数珠玉 | ミナミのブログ

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のんびり、、まったり

く■ 2003/08/17 (Sun)横濱俳句倶楽部ほのものとから  

 

 

架け替える前の、山下橋を渡ると

道路の真ん中に、セーフティーゾーンがあった。

 

その先には、マッカーサーが滞在した

ニューグランドホテルがあり

山下公園の正門には、銃を持った若いMPが立っていた。

 

左側の

今、人形の家のある辺りがバスプールになるずっと前に

そのセーフティゾーンは消えてしまった。

 

もしかすると、橋の手前からの、治外法権の場所として

閉鎖されていた道の名残だったのかもしれない。

 

 

そこには、雑草と共に、数珠玉が生えていた。

 

広くも無い場所ではあるが、たくさんの雑草の中に

一本か、二本、探すことは容易ではなかった。

 

秋になると、その、麦茶の、はと麦に似た実を糸で繋ぎ

ブレスレッドや、ネックレスにして遊んだ。

 

その後、山下公園の中に、観光バスのプールが出来た。

 

プールと言えば聞こえがいいが、真っ黒い土の

ひんやりした空き地だ。

 

空き地の手前には、何本かの椎の木があった。

 

大きな椎の木の実を取るには、木に登らなければならない。

 

私は、何度も挑戦して、その木の実を採って

家に帰って、炒ってもらって食べるのが好きだった。

 

艶々と光る数珠玉のブレスレッドは

私の手首にしっくりとして、まるで宝石のように思えた。

 

椎の実は、これほど美味しい食べ物は無いとも思えた。

 

しかし、後年

数珠玉がしっかり生えた河原の巡りあった時

こんなにも乾いた草の実だったのかと

驚いたことがあった。

 

同様に、何処かの郷土の物産として売られている

椎の実を今食べても、殊更美味しいとも思えない。

 

それは多分、私の中に

発見や感動、というスパイスが無いからなのだと思う。

 

新しい発見、新しい驚き、幾つになっても

 

それは素晴しいものだと思う。

 

俳句では、数珠玉は、ずずこ、ずずだま、唐麦、として、秋の季語になる。

 

椎の実もまた秋の季語であるが、尖っている、すだ椎、と、丸みのある、つぶら椎とがある。

 

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大阪万博会場の最寄りの鉄道のトラブルで

多くの人が一晩会場で過ごすことになったという

 

ネット上のそのニュースの中に

現地でその時間を楽しんだという投稿が幾つもされていた

 

見知らぬ人同士が一緒に歌ったり、踊ったり

 

その中に、仮眠をするために人工芝を利用したとかで

その人工芝の手前に

規則正しく靴が並べられているものが有った

 

たぶん、老若男女、多くの人が足止めされて

疲れ果ててその人工芝に休息を求めたと思うが

 

日頃は靴を履いて歩くその上で横になるという

それだけの理由で靴を脱いで、そしてそれも

規則正しく並べていく

 

実際は猛暑ともいわれる時期に

遊び疲れた状態で帰宅できないということは

相当なストレスが溜まったことだろうと思うが

 

そういう光景をネットにあげたコメントには

人生初のイレギュラーを楽しんだというような

感想が寄せられていて

 

成程な、人生の最大の楽しみは

天変地異という災害を伴わない中で

不便さを共有出来るということなのだろうと

 

その不便さの中でいかにしてその苦痛から自身を解放するか

その工夫する能力が喜びになる

 

つまるところ、人は工夫することで脳を使い

その脳の動きで喜びを感じるのだろうと

 

その工夫を誰かと共有出来る

 

数珠玉が楽しくなくなったのは、それを造って

感嘆してくれる存在が無かったからなのだと

 

椎の実も、美味しそうだねと受け取ってくれる

人の手が無かったから

 

嘗て、成功を収めた経営者の方々が

一様に口にしていたのは

誰かの為になることが人生最大の喜びという言葉だった

 

もしかすると、それは、成功者というよりも

 

人と人との関わりの中で生きている故の

誰でも持ち合わせている思いなのかもしれない

 

多くの国の、たくさんの人と共有した一夜

 

大変な思いをされたことだと思うし

体調を崩された方もおられたそうだが

 

それでも同じ思いを共有した人々が

少しだけ羨ましくもある