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ミナミのブログ

のんびり、、まったり

■ 2002/08/02 (Fri)Yahooブログから

 

遠くで微かな雷鳴がしたと思ったら

午後三時だというのに

一転俄かに掻き曇り、、と、

幽霊ものの講談みたいな状況になり

やがて、雷鳴は現実味を帯び

如何にも、今落ちましたよ

という音を立て始めた。

 

そして

それと競うように雨脚が激しくなり

 

ポールシュカポーレのように通り過ぎて行った。

 

外界の音は暫くたつきの音に消されて

 

九時を過ぎた頃、雷とは違う

バチの音が聞こえ始めた。

 

それも、西に、東に、南に、と。

 

今日は近隣でお祭りが多くあるようだ。

 

お祭りの太鼓。

 

太鼓と雷。

 

そういえば擬人化された雷には

何故か

縞々のパンツをはいている絵が多い。

 

擬人化された雷がスッポンポンで出てくるのは困るにしても

何故縞々のパンツなのだろう。

 

パンツというと、随分昔、テレビで観た

パンツを売る逞しいお母さんのドラマを思い出す。

 

あの日曜劇場は

今度の番組改編で姿を消すそうだ。

 

時代が変わったのかなあ。

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パンツ売り

昭和30年代には商店街の通路の端に

林檎箱を逆さまにして

その上にパンツや股引き

靴下などを売るおばさん達がいた

 

時には背中に乳飲み子を背負い

時おり背中を向けてお乳を呑ませたりして

 

生来がお節介だった私は

母と店に行き、母が立ち話をしていると

そういうおばさんのところに行き

代わりに店番をしていたそうだ

 

品物を売る幼い子どもと立ち話をする母親と

 

母は時々通りがかった男の人から

子どもに店番させて

お母ちゃんはおしゃべりか、と

とんでもない濡れ衣を着せられたと

長い間怒っていたが

 

後に、物価が日を追って高騰し始めた頃

母も近隣の主婦を見習い、アルバイトに

行き

大概一日で辞めて来るというのを繰り返し

船舶のおじから

会社の脇にある会社の関係者用の

ラーメン屋さんに雇ってもらい

最初の一週間行った後に、中学三年の私に

丸投げしてきたことが有ったから

あの時のおじさんの言葉は

あながち間違ってはいないように思う

 

1960年から1970年代にかけて

世の中は高度経済成長期として

1970年には大阪万博も催された

 

1958年には恩給法も復活し

オリンピックも開かれて

もう戦後ではないという言葉は溢れ

 

しかし一方で

その恩給は未帰還兵や、帰還しても

証明してくれる上官のいない人には

支給されず

老いた舅姑、そして成長期の子ども達を

一人で守る母親には地獄の日々だったと

中学の先輩が話していた

 

事実、同窓生の一人の両親はそんな状況で

父親は戦争での怪我が元で亡くなり

母は同窓生が中学に行く頃病気になり

毎日新聞や牛乳を配って生活の糧を得ていた

同窓生は疲れて

山手の先の打越橋から身を投げて

亡くなってしまった

 

後に、その場所に幽霊話が出た時

なんとも言えない苛立ちと

本当に出ればよいのにという思いが

交錯した

 

晩年、母が、同じ戦争に行き、実際は

一番苦労した人は少ない年金で

上官だった人は多くの年金を貰うという

本当に戦争は不平等だと話していたのを

思いだす

 

結局鬼のパンツが縞柄なのは何故なのかは

まだ分からない

 

そして今年は何処からも祭りの笛や太鼓の

音は聞こえない

 

そして何故か驟雨も夕立もない

 

降れば洪水

晴れれば猛暑

 

なんだか人類は

自然界との長い戦に入ったような

 

 

 


