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ささやかだけれど、役に立つこと

読書、映画、時事ニュース等に関して感じたことをメモしています。忘れっぽいので、1年後にはきっと驚きをもって自分のブログを読めるはず。

 

有名なスタンフォード監獄実験*を行ったジンバルドー教授が自ら著したルシファー・エフェクトという本をやっと読み終えた。長かった。。。冗長な部分も多かったけれど、監獄実験のみならずイラクのアブグレイブ刑務所やキューバのグアンタナモ刑務所等の事例も詳しく検証しておりとても興味深かった。

(*比較的知的レベルの高い男子学生を無作為に看守と囚人に分け、監獄に模した場所で看守役と囚人役を行わせることで心理的影響を調査した。その結果、想定以上の精神的・肉体的虐待が発生し、複数の囚人役学生がストレス障害を示したため、実験中止に追い込まれた)

 

看守側についてこの実験が示唆することは「ごく普通の人間であっても、刑務所等の特殊で閉鎖的な状況において看守などの立場に身を置くと、囚人に対して精神的・肉体的な虐待を行うようになる傾向が強くなる」という一見単純な事柄だ。

 

ただ、そのメカニズムはそれほど自明でもない。サディズムの傾向がある人が看守になると本性を現す、というような分かりやすい場合ばかりではない。というより、多くの場合ごく善良な人々が自分を取り巻く状況の力から影響を受けて認知フレームが変化し、虐待の異常性について感覚が麻痺してしまうのだ。スタンフォード監獄実験に即して言えば、つい数日前まで同じ年代の学生同士だったのに、いつの間にか同じ人間だと思えなくなるのだ。この、「いつの間にか」という部分に状況の力が関わってくる。

 

著者によれば、このような状況の力を強化するにあたって幾つかのツールが重要な意味を持つ。看守の制服、サングラス、警棒、点呼、罰としての作業や運動、独房、報酬としての食事やタバコ、裸の強制、囚人番号による個人の特定、などなど。制服やサングラスなどは看守役学生にとっては「個性ある自分自身」から「看守という機能」に変化するのに役立つし、意味不明な作業や運動を繰り返させたり不合理な罰則を課すことは囚人の無力感を強めるのに有効だ。

 

また、責任の所在が曖昧だったり分散されていると看守による加虐の傾向が強まる点が指摘されている。責任の所在が曖昧とは、例えばルールがはっきりしていない状況を指す。囚人をコントロールするためにどの程度の行為が許容されるのかが曖昧な状況では加虐がエスカレートし易い。(アブグレイブ刑務所も同様の状況)

 

この本が与える重要な示唆の1つは、「その状況に身を置いてみなければ、自分がどのように振る舞うかは全く分からない」ということだ。ジンバルドー教授によると、自分は大丈夫だ、自分が看守になってもそんな残虐なことは絶対にしない、と思っている人ほど異常な状況に飲み込まれ易いらしい。

 

囚人役に生じた影響で他に興味深かったのは以下のような点だった。

  • 実験に過ぎないにもかかわらず、最終的にストレス障害に陥ったような囚人役学生であっても「もう実験への参加をやめてここを出て行きます」とは言わなかった
  • 時間感覚が曖昧になる
  • 今現在だけに意識の焦点があたり、過去の思い出や将来の計画を考えることができなくなる
  • 自分が誰でもないような気分になってくる
  • 他の囚人がいなくなっても、誰も話題にせずすぐに忘れてしまう

つまり、あまりに模擬監獄所とシステムが生み出す臨場感が強すぎるために、頭で「これは実験に過ぎない」と分かっていても心身は囚人としての自分が現実だと強く感じていて「今すぐ家に帰っていい」と思えないのだ。

 

本書の中では、スタンフォード監獄実験から得られた結果がカルト・刑務所・政府組織などにも適用され、システムが徐々に人々を没個性化・非人間化し悪へと導く過程が検証される。この考え方は、会社組織にも有効かもしれないと感じた。

 

