シャドウという言葉があります。
これは心理学の用語で、人に見せたくない、存在を認めたくない、自分の暗黒面のことを指す言葉です。
カール・グスタフ・ユングという心理学者が提唱した概念です。
ユングによると、誰しも自分の暗黒面であるシャドウを持っているそうです。
今日はこのシャドウについて書いてみようと思います。
誰しも、自分はこういう人間だ、というセルフイメージを持っていますよね。
スピリチュアルが好きな方ほど、「私は誠実で愛に溢れた人間だ」と思っている人が多いかもしれませんね。
勿論それは素晴らしいことですし、それについて自惚れだ、などというつもりは全くありません。
そうではなく、自分はこういう人間だと決めることは、実は、自分はこういう人間ではないと決めることでもあるのだ、ということをお伝えしたいのです。
例えば、「自分は誠実で愛に溢れた人間である」と思っている人は、自分は嘘はつかないし、人を裏切ることもしない、と考えていたりしますよね。
これはつまり、「自分は、嘘をついたり人を裏切るような人間ではない」と決めているということなのです。
しかし、実際には、人間ですから、嘘をつくこともあれば、人を裏切ってしまうこともあるわけです。
そうすると、理想の自分と現実の自分とのギャップにショックを受け、自分は最低な人間だ、クズだ、と自分で自分を責めるようになってしまうのです。
私も経験があるからわかるのですが、他人に非難されるよりも、自分で自分を責めるほうが辛いのです。
なぜなら、他人の自分に対する非難や悪口は、24時間ずっと続くわけではありません。
相当暇な人であっても、24時間つきっきりで、眠りもせずに自分を攻撃してくるということはありえないからです。
しかし、自分で自分を責めるという場合には、24時間ずっと非難されることになるのです。
トイレに入っていようが、お風呂に入っていようが関係ありません。
当たり前ですが、自分とは常に一緒にいるため、ずっと攻撃され続けることになってしまいます。
さらに、この状態に陥ってしまうと、自分で自分を攻撃しているということに気付けない場合もあるのです。
真面目な人ほどこのような状況に陥りやすいようです。
真面目な人は、ストイックに努力を続ける人が多いのですが、それは、現実の自分と理想の自分との間にあるギャップを埋めるための努力なのです。
そのため、努力している間中、自分を、こんな自分は自分じゃない!と、攻撃し続けます。
しかし、本人にはその自覚はありません。
ただ努力をして頑張っているだけだと思っているのです。
しかし、攻撃され続けた自分は、気付かぬうちにどんどん疲弊して弱っていきます。
そして、ある日突然心が折れてしまうのです。
心が折れてしまうと、もう努力を続けることが出来なくってしまいます。
これが鬱と呼ばれる状態なのだと思います。
私も、高校時代に大失恋 をした時、あの時こうしておけば失恋せずに済んだのに、本当に自分は価値のない人間なんだ、と自分で自分を攻撃してしまったことがあります。
この時は、本当に心がボロボロになってしまい、食事も喉を通らなくなってしまいました。
経験のある方はお分かりだと思うのですが、自分で自分を責めるというのは本当に辛いのです。
現実の自分が、自分で決めた自分と異なっているから攻撃するわけですが、果たして自分で決めた自分の姿は本当の自分なのでしょうか?
小さかった時のことを思い出してみてください。
こんな自分は自分ではない!という意識で生活していたという人はほとんどいないのではないでしょうか。
きっと毎日が楽しくて、全力で自分を生きていたと思います。
それが、大きくなるにつれて、いつの間にか自分で自分を規定してしまい、そこからはみ出た自分は存在しないことにして、隅っこに追いやってしまったのです。
しかし、追いやられた自分も元々は自分の一部です。
そのため、
「なんでだよ~。僕だって君の一部なのに無視しないでくれよ!!お願いだよ!さみしいよ!出してくれよー!!!」
と主張します。
ところが、見たくないから自分の嫌な部分を端に追いやったわけで、隅に追いやられた自分が泣き叫べば泣き叫ぶほど、もっともっと強力に端に追いやります。
自分が、自分でないと決めた自分を直視するのが怖いからです。
しかし、追いやれば追いやるほど、自分の中の切り離された自分は、認めてくれ!!といって表層意識に出てこようとするのです。
最終的にどうなるかというと、自分が認めたくない自分が、確かに存在するということを、嫌というほど思い知らされるような現実がやってくることになります。
例えば、努力しても努力しても理想の自分になれず、心が折れてしまうという状況などはまさにそれです。
誰しも嫌いな人や苦手な人がいると思いますが、なぜそうなのか考えてみたことがありますか?
