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ミナミのブログ

のんびり、、まったり

2003/08/10 (Sun) YAHOOブログから


1920(大正9)年、の今日

日本初の近代的な道路整備計画が決定した、

ということで、今日は道の日なのだそうだ。

道で思い出すのは、北原白秋の、この道。

そして、高村光太郎の、道程。

この道はいつか来た道

ああそうだよ アカシヤの花が咲いてる。(この道)

僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る。(道程)

北原白秋は、人妻と道ならぬ恋をして

当時の姦通罪を受け、

投獄されるが

彼の詩の内容は、この事件の前後で一変する。

事件の後の、彼の歌は、彼の生家のあった

柳川の風景を詠われているものが多いという。

それは、全て過去の想い出のものなのだろう。

そして、高村光太郎は

この道程を作り上げたときに

父光雲を目指し、越えようと、芸術の世界に挑んでいる。

父よ 僕を 一人立ちさせた 広大な父よ
僕から目を離さないで 守る事をせよ
常に 父の気魄を僕に充たせよ

こう語る父は、光太郎の父親ではなく

芸術を目指すものの、魂の父なのだろうと思う。

白秋のように、過去へ向かう道は、常に穏やかに思える。

そして、光太郎の進む道は険しく厳しいが

エネルギーに満ち溢れている。

自分の頭で考え、
自分の足で歩き、
自分の手で作ることの必要は、
今でも、どんな進歩した未来でも同じ事だ。
ぼくの考え、ぼくの思いは

いつまでもぼくのものでありたい。

これは、ノーベル化学賞を受賞された

田中耕一さんが

小学校四年生のときに作られた詩なのだそうだ。

今、田中氏は、ある本に

天才は孤独、と書かれている。

見えないもの、見えない場所に進むことは

確かに怖い。

それにも増して

自分自身で判断し続けることは、もっと怖い。

しかし、そのような道を歩いて、初めて

人は自分だけの何かを得られるものなのだと思う。

天才は孤独。

田中氏であるからこそ

引き立つ言葉でもあるのかもしれない。

日本で初めて道路計画が始まって、八十三年。

道はどう進化してきたのだろうか。

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道というブログを書いてから20年

1920年から百年を超えている

 

1920年当時、大阪と東京を結ぶ

その名も弾丸道路という

道路を造る計画を立てたそうだが

実現するのは、戦争が終わって

かの、国土改造計画総理がより着手された時

 

1968年、私が高校生の頃

東名高速道路の工事が始まり

私の周りの悪いお兄さんたちが

全面的には工事が終わらず

まだ車が通らない頃に

横浜から工事をしている場所までの

真夜中のカーレースを楽しんでいて

 

今日はボーリングを見に行った、という話を

 

わざわざ車で真夜中にボウリングを見に行くとは

みんな相当暇なんだなと

 

そのくらいの知識で有った自分が懐かしい

 

そう言えばテレビドラマの教師役の人は

何故か

boxingのサンドバックをカバンにして

外国船に忍び込んで密出国をした洋行帰り

というような設定だった気がした

 

いずれにしても当時の学生は

大学に入ったら遊ぶ

遊ぶ目的で大学に行く、そんな人が多かった

 

当時の先輩たちに言わせると

今の時代のように

大概の人が受験するわけでなく

倍率の低い私学であれば

行こうとすれば誰でもが行けるわけで

先輩の一人は受験日に大学の門のところに

並んで入れは入れたと言い

大学によっては親の力だけで入学出来る、と

 

たぶん、その時代に苦労した人たちは

我が子にはそんな人たちと同じような

大学生活を

送って貰いたいと思ったのだろう

 

苦労した人たちが働き盛りになり

バブルで好景気になった頃

 

多くの人が我が子を大学に入れるために

色々と工夫して

 

息子が受験期の頃

今でいうFランク大学の教授の机に

一束置いてこようとしたら

ドカベン並みの高さの袋が有った

などというある種都市伝説的な

話まで流れて来たことが有った

 

実際に、芸能人が一人、息子の大学受験に

替え玉を使ったという容疑が

週刊誌で報じられたり

 

