テレビで素敵に見えるアイドル、というのと職人技だな〜!っていうのを感じて感動しました。


カラオケしながら動画を撮る、という設定で、現役アイドルの役者さんが、マイク持ってカメラを見たら、なんと急にアイドル感が出る!!


ということは、カメラ見て歌うことひとつとっても、よく見せる見つめ方みたいなのがあるのだと思う。

素人がカメラ見てもこのキラキラ感は出せない!


(と、自分が結婚写真を撮った経験で思いました。

「カメラに、瞬間的に自分の最高の顔を映させる」

全然できないの!

何百枚も撮ってもらうのに、いい顔してるのはほんの数枚しかなくて。

あらためて撮られるのって技術がいるんだなーと思った経験がありました。)


トップアイドルをやる人は、自分がどう在りたいのか、が隅々まで研究され尽くしているのかな。と考えると、かなり学ぶところがありますね。。。


最近わたしは、

「他人からどう見られるかということよりも、自分のやりたいようにやる」を意識していたが、一方で自分がやりたいようにやると、美しくないし、周りと調和しないよなあ、何が違うんだろう、というのを気にしていました。

でもそもそも「やりたいように」がちょっと今の思っているのとは違うのかもしれない。


「こう見られたい」は、こう在りたい、と近い。

他人からどう見られるか、は実は、自分が自分をどう見ているかに近い。


そして自分がやりたいように、というのはつまり自分が自分を見てこうがいい、っていうことじゃないですかね?

それは結局、自分の造形、しぐさ、考え方が出る言葉遣い、のありのままを無視していては、できない。

自分で知って、在りたい姿に調整していく作業でしかない。

自分を受け入れて、じゃあどうする?になる。


だから自分の見え方を研究しつくし、自分が在りたい方向に調整し、それが、考えなくてもできる、日常の在り方になれば、自分のやりたいことができている、と言えるのではないだろうか。





恋の痛みや悲しみの歌を聴くと、

恋をしていた頃の、苦しかったその頃の気持ちや空気の感じを懐かしく思い出すことがある。


例えば、別れを告げられた翌朝も仕事には行かなくちゃいけなくて、身支度をしながら見た、表情のなくなった自分の顔。

表情がないくらいなのに通勤の電車でも涙が出て想いが募って、電車を降りて、うんと苦いものを飲みたくてコーヒーを買って職場に入るときの、朝イチなのに疲れた気持ち。

(これもリモートワークになる前だからの記憶だね。リモートだったら、翌朝もうんと泣いて仕事ほとんどしてないと思うから。)


例えば、自分を大切にしてくれないのに好きでしょうがない人の家から朝帰りするときの、通勤が始まる直前の街の感じ。

夜明けがすぎて白い日差し、早い通勤の人がいたり、スーパーに納品のトラック、昨夜と早朝に出された回収前のゴミにかけられた青いネット、

みんなは新しい朝を始めているのに、私だけ昨日と同じ服、その惨めさと、好きな人と過ごせた嬉しさと。


例えば、別れようって言うためにかけた最後のLINE電話。久しぶりの電話だったのにそれが別れ話でごめんねの気持ち。でもわたし東京楽しくなっちゃった。

それから、ほんとのことは言えなかったけど、好きな人もできたんだ。

ほんとうにごめん、好きだったよ、どうか元気でね、の気持ち。


いくつかの、恋と、その終わりの記憶。

もう遠い遠い昔のことのよう。


そして同時に、結婚してよかったな、

しかもこんなに大切に思い合える人間性の相手と結婚できてありがたいなと思う。



結婚して嬉しいこと、よかったことはたくさんあるが、なかでも意外と世間で言われないことの一つとして


もう恋をしなくて良いこと

恋愛の別れをしなくてよいこと


があると思う。


もちろん離婚はゼロではないし、

すれ違いや喧嘩、超えられない溝はある。


でも、もう、

恋をして、フラれる時の、

引きちぎられるような想い、

こちらから別れを告げるときの、相手を悲しませることのきつさ、

1人に絞ってもらえないときの嫉妬、

そういうヒリヒリする感情

みたいなものは、もうしなくて良い。


あれはかなりきつかった。

なんで若い人って同じ格好になりがちなのかを考えてみました。


彼ら彼女らは目にしてる装いについての知識は「今」のものしかない、

つまり【ステキ】のパターンが少ない。

っていうのはあるかもね?!


