ミナミのブログ -11ページ目

ミナミのブログ

のんびり、、まったり

2003/08/13 (Wed) 横濱俳句倶楽部ほのものとから 

 

 

桂枝雀の小話に、母子の会話、というのがある。

 

母子が語っている。

お母ちゃん、お父ちゃん元気かなあ。早く会いたいなあ。

 

坊や、そんなことを言ってはダメでしょ

お父さんには

もっと長生きをしてもらわなければならないんだから。

 

暫く考えさせられて

そして可笑しくて

やがてなんともいえない寂しさを感じさせる。

 

お盆とは

非常な苦しみという

梵語の盂蘭盆会から来ているそうだ。

 

祖先との魂を慰めるために

迎え火や送り火を焚いて

冥界との道筋を照らすという行事は

その盂蘭盆会と

日本古来の信仰が結びついた形なのだとか。

 

京都の大文字焼きも、徳島の阿波踊りも

そんな中から、生まれてきた行事なのだとか。

 

ある本によると

お盆の頃、盆踊りを踊ることもまた

亡くなった人に似た人を見つけるための踊りであったそうだ。

 

その為に、夜、編み笠を被って踊ったのだそうだ。

 

確かに、風の盆も、阿波踊りも、そして

宮城県の白石踊りも、編み笠を被っているし

島根県の津和野踊り、秋田の西馬音内盆踊りで

、編み笠のほかに、黒い布で顔を隠してもいる。

 

お盆は、俳句の季語では、盂蘭盆会、盂蘭盆、新盆、魂祭(たままつり)、精霊祭、盆棚、魂棚、霊棚、盆供、瓜の牛、瓜の馬、茄子の牛、茄子の馬、棚経などと、秋の季語になる。

 

博多山笠も

また、崇福寺(臨済宗)の施餓鬼の霊棚に由来するのだとか。

 

施餓鬼は、無縁仏や、餓鬼道に落ちた魂を弔うことで

自分自身の魂も救われるということなのだそうだ。

 

因みに

仏さまは、胡瓜の馬で来て

茄子の牛で帰るので

胡瓜は家のほうへ、茄子は反対の向けるのだそうだ。

 

今は乗り物によって

人は何処にでも移動するが

列車に乗って何日もかかった時代は

郷土の顔というものがハッキリしていたのだろう。

 

啄木は 

 

ふるさとの訛りなつかし

停車場の人込みの中に そを聞きに行く 

 

と詠い、

 

陶淵明は

帰去来兮、田園将蕪、胡不帰 と詠う。

 

乗車率200%の混雑をおしても、帰郷する人たち。

 

ふるさとの魅力に太刀打ちできるものは

まだまだ無さそうだ。

 

永遠にないかもしれない。

 

鹿児島で生まれて

横浜で育って、横浜に嫁いでいる人間は何処へ帰ろうか。

 

===========================

立秋が過ぎたのに、毎日暑いです。

 

猛暑です。

 

猛暑といえば

元鹿児島地方気象台長の倉嶋厚という方が書かれた、

【お天気博士の四季暦】によると、

 

旭川 昭和3年8月19日 35.9度

 

帯広 大正13年7月12日 37.8度

 

山形 昭和8年7月8日 40.8度

 

仙台 昭和4年8月8日 36.8度

 

東京 昭和28年8月21日 38.4度

 

長野 昭和17年8月15日 38.6度

 

名古屋  昭和17年8月2日 39.9度

 

大阪   昭和24年8月3日 38.2度

 

という記録があるそうです。

 

 

ビルなんて建ってなくて

リサイクルなんて言葉も無くって、不燃ゴミなんてものも

 

無いような時代にも、猛暑日ってあったんですね。

 

そういえば

鎌倉時代の歌人、吉田兼好は【徒然草】の中に、

 

家の作りやうは夏をむねとすべし

冬はいかなる所にも住まる。

 

暑き日、わろき住居は堪え難き事なり。

 

と記しています。

 

しみじみとそう思う今日この頃です。

 

 

下の文章は2009年のもの

 

この文章を読んで

当時は熱中症などというものは

無かったのだろうかと思って調べると

 

年間200人ほどの人が

熱射病で亡くなっているという記事を見つけた

 

昭和元年から今年で100年だそうだが

 

未だに熱中症で亡くなる人がおられるということは

 

猛暑という天候に対して、当時から比べると

 

今のような超現代社会においても

根本的な対策が取られていない

ということになるのだろうか

 

吉田兼好の時代さえ

家を造るのは夏を良しと教えているのに

 

などと思ってしまう

 

 

 

2009-08-08 16:47横濱俳句倶楽部ほのぼのとから

 

 

暑中見舞いを書くイトマも無く、もう立秋ですね。

心なしか、朝晩吹く風の中に

ひんやりとした空気が漂っているように思えます。


そんな頼りない秋風の中

人間を辞めて出奔した女優さん

何処にいっちゃったんでしょうね。


横浜に育った私なんぞ

大量の下着や服と聞いて、

ふと、もしかして、お船に乗って遠い国に?