遊びやせんと、大学に行った人たちは今

世の中の中軸を担う年齢だと思うのだが

 

ネット上などで彼らの発言などを観ていると

本気で大学で学業を積んだのだろうか

と思うことは確かにある

 

高速道路と言えば

日本橋にAH1という標識があるが

これは1959年にアジア国際連合の定めた

Àsian Highwayという

日本橋からトルコの端までの

1000キロ以上に及ぶ道路の起点になるそうだ

 

夫が21の時に

フランスのマルセイユまで船で行き

そこから先、徒歩でタイに渡るまで

アフガニスタンの道路にも

この国道の標識があり

旅をするときの道標にもなったそうだ

 

その標識がモンゴルの草原には一つも無かったと

 

その分、不思議な解放感を感じただそうだ

 

そういえば日本国内の国道は

東京の大蔵省から横浜の港まで

戦地に兵士を送る

富国強兵として敷かれたのが最初であったとか

 

120年も前に、弾丸道路という

日本国内の

物資の販路拡大の為に計画された道路は

120年後の今、確かに物流の要となっている

 

しかし、四方八方に造られた道により

人はより便利な環境を求めて

自分から道を切り開くというエネルギーを

失ってきているようにも思える

 

人間とは身勝手なもので

時には誰も踏み入れていない

そんな世界を切り開きながら道を造ってみたい

 

いい年をした今でも

そんなふうに思うことがある

 

現実的な話をすれば

最近は神奈川県の山間にも熊が出没るそうだし

年齢的に無理だというのは分かっているのだけど

 

 


 

2003/08/09 (Sat) Yahooブログから


今日は、1045年に、長崎市に原爆が投下された日だ。

『長崎の鐘』という小説を書いた

放射線科の医師、永井隆氏は

被爆して亡くなった妻と子どもを弔う意味で

寝食を惜しんで、被爆者の治療に当たったという。

この小説が映画化されたときに出来たのが

長崎の鐘、という歌。

佐藤ハチローの作詞なのだそうだ。

小説、映画、により

永井隆氏はとても素晴しい人格者として

世の中の人から賞賛されたそうだ。

しかし、一人だけ

そのことを、望んでいない子どもがいた。

三歳で母を、そして九歳で父を亡くされた

永井隆の娘さんだ。

その女性はテレビの中で

孤児になったための心のやり場と

学校の先生の

立派な父上に恥ずかしくないかという言葉に

自分を遺して行かれた父を憎んでいたこともあった

と語っていた。

しかし

父上の「この子を残して」という小説を読み

父の温もりを知り

ご自分もまた、父上と同様に

平和のために一石を投じる道を選ばれたそうだ。

 

佐藤ハチローもまた

父、紅緑の、妻がありながらの

女優三笠万里子との、破天荒な恋によって

人生を翻弄されながら

 

彼もまた父と同じ文学の道に進んでいる。
 

因みに、この女優の娘が、彼の異母妹でもある

小説家、佐藤愛子だ

肉親を亡くす。

肉親は、例えば、機械で生かされていたとしても

生きているうちは、それほど感じないものだが

亡くなってみると

より一層身近に感じられるようになってくる。

私の父は、とても無口な人間で、

あまり口を聞かなかった。

しかし、亡くなって

もう既に、23回忌も過ぎているが

私は何かに窮すると父にその打開策を尋ねる。

無論、父が答えをくれるわけではないが

それでも

なんとなく糸が解けていくように思えるから不思議だ。

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夫の父は姑が亡くなったのちに、夫の長兄と息子

そして舅の、男だけの世帯になってしまい

認知症も発症していたので

甥の財力で有料の介護施設に入った

 

当時90に近かったので、自宅に引き取りたいと話したが

舅自身から断られた

 

諦めて年何度かその施設に面会に行った

 

二畳ほどの個室で一日過ごす舅

 

それでも、私と娘が行けば、いつのように冗談を言って

笑わせてくれた

 

舅の言動から、実際に認知症なのか、疑わしくもあったが

それなりに元気そうで安心した

 

そして何年か過ぎて、東日本大震災の前年

私には初めての

福島の霊山にあるヤマツミ神社の秋祭りに

夫と息子、そして娘とで行き

その際、舅の施設に面会に行くと

 