歳とってくると、生きてる長さにより、映画や雑誌で見るファッションも数増えるし、各時代の流行が変わる様も見てくる。

いろいろなパターンの「ステキ」が自分の中に蓄積されるから自然と選択肢も増えて、まったく同じ格好にならなくなっていくのでは?!と。


年寄りには、【今のインスタ】以外の、見てきた装いの積み重ねがあるし、持っている服も、昔の服という積み重ねがあるし、今の服と混ざって、装いにバリエーションが出る。

年取るのも悪くない。


もちろん、これはファッションに興味がある人の話で、興味のない人はとにかく売ってるものを着るだけだから、歳を取っても人と同じ格好になるんだと思いますが。。。



話変わりますが、自分の好きな格好ていうのがよくわからない、というか、そこまで装い興味がない人っていうのは一定数いて、

わからないからこそ、売ってるものを一揃い真似してそれを着ておく、みたいなところがあるのかなあ、と東京に暮らして思いました。


かえってそういう人の方が、完成されたヘアメイクになっていることもあるのは、興味ないからこそ制服みたいなもんなのかも。

興味あるとチャレンジして失敗(似合わない、バランス悪い)もあるけど、興味なければそういうことはない。

紺さん(@aky_synes)のツイート を読んで思った。


わたしは小学校2年生くらいまで「嫌なこと言われた」とか、お友達の中で出て行くのに戸惑う、みたいな記憶がない。幼児期は、どちらかといえば大人の言うことの理解が早かったので良い子扱いされていたし、またひとりっ子で自分が発言したり行動することに躊躇する理由がゼロ(常に自分は家族の一員としてカウントされ注目浴びている)だったことから、自分の価値に対して疑問を持つことがなかったんだろう。


2年の終わりくらいから、女子はグループを作るようになり、それが苦手でフラフラして、違和感を持ちつつ4年はたのしみ、5年で仲間はずれを経験し、傷ついた。所属していた町内会のスポーツチームの子たちとも、少し自分だけ距離があるように感じていた。「なんとなくの疎外感」。自分だけ宇宙人のような、周囲が楽しんでいることを共に楽しめない自分を持て余していた。

今思えば、読書が好きで90年代のテレビの悪ノリが肌に合わず、大人になっての運動習慣としてジムやジョギングよりコンテンポラリーダンスを選んだ私なので、図書カードの記録は年間数冊で、スポーツ好きだったり、テレビの真似で盛り上がったりする子たちとは、当然ノリが違うに決まっている。


つまり、単に「ノリが違う仲間とうまくやれない」「わたしだけがテレビより本が好きだった」ということなので、当たり前やん!と思うのだが、当時は結構、この「なんとなくの疎外感」に傷ついていた。

今思えば、現在、会社で同僚とランチするときみたいな感じで、やわらかく、当たり障りがなく、でも自分も興味持てる話題でゆったりその時間だけは過ごしておけば良いのよ、と思うのだけど、当時は学校と家とスポーツチームが全てであり、

何事も、自分の興味のストライクゾーンが狭く、しかもそれが全てで、やわらかくできなかったのだ。

なので、その後の人生において、この小学校中学年ー高学年でのつらい経験が尾を引いている。それまでの幼少期は特に社会に対して自信を失ったり怯えたりしないできたんだな。


すごくずっとつらかった気がしていたけどそんなことはなかった!!解像度あがった!!


自信あったのに、小学5年で仲間はずれということで、初めて自分の行動を問われるかたちになり、しかもデカめのやつで、傷ついたんだろうね。

なんとなくの疎外感があったから余計に自分が悪いのか?と思ってしまったんだろうね。


東京、それも新宿をメインに暮らしていると、たぶんあの2人はゲイだなと思う2人組を見かけることがよくある。(ビアンだなと思う2人より多く気づく) 

