉を用いたか分からない。
だが、この日のこのライブに関しては、「余韻」などという生やさしい語を用いることができない。
真綿よりも柔らかな光の柱で、心と全身とを何度も打ちのめされたような、そのような感覚、衝撃を味わったのである。


ここで別の人物名を出すのもどうかというところがあるが、原マスミの「ピアノ」という曲の中で「電気を発明した人に、それから僕と君がおんなじこの星に生まれてきたことに、ありがとうをしてから、ねむろう」という歌詞がある。
この日の自分も、山田庵巳と同じ星、同じ空間に生を受けることができた感謝、喜びを強く感じずにはいられなかった。
一つ、原マスミの歌詞と大きく異なるのは「眠ろう」と言われても、心の中が一杯になり、とても眠れるはずなどないことぐらいである。
帰路、もしその場所が酔っ払いだらけの常磐線の車内でなかったなら、溢れすぎる想い、感謝、喜びから泣き出さずにはいられないはずだった。
それどころか、こんなに遅いレポになっても、この日のこの瞬間を想い出すだけで全ての負の記憶が上書きされ、喜びで溢れてしまう。


「夏休み自分発見キャンペーン」は、三つの物語だけがキャンペーン内容ではなかった。
その後に続く三つ静かな曲たちも、それ以上に聴き手に「自分発見」を提供するものであった。


こうして、三つの「山」を超えて、家に辿り着いた。
一つ目の「山」は個人的に嫌いでなく、二つ目の「山」のクオリティの高さも堪能できた。
だが、三つ目の「山」のほとりで汲み、喉を潤した泉の水は、今に至るまで体の中で光を保ち続けている。







※このレシピは、個人の嗜好、興味関心に基づいて作成されたものであり、万人の人口に膾炙するものではありません。
 部分的にでも試される場合、あくまでも各個人の責任の元に調理いただくよう願います。
 本執筆者は、何らの責任も負わないものとします。


このブログの検索語で一番多いのは「山田庵巳」だが、「カフェれら」などカレー系のエントリーも意外と多い。
美味しい店舗であれば是非足を運んでほしいところではあるのだが、思いつきと道楽で始めた「レシピ」の記事に検索で辿り着くことも多いようで、大変申し訳ないと感じている。
大雑把で、興味本位で具材を入れ、味も他人に理解できるものか分からない中、これ以上被害者を増やしてはならない、そういう思いを抱き、今回よりレシピ系には免責の但し書きを記すことにした。
必要があれば文言を追加するかもしれないが、各人の冷静さと興味とに従って行動を行うように願いたい。



千葉県で暮らしていると、比較的入手しやすいのが「生落花生」である。
さほど値も張らず、茹でても炒めても美味しいのだが、難点は調理に時間がかかるところである。
茹で落花生で50分、圧力釜(我が家はリコール中で手元になし)でも20分は悠々とかかる。
おまけに土が付いたままでも足が速く、少し日が経つだけでカビが生える可能性が低くない。
だが、表面だけなら中身は無事なことも多く、今回傷みかけの食材をフル活用して、味のごまかしが効くカレーをこしらえることにした。


(材料)
・生落花生1袋(本当は多過ぎである、カレーというより具を食する食感になる)
・トリモモ肉1パック(チルドで低温保存していたが日が経ってしまった、足の速い皮は取り去る)
・インカのめざめ(ジャガイモ)1袋(これも芽が出てきてしまった、厚めに剥く)
・シメジ1袋(冷蔵庫の奥から登場)
・カルディで購入したイエローカレーの液体ルーのパック(今回唯一傷んでいない食材)
・茎茶(緑茶)の茶葉(飲みそびれたまま使っていないもの、本当はレモングラスを用いる予定であった)
・塩少々


(手順)
1)生落花生の皮を、生のまま剥く。皮ごと茹でるから時間がかかるのであって、剥いてしまえばそこまでの時間はかからない。今回は皮ごと茹でられない素材の事情があった。
2)鍋に水と塩少々を入れて、生落花生を茹でる。どうせ後でカレーと一緒に火を通すので、茹で切らなくても構わない。茹で汁は薄皮の色が脱色し赤い色に染まる。特に染色芸術に用いないのなら、茹で汁は全部捨てる。
3)トリモモ肉を、調理用ハサミで細かく切る。他の食材が小さい場合、肉も小さい方が口の中のバランスがよい気がする。
4)鍋(行平鍋で十分)に水と緑茶の茶葉を入れる。今回用意していたレモングラスの葉を入れる予定であったが、カレーができた後発見された。外国では肉のにおい消しに茶で茹でることがあると聞き、試してみた。日本人に生まれてよかったと感じる、日本茶のよい香りが漂う。茹で汁はほのかなエメラルドグリーン(記憶が薄れているが)になるが、これも茶葉とともに捨てる。
5)ジャガイモは、今回は球を八等分する切り方で切り、電子レンジで少し熱を加えた後、先ほどの仲間たちと鍋で合流する。いつもはフライパンで肉汁とともに熱を加えているが、炒めない方が肉もジャガイモも柔らかい。
6)シメジも下の部分を切り取り、残りをやはり先ほどの愉快な仲間たちと合流させる。
7)カルディで買った、イエローカレーの汁を全部入れる。パックに残っているともったいないので、水をパックに入れよく振って、少しも無駄にしないようにする。
8)中火で熱を加え、蓋をしたまましばらく放っておく。個人的には落花生が多少柔らかくなり、味が染みこむくらいになる状態が好きだが、他の食材とのバランスが難しい。


(注意)
・今回は生落花生が多すぎて、他の野菜を入れるスペースがなかった。当然、まともな野菜を多く入れて何の問題もない。
・生落花生だけは、別に茹でておいた方が真っ赤な茹で汁が主張しすぎることなくよいと思う。肉は新鮮なら別茹でする必要はなかった。レモングラスならカレーごと煮てもよい(調理後取り除くこと)
・前述の通り、カレーを食べるというより、茹で落花をカレーで食べる風情になった。食材の足が関係なければ、バランスは本当は考えた方がよい。


(食後の感想)
・やはり、カルディのタイカレールーは素晴らしい。どんな食材でも、手軽に食べられるものになってしまう。
・千葉県民は、生落花生の味に他の地域の人々以上に愛着を感じるものだ。
・やはり傷む前に食材は調理しよう、部屋は散らかっていても冷蔵庫の中くらいは整理しよう。


冒頭の通り、調理に際しては各人の責任でお願いいたします。