■ 2003/08/21 (Thu)横濱俳句倶楽部ほのぼのとから
山下公園の正面門の直ぐ先に、壷を抱えた女性の像が立つ、噴水がある。
彼女は、水の守護神像なのだそうだ。
私が小学一年生になった年、この噴水は出来上がった。
1960年のことだ。
横浜の姉妹都市である、サンディエゴからの贈り物だったのだそうだが、当時の私には、そんなことはどうでも良かった。
それよりも何かが出来上がっていくことの方が重大だった。
私は噴水が出来上がるまで、毎日見に行った。
水の無いところに、像は建てられ、やがて噴水は完成した。
完成すると、それは観光のためのものだから、盛大な式典が行われ、歓声と共に、勢い良く水飛沫が上がって行った。
そこには、もう、興味を引く子どもを認める雰囲気は無かった。
しかし、ある日、いつものように噴水の場所に行くと、管理している小父さんが良いものを見せてくれるという。
その日は、整備の日でもあったのだろうか、私は、噴水の、水の出る仕組みを教えて貰った。
水の勢いを強くしたり弱くしたり、と、調整し、そして、噴水はまた勢い良く上がり始めた。
そういえば、私の記憶だから定かではないのだが、この噴水は、夕方には止められていたように思う。
今のように、男女が公然とデートをする時代ではなかった頃のこと、山下公園で夕涼みする恋人たち、という風景さえ、あまり見かけなかった。
噴水の仕組みを知った私は、暫くの間、噴水の設計士になることを夢見ていたが、いつの間にかそれは、他の夢に塗り替えられていた。
今日は、明治十年(1877)に、台東区上野で開かれた、第一回内国勧業博覧会の会場に、日本初の西洋式の噴水が出来た日なのだそうだ。
俳句では、噴水は、吹き上げ、ふきみず、噴泉として、夏の季語になっている。
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噴水の工事を見たあと私は長い入院生活に入り
再び噴水を見に行くと点検工事をしていた訳で
この噴水は山下公園が進駐軍からの返還
されたお祝いに
横浜市との姉妹都市であるカルホルニアの
サンディエゴから贈られたもの
当時公園は将校クラスの人の住宅地だったそうで、
警備もそれなりに厳しく、針金のフェンスではなく
中が見えない塀が施されていたので
解放されたのは後もしばらくの間
たぶん六時になると、チャイムが鳴り
門が閉ざされたと記憶していた
記憶していたというのは、
その当時学校の校外補導員を努めていた母が
あれは日が落ちて人目の無い公園で
近隣の若い子達が(不純異性交遊をストレートに)していて
そのためのもの
と教えてくれたのだ
中には私の中学の同級生もいた
といわれて驚いたが
良く考えたら私の中学の同窓生には
近隣のキャバレーの子も多く通っていて
彼らは大概卒業までに違う施設に入っていたりして
卒業式にマイカーでくる子もいたのだから
中学生で括るのは違うと思う
この生徒たち学校に通った証明の為に
下校時に家庭裁判所に行くのだが
偶に教師たちが多忙だと
当時風紀委員の私も付き添いで行かされたりして
中区の地理に詳しい人なら
当時の家庭裁判所の近隣の治安について
よく判ると思うが
そんな場所に
中学三年の生徒に既に成人した
隣のクラスの子の付き添いをさせたりしたら
今ならコンプライアンス的にアウトだと思うと娘に話したら
今なら何でも通りそうだから試しに訴えたらと
物凄くいい加減な返事をされた
よくよく思いだすと
五歳も下の生徒の少し後ろを神妙な顔で歩いていた彼女を
従えて家庭裁判所に行った私は
得意顔だったように思う
人間は意識しない中で
自分の優越感を見つけ出すものなんだとしみじみと思う
そして優越感と言えば
米軍が進駐軍として滞在していた時期
山下公園が将校のハウスだったように
多くのハウスがあり、戦争で焦土と化した
関内砂漠とされた地には
まるでかまぼこのような建物の
その名もかまぼこ兵舎と言われた施設が
幾つも並んで建ち
そこに宿泊しているのは
アフリカ系アメリカ人の少年兵たち
当時
アメリカの自由平等というものを基盤に
平和憲法というものが創られたと教えられて
凄く矛盾を感じた覚えがある
そのことを当時の教師に話すと
戦争に行く少年は貧しい家の子が多いのだと
それは日本も変わらなかった
そう教えてくれた
貧しいから、仕事が無いから
志願して兵士になる
それはどの国でも変わらない
その時
人は矛盾というものを受け入れながら
大人になっていくんだと
そんなふうに悟ったのも遠い昔だが
今もあまり変わってないように思う
私は完全な大人になり切れないまま
天寿を全うしそうだ