目が行くので、それは特別視で、差別につながるのだろうか、と思っていたのですが。

たぶん、単純にギャップがわたしの「萌え」なんだな〜と気づきました。笑

短髪ガチムチなのに、めちゃくちゃかわいい動きとか、キャピっとした感じ。

もちろん「短髪ガチムチはキャピキャピしないはず」というのもまあ偏見ではある。

短髪ガチムチは荒っぽい動きが「予定通り」と思ってんですよね。

それを裏切ってやわらかいキャピキャピだと、すごい見てたくなるんだとわかりました。

よしながふみせんせーのインタビュー本見て「そいう関係性が好き」「萌えポイントなんですよね」というのを見て気付いた。

あー!わたしは男っぽい/女っぽい見た目と、そぐわない言葉遣い、しぐさが好きなんだな〜と。


・可愛らしくしっかりして華奢な黒髪ストレートで白タックブラウスと膝下フレアスカートが似合う40歳、の言うガサツなツッコミ。「〜じゃねぇんだわ笑」


・ツーブロック短髪ガチムチ、チェックシャツ白パンツにくるぶし見せてスリッポンの似合う43歳の言うオネエ言葉。「あら、これ、なにかしら?」「あたしたちがすべきは〜ってことでいーい?」「ちょっとあんた聞いたわよ」


・端正で涼やかな顔立ち、均整の取れた体格で上げた前髪がさわやか、スーツの似合う31歳がいう坊やのような「ねむい。」「食べゆ。」「のんどる。」


それていうと男装の女子も、女装の男子もワクワクしちゃうなと。

こういう萌えについて語りたいわね〜!


コンテンツとして消費されることに傷つく人もいるだろうから(自分にとっては普通のことを取り沙汰されることに)難しいのだけれど…

なので萌えは、クローズドなところでひっそり語るのがいいかもしれませんね。

まん丸の目の女の子でも、黒とダルっとしたシャツにピタッとした白キャミ金髪ボブ、もしくは黒髪ウェットボブ、目元赤目、シルバーアクセ、みたいなのが「センスいい」「垢抜けてる」となるのはあくまで東京のど都心だけなような気がする。

少し離れて、たとえば神奈川でも戸塚、大船とくると、異様なもの、もしくは暗くてつまんない装いに見えるような。


でも大船でもたとえばひよりんやあずちゃんちたいにカリっしてしっかり骨感のある長い手足に切長の目だと、黒髪ウェットパーマもしくはストレートショートでやればめちゃハマる。けどどこかに色味がある方がやっぱり好きだなあ。

母がよく「料理は習慣だから」と言っていた意味がわかることがあった。

ここ数ヶ月、料理というほどではないが平日も買い物〜作業で30分程度のおかずを作る機会が増えた。5日の平日のうち、3日くらいは自炊。共に食べる人がいることもあり作るのだが、作るといっても前述の通り、トータルで30分なので手の込んだものではない。

しかし、手が込んでいなくとも、今までよりも明らかに包丁持つのが抵抗なくて、たとえひとりごはんの日でも食べたいもののためならなにかをささっと作るのが苦ではない。つまみに浅漬けでもしよ、と自然に動けるのよね。手の込んだものではなくて、切ってつける、炒める、和える、焼くだけ。でも平日の夕飯はほぼ外食だった頃から考えると完全に、ハードルが下がっている。

でもこれがひとり暮らしで、自炊の癖がないころは、きゅうりひとつ切るのが億劫だったのよね。これは先日、平日作る気にならないという友が来て、私が浅漬けしようとして「え、いいよ面倒でしょ」と言われて、まったく面倒な気持ちがなくなっている自分がいたので、その差で気づいた。

そうだった、わたしも、浅漬けも買っていた。そして好みの味ではなくてしょんぼりしたりして(浅漬けとか佃煮とかこそ市販のやつと好みの味が違うことは多々あることないですか?)。いまは好きな味の浅漬けの素が家にある。それと野菜切るだけで袋に放り込んで幸せになっているのだから、やはり自炊は習慣にしておくにこしたことはないような気がする。



久しぶりに、昨日、不機嫌をコントロールできなかったのがコンテンポラリーダンスのクラス行って「表現」したら消え去りました。原因と思われることについて表現したわけではないのに。

これは、

・身体を動かすことで血流がよくなる、

・身体に集中することでモヤモヤしたことから気を離せる、

という効果でもある。

ただ、思うのは「自己」を「表現」したということが重要だったのではないか?


今回、クラスに行くのが用事で2週間ぶりになっちゃってたんでそのせいで不機嫌だったのでは?

