三十五年前に地中海で泳いだ話 | spinflopのブログ

spinflopのブログ

(2022年1月から~) 
両親が亡くなり空き家となった実家の売却と確定申告日記(2023年6月納税完了)。遺品・写真から亡父母の生前を振り返り菩提を弔う。そして父の遺品の一眼レフカメラSONY α350の交換レンズを購入し使い倒す。

今を去ること三十五年前、まだ冷戦中で、ベルリンの壁も健在、アエロフロート以外の航空機は、ソヴィエト上空では撃墜されるので、日本発のヨーロッパ便は、ほとんどみんな、アラスカはアンカレッジ経由で飛んでいた頃の話である。そんな当時、ひょんなことから南仏に仕事(?)で行くことになった。

当時、一般の貧乏人が買える「ツアーでない航空券」は、大韓航空かアエロフロートだけである。アエロフロートの方はモスクワに夜着する便だと、恐怖のモスクワ泊(=見ず知らずの人と強制的に同室でホテル宿泊させられる)と言う話だったので、大韓航空を選んだ。これはそのときの思い出話である。

今度はフランス行き(19)

  

 

▽80年代も終わり頃、大韓航空で成田を立ち、金浦空港(未だ仁川空港は着工もしていない)で乗り換え、さらにアンカレッジ経由でパリに飛び、北駅の近くで一泊。

翌日、TGVで、港湾都市のマルセイユに行き、現地でホテルを取って一泊。さらに翌日、ちょっと内陸部の エクス・アン・プロバンス に鉄道で向かったのである。

その年のパリは冷夏で、風邪をひいてしまい、TGVの中で吐きそうになり、身悶えしていたが、南仏のマルセイユに着いたらけろっと直ってしまった。だからずっと自分の中では「南仏良いとこ」なのである。

 

  

当時、フランス行きの航空券を予約しに旅行代理店に行ったときの店員との会話:

【大韓航空かアエロフロートが一番安かった】

(店員)フランス行きだと、アエロフロートか、大韓航空 ですね。

(私)大韓航空って、つい最近、撃墜されたヤツですよね?!

(店員)大丈夫、つい最近撃墜されたってことは、これから当分、落ちませんから絶対安心です。

(私)(驚愕)....そ、そうですか、、、、!?

(店員)アエロフロートだと、経由地のモスクワでかならず一泊させられて、その時のホテルは必ずツインですよ。お客さん、一人ですよね?  見ず知らずの人とツインで泊まれますか?

(私)...(呆然)... 

 

 

 

パスポートを取りに都庁の窓口があった池袋のサンシャインビルに行くと、、、

【当時は貯金がないとパスポート発行して貰えなかった】

(私)貯金、50万円あります。これ通帳です。

(都係員)普通預金じゃダメです。定期じゃないと。あなたが既に使ってしまって残高が無いかも知れないし。

(私)親からの「援助証明書」の手紙もあります。

(都係員)ほんとは二重封筒で、開封されていないことが証明できないといけないんですけどね、、、今回は黙認しましょう。 それにあなた、27才にもなって、親からの援助で海外行くんですか? 

(私)....(呆然).....

この記憶は三十数年経った今でも忘れらない(当時は大学院生)。

 

 

 

大韓航空機内で隣のおばあさんに話しかけられて、、、

【大韓航空機内でお婆さんから海苔巻きを貰った話】

(お婆さん)日本からですか? 

(私)そうです

(お婆さん)最近、全然、日本語を話せないんだけど、久しぶりに話せてとても良かった。これお食べなさい、、沢庵入りの海苔巻きですよ。

(私)おいしいです(確かに美味かった)。(おせじのつもりで)日本では今、ケイ・ウンスクやチョー・ヨンピルが大流行です。

(お婆さん)私、クラシックピアノの先生なので、そんな歌謡曲は嫌いです(笑)。

(私)私はクッパが大好きでよく食べます

(お婆さん)(にこにこしながら)辛くないですか? 

