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2013.3.22~24 釜石・大槌 視察

こんにちは!

東京に向かう新幹線で、PCを開き、
facebookをチェックし、メールを返信し、
そしてこのブログを書く。

うん、将来いい仕事をしそうだな、私。
隣のスーツ着たおじさんたちは、ビール。
うらやましいぜ!笑


はい、お酒の飲めない、さわです。




さてさて、あれ、もう1週間も前のことなんですね。

副代表の加藤と、浜北青年会議所さんの企画で、
岩手県釜石市と大槌町に視察に行ってきました。

まず、釜石の海は青くて、青くて、ほんとにきれいでした。

この海が、ほんとにまちを襲ったのかと、信じられないほど
きれいで穏やかな海でした。


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そして、もう一つ感動したのが、

大槌といえば、きょうじ獏さん。

昨年5月に、静岡文化芸術大学で絵画展をされた方。


そのきょうじさんが色鉛筆で描く、海と、
景色がすごく重なりました。


話は少しそれますが、この旅に行きたかった理由の一つに、
きょうじさんの大槌が見てみたいというのがありました。

それが叶って、私は、1人胸を熱くしました。

きょうじさん、会いに行けなくてごめんね。


けど、大槌に行って、大槌への、
きょうじさんのいる大槌への思いが強くなったと思います。






さあ、23日、釜石について、午前中は
鵜住居というところで、漁業に使う網とブイの
お片付けのお手伝いをしました。

写真がありません。加藤がきっと…。

この鵜住居地区は、津波で壊滅的な被害を受けたところです。
ほんとになにもなくなっていました。



そして、午後は、遠野まごころネットさんのまごころの郷に
おじゃまして、お手伝いをさせていただきました。

このまごころの郷は、仮設住宅に住む方たちの、交流の場所として
農業、家庭菜園的なことが行なわれているところです。

ここを鹿たち、野獣から守るためのネットを張るお手伝いをしました。


私と加藤はひたすら、ネットをしばる、紐を切る係。

これを機に、
スポアートではなく、ひもアートに改名しようという話も出るくらい、
ひもを切るプロになりました。笑






さて、この日は、夕方、遠野まごころネットの副代表の
臼澤さんのお話を聞きました。


よく生き残ることができたな、と圧倒される、津波からの生還のお話をお聞きしました。


たくさん胸に刺さる言葉が…。

臼澤さんは、何度も繰り返し、
オカネでは買えないものがあること、それを大事に生きていくこと。
共に生きること

ということをおっしゃっていました。

人とのつながりを大切にした活動を行なっていらっしゃる方です。

臼澤さんのお話でもう一つ印象に残ったのは、


ボランティアでなくフロンティア ということです。


私たちボランティアは、ボランティアでなく、
東北の新しい未来を開拓していく、フロンティアであると。


未来を開拓するお手伝いをする人、それが私たちなんだと。



今回させていただいたお手伝いもそういうものが多かったのではないかと思います。




まだまだ、復興にはほど遠い、ひさい地。
そんなひさい地の新しい1歩のお手伝いをするのが私たちなのかな、と感じました。









さて、24日。

この日は、様々なところを視察して回りました。



まず、この旅で一番ショックだった、鵜住居防災センタ―。

ここは、避難訓練の際、地域の方がここに逃げてきていたとのことで、
あの日も、240人ほどの、人がここへ逃げたといいます。

そして、ここを津波が襲います。


家が建っていた時は、この防災センターから海は見えなかったといいます。


生き残ったのは、20人ほど。




ほんとは、鵜住居防災センターではなく、もう少し奥に行ったところに、
神社があり、そこが避難場所に指定されていたとのこと。


しかし、避難訓練の時、お年寄りはそこまで行くのは大変だからと、
鵜住居防災センターが避難場所とされていたこと。





神社は無事残っていました。




2歳の娘を目の前で流された話。

妻と、おなかの子を亡くした旦那さんの話。

かえってくるのまってるよ、と描かれた子どもの絵。




涙がこらえきれませんでした。












さて、最後に陸前高田へ。

昨年のちょうどこのころ、おじゃました時と
まったく変わっていない風景。


ここで、桜ライン311さんのお話をお聞きしました。


彼らの活動は、陸前高田の津波を襲ったところ
170キロにわたって、10メートル間隔で桜を植えていくというもの。


活動をしている代表の方は、友人を50人ほど亡くしましたが、

それよりショックだったというのが、


昭和の大津波の時に立てた、石碑に

「ここより下に家を建ててはならない」と書いてあることを
震災後しったこと。

そして、ほんとうに、その石碑から上は、家が残っていて、
石碑から下は跡形もなく、家が流されてしまったこと。





歴史は繰り返される。

石碑ではだめだと、桜を植えることにしたということです。







釜石にも、昭和の大津波のときの石碑より下が津波に襲われたという場所がありました。











なんか、毎回つらいけれども、なぜか今回はものすごくつらかった。

なぜなのかはわかりません。


けど、まだまだ何かが燃えている気がします、自分の中で。





映画の「遺体」を見た、釜石で活動していらっしゃる方が、私に、

「この映画でこんなにつらい思いをした人がここに生きている」

と話してくれました。



ほんとうにその通りで、あの大きな地震はここ日本で起きたこと。

復興に向けて頑張り続ける人がいること。
大切な人をなくして、気持ちの整理をつれずにいる人がいること。
先の見えない不安と戦う人たち。

そんな人たちを支える人たち。


全部全部日本で起きていること。



浜松にいたら、何もわからないけど、


あんな堤防を越える、大きな津波が浜松を襲うかもしれない。




学ぶこと、自分が生き残るために学ぶべきことがたくさんある。

そして、まだまだ苦しむ人たちがいることを忘れないこと。




何ができるかわからない、けど。けど。


よそものである私が、大切なものをたくさんなくした
悲しみがたくさんあるところに、勝手に入らせていただき、
写真を撮らせていただく、歩き回らせていただく。


そんな失礼なことをさせていただいて、何もしないわけにいかない。








がれきの片付いたところ。
復興はまだまだだと感じた。





そして、今回の旅で同時に強く感じたのは、

やっぱり、津波被害と原発被害は全く違うんだということ。




警戒区域は、2年前のまま。

来月は、福島。











私たちは、ここから国を復興できるのかな。

今、国会にいる議員さんたちに任せていいのかな、彼らはきっと復興を
見届けられないのに。






視察するだけでいいのか。

これからどうするの。


たくさんの葛藤と疑問。





私は、私は…。

答えなんて、全く出そうにない。






来月の福島へ行きの情報は近々詳細がupされる予定。



長くなりました。読んでくれてありがとうございます。




さわ