こんなことをこの立場の筆者が書くのは不遜だと怒られてしまうかもしれないが、就職市場に「なりたい自分」が売っているとは限らないのは、当然の事実である。世の中には天才、秀才、凡人、奇人、変人、そして天才のなり損ないなど様々な人種がいる。日本の就職市場もだいぶ多種多様化してきたとはいえ、そのすべての人間に対して「なりたい自分」への切符を用意しているとは限らない。「世間体」と「安定した収入(安定して安い場合もある)」だけは売っているかもしれない。でも、ただそれだけだ。
もっともこんなことをいうと、「そこで得られる経験と金銭が、私の『可能性』を広げるから、就活するんだ」という方がいるかもしれない。
でも、ちょっと待ってほしい。そうだとするならば、「一定の収入と、有用な人生経験(場合によっては資格なども)さえ得られれば、働かなくてもいい」って話になる。そして実際、世の中には投資などで身を立てる「ネオニート」という人種もいる。さらに最近では、「ユーチューバー」のような新しい生き方も現れた。しかし、これはこれでいろいろと大変であり、私にはとても無理な生き方だと思っている。ただ、別段そういう生き方をしている人が「卑しい」などと思ったこともない。
至極当然な話だが、結局のところ「就活市場」に売っているモノは、その就職先の企業の庇護を受けられるという権利のみである。それと「自分の可能性」などというモノとは全く別なレベルの話であるのだが、日本の教育風土では、22歳やそこらの就活学生の多くが「自分とは何か?」「何になるべきなのか?」等々を考察しているケースはほとんどないので、まぁ仕方あるまい。ただ、そんな状態では「5月病」が多くなるのは仕方ないわな、とは思う。
「実家の生活がひっ迫していて、大学だって奨学金で出してもらった。だから、獲得したいのは金銭だ。」という場合もあろう。そういう人の場合には、「就活市場」での成功が幸せにつながる可能性は高くなるだろう。ただその場合でも、別な道もある。結局のところ、就活市場それ自身にあなたが望む「なりたい自分」など売ってはいない。でもそうしたいし、そうできるのなら、そうするのもまた「いい」のである。そもそも、「なりたい自分」になるよりも「お金をいっぱいください」ということが、「魂レベル」で優先事項となっている人だっている。もっといえば、強烈な「個性」がないか、あるいは「そういう強烈な個性」があるために、「なりたい自分」なんてモノを考えなくて済む人さえいるように思える。考えようによっては、それが一番「幸せ」なのかもしれない。
本稿で私が何を言いたかったのかというと、「世間体」と「企業の保証する『安定』」などというものが、いかにちっぽけでくだらないか、ということである。
やりたくもないかもしれない内容のことを、お決まりのぎゅう詰めの通勤電車に乗って、つまらない人間と一緒に酒を飲みかわしながら、週に5日、あるいは6日、粛々と行う。それだけの内容かもしれないのに、それらすべてを「ちゃんと生きる」という美辞麗句でまとめ上げてしまうのは、思考停止にすぎない。
それは、なんとか大学は卒業したが、その後躁うつ病の壁によって就職したくとも(ここ重要)就職できず、「思うような人生」を全うできていない(実際に私が全うできていないのは、幻想の「思うような人生と思っていたもの」なのかもしれないが)私から見ても、なおそうである。
哲学すること、スピを学ぶこと、学校では教えてくれない様々な有用な(失敗も含む)体験すること、そういったことそれ自体は「飯を食う」ことには直結しないかもしれないが、必ず「なりたい自分」へのヒントをくれる。
そしてそのためには(私にとっての)真の「自由」(それは「への自由」より「からの自由」がいまだに多くを占めるので、ある意味では消極的と言われてしまうかもしれないが)、つまり「より多くの可処分な時間」が必要である。
今思い返しても15、16年ほど前、私が就活市場に自分の身をゆだねられなかった理由はそこだけで、「なりたい自分」が見えるには時期尚早だったから「だけ」なのである。別に「働くのが嫌」だったわけでも、「社会人という名の企業奴隷」になるのが嫌だったわけでもない(後者の理由は若干はあるが、それでも初期に私を診断した某精神科医師がいうほどのレベルではない。)魂の声を聴き、自ら望んでなった結果が「ニート」(ここでは「ニート」を社会的状態として広義に捉え、「労働や求職活動ができない、生産者人口に含まれる若い病人」も含める)ならば、それを悔いたり恥じる必要はない。それよりも一番いけないのは、その状態が明らかに不満の塊なのに「ニート」を続けたり、「会社員」を続けたり、「専業主婦」を続けたりすることである。そういう人は、必ず「倦んで」しまう。
だから私は、これからも自分の頭と心が望む「挑戦」を続けていく。人様には「どんな道具立てだよ」と笑われてしまうかもしれないが、結局のところ、それが私が望み、自ら選んだ「生き方」なのだ。最初は「一般的な道を外れる」ことに恐怖心でいっぱいだったが、今ではちゃんと納得がいっている。だから、今さら「病気のせいでこんな生き方になってしまったんだ」のような、意味不明な繰り言をいう気もない。この病気のもっと重いバージョンを持ちながら、会社勤めをされている方は山ほどいる。もっともそういう方は、その生き方しか選択できないからそうなっているのではなく、そういう生き方に関して、私よりも適性がある。それは間違いない。
「天才のなり損ない」には、一般道は歩めない。「変人道」を極めることの先にしか、魂が望む「自分」はいない。覚悟はできている。
まぁ多くの場合、「普通」「まとも」から一歩踏み出した先に、魂が望む「自分」はいる。人生は一度きりである。あなたも私ももしかしたら、すごく大きな可能性を秘めているのかもしれない。少なくとも、「普通」「まとも」であることが苦痛な人が、そんな小さい世界に自分を押し込める必要はない。
「安定」と「楽しい」のどちらを選ぶかは難しい命題だが、私の魂は「楽しい」を選べと言ってきている。まぁ、意味もなく破綻者になるつもりもないので、私の人生でも多少は我慢(経済的な意味で)したり「粘る」ことも大事なのは事実だが、「自分を決まりきった型にはめる」ことだけはしたくないし、そもそもそこに関しては異常に不器用な気質なので、できない。
さぁ、今日は1か月ぶりの痩身である。施術内容からいってもその目的からいっても、(「暫定的な完成品」をお披露目する機会の増える)夏前には一段落させたいので、ここは「勝負どころ」である。
#:ちなみに、私は会社などの組織で働くこと(学校で勉強することも含む)の一番の効用は、「孤独を埋めてくれる仲間や、仕事を共にする人脈ができること」だと思っている。独り身は自由だが、その「自由」には孤独とある種の「不自由さ」がどうしても付きまとうのだ。
どんな人生だって楽じゃないけど、どんな人生だって(度を越えて敵対的・反社会的なモノ以外は)アリなんですよ♪ギラギラギラギラ☆