なんて思ったりします。


横浜の港町あたりの路線バスに乗ると

時折、薬物中毒の後遺症らしき人を見ることがあるので

完全に人間を辞める前に逮捕状が出たのは、

彼女にとって、本当の意味で救いの神だと思うので

早く自首して欲しいですね。


外国に行っちゃった場合は

そこで時効の期限は停止されて

その代わりに
国際警察刑事機構に委ねられて

生涯犯罪者として怯えて暮らすことになるんでしょうから。


子どもの頃、元東大出身の

某有名新聞社の記者だったという人が、

戦地に記者として赴いた際に罹った

マラリアの恐怖から逃れるためにヒロポン中毒になって
廃人になり、通っていた病院の近くの溝に顔を漬けたまま

亡くなったと聞きました。

叔父の船舶会社で、英語と中国語の翻訳をしていた人でした。

薬にさえ手を染めなければ

どれだけ輝かしい未来があったことでしょう。

亡くなったときは、40代半ばだったそうですけど

目が見えなくなり、呂律も回らなくなり、

足も不自由になり、当時の私には

70代のお年寄のように見えました。


薬物に手を出すというのは

自分自身を心身ともに廃人にするということです。

 

そういう意味での

社会貢献は果たされたことになるのでしょうか。

過去、麻薬・覚せい剤乱用防止センターの

麻薬撲滅キャンペーンに、ゲストとして参加していた
彼女にとっては皮肉な結果ではありましょうけど。


ところで、港で働く叔父の一人から

こんな注意を受けたことがありました。

薬について、錠剤でも、カプセルでも、粉薬でも

一緒に暮らす親兄弟以外の人から
貰ったものは、絶対に飲んではいけないと。

例えば、風邪を引いてるんだけど

頭痛がするんだけど
という理由があっても。

その理由を知ったのは、なんと

閑静な住宅街と称される町に住んでいたときのことです。

息子の幼稚園の同級生のお母さんから

栄養剤といわれて、白い錠剤をよこされたのですが、

叔父の言葉を思い出した私は、断りました。

それから数年後、そのお母さんと

同じ町内のご婦人方数人が、主婦売春で捕まったのです。

何故売春をしたか。

薬が欲しかったから。

その薬の売買の仲介をしていたのは

隣町の店主。


事実を知って、私は、ムンクの叫びのように驚きました。

あの薬をもし飲んでいたら

私はいったいどうなっていたかを

示したともいえるわけですから


主婦仲間の方達は、いつの間にか

家族ともども転居してしまいました。

今思い出しても心が凍るような話

 

===================================

私のパソコンの老化なのか、容量不足なのか

ブログを書き溜めていたワードが開けなくなった

 

手許に残してある古いパソコンを

開けば保存してあるのだけど

押し入れの奥の、どこかから出してくるのも

探すのも、

この暑さの中では、かなり面倒でもあるので

 

秋になり、涼しくなるまで

明日からは新しい今日の日を探してみようと思う

 

居なくなられた女優さんは、星の金貨の人

 

余りにも清楚なイメージが有ったので

ニュースを聞いたときは驚いたが

 

私自身が幼い頃から知っている方々が

芸能界で生きる中で

薬に手を染めたことが有って

 

その理由を聞くと、共通した言葉に

恐怖心というものが有ったのを思い出す

 

その恐怖は、ある種の同調圧力

だから、宗教家、薬か、お酒に走る

 

普通の生活をしている人からすれば言い訳に過ぎない

 

しかし、ヒットが出ない、役を貰えない

番組に呼んで貰えない

 

その恐怖は

華やかな世界を知った後では

想像を絶する恐怖になると

 

そんな時に潜みよって来る甘い言葉と薬物

 

一度その輪に加わると

再び離れた時の恐怖を思い

抜けることが出来なくなる

 

要するに、キノコ盗った山は忘れない

ということなのだろう

 

昔、港のおじさん達がビルを建てて

そのビルの名をポン友と名付けたら

浜の偉い人に強か叱られて

 

私の名前を付けるというので

それは嫌だと言ったら、違う女性の名になり

そのビルの前を通るたびに、断ってよかったと思っている

 

そんな街柄なのか、この町内には

精神科医がサポートする介護施設があるとか

 

思えば認知症は脳を病むわけで

ある意味精神疾患でもあるのだから

正常な人の想像を超えた行動もとる訳で

 

以前、夫の施設から夫が通う診療所への同行を求められて

 

その時に、夫と共に来た、もう一人の利用者さんを残して

施設の人が帰ってしまって

 

一時間ほど私が看ることになったのだが

 

常に大きな声を発し

オムツに手を差し込んでを外したがり

 

その一時間、ずっと声をかけて

注意喚起していたことが有った

 

施設の人は毎日この状態に対峙しているのだと思うと

ため息しか出なかった

 

先日も書いたが

 

頑是ない乳幼児であれば

その子にとって危険なことを

排除するために

時にはハーネスとか

爪で顔を搔かないような手袋をしたり出来るが

 

認知症の人に対して同じことをすると虐待になると

 

認知症は元々精神科の診察により定められるもの

 

そのある種精神疾患のある人を

正常の高齢者と同等に看護するということ自体

間違っているように思う

 