舅は息子である夫の顔を見ながら

目を潤ませているのに

何も話さない

 

多忙な夫との再会は姑の葬儀以来だから

十年に近い

 

だから感動しているのかと思ったが

 

ふと、母が生前、今日、誰とも話さないから

ちゃんとした言葉が出てこない、と

電話をかけるたびに言っていたことを思い出した

 

もしかして舅は一日の大半を

会話も無く過ごしているのだろうか

 

そう思うと胸が痛かった

 

しかし、全てを看ることが出来ない以上

私には何もできないことだった

そのことを義兄に話すと

 

自宅に戻して

ディサービスとヘルパーさんを頼むことにしたと

 

休日になると夫の三番目の兄の娘と

義弟の娘が介護に行ってくれていて

 

特に義弟の娘二人は父親と共に毎土曜に行き、日曜日に

帰ってくれたと義兄が話していた

 

舅の介護を思うと

六男一女という子どもの存在が大きいということを

実感した

 

夫の長兄と次兄は二人とも妻を亡くして

独り暮らしになって、二人とも認知症になる前に

小さな事故で急逝してしまったのだが

 

長兄は息子と娘、次兄は娘が一人

それぞれに離れて暮らしていたので

子どもに看取られることは無かった

 

二人ともに

子ども達に介護の苦労をさせることなく

去って行ったわけで

 

私自身も出来ればそんなふうな結末を迎えたいと思うが

こればかりは神のみぞ知るということなのだろうと思う

 

そして介護の現場でいえば

夫の介護のみをみても

身体介護に対しての拒絶の行為は

介護する側にはとても辛いもので、負担にもなる

 

だから今、施設に入って

その作業を他人にして貰っているということに

強い自責の思いがある

 

例えば下履きの交換をするときに遮る手の動きを

一定に固定させて

一旦止めることが出来れば

自宅でも可能になりそうだが

それは虐待になるとされていると言われると難しい

 

例えば医師の判断が無くても

袖が一つになる服の着用を認めるとか

 

そんな形でも防ぐことを可能にしないと

今の時代のように

高齢者のいない家庭や

親に手を揚げられたことの無い家庭で

育った人にとっては

介護自体が恐怖になり

看護してもらう当人にとっても

辛い状況になっていくのだと思う

 

法律は人を守る為のモノなのだから

一番大切な部分を解決させて

介護する人も、される人も

穏やかな時間の中で暮らすことが出来たら

と、そう思う

 

私の父は

兄が結婚して実家に戻り

舅姑と暮らすのは可哀そうだと

夫の建てた家での同居を望んだ母に依って

引っ越してくると言ったその前日に急逝したので

 

幼い頃離れて暮らし

生前の中では父と娘としての会話も無かった

私を思ってくれたのだろうかと

 

手前勝手に思っている

 

 

 

 

 

 


 

