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ミナミのブログ

のんびり、、まったり

■ 2003/08/18 (Mon)横濱俳句倶楽部ほのものとから  

 

 

夕方、涼を取り入れるために

庭に面する引き戸を開けると

網戸の向うから、スイッチョの声がしてきた。

 

本名は馬追虫という。

 

港の見える丘公園に

大佛次郎という館があり

そこに、スイッチョねこ、という童話が売られている。

 

鳴いているスイッチョに興味を持ち

その音色に聞き惚れて、眠くなり

大きく欠伸をした途端

ねこのお腹にスイッチョが入り込んで鳴き始める。

 

ねこは困り果て、お母さんに相談し

お医者さんに診て貰うが

スイッチョは鳴き止まず、やがて

冬の気配がする頃、スイッチョの声が消える

というお話だ。

 

虫が思わぬところで鳴き始めると、どうしてよいのか

思案に暮れることがある。

 

新しい事務所が出来上がったばかりの

秋の暮れ、夜更の仕事をしていると

何処からか、カチンカチンと、金属を叩く音がして来た。

 

ファックスも、パソコンも、全て新しく

一体何処からそんな音がしてくるのだろう。

 

何処か配線がおかしかったのだろうか。

設定にミスがあったのだろうか。

 

そうして、思いついた。鉦叩だ。

 

俳句の世界では良く聞く虫の名だが

実際に聞くのは初めてであった。

 

そう思って聴くと、なんともいえない情緒のある音に思える。

 

その夜は、その、鉦叩の音に励まされて

仕事も捗ったように思えた。

 

 

俳句の世界で、虫、といえば

このように、秋鳴く虫のことを言う。

 

季語としては

虫の声、虫の音、虫時雨、虫の秋、昼の虫、残る虫

すがれ虫とする。

 

万葉集で虫といえば、蟋蟀(こおろぎ)のことであり

枕草子では、蜩もまたこの虫に含まれているそうだ。

 

虫時雨とは、たくさんの虫が挙って鳴くことであり

残る虫、すがれ虫は

やがて命果てるように弱々しく鳴いている様子を表している。

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ここ数年

草叢(くさむら)で鳴く虫の声を聴かない

 

気の所為ばかりでない

 

何故なのか、考えて、庭を見ると

とても奇麗に刈り上げられて

草叢が無いことに気が付いて

刈った草を堆肥にすべく一所に纏めていた

それさえもない

 

家庭菜園は大きなプランターの中で完結している

 

水清くして魚住まずという言葉が

思い浮かんだ

 

育つ環境が無いのに、虫が巣くう訳もない

 

今日、Amebaのサイトから子育てについての

アンケートの案内が届いていた

 

そんな今日、公園にある裸婦の像を

子ども達の意見で撤去するというニュースを

読んだ

 

その下には某歌手の

重大なコンプライアンス違反に関する記事

 

その記事を読みながら虫がいなくなったわけも

子どもの出生率の低下も

何となく理解出来るような気がした

 

たぶん、今の時代は、スイッチョという絵本は

命の軽視として発禁となるのだろうな、と

 

正直に言うと、雑駁な私は今の時代に子育てをしなくて

良かったと思っている

 

アンケートの目的はそんなことでは無さそうだし

実際、子育てに関わっていない

 

昭和の時代の子育て経験者の私の意見が

今の時代に適しているとも思えないから

アンケートには答えずにいる

 

そのうち、江ノ島の弁才天や

弘明寺の観音様の御開帳も禁止されてしまうのだろうか

 

 

 

 

く■ 2003/08/17 (Sun)横濱俳句倶楽部ほのものとから  

 

 

架け替える前の、山下橋を渡ると

道路の真ん中に、セーフティーゾーンがあった。

 

その先には、マッカーサーが滞在した

ニューグランドホテルがあり

山下公園の正門には、銃を持った若いMPが立っていた。

 

左側の

今、人形の家のある辺りがバスプールになるずっと前に

そのセーフティゾーンは消えてしまった。

 

もしかすると、橋の手前からの、治外法権の場所として

閉鎖されていた道の名残だったのかもしれない。

 

 

そこには、雑草と共に、数珠玉が生えていた。

 