そしてまた

薬物で有れば自分の意志で止めることは可能だが

 

重度を増した認知症の人の動きは

自分自身で制御出来るものでなく

 

高齢化社会、人口の何%が認知症を発症する

というのであれば

その対処についても大きく改めて行って欲しいと思う

 

いつか自分が認知症になり

正常なときの自己の思いとは関係なく

誰かを傷つけたりしたらと思うと

 

ただ只管心が重くなる

 

 

 

 

 

 

 

2003/08/11 (Mon)横濱俳句倶楽部ほのぼのとから


今日は、根岸の競馬場で

競馬が行われていた頃の様子を背景にした

かんかん虫は唄う

という、小説を書いた

吉川英治の生まれた日なのだそうだ。

彼が生涯弟子という者を持たない

と決めていたそうだが

晩年になって

唯一杉本苑子を、弟子として認めたという。

その杉本苑子の作品に

萩の花をモチーフにした小説がある。

その題名も、長勝院の萩という

正室築山殿と子信康

そして、信康に嫁いだ織田家の娘徳姫

側室、長勝院お万、それぞれの人間がの織り成す

人生模様の中で

少年から、青年へと成長していく、徳川家康を書いた小説。

長勝院の萩とは、側室お万の住む家の垣に咲く萩のことだ。

最近は、家の並びも変化して

あまり見られなくなったが

学生時代に、秋が深くなった頃、鎌倉に行くと

家々の石塀から、萩の花が溢れ咲いて

その花弁を惜しげもなく、撒き散らしていた。

萩の花の名前の由来は

葉を落とした古い木から

再び芽を出すことに由来する

「生芽(はえぎ)」の転訛と

小さな葉が歯の形に似ているので

「歯木(はぎ)」であろう、と、いう説があるそうだ。

俳句の季語では

山萩、鹿鳴草、鹿妻草、玉見草、庭見草、初見草、古枝草、

もとあらの萩、初萩、萩の花、野萩、小萩、真萩、萩散る

こぼれ萩、みだれ萩、萩原、萩の戸、萩の宿、萩の主、萩見

などがあり、秋の季語としている。

==================================

8月11日

 

明日からお盆休みに入る日

 

会社も現場も、長い休暇に入る

 

子ども達二人を連れて夫の郷里に行き

自然と戯れるための準備も終わり

 

当時営業を始めた宅急便であらかたの荷物も送り

明日の、従業員たちの慰労のための準備に入る

 

その為にここひと月ほど、決算のための資料を

仕事を終え、夕食を終え、ひと段落した辺りから

夜なべして行ってきた

 

明日、午前中には経理士さんが来る

 

全ては準備万端

 

その頃夫は、その経理士さんと

彼に子どもが出来たことの祝杯を挙げていたそうだ

 

夕方、その彼から一本の電話が入った

 

明日行けなくなったから

 

簡単に言う彼に怒りが湧いて来た

 

自分で予定を決めたのでしょう

 

私は怒りの言葉をそのまま彼にぶつけた

 

姉の店で初めて会って

夫の会社が株式に張ることを手伝ってくれて

 

10年に近い付き合いで

 

だからそんな甘えもあったのかもしれない

 

しかし、彼とはそれ以降2度と会うことは無かった

 

日航の123便で大阪に向かったと知ったのは

翌、12日の夕方

 

同僚の代わりに急遽向かったと言われた

 

奇遇とでもいうのだろうか、彼が奥さんと知り合った

宿泊型の自動車学校のすぐ近く

 

自動車学校に行って、帰って来た時

彼女が出来たことを手放しで喜んで

 

当時マンションだった事務所の隣の

自動車学校が看板に

結婚相談可と書き足していたのを見つけて

 

その看板を見る為だけに

路線バスの一駅を、乗ったり下りたり

 

3回も付き合わされて

 

呆れた、というと、今日は何を言っても許すと

 

そんなことを思い出しながら、ふと

 

ある時突然、11月になったら、と

11月になったら

うちの奥さんをゴルフに連れて行ってと

 

自分で連れて行けばというと

自分は出来ないという

 

訃報の連絡にその話を思い出しながら

 

もしかすると

人の運命はかなり前から決まっているのかも知れない

 

そんなふうに思えた

 

しかしそれは結果論に過ぎず

 

それ以降、私は約束ということに拘らずにいる

 

その日から明日で40年の歳月が流れて

 

彼がバスに乗って、看板於見るたびに

歓声を上げていた日のことが

実際に遠い日なのだが

 

いつもは

ビジネスライクで行くからな、と

容赦なく、厳しく憎たらしく

笑うことなどない人が

 

照れながら喜んでいた

その可愛らしい顔だけは

はっきりと思いだせる

 

もしも彼の世に行って会うことが有れば

あの時は言葉に任せて怒りまくって

ごめんなさいねと謝ろうと思う

 

本心は、もっと怒って

行くのを辞めさせるくらい怒って

自分で約束したのだからと

責任を問うて怒れば良かったと思っている

 

 

萩に降り芒にそそぐ雨とこそ(久保田万太郎)