■ 2003/08/23 (Sat)YAHOOブログから


拠所ない事情で、俳句教室を20年ほど開いてきた。

最初の数年は、本職の方が指導してくださったのだが、後の十数年は、単に作句暦が長いというだけの私が教えることになった。

当然、私の師と呼べる方の助けがあったから出来たことだが。

その方が亡くなった今、小さなことに迷うと、想像以上に途方に暮れる。

そして、只管いろんな本を読み漁る。

そうやって教えた言葉を、平均年齢70ほどの生徒の皆さんは、次の句会には、綺麗さっぱり忘れられている。

お陰で教えることに事欠くことが無い。

今朝、息子から、息子の奥さんのお父さんの郷里からと、玉蜀黍を貰った。

息子の奥さん。

彼女は、我が家に嫁いできたのではなく、息子と結婚したと、私は解釈している。

そして、私は彼女のことを『嫁』とは表現しないことに決めた。

高校時代、友人達は、女の一生や、大地を愛読し、一様に、女に家と書いて、嫁、という言葉は大嫌いだといっていた。

友人の一人にその話をすると、嫁は嫁だという。
そして、所詮他人だとも。

嫁は、ともかく、他人は当たり前でしょうと思う。

だからこそ、発する言葉を大切にしなければならないと思う。

人は、何故、自分に必要がなくなることは簡単に忘れてしまえるのだろうか。

その友人は特に、結婚して間もなく、義母との確執で、死にたいと、電話をくれたこともあった。

しかし、今は、自分が気に入らないから、息子さんの結婚に反対していると言う。

そんな話を母にすると、昔から、嫁と姑と似ると言うから、似てきたのでしょう、という。

そういえば、私の義母も、嫁、と言いながら、その一人一人の個性を大切にしてくれ、また、私は何々家の嫁、という言葉で呼ばれたことが無かった。

私も姑に似たのかも知れない。

とても幸せなことだ。

物事を学ぶ、何かを習う、どちらも自然に備わってきて、初めて自分の力になって行くのだろう。

俳句を教えている方から、ご自分の作が何処かの句会で秀句に選ばれたと、喜びの電話を頂いた。

何よりも嬉しい瞬間だ。 

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最近気がついたが

この五年ほど夫の介護の諸々で忙しくしていて

すっかり存在を忘れた息子は

転居した我が家に来てもいない

 

奥さんの方はグループLINEで娘や姪たちと

日になんども会話をするし

時には電話で話したりするので

余りその感覚は無いし

 

 

思い起こせば、夫の母も

お盆の休みには息子の帰省よりも

私と子ども達だけの時の方が歓待してくれていた

 

夫は、二十歳半ばで結婚して

子どもが生まれて直ぐに家を買い

個人会社から有限に

会社の組織を変更した頃、

 

舅姑が初めて我が家に来るというときに

 

最低限のお茶の支度と

お昼の出前の準備だけして

後は事務机の前で電話の番をしながら

ノートに落書きでもいいから

文字を書いていて

 

僕が何度も電話をするから

取引先の人に言うように返事をしてと

 

その頃家の二階には引っ越しに間に合わず

アパートの見つからない従業員が数名いて

 

私は昼間の電話番、そして子育てもして

彼らの朝食と夕食も作っていたので

 

夫はそれ以上私に負担をかけまいと

してくれていたのだと思う

 

子育てに関しては

 

夫は、夜泣きをする息子と

二人でドライブに行き、その間休ませてくれ

 

オムツ交換以外は完璧な父親だった

 

それでも私に負担をかけているという気持ちがあることが

嬉しかった

 

そして忙しなくものを書いている私を見た

舅と姑はその日のうちに独身の義兄の家に

泊まりに行った

 

それ以降、一度も我が家に来ることは無く

 

こちらから行けば歓待してくれて

手作りの漬物や野菜や果物などは毎月のように

送ってくれて

 

いろいろなことを

つらつらと思い起こしていると、

 

例えば舅姑問題、嫁同士の問題は

時代とかそういうものでは無く

その家の人々が培ってきた

学びと習いの集結なのだろう

 

それは仕事場においても言えることで

 

先の者に学び

そして習うということで

その次の人にもしっかりとした絆を

作り上げることが出来る

 

つらつらと思い起こすに、

姑は六男一女の母でありながら

全ての子どもに対して

同じ距離感を持っていた

 

そのことだけは

同居してくれている娘と、その彼の安否を

つい、先に思い浮かべる私自身は

 