広くも無い場所ではあるが、たくさんの雑草の中に

一本か、二本、探すことは容易ではなかった。

 

秋になると、その、麦茶の、はと麦に似た実を糸で繋ぎ

ブレスレッドや、ネックレスにして遊んだ。

 

その後、山下公園の中に、観光バスのプールが出来た。

 

プールと言えば聞こえがいいが、真っ黒い土の

ひんやりした空き地だ。

 

空き地の手前には、何本かの椎の木があった。

 

大きな椎の木の実を取るには、木に登らなければならない。

 

私は、何度も挑戦して、その木の実を採って

家に帰って、炒ってもらって食べるのが好きだった。

 

艶々と光る数珠玉のブレスレッドは

私の手首にしっくりとして、まるで宝石のように思えた。

 

椎の実は、これほど美味しい食べ物は無いとも思えた。

 

しかし、後年

数珠玉がしっかり生えた河原の巡りあった時

こんなにも乾いた草の実だったのかと

驚いたことがあった。

 

同様に、何処かの郷土の物産として売られている

椎の実を今食べても、殊更美味しいとも思えない。

 

それは多分、私の中に

発見や感動、というスパイスが無いからなのだと思う。

 

新しい発見、新しい驚き、幾つになっても

 

それは素晴しいものだと思う。

 

俳句では、数珠玉は、ずずこ、ずずだま、唐麦、として、秋の季語になる。

 

椎の実もまた秋の季語であるが、尖っている、すだ椎、と、丸みのある、つぶら椎とがある。

 

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大阪万博会場の最寄りの鉄道のトラブルで

多くの人が一晩会場で過ごすことになったという

 

ネット上のそのニュースの中に

現地でその時間を楽しんだという投稿が幾つもされていた

 

見知らぬ人同士が一緒に歌ったり、踊ったり

 

その中に、仮眠をするために人工芝を利用したとかで

その人工芝の手前に

規則正しく靴が並べられているものが有った

 

たぶん、老若男女、多くの人が足止めされて

疲れ果ててその人工芝に休息を求めたと思うが

 

日頃は靴を履いて歩くその上で横になるという

それだけの理由で靴を脱いで、そしてそれも

規則正しく並べていく

 

実際は猛暑ともいわれる時期に

遊び疲れた状態で帰宅できないということは

相当なストレスが溜まったことだろうと思うが

 

そういう光景をネットにあげたコメントには

人生初のイレギュラーを楽しんだというような

感想が寄せられていて

 

成程な、人生の最大の楽しみは

天変地異という災害を伴わない中で

不便さを共有出来るということなのだろうと

 

その不便さの中でいかにしてその苦痛から自身を解放するか

その工夫する能力が喜びになる

 

つまるところ、人は工夫することで脳を使い

その脳の動きで喜びを感じるのだろうと

 

その工夫を誰かと共有出来る

 

数珠玉が楽しくなくなったのは、それを造って

感嘆してくれる存在が無かったからなのだと

 

椎の実も、美味しそうだねと受け取ってくれる

人の手が無かったから

 

嘗て、成功を収めた経営者の方々が

一様に口にしていたのは

誰かの為になることが人生最大の喜びという言葉だった

 

もしかすると、それは、成功者というよりも

 

人と人との関わりの中で生きている故の

誰でも持ち合わせている思いなのかもしれない

 

多くの国の、たくさんの人と共有した一夜

 

大変な思いをされたことだと思うし

体調を崩された方もおられたそうだが

 

それでも同じ思いを共有した人々が

少しだけ羨ましくもある

2003/08/16 (Sat)横濱俳句倶楽部ほのぼのとから  

 

さだまさしの歌に、精霊流し、というのがあるが

 

これは、長崎に代表され、そして

三浦半島などで見られる

とても華やかな精霊舟を仕立てての、送り火の行事だ。

 

精霊流しについて

 

長崎と頻繁に行き来をしていた中国の船で亡くなった人を

船で燃やす中国の儀式

「彩舟流し」という風習を長崎で行い

それが精霊流しになったという説もあるそうだ。

 

実際長崎では

各家庭から出来上がってくる精霊舟を

爆竹でお祓いするのだそうだ。

 

