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ミナミのブログ

のんびり、、まったり

2003/08/16 (Sat)横濱俳句倶楽部ほのぼのとから  

 

さだまさしの歌に、精霊流し、というのがあるが

 

これは、長崎に代表され、そして

三浦半島などで見られる

とても華やかな精霊舟を仕立てての、送り火の行事だ。

 

精霊流しについて

 

長崎と頻繁に行き来をしていた中国の船で亡くなった人を

船で燃やす中国の儀式

「彩舟流し」という風習を長崎で行い

それが精霊流しになったという説もあるそうだ。

 

実際長崎では

各家庭から出来上がってくる精霊舟を

爆竹でお祓いするのだそうだ。

 

燈篭流しの方は、川や海に、蝋燭を点した燈篭を流し

祖先の霊を弔うもので

日本各地、いろいろなところで見られるが

どのようにして、と、探していると

 

ねぷた、のところにに

そのことに触れているものがあった。

 

「暑さも厳しい季節にみそぎなどの方法で

睡魔を追い払おうとしたのがことの起こりで

東北各地では、古くから旧暦の七夕に

【眠り流し(燈篭流し】が行われていたようです」

 

と書かれている。

 

ねぷた、とはつまり

眠い、という方言で

ねぷた祭りは、七夕流しの変形なのだそうだ。

 

その七夕流しと、送り火とが

何処かで一緒になって

お盆の燈篭流しと変って行ったのだろうか。

 

今日は、こちらの、燈篭流しが

戸塚駅脇の柏尾川で行われる筈なのだが

雨の状況によっては、明日に順延されるという。

 

まあ、浮世の勝手で一日くらいお帰りが遅れても

仏さまは笑って許してくれるでしょう。

 

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昔、お盆が過ぎた頃

掘割を下って横浜の湾にも

どこかの街からの灯篭が流れてきていた

 

思えば全ての川はいつか海に出る訳で

川で流す灯篭も、精霊流しと同様に

人々の魂は海に帰っていくということなのだろう

 

 魂というものがあるなら

 

昨日

戦争の実録映画をテレビで見た後に亡くなられた方の

話を書いたが

 

人は自分では抗うことの出来ない

強いストレスを感じ続けるとPTSDを発症する

というのは

今の時代当たり前の話になっている

 

しかし

精神論を説かれた時代に生きた人には

それは単なる弱者、そして単なる狂気として

見做されていたようだ

 

当時の児童小説家が

戦争による後遺症の様子を多く描き表している

 

戦後しばらく公職追放令で仕事を無くし

恩給も支給されず

漸く引き上げて来た父親は廃人のようになり

昼間からお酒におぼれて、、

 

戦争が終わって十年以上も過ぎた頃の

私の同級生の、特に男子の父親は

 

自分を叱る時に

突然目つきが変わり

殴られて地に這った自分の身体を足で、、と

 

親の年を越えた今も

その父親を憎んでいる、とも話している

 

そして、私の母は横浜大空襲のあった翌日

いつも通りに制服を着て女学校に行ったと

話していたが

 

その時目の前の川から幾つもの遺体が

引き揚げられてリヤカーに積まれて行くのを

何の感情もなく見ていたと言っていた

 

思えは母が簡単に幼い娘たちを置き去りにしたり

また一番上の姉を完全に虐待と思える折檻をしたり

まだ幼い私に依存していたのも

小さな出来事でパニックになったのも

 

母と伯母が

私が母親であったならと言ったのも

伯母が従姉を溺愛しながら突き放していたのも


戦争による後遺症でのACだったのだろうと

今なら思える

 

戦争によるトラウマが話題になったのは

1980年代の

ランボーや

タクシードライバーという映画であるけれど

それはベトナム戦争に対するもので

 

第二次世界大戦末期に

特攻隊症候群いうものが有ったという話の盛り込まれたアメリカ映画も存在している

 

自分達の艦隊に

真っすぐに飛び込んでくる単身の飛行機

操縦士は真っ直ぐと自分達を見ている

その様子を見て精神を病んだ人が多くいう

 

日本の戦争に関する映画やドラマには、視聴者の判断に任せるものはあってもPTSDを明確に伝えるものは無い


日本の多くのメディアも戦争によるPTSDを語ることは無く

 

戦争によっていかに大変な思いをしたか

如何に頑張ってって復興をさせて行ったか

 

そんな話ばかり

 

そして精神の病はつい最近まで

まるで当人の遺伝子的なものとして

判断されてきていて

故に、自身の暴力的な行動に対する

ブレーキが効かないのは

自身の精神の弱さと

 

魂というものが有るとしたら

 

抗えない選択で戦地に散って

未だにその骨が故国に還ることの無い

人達の魂はどんな風に思っているのだろうか

 

命を張って、精神を削って

創り上げてくれた平和を大切に生きないと

魂のPTSDが怒りをぶつけてくるかもしれない

 