当たり前の話なのですが、自分の中に好き嫌いの判断の基準があるから、好きな人と嫌いな人がいるのです。
その判断の基準は、「自分は○○な人間だ、○○な人間ではない」と自分で決めたセルフイメージなのです。
つまり、ある人を見て、嫌いだと思った時、自分の中の認めたくない自分を見ているということなのです。
もっとわかりやすく言うと、嫌いな人がいるという時、本当はその人のことが嫌いなのではなく、自分のことが嫌いなのです。
自分で、こんな自分は自分ではないと隅に追いやったはずの自分が、目の前に現れてくるから嫌だと思うのです。
他人は自分の鏡であると言いますが、他人を見てイライラしたり、嫌な気分になったりした時は、その嫌な部分が自分の中にあり、それを認めておらず、それを突きつけられているような気がするため、イライラしたり嫌な気分になったりするのです。
そのため、自分の中にある、こんな自分は自分ではないと切り捨ててきた部分を認めてあげることで、他人に対して嫌な感情を抱くことが無くなるそうです。
こんな自分は自分ではないと切り捨ててきた部分は、他人を見た時に自分の中にどんな感情が湧きあがったかをよく観察することで見極めることができます。
例えば、癇癪を起こして怒鳴りちらしている人を見た時、うわー、大人げない人だなぁ、サイテー、と思ったとします。
この場合、自分の中にも、癇癪を起こし怒鳴り散らすような凶暴性があるということになります。
そこで、その凶暴性を認めてあげるのです。
それまで存在しないものとして扱ってきた自分の凶暴性を、ごめんね、さみしかったよね、と言ってハグしてあげるのです。
すると、自分の中の凶暴性は、存在を認めてもらえたため、もう、出してくれー!と暴れることはなくなるのです。
そうなると、同じように癇癪を起こし怒鳴り散らしている人にまた遭遇したとしても、以前のようにネガティブな感情を抱くことがなくなるのです。
自分にもそうした一面があるということがわかっているからです。
ネガティブな感情を抱いたときは、自分を再発見するチャンスなのです。
よく、お釈迦様やキリストなどのアセンテッドマスターと呼ばれるような人たちは、高い波動を持っていると言われていますよね。
波動とは何でしょうか?
私は、波動とは読んで字のごとく、「波」であると考えています。
波というのは高いところと低いところを行ったり来たりしながら、揺れ動くものですよね。
そのため私は、高い波動というものは、上限と下限の差が大きい波であると考えています。
そう考えると、高い波動とは、高いところから低いところまでカバーできる波であるということになり、お釈迦様やキリストは、どんな人でも受け入れられる器の大きさを持っていたのではないかと思うのです。
それはつまり、こんな自分は自分ではないと否定した自分が少ないということだと思います。
ありのままの自分を受け入れていたのではないでしょうか。
おそらくアセンテッドマスターといえどもネガテティブな感情を抱くこともあったと思います。
しかし、それを否定することなく、認め、受け入れたからこそ高い波動を獲得できたのではないだろうかと思うのです。
私たちも、切り離していた自分を統合していくことで、波動を高めていけるのではないでしょうか。
これからは、たくさんの人が本来の自分を生きるようになっていくと思いますが、本来の自分になる、とは切り離した自分を統合していくことなのではないかと思いました。
自分を愛する、とはそういうことなのかもしれませんね。
読んでいただき、ありがとうございます。
![精神世界の中心でブレイクダンスを踊る-影](https://stat.ameba.jp/user_images/20130427/03/spiritual-b-boy/5f/e9/j/t02200165_0800060012515125048.jpg?caw=800)