燈篭流しの方は、川や海に、蝋燭を点した燈篭を流し

祖先の霊を弔うもので

日本各地、いろいろなところで見られるが

どのようにして、と、探していると

 

ねぷた、のところにに

そのことに触れているものがあった。

 

「暑さも厳しい季節にみそぎなどの方法で

睡魔を追い払おうとしたのがことの起こりで

東北各地では、古くから旧暦の七夕に

【眠り流し(燈篭流し】が行われていたようです」

 

と書かれている。

 

ねぷた、とはつまり

眠い、という方言で

ねぷた祭りは、七夕流しの変形なのだそうだ。

 

その七夕流しと、送り火とが

何処かで一緒になって

お盆の燈篭流しと変って行ったのだろうか。

 

今日は、こちらの、燈篭流しが

戸塚駅脇の柏尾川で行われる筈なのだが

雨の状況によっては、明日に順延されるという。

 

まあ、浮世の勝手で一日くらいお帰りが遅れても

仏さまは笑って許してくれるでしょう。

 

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昔、お盆が過ぎた頃

掘割を下って横浜の湾にも

どこかの街からの灯篭が流れてきていた

 

思えば全ての川はいつか海に出る訳で

川で流す灯篭も、精霊流しと同様に

人々の魂は海に帰っていくということなのだろう

 

 魂というものがあるなら

 

昨日

戦争の実録映画をテレビで見た後に亡くなられた方の

話を書いたが

 

人は自分では抗うことの出来ない

強いストレスを感じ続けるとPTSDを発症する

というのは

今の時代当たり前の話になっている

 

しかし

精神論を説かれた時代に生きた人には

それは単なる弱者、そして単なる狂気として

見做されていたようだ

 

当時の児童小説家が

戦争による後遺症の様子を多く描き表している

 

戦後しばらく公職追放令で仕事を無くし

恩給も支給されず

漸く引き上げて来た父親は廃人のようになり

昼間からお酒におぼれて、、

 

戦争が終わって十年以上も過ぎた頃の

私の同級生の、特に男子の父親は

 

自分を叱る時に

突然目つきが変わり

殴られて地に這った自分の身体を足で、、と

 

親の年を越えた今も

その父親を憎んでいる、とも話している

 

そして、私の母は横浜大空襲のあった翌日

いつも通りに制服を着て女学校に行ったと

話していたが

 

その時目の前の川から幾つもの遺体が

引き揚げられてリヤカーに積まれて行くのを

何の感情もなく見ていたと言っていた

 

思えは母が簡単に幼い娘たちを置き去りにしたり

また一番上の姉を完全に虐待と思える折檻をしたり

まだ幼い私に依存していたのも

小さな出来事でパニックになったのも

 

母と伯母が

私が母親であったならと言ったのも

伯母が従姉を溺愛しながら突き放していたのも


戦争による後遺症でのACだったのだろうと

今なら思える

 

戦争によるトラウマが話題になったのは

1980年代の

ランボーや

タクシードライバーという映画であるけれど

それはベトナム戦争に対するもので

 

第二次世界大戦末期に

特攻隊症候群いうものが有ったという話の盛り込まれたアメリカ映画も存在している

 

自分達の艦隊に

真っすぐに飛び込んでくる単身の飛行機

操縦士は真っ直ぐと自分達を見ている

その様子を見て精神を病んだ人が多くいう

 

日本の戦争に関する映画やドラマには、視聴者の判断に任せるものはあってもPTSDを明確に伝えるものは無い


日本の多くのメディアも戦争によるPTSDを語ることは無く

 

戦争によっていかに大変な思いをしたか

如何に頑張ってって復興をさせて行ったか

 

そんな話ばかり

 

そして精神の病はつい最近まで

まるで当人の遺伝子的なものとして

判断されてきていて

故に、自身の暴力的な行動に対する

ブレーキが効かないのは

自身の精神の弱さと

 

魂というものが有るとしたら

 

抗えない選択で戦地に散って

未だにその骨が故国に還ることの無い

人達の魂はどんな風に思っているのだろうか

 

命を張って、精神を削って

創り上げてくれた平和を大切に生きないと

魂のPTSDが怒りをぶつけてくるかもしれない