最後の写真発掘、誰が撮った? | spinflopのブログ

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(2022年1月から~) 
両親が亡くなり空き家となった実家の売却と確定申告日記(2023年6月納税完了)。遺品・写真から亡父母の生前を振り返り菩提を弔う。そして父の遺品の一眼レフカメラSONY α350の交換レンズを購入し使い倒す。

二階の段ボールをあさっていると、もう一つ、写真の袋が出て来た。引き伸ばし済の古い写真が数十枚、そして、ネガ、それも中盤6×4.5のネガも入っている。持ち帰ってフィルムスキャナー(サンワサプライ)で取り込んでみた。

 

▽モノクロームのハーフが1本分、そして、6×4.5のネガ三枚分とカラースライドが1枚のみ(父親の会社の毎年の慰安旅行)が、サクラカラーの袋に入っていた。

 

▽ハーフサイズのネガの中身は、何と、自分の幼稚園時代の運動会であった。昭和41年(1966年)である。季節は初秋だと思われる。

幼稚園の園庭では狭すぎるので、近くの公立中学校(藤見中学校)のグラウンドと体育館を借りたようだ。果たしてこれらはどなたに撮影していただいたか、と言うのが本稿の主題である。

 

▽母親とフォークダンス。曲はオクラハマミキサで、事前に園で練習したのは良く覚えている。

 

▽体育館で昼食。同居していた父方の祖母と、そして母親と三人で一緒にお弁当を食べている。

決して昭和38年の新潟地震で避難しているのではない!(爆)

 

▽その父方の祖母。日露戦争開戦の年(1904)に生まれた祖母は当時62歳である。何と颯爽とした婆であることか。

 

▽母親が撮影者に笑っている。一体、誰が撮ってくれたのだろう。おそらく平日なので、会社員だった父親ではないと思う。もし父親であったら、さすがに覚えていると思う。

自分は、いつも通り、幼稚園にスクールバスで行き、そこから会場の中学校グラウンドへ引率されて行ったはず。

母親と祖母はどうやって来たのだろう。歩けない距離ではないし、母親は自転車で行けたと思うが、祖母まで同道するのは、結構大変である。

彼らを車に乗せて、一日、親子に付き合って、写真まで撮ってくれたのは果たしてどの親戚だったのだろうか。

そして、カメラの腕前もなかなかのものである。

当時、母親の実家にいて、カメラが扱えたのは、長兄と五男の末弟の可能性がある。但し1945年生まれの五男は当時、未だ21歳で大学に行っていたので、おそらく、長兄の可能性が高い。しかし、家業の薪炭業を継いでいた長兄は、当時、オガライトの販売で景気が良かったはずで、妹の家族の運動会に来るヒマがあったのだろうか。もしそうならば亡母に代わってもう一度、お礼を言いたいものである

 

 

ちなみに6×4.5版の方は自分がもっと小さな頃の写真で、雪が降った際に庭で遊んでいる光景であった。

その写真は引き伸ばされて、家のアルバムにも貼ってあった。母親(1978年没)は、生前、その光景と、写真を見て「子供は可愛いものだと初めて実感した」、とよく言っていた。

「それまでは可愛いと思わなかったのかよ!」と言うツッコミどころ満載の発言なので、良く覚えている。きっと、母親はその写真がとても気に入って、親戚(おそらく長兄)から、中判フィルムごと貰ったのではないか。

「子供は2、3歳の頃までに一生分の恩返しを先にする」、とは良く言ったものだ。

 

 

 

(後記)12/14(火)記、撮影者はやっぱり父親かも知れぬ。

母親の、

(自分に向かって)ほら、パパ来たよ。

(父親に向かって) あんた、会社抜けて大丈夫なんけ?

 と言うセリフを聞いたような気がする。しかし自分の妄想かも知れぬ。良く分からない。