■ 2002/05/15 (Wed)YAHOOブログから  

 

1932年、今から70年ほど前の今日(5月15日)、

「国家改造」を目指す海軍、陸軍の青年将校らが

犬養毅首相らを襲った。

「話せばわかる」という時の首相の言葉は

「問答無用」によって打ち消され

首相は将校たちによって撃ち殺された。

所謂、5・15事件。

その4年後の2・26事件を経て

日本は戦争の時代へと突き進んでいく。

そんな経緯のある同じ日

1932年の今日(5月15日)

女性専用おしゃれ煙草が発売されたそうだ。

 

その名は「麗」

「Frailty, the name is woman

フレイル、名前は女性

 

彼のシェークスピアがハムレットに云わしめた台詞。

まあ、母親が王である夫の死を悼みつつも

ひと月もしないうちに

王の弟クローディアスの妻になったことへの

皮肉が過分に込められているように思えなくも無いけれど。

「女は弱し、されど母は強し」

とおっしゃるのはビクトル・ユーゴー。

今日(5月15日)はまた、ストッキングの日でもある。

そうそう

今日(5月15日)は市川房枝さんのお生まれになった日でもあったっけ。

戦後は女と靴下が強くなった

なんて言葉があったなあ。

まあ、母は強くなければ。
何しろ「原始女は太陽であった」のだから。

そして今日(5月15日)は、沖縄県が出来た日。

今から丁度30年前の今日、午前零時。


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今日は、1945年に1939年9月から

1945年8月までの

丸6年に及ぶ戦争が終わった日

 

この日学校では

それまでの

現人神という天皇陛下を擁立した

軍事国家教育を悪として

教科書に載るその関連の文章を全て墨で塗りつぶし

昨日と今日で、常識というものが真逆になったそうだ

 

昨日まで正しかったことが今日は過ちになる

 

もっと厳しく、昨日まではそれが正義であったものが

その日を境に罪になる

そんな感じだったと母が話していた

 

最近のいろいろなルールの変化を見ていると

なんとなく戦後のその

教育の有り方と似ているのではと思うことがある

 

特にテレビの世界のコンプライアンス

 

コンプライアンスというその一言で

一人のタレントが業界から抹消される

 

そして、実際はその業界を支えているはずの

般視聴者にはその内容は一切伝えられず

 

番組を下ろされたり

所属先から排除されるのだから

たぶん

それに見合う違反をしたのだろうと思う

 

冷静に考えると

 

今の状態は

 

仲介の弁護士を立ち会わせた上で

当人とこのような話し合いをした結果

ということもなく

 

一人の人の罪を

企業の代表が断罪しているという形になっていて

それを誰も不思議に思わなくなっている

 

詳らかにしないことが当人のため

 

その奇妙な親切心が

いつか一般人にまで波及していきそうで

嫌な感じがするのは

今日が終戦記念日だからという訳でも無いと思う

 

 

実際の戦争というものは

実際に戦争を経験した人にとっては

 

戦争を経験し、他国に出兵し

相手の命を奪うべく戦うという

経験をした人の心の中の重責は

経験したことの無い人間には決して理解出来ない

まるで灰色の大きな幣のような怖さがある

 

それを知ったのは、私が中学生の頃

 

当時、テレビでは、不戦の誓いのためなのか

8月になると、日本軍の戦争時の映画を放映して

 

その日もテレビで零戦の映画が

報じられていたそうで

 

それを昼間テレビで観ていた

数軒先のおじさんが

夜、突然大声をあげて

そしてそのまま絶命したと

 

母が

その大声で驚いた隣人に聞いて帰って来た

 

死因は脳溢血ということだった

 

よっぽど戦争で怖い思いをしたのね

母が小さな声で話していた

 

戦争が終わり

既に10年以上経過しているのに

戦争に怯えるという

 

テレビに向かって何度も怒号を浴びせていたとか

 

そのおじさんは密葬として誰にも見送られず

荼毘に付したとして

家の前に祭壇が設えられることも

近所の人が焼香に行くこともなく

 

遺骨を抱えて

足早に家に入っていくおばさんと

その家の子ども達

 

戦争映画に怯えて死んだおじさんを恥だと思っている

というおばさんの言葉

 

私は

戦争は誰のことも幸せにしない

それだけを理解した

 

今日、80年目の敗戦の日

 

戦争に行き、戦争を経験した多くの人にとって

今日という日は

ただ穏やかなⅠ日であって欲しいと思う

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■ 2002/05/27 (Mon) YAHOOブログから

 

 