 

....などと楽しく話していた。他にも何かお菓子を貰ったような気がする。

  

しばらくして、トイレに行って帰ってみると、件のお婆さん、何と、近くの若い男性と激しい怒鳴り合いになっていた。何を言っているのか全く分からないが、男性はお婆さんに向かって何か罵っているようす。しかし、お婆さんも負けてはいない風だった。罵りあいのあと、男性は私をギロリと睨みつけて自分の席へ戻って行った。

  

その後も、おばあさんと自分との会話は楽しく続き、「韓国へは寄らないの?」と聞かれたりもした。最後は海苔巻きのお礼を言って降機した。

 

当時は全く分からなかったのであるが、何十年かしてこの一件を思い出してみると、どうやら韓国国内で、日本語の使用は禁じられていて、それで若い男性が怒り出したのだな、と理解出来た。

彼の怒りが自分に向かなくて良かったのと、一番は、あのお年寄りが、若い男に棒で殴られて殺されずに済んだことであろう。何の話か分からない人は是非検索していただきたい。

  

  

行先のエクス・アン・プロバンスはいわずもがな大変、美しく楽しいところで人心も穏やか、仕事もどうにかこうにか上手く行った。

さて、パリまでの復路をどうするか。往路に使ったTGVは、意外と時間がかかってだるかった。何しろ、パリからマルセイユまで直線距離でも659キロもあるのだ。

そこで、仕事の空き時間に、プロバンスの街中にあった旅行代理店に飛び込んで、マルセイユ空港(当時はマリアンニュ空港)からパリまでの航空券を買って、ジェット機で戻ったのである。

 

 

最後にもう一つ、自分は渡仏前から「ぜひ地中海で泳ぎたい」と言う野望をひそかに抱いていたので、「おいらはニースへ行くぞ」と触れ回っていたら、当時の仕事場の親方から「ニースは観光地として開け過ぎていてツマらん。素人の行くところだ。カシス海岸の方がずっといいぞ」と言われ、カシスに行くことにした。上の地図の拡大図で、マルセイユ港の少し東に「カシス」が見える。

 

 

プロバンスの鉄道駅で、カシス海岸行きの電車に乗ろうとしたところ、仕事で一緒だった(自分は気付いていなかったが)、フランスに長期滞在中のアルゼンチン人の若者(自分も若者だったが)に声をかけられ、彼も海に行くというので同道することに。

結局、途中でバスに乗り換えたりもしたので、彼と一緒に行けて本当に良かったと思う。

海岸に到着したあと、砂浜でそそくさと着替え、そのアルゼンチン人と交代で荷物の番をして、順番に一人ずつ泳ぎに行った。

カシスのビーチは、トップレスの女性が大半だったが、みなさん妙齢と言うか、中年の方ばかりだったのが印象に残っている。

地中海の海水温はとても冷たく、ぐいぐい泳ぐのは不可能で、ちょっと水に浸かるのが精いっぱいだったのがとても意外だった。

当時は全く気づかなかったが、今になって地図で調べてみると、もしニースに行こうとしていたら、遠すぎて大変なことになっていた(上の地図)わけで、親方のアドバイスは正鵠を得ていたのだと、何十年も経ってようやく気付いた。

 

 

カシス行きの電車の中で、当時、日本でも話題になっていたフランスの「ミニテル」と言う端末について、件のアルゼンチン人と話した。未だインターネットが普及する前の話だ。

日本ではテレホンカードは売られていたが、ポケベルの流行やダイヤルQ2まだ始まっておらず、パソコン通信と言えば、音響カプラで仕事場のコンピュータに構内接続するのが精一杯だったのに対し、フランスで各家庭に番号案内用として配布されたビデオ端末「minitel」で、さまざまなサービスが受けられる、とニュースで聞いていた。また、日本のコンピュータ雑誌「PC-World」などで盛んに取り上げられていて絶賛されていた。そこで、彼にミニテルの評判を聞いてみると、、、。

 

彼の反応は意外にも「ありゃひどい」と言うものであった。

ミニテルには、まともなサービスもあることはあるが、「大半のは、女性によるサービスだね。いやはや困ったものだ。女性どころか、若い男性によるサービスだってあるさ、アハハ!」

と彼が笑ったところで、隣の座席の女性の顔色が変わり、彼は慌てて、「いや、今、日本の友人に、フランスのミニテルについて説明してたところなんすよ。日本には未だそういうのないって、彼が言うから、、、」と弁解していた。

「水は下流に向かって流れる」、とはまさにこのことだと思った。

  

 

この話を、当時、ちょうど自分がパソコン雑誌(Oh!X/Oh!MZ)で連載中の記事の一回分として載せて貰ったのであるが、その際、前田編集長に「申し訳ないんだけど、あの、ミニテルの話の後半はカットさせて貰うね、面白いんだけど、ごめん。うちの雑誌は小中学生の読者も居るから、、、、」と言われたのをよく覚えている。原稿料は確か二万五千円くらいだった。