知らんうちに溜め込む傾向がある私は、きっちり週1以上は「表現」するのがいいってことなんですか??

……あるかも。

調和が好きなわたしは、調和したくて感じたことをそのまま言うのを我慢しようとする。

また、思った通りに話したいけどそうすると、相手との間に違和感が生まれる・バランスがよくわからない・ある種の人としか楽しく話せない、などと思っているので、ふだん、自己表現してはいけない、と押し込めているフシがある。

それが、実はとてもストレスフルなのか?

そして誰に憚ることなく自身に集中して表現せよと言われるクラスへ出向くと解放されるということなのだと思う。

技術が上手でなくても、誰の目も意識せず、他者との関係性も存在せず自分を出せる場があることへの尊さを感じる。

ダンスをまじめに行き始めて2年、少しずつ身体が変わる体験もしているけど、また新しい発見でした。


と同時に、もっと素の表現を日頃できたらいいよねえ…落としどころを研究していきましょう。

夫に感情ぶつけるのは害しかない、

でも表現はしていきたい。。。

前回から約3ヶ月、すっかり調子がよい。

あのときは構造的な男女バイアスへの興味が強い、と書いた。

調子が良い最近は、さらに、深化している。

バイアスに落ち込む・怒ることへの興味は薄れ、それよりもどうあれば、どうすればそれが、みんな楽になる?という視点が増している。


Twitterでよんでいいねと思うのも、怒るだけ、評論するだけの人ではなくなってきて、受容し、伝わるような言い方を選ぶ人、怒りのその先の未来を見て発言しているような人になってきた。


そう思うと、わたしはいつも「人生の真実」「誰にも当てはまる正解」を探しながら生きているように思う。


昔から、議論の場で、最適解が透けて見えて、これしか答えなくない?!と思うときがあった。

子供の頃〜20代は、周りも経験値が少ない中なので

私の方が口が立つし(私は頭の回転だけは早い、言葉数が多い早口らし。飛躍もある自覚はある。よって気をつけてキャッチボールを意識して話さないと他人に何も伝わらない…)

私も相手の気持ちへの配慮などなく最適解をぶっ放して、落とし込むというより押し込んでいく感じだったかもしれない。


大人になり、飲み屋や職場や道場のような場で色々な価値観の人を見る機会があり、人は感情で生きるものだと知った。もちろん自分もそうだと気づいた。

例えばロジックにうるさい人がいたとしても、その奥には「論理的でないことがイヤ!」という感情があることも気づいた。

したがって、最適解が自分に見えたとしても押し込んでも意味がない、という真実を得た。


そういう、人生の真実みたいなものをひとつずつ明確にしていくのが、面白い。

体験して、感じて、腹落ちするのを楽しんでいるように思う。


(ここに、能動的な学びを組み込めたらさらに面白いのだろうか?

普段から興味深いことは自然とインプットしているが、ノートとペンで体系的に学ぶようなことを久しくしていないので。)

自分が無意識にアンテナを張っていることとしては

構造的な男女バイアス
「常識的な」生き方バイアス

がある。

自分は、本当に泥をすするような階層は経験していない。

だからお嬢さんで世間知らずなんだけれど、

それなのになんとなく息苦しさがあって。


それはわたしだけの問題ではなく、なにか社会の構造に対してアクセスしなきゃ、と言う思いがある。

インクルージョンandダイバーシティ という空気が好き。

息がしやすい。


自然とキャッチしている情報がそうなので、そういうことを生かす場面が来るといいなと思っている。



(例えば女だということに関して息苦しさの例としては

オリンピック委員会の元会長の女性蔑視発言のときにものすごく絶望みたいなものがあった。


"産休の人が出る部署に異動したこと、産休の人が帰ってきたらまた部署異動したこと、感情的だと言われないように必要以上に意識して働いたこと、生徒を叱るときには女らしく叱れと言われたこと。私が女ということと一つ一つの事象との因果関係は証明できない。私が悪かったこともある。けど男だったら?

とは思わないわけじゃない。その悔しさはあまり考えないようにして働いてきた。私の力不足だけかもしれないし、私自身もその経験から得たものもあると思い。でもその努力をしても結局無駄な気がしてしんどい。同時に、飲み込んで内在化してきたのはやっぱ良くなかったかもと思う。)