たとえば上司・部下の関係などは、もちろん全部ではないが部分的には看守・囚人という関係に読み換えられなくもない(無意味で過酷な残業指示、業務に関する不合理な非難や叱責、人格攻撃など)。雇用契約はあくまで契約に過ぎないのだから、ストレス性の精神疾患などにかかるくらいなら特に若い人は「今すぐ会社を辞めて家に帰っていい」のだが、何故か多くの人は辞めずによりひどい結果を選択する。この辺りは、特定の会社組織が内包する問題というよりも、国民全般に浸透している固定観念のようなものが強く影響しているのかもしれない。

(注)以下の文章は映画の結末に関する内容を含みます。

 

リップヴァンウィンクルの花嫁を観た。ある事情から離婚した皆川七海(黒木華)が、何でも屋の安室行舛(綾野剛)の紹介で行った怪しげなバイト先で女優と名乗る里中真白(COCCO)と親密になって。。。という話。

 

とても寓話的な傾向が強い映画なので何とも形容しにくい。ただ、正直言って黒木華とCOCCOが庭で戯れたりウェディングドレスを纏って死や愛について語らうあたりは何だか妙に気恥ずかしくなって見ていられなかった。自分にこの映画は敷居が高過ぎたし、また色々な意味で岩井俊二監督(54歳)の感性はすごいなと思う。

 

ということで鑑賞中はなんとなく安室の行った仕掛けについて考えていた。岩井監督の原作小説を読んでいないこともあって幾つか分からない点があった。たとえば、安室は七海の浮気現場をでっち上げ、その証拠写真を七海の義母に提供することで七海が離婚せざるをえない状況に追い込む。七海の義母と安室はどのタイミングでどのように接点を持ったのか?その義母に雇われていたのか?或いは安室の別の計画のために彼女が離婚することが必要だったのか。

 

安室は七海を利用し尽くしているようにも見えるし、同時に何かと気にかけて世話を焼いているようにも見える。ただ、死期がせまり苦悩する真白から心中相手を探して欲しいと頼まれた際、真相を伏せたまま七海を真白の元に送り込むなど冷酷な一面を持つ。真白は、七海の意思とは関係なく彼女を道連れにしてしまう可能性も相当程度あったはずだ。安室が七海に言った通り、真白は「怖い人」なのだ。

 

しかし終盤、安室は真白の母親と一緒に素っ裸になって泣きながら真白を偲ぶ。成り行きではあるし演技かもしれないけれど、なにも彼まで素っ裸になる必要は全くないのだから、彼にとっても真白が死んだことは「クライアントが本人のご意思で予定通りお亡くなりになりました」では割り切れないということだと思う。

 

エンディング付近、安室は新居に引っ越した七海を訪れて残りの給与をきっちり支払い、家具の世話までする。この辺の描写もまた、彼が銭金だけを基準にして生きているわけではないことを示唆している。

 

安室が七海と話す際も、基本的に敬語なのに急にタメ口になるなど二面性のある危険な雰囲気がうまく描かれていた。七海は最後まで安室の一面しか見ていなかったようだけれど。

 

 

(注)以下の文章は映画の結末に関する内容を含みます。

 

アン・リー監督、ヒース・レジャー&ジェイク・ギレンホール出演のブロークバック・マウンテン(2005)を観た。

 

1963年の夏、イニス・デル・マー(ヒース・レジャー)とジャック・ツイスト(ジェイク・ギレンホール)は羊の放牧の仕事を通じて知り合う。山奥で二人切りで過ごすうちに、二人の気持ちは友情を超えるものになって。。。のような話。

 

イニスとジャックは20年越しの恋仲になるが、二人の愛情はかなり異質だ。イニスは一途で気持ちが優先しているが、ジャックは肉体的な衝動がまずあってその後気持ちが着いていくタイプだ。実際、ジャックはメキシコで買春するしイニスの他に彼氏も作る。極め付けには、恐らくはイニスと別れて件の彼氏と牧場経営をしながら一緒に暮らす算段もつけていた様子だ。

 

しかしイニスは、ジャックの死後に全ての事情を知ってなお彼に愛を捧げる。その姿は、ブロークバック・マウンテンでの二人の想い出をどこまでも純粋化しようとしているかのようだ。イニスのクローゼッドに大切にしまわれている服と絵葉書が象徴するように、20年前のあの時から時間が止まってしまっているのかもしれない。