す2003/08/20 (Wed)横濱俳句倶楽部ほのぼのとから
今日、葡萄園から、開園のお知らせが届いた。
場所は、関内から車で四十分ほどの所。
この場所に行くと、本当にここが横浜なのだろうか、と疑いたくなる。
見渡すと一面、畑、そして、栗や梨、梅の木々。
それらを囲うように小高い山があり、その山の向うには住宅地の屋根さえ見えない。
そして道路には街灯が見当たらないのだ。
舗装されていなければ、雨の日にトトロでも現れそうだ。
そのような環境だから、鳥の声も賑やかであり、虫たちも自在に飛び交っている。
その風景を見ていると、こんな場所に住みたいと思う。
しかし、お店一つない、バスも通らないこの街で、私は一体何日持つのだろうか、とも思う。
そうして、その街を車を走らせながら、気がついた。
どの家も同じ名前。
もともとは、同じ家の人たちが分家したのだろう、自分たちで、集落を作っていたのだ。
学生時代、聖書を学ぶ中での葡萄は、一つの定義を持って語られた。
私は葡萄の木で、あなたがたは枝です。
これはイエスの言葉。
イエスは約束の地の葡萄であり、圧搾器の下の一房の葡萄である。
聖アウグスチヌスの言葉。
葡萄はイエスの流す血として、ワインと形を変え、旧約聖書から新約聖書へと繋がっていく。
そのイエスを否定した、ナポレオンは、イエスの誕生を紀元元年とするグレゴリ暦に変えて、革命暦を用いるのだが、その新年が、葡萄月(Vendemiaire)であったのも、不思議なお話だ。
ところで、マスカットという葡萄の本名は、マスカット・オブ・アレキサンドリア、という。
マスカットとは、ムスクキャット(麝香猫)、そして、アレキサンドリアは、古代エジプトの首都のことなのだそうだ。
日本では、甲州の葡萄が一番古くから栽培されたものなのだそうで、文治二年(1186)に、今の勝沼町で自生していた蔓草から、と、伝わっているそうだ。
俳句では、葡萄は秋の季語になる。
野になる葡萄として、山葡萄、野葡萄、そして、エビズルというものが実るが、野葡萄には虫が寄生するので食用にはならない。
因みに、エビズルのエビは葡萄の古名で、植物に関するエビ色として残っている。
そして、この、エビは、伊弉冉尊の出て来る、日本書紀の中では、葡萄として書き表されているそうだ。
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中学生の頃のコーラス部で
アレキサンドリアという葡萄のような朝 という歌を唄ったことがあった
残念なことにその一節しか思い浮かばない
そしてもうひとつ
美しい秋 という歌
葡萄畑の葡萄棚の下で
ぶどうの実を食べた
手に染まる 紫のひとふさの 秋の重みよ
口にふくむ ひとつぶの 秋のやさしさ
今日も高温注意情報が出ていたが、季節は確実に巡るようで、スーパーにはいろいろな種類の葡萄が並び始めた
同様に私の身体も秋の準備に入ったようで、季節の変わり目の、くしゃみ、鼻水、脱力感が始まったようで、あまりのだるさに熱を測ると八度五分
コロナを疑ったが、食べ物の味が解るので、たぶん違うと思う
季節の変わり目は身体のなかを巡る血液も変化するそうなので、今日はゆっくりと休もうと思う