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ミナミのブログ

のんびり、、まったり

2003/08/08 (Fri)横濱俳句倶楽部ほのぼのとから


『この話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。

昨明治42年の2月頃より始めて夜分折々訪ね来り

この話をせられしを筆記せしなり。

鏡石君は話し上手には非ざれども誠実な人なり。

思うに遠野郷にはこの類の物語なお数百件あるならん。

我々はより多くを聞かんことを切望す。

国内の山村にして遠野より更に物深き所には

また無数の山神山人の伝説あるべし。

願わくば之を語りて平地人を戦慄せしめよ。』

これは、柳田國男の、遠野物語の書き出しの一節だ。

今日は、柳田國男の亡くなった日。

この遠野物語の中には

座敷わらしというものが出て来る。

座敷わらしと、検索にかけると

旧金田一商会、というサイトが出ている。

金田一とは地名で

岩手県と、青森県の境にあるのだそうだが

その地ある金田一温泉郷に泊まると

おかっぱ頭で、絣の着物を着た男の子が現れるのだそうだ。

その座敷わらしが住み着いたり、座敷わらしに合うと

人は大変恵まれ、また、出世もするのだとか。

そして、逆に、その座敷わらしが消えると

家も滅びてしまうのだそうだ。

日本の民話には、このようなお話が良くある。

洟垂れ神様、この題名が正しいかどうかわからないが

そのような民話がある。

漁師があるとき

海辺で常に洟をたらしている男に親切にすると

家に連れて行って面倒を見て欲しいと言う。

その代わりお前を大金持ちにしよう。

漁師は、大金持ちになれるとは思わないが

寒そうな恰好のその男を家に連れて行く。

そして、約束どおり、洟垂れの男の面倒を見る。

すると、男の家はたちまち立派になり、男は大金持ちになる。

お金が入れば、美しいもの、綺麗なものに目が移り

洟垂れ男の面倒を見ることが億劫になってくる。

しかし、洟垂れの男は相変わらず、汚い洟をたらし

粗末な成りをしている。

自分の目の前には

決して消えないと思えるほどのお金の山が出来たとき

男は意を決して、洟垂れを追い出してしまう。

すると、男はたちまち貧しくなって

もとの漁師に立ち戻ってしまう。

そんな筋書きのお話だ。

座敷わらしは妖怪であり

洟垂れ男は神様である。

日本列島の奥深くに潜んでいる伝承の物語は

人に人の心を教えているように思える。

---願わくば之を語りて平地人を戦慄せしめよ。

秋深い夜に

囲炉裏の傍で固唾(かたず)を飲みながら

聞いてみたいお話しだ。

柳田國男の命日は、俳句では、國男忌

そして、俳号の、柳叟から

柳叟忌として、秋の季語になっている。

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夫がモンゴルで写してきた写真に、川べりの柳の木に

真っ白な柳絮が花のように絡みついているものが有った

 

残念なことに夫がこの写真をゆっくりと観る頃には

夫の記憶は、義妹の消えた日と同時に消滅して

どこであったのかは思い出せなくなっていた

 

帰国して直ぐに聞いた話を繋ぎ合わせると

アルタイの山の麓で、

仕事をしている人たちでバス旅行に行ったようだ

 

夫はモンゴルの地で何度かドライブに行き

もう一つの方は川の脇にある広場で、羊を解体して

みんなで焼いて食べていると

そこに牛や羊の群れがやって来る

 

夫は何頭もの羊に囲まれて楽しそうに笑っていた

 

そして、夫が仕事を教えている若者たちが

モンゴル相撲をして

 

中には夫が最初に行った時にもいた、

当時は少年のような顔立ちのこが、軍隊を経験した

立派な若者として微笑んでいた

 

緑の大地は何処までも緑で

そのまま空の青さに縁どられて

 

途中、馬の群れもいて

 

方向を示す案内板も無ければ

速度制限を現す標識もない

 

だいたいにして、轍が車の走る場所を示しているだけ

そんな感じだった

 

それが突然の妹の死で

七年間の付き合いの人達

そしてモンゴルの風景は夫の脳裏から消えてしまう

 

その一方で記憶を失くしているということを

家族から知らされて戸惑う夫に

娘が買って与えた手帳には

 

仕事がしたい

という言葉が繰り返されていた

 

時には現場までの案内図なのだろう、いくつかの信号と

従業員の名前が書かれてもいた

 

ネットで見ると

夫と同世代の認知症を疾患した人は

何故か仕事をすることを常に希望している

 

夫世代は、その前後の年数を合わせると

約800万人の赤ん坊が生まれたことになるそうだ

 

令和23年は80万、4年は約72万

 

今の時代は夫達のように寝食を忘れて働く

という場面もない

 

今に限らず、夫と然程年の違わない私でさえ

もし何もかもを忘れたら、一体何をしたいと思うのか

全く想像が付かない

 