全く持って未熟だと思う

 

そう言えば、人間ある程度年齢を重ねると

キョウイクとキョウヨウが大切だそう、と

以前ブログに書いたが

 

出かける度に何かしらの菌を連れ帰る

免疫力低下の年頃には

 

キョウイクとキョウヨウにはマスクは不可避だと思う

 

 


 

 2003/08/22 (Fri)横濱俳句倶楽部ほのぼのとから  

 

 

小津安二郎の映画の題名ではない。

 

今日、引き売りの魚屋が持ってきたのだ。

 

ころっとして、しっかり脂の乗った美味しそうな秋刀魚。

 

当然、今夜のおかずは、秋刀魚の塩焼き。

 

しかし、今の我が家では、秋刀魚をそのまま火で炙って焼くことは出来ない。

 

もちろん、七輪を出して、外で焼けばよいのだが、それほどの時間も無い。

 

結局、フライパンを駆使して、炒めるように焼き上げた秋刀魚はそれでも美味しかった。

 

秋刀魚といえば、目黒。

 

これは、落語のお話。

 

このお話の元になったのは、今の、目黒区中目黒二丁目と三田二丁目の間にある「茶屋坂」という坂道なのだそうだ。

 

その昔、江戸から目黒に遠乗りに来た殿様(その名も松平出羽守)が、お腹が空いたので、近くの家の者に食べ物を所望すると、丁度焼きたての秋刀魚があったので、家人は慌ててそれを献上する。

 

空きっ腹に焼きたての秋刀魚が不味いはずも無く。

 

甚く喜んだ殿様は、お城に帰り、再び秋刀魚が食べたくなり、台所番に所望する。

 

そこに出てきたのは、ピンセットで一本ずつ骨を抜いたような、原形を留めない秋刀魚。

 

これはどこの秋刀魚であるか。

 

台所番は褒められたと思い、はは、日本橋の魚河岸より取り寄せましたと答える。

 

すると殿様は、秋刀魚は目黒に限る、と言われるのだ。

 

このお話を元に、ここ数年、目黒の秋刀魚マツリという熱い戦いが繰り広げられているそうだ。

 

片や、品川区にある目黒駅前商店街。

 

そして、片や、目黒区立田道公園。

 

互いに、それぞれの漁港を巻き込んでの大戦争だが、私は、諸般の事情で、前記の方へ、参加する。

 

無料で秋の味覚を味わえるのだから、一般の客としては、どちらもありがたいお話である。

 

秋刀魚は江戸時代から、狭真魚(さまな)、祭魚(さいら)として、庶民に親しまれてきた魚なのだそうだ。

 

俳句では、秋刀魚、さいら、の他に、秋刀魚網、として、秋の季語である。

 

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秋刀魚の不漁が始まったのは

この秋刀魚祭りの何度めかの頃だった

 

当時秋刀魚といえば

腹がぷっくりとして、背中は反って

まさに日本刀に相応しい体型をしていたのに

 

最近見かける秋刀魚は

その昔釣り船屋さんの桟橋で

ごく稀に釣れた針魚(さより)みたいにスマートで

健康な生活でも送っているのか

脂もあまり無く

それでいて高い

 

そんなことを書いていたら

今年は奇跡の豊漁

それも大層ふくよかな秋刀魚 と

 

それを見て、私はいいことを考えた

 

いいことを考えたというと

娘から

どうせ禄なことでは無いと言われるが

 

災害の時のために隠し持っている

七輪と炭で、こんがりと焼いた秋刀魚に

大根おろしと醤油をかけて

 

そこでふと、今の時代、庭でBBQどころか

家の中でさえ魚を焼いた煙は

近隣の迷惑防止条例に抵触する時代

 

正しく、ろくなことでは無い

 

結局電磁調理器で焦げない秋刀魚を食べるか

 

そんなことを考えていたら

振る雪に風流に手火鉢で暖を取りながら

振る雪や明治は遠くなりにけりと詠んだ

中村草田男を思い出した

 

焦げる秋刀魚や昭和も遠く

なりにけり哉