今日、早朝雷が鳴った。
それが合図かでも有るように篠突くような雨が降り出した。

子供の頃、遠足や運動会の朝に、花火が上がった。

今のように生活騒音の無い時代には、かなり遠方まで、その音は届いた。

お昼に食べるお弁当は茣蓙と一緒に父と母が持ってくる。

そしてお昼は、まるでお祭りのような賑やかさで、校庭いっぱいに、宴会の席が出来る。

ヒトは何であれ、ヒトが集まることは嬉しいものだ。

あと数日で、サッカーのワールドカップが始まる。

テレビも新聞も、挙って開幕を待ち切れないという様子を連日伝えている。

サッカーのワールドカップの開催地が日本に決まった瞬間は、やはり私も嬉しかった。

そして、四年。多くのことに感激し、期待もした。また、随分長かったと思うが、過ぎてみると、もう、という感じだ。

そういえば、オリンピックも四年毎。
次回の開催国のヒトは、きっと心弾ませていることだろう。

今日(5月27日)は1959年に、日本の東京がIOCによってオリンピック開催の地に決まった日。

あのオリンピックの時のように

世界のヒトとともに楽しみたいと思う。

 

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先日、日本のサッカーの先駆者ともされる

釜本さんが亡くなられたというニュースが

スマホ画面に流れた

 

サッカーと言えば、私が幼い頃

暮らしていた街にはYC&ACという

古くからサッカーやテニスを楽しむ

広場があり、当時はアメリカ人の

私が高校時代になると日本の若者が

サッカーを楽しんでいた

 

釜本邦茂さん

この方の名前を知ったのは

中学の同級生の家に有った冊子からだった

 

その家のお父さんは

どこかの会社の部長さんで

 

その当時の部長さんは

 

 

お抱え運転手とお手伝いさんがいる

広い庭を板塀で囲む家に住んでいた

 

今なら上級市民とでも言われるのだろうか

その当時は三畳一間に親子三人

中には四人暮らしをしている家庭が有っても

 

また、親の都合で施設から通う子がいても

 

同級生の間で

貧富の差というものを感じることは無かった

 

たぶん、当時は、大人と子どもの間に

大きな境界線が有ったのだと思う

 

世の中というものはその時代時代に依って

その時代の人の生き方で変化していく

 

昨日のブログに関してコメントを頂いた

 

昨今の猛暑に着いて、どのように対処するか

 

横浜市では、戦後、社会党の飛鳥田さんが

長い間市長をしていて

横浜の形をいろいろと変えていった

 

みなとみらい地区の展望も

赤レンガ倉庫の再利用も

この市長さんが発案したものだと

記憶している

 

ただ一つ、赤レンガから山下公園

そしてその先までの電車を走らせるという

構想は、先立って造られた高架線のお陰で

公園前の建物からの眺望を

10年以上に渡り塞いでしまい

 

最後には有志により、一億のお金をかけて

撤去することになった

 

物事の良しあしは共兎も角として

そんなふうに改革的な市長さんゆえに

一般市民からの提言を

「市長への手紙」として受け取るという

素晴らしいシステムを残してくれた

 

当時は実際に市長さんに届くという

そんな形でお返事も頂いた

 

私自身も石川町駅周辺の路上駐車や

街灯など、気が付くと気軽に手紙を書いて

石川町の駅周辺が駐車禁止になった時は

自分の手柄のような気分になった

 

昨日の、猛暑日の対処

個人一人が頑張ったところで

猛暑への対策が出来るものでは無い

私も確かにそうだと思う

 

暑さ対策

それで思い出したが

家の近くのスーパーには

双方に出入り口のある

真っすぐな通路が有って

昨今のように暑い日や、また寒い日

風の強い日など、近隣の保育園の子が

一列に並んでその通路を通過している

 

そして昼近くになると

どこかのディサービスの利用者と

付き添いの人がフードコートの一角で

談笑して過ごしている

 

いずれも平日だけのことのようで

日曜日に見かけることは無い

 

そのお店にしても、近隣の人達や

その子ども達なので、顧客にもなる

ということなのか、注意を受けている

場面を見たことは無い

 

たったこれだけのことなのだが

たった一時間でも、どちらの施設も

冷暖房機器を使わなければ

空気汚染の軽減になりそうに思う

 

そして、韓国のテレビの

バラエティー番組で、どこなの離島で

俳優たちが畑や海で獲れたものを使い

自炊する番組の中で

大きな木の下に縁台を造り

その縁台で

島の人達が涼んでいる様子が映り

近くの公園にこんな木が有ったら

木陰で涼むことが出来る上に

近隣の人と顔見知りになれて

何かあった時に助け合えるのでは

なんて思った

 

コメントをくださった人には

私は思いついたことを市長への手紙に書くと

お返事したが

 

具体的なことは書いていなかった

 

結果的に言えば、やはり一人だけでは

どれだけ頑張っても

温暖化を止めることは難しいことだと

分かった

 

しかし、声一つでもあげて行けば

その声が大きく成長して

生き方の形を変えるきっかけに

なるかもしれない

 

蒔かぬ種は生えぬ、ということだろう

 

ところで、他の市町村では

横浜市のように

市長への手紙という形で個人からの意見を

受け入れるシステムは有るのだろうか

 

最近はlineというものもあるのだから

以前より一層意見を聞きやすく思うのだが