2003/08/08 (Fri)横濱俳句倶楽部ほのぼのとから


『この話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。

昨明治42年の2月頃より始めて夜分折々訪ね来り

この話をせられしを筆記せしなり。

鏡石君は話し上手には非ざれども誠実な人なり。

思うに遠野郷にはこの類の物語なお数百件あるならん。

我々はより多くを聞かんことを切望す。

国内の山村にして遠野より更に物深き所には

また無数の山神山人の伝説あるべし。

願わくば之を語りて平地人を戦慄せしめよ。』

これは、柳田國男の、遠野物語の書き出しの一節だ。

今日は、柳田國男の亡くなった日。

この遠野物語の中には

座敷わらしというものが出て来る。

座敷わらしと、検索にかけると

旧金田一商会、というサイトが出ている。

金田一とは地名で

岩手県と、青森県の境にあるのだそうだが

その地ある金田一温泉郷に泊まると

おかっぱ頭で、絣の着物を着た男の子が現れるのだそうだ。

その座敷わらしが住み着いたり、座敷わらしに合うと

人は大変恵まれ、また、出世もするのだとか。

そして、逆に、その座敷わらしが消えると

家も滅びてしまうのだそうだ。

日本の民話には、このようなお話が良くある。

洟垂れ神様、この題名が正しいかどうかわからないが

そのような民話がある。

漁師があるとき

海辺で常に洟をたらしている男に親切にすると

家に連れて行って面倒を見て欲しいと言う。

その代わりお前を大金持ちにしよう。

漁師は、大金持ちになれるとは思わないが

寒そうな恰好のその男を家に連れて行く。

そして、約束どおり、洟垂れの男の面倒を見る。

すると、男の家はたちまち立派になり、男は大金持ちになる。

お金が入れば、美しいもの、綺麗なものに目が移り

洟垂れ男の面倒を見ることが億劫になってくる。

しかし、洟垂れの男は相変わらず、汚い洟をたらし

粗末な成りをしている。

自分の目の前には

決して消えないと思えるほどのお金の山が出来たとき

男は意を決して、洟垂れを追い出してしまう。

すると、男はたちまち貧しくなって

もとの漁師に立ち戻ってしまう。

そんな筋書きのお話だ。

座敷わらしは妖怪であり

洟垂れ男は神様である。

日本列島の奥深くに潜んでいる伝承の物語は

人に人の心を教えているように思える。

---願わくば之を語りて平地人を戦慄せしめよ。

秋深い夜に

囲炉裏の傍で固唾(かたず)を飲みながら

聞いてみたいお話しだ。

柳田國男の命日は、俳句では、國男忌

そして、俳号の、柳叟から

柳叟忌として、秋の季語になっている。

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夫がモンゴルで写してきた写真に、川べりの柳の木に

真っ白な柳絮が花のように絡みついているものが有った

 

残念なことに夫がこの写真をゆっくりと観る頃には

夫の記憶は、義妹の消えた日と同時に消滅して

どこであったのかは思い出せなくなっていた

 

帰国して直ぐに聞いた話を繋ぎ合わせると

アルタイの山の麓で、

仕事をしている人たちでバス旅行に行ったようだ

 

夫はモンゴルの地で何度かドライブに行き

もう一つの方は川の脇にある広場で、羊を解体して

みんなで焼いて食べていると

そこに牛や羊の群れがやって来る

 

夫は何頭もの羊に囲まれて楽しそうに笑っていた

 

そして、夫が仕事を教えている若者たちが

モンゴル相撲をして

 

中には夫が最初に行った時にもいた、

当時は少年のような顔立ちのこが、軍隊を経験した

立派な若者として微笑んでいた

 

緑の大地は何処までも緑で

そのまま空の青さに縁どられて

 

途中、馬の群れもいて

 

方向を示す案内板も無ければ

速度制限を現す標識もない

 

だいたいにして、轍が車の走る場所を示しているだけ

そんな感じだった

 

それが突然の妹の死で

七年間の付き合いの人達

そしてモンゴルの風景は夫の脳裏から消えてしまう

 

その一方で記憶を失くしているということを

家族から知らされて戸惑う夫に

娘が買って与えた手帳には

 

仕事がしたい

という言葉が繰り返されていた

 

時には現場までの案内図なのだろう、いくつかの信号と

従業員の名前が書かれてもいた

 

ネットで見ると

夫と同世代の認知症を疾患した人は

何故か仕事をすることを常に希望している

 

夫世代は、その前後の年数を合わせると

約800万人の赤ん坊が生まれたことになるそうだ

 

令和23年は80万、4年は約72万

 

今の時代は夫達のように寝食を忘れて働く

という場面もない

 

今に限らず、夫と然程年の違わない私でさえ

もし何もかもを忘れたら、一体何をしたいと思うのか

全く想像が付かない

 

そして、そんなふうに人口が減りつつある今

民話はおろか、民間の中で伝承されてきたことさえ

少しずつ消え失せて行っている

 

こういうものを見ると

月日は百代の過客であり、

人間は一代の過客なんだということがしみじみと理解出来る

 

思うに

 

出来るだけ若いうちから多くの人と出会い

記憶のあるうちに再会を楽しむ

 

それが人生の最大の醍醐味なんだと

 

 

柳叟の叟(そう)とは、老いた柳という意味だそうだ