そして、そんなふうに人口が減りつつある今

民話はおろか、民間の中で伝承されてきたことさえ

少しずつ消え失せて行っている

 

こういうものを見ると

月日は百代の過客であり、

人間は一代の過客なんだということがしみじみと理解出来る

 

思うに

 

出来るだけ若いうちから多くの人と出会い

記憶のあるうちに再会を楽しむ

 

それが人生の最大の醍醐味なんだと

 

 

柳叟の叟(そう)とは、老いた柳という意味だそうだ

 

 

 

 

 

 

 

 




 

2003/08/07 (Thu)  山桃 


今日は、司馬遼太郎の生まれた日なのだそうだ。

彼の作品は時代小説が有名で、明治維新前後の

文明の殻を割る時の、明と暗とを

心地良いほど切り分けているという印象がある。

私は、彼の時代小説より文明の流れを追いかける

道というものを題材にした

街道を行く、という紀行文集を読んでみたいと思っている。

彼の作品でもっとも有名なものは

龍馬がゆく

だが

ペルシャの幻術師という作品が

一番先に、賞を取ったものなのだそうだ。

龍馬とは、土佐藩の坂本龍馬のことであり

大阪の、司馬遼太郎の記念館の天井に

龍馬の顔形をした染みが出来ていると

ワイドショーで報じていたことがあったが

専門家によると

天井の板を張るときのボンドの染みであろう

ということであった。

まあ、その染みと、龍馬の写真の輪郭が

ぴったり合うというのは

偶然のまた偶然にしておいたほうが良いのかどうか。

司馬遼太郎のみ知る所なのかもしれない。

坂本龍馬の故郷、高知県は

その気候から

山桃が自生する条件が揃っているということで

山桃は、県の観光物産ともなり、県の花ともなっている。

古く、神話の中に

伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が

桃の子(み)を投げつけて黄泉(よみ)の国の

雷神を退散させる、という

桃の子(み)は、山桃であるとされているそうだ。

そしてまた、山桃を、揚梅(ようばい)と書けば

日本古来の媚茶色の元になる木のことを言っている。

山桃の実は

天皇家の晩餐にデザートとして供されることがあるそうだが

とても傷みやすいということで、あまりそのまま

市場にでることはない。
 

一度食べると、一瞬スポンジを噛んだような食感と

果物独特の甘酸っぱさが癖になりそうだ。

山桃は英名を、Bay berryという。

Bayとは、入り江のことではなく

月桂樹のことだと思う。

恐らく、この木の葉が

月桂樹の葉に似ていることから来ていると思える。

俳句では、山桃は、楊梅(やまもも、または、ようばい)

やまうめ、ももかわ、樹梅、楊桃船

として、夏の季語になっている。

 

==================================東日本の震災の前の年に、モンゴルの会社の社員が

奇妙な不祥事で収監され、経営陣が変わったことで

既に日本にいた夫は、その場で

モンゴルの宿泊所に私物を遺したまま契約を解除された

 

夫は、日本に帰り、私や会社の現状を知り

まず、家を購入するというので、本来の仕事の他に

土木会社に派遣として勤めた

 

震災の翌年、その土木の仕事で

どこかの庭園の樹木を伐採して

その家の人からと、大量の山桃を持ち帰った

 

私はそれをジャムにして夫の妹に送った

ジャムに合うフランスパンや、チーズなども添えて

 

しかし、彼女からは一向に届いたという連絡がない

携帯の伝言を残しても、家の電話にかけても

 

もしかすると

避難準備区域である自宅の土を変える作業で忙しいのか

 

夫の兄に聞いても曖昧な返事しか貰えない

 

そして時が流れて、八月に入ると

義妹から電話が有った

 

今入院している、という

 

私は驚きと怒りで、義妹の娘に電話をかけた

 

すると、彼女は親から見舞いに来るなと言われていたと

 

私はその彼女を無理やり連れて病院に駆けつけた

 

途中、福島の駅から大学病院へ向かうバスの先方が

突然暗くなり、大粒の雨が降り出し

私の胸がざわついた

 

病院に着くと、いつもの義妹が、ベッドに座って

私、痩せたでしょ、と笑う

 

どこが、と言いながら

姪を遺して、付き添っていた人と病室を出た

 

実際、義妹は痩せ細ってはおらず

見た目では重篤さが伝わらなかった

 

しかし、付き添っていた人に

医師のところに連れて行かれて

義姉だというと

後で彼女の夫に状況を説明するので

立ち会って欲しいと言われた

 

姪は母親を自宅に連れ帰り

地元の病院にかけたいという

 

義妹の夫義弟が来て

姪と三人で医師の話を聞いたが

義弟と姪はその話が耳に入らないのか

私の、本人が希望すれば自宅に帰れるのか

というところだけに反応して

医師の

そうして良いでしょうという言葉に喜んでいた

 

自宅で待つ夫に私の携帯から義妹と話をさせた

 

六男一女で、夫の二つ下の義妹は

夫にとって特別な存在であり

いろいろな場面で夫の支えになってくれていた

 

話し終えて、○○ちゃんは元気そうでよかった

その言葉に私もそうだねと答えた

 

義妹は看護師をしていて、姪もまた看護士であり

なのに、何故、と

手遅れの状態の義妹が不思議だった

 

姪が病院の手続きを終えている間に

迎えに来た甥と義妹の家に帰り

少しの間話をして

帰宅すると、翌朝義妹の訃報が届いた

 

連れ帰った夜中に

家族と談笑しながら亡くなったと

 

何故、手遅れになったか

 

それは

東日本大震災で打撃を受けた地域の人達が

義妹の家に避難してきて

義妹はその人たちの世話に明け暮れ

自分の体調を見逃していた

ということだった

 

職業柄、そして男兄弟の一人娘として

面倒見の良い、誰にでも優しい人

 

それが災いしたというのだ

 

夫は訃報を聞いて、そのあとから

突然大量に水を飲みだし

何度も義妹のことを聞くようになった

 

私は精神的なものを疑ったが

夫の病名は血小板減少症紫斑病という難病になり

夫はそれ以降、震災までの記憶を一切無くした

 

前年度まで現役で働いていた夫が

二度の入院を繰り返し、高額な医療費を支払う

 

会社どころか自宅の再生さえ無理だと諦めた

 

そして、夫の情状を考えて郊外に転居して

三度目の入院で難病指定を受けた

 

毎週のように幾つもの病院に通院を繰り返すうちに

小さな徘徊が始まり、認知症の認定を受けて

 

夫の認知症の介護が始まった

 

義妹の葬儀の時に

葬儀に来られた住職が

 

未だ棺に入れない御遺体がたくさんある中で

この方が生前の功徳により、このような葬儀を

 

という言葉だけが今も心に残っている

 

義妹はあの山桃のジャムを食べてくれたのか

感想を聞くのを忘れた

 

 

■ 2003/08/05 (Tue)横濱俳句倶楽部ほのぼのものとから


鶴を燃やした青年が通っていた大学に

在校生や卒業生から20万羽のお詫びの鶴が届いたとか。

この広島に原子爆弾が落ち

一帯が焼け野原になり

もう二度と、草木は生えないだろうとされていた所に

一番先に蘇ったのは、夾竹桃の花だったのだそうだ。

夾竹桃という名は、桃に似ている花と、竹笹に似ている葉から来ているのだそうだ。

この夾竹桃は

しかし、オレアンドリンやネリオドレインという

有害成分が入っていてとても危険な植物でもある。

今から数年前

海外で、ピクニックに行っていた若者が変死するという

事故があり、いろいろな検査の結果

この、夾竹桃の枝を

バーベキューの串に使っていたことが判明されたのだそうだ。

英名の、Rose laurelとは

月桂樹に咲く薔薇、という意味になる。

この夾竹桃は排気ガスを除去する機能を備えているので

高速道路などの街路樹としても用いられている。

俳句では、叫出冬(きょうしゅつとう)

半年紅(はんねんこう)

桃葉紅(とうようこう)ともして、夏の季語になっている。

=============================私が勉学を学んでいた頃

 

元々は、広島城の地下に作られた陸軍の基地を

標的にしていた

とか

 

数日前に求められた降伏を拒絶したためだとか

いろいろな人が語っていた

 

海軍の下士官として徴兵されていた父は

アメリカの軍が狙わないように

山手の某女学校の地下にも

少年兵の鍛錬の場が有ったと話していた

 

数えで13、4歳の子が天井からの

落下傘降下の訓練をすると

夜中に怯えて、血の混じったおしっこをする、と

 

父の経験以外は、真実は分からないし

例えば陸軍が早期に敗戦を認めて

果たして今のような、八十年に渡る

不戦の国を貫けたのか

また、主権が在民で有り得たのか

 

分からない

 

分かるのは

今、日本国民はこの80年

武器を持たされて、戦争に行く

という経験をしてこなかった

ということだけだと思う

 

この先、世界の事情がどんなに変わろうと

その事実だけは有り続けて欲しいと思う

 

豊かな国の人は戦争はしない

 

豊かでない国

 

働く場所がないからと

旅人に銃を持たせて

空に向かって射撃させる

その射撃した弾をお金欲しさの子どもに

競わせて拾いに行かせ

時には不発の弾が暴発して

子どもの命を亡くす国

 

荒れ果てた地で食物が育たず

食べるものが無くて、親から見捨てられて

マンホールの中で暮らし、成長して

母親になっても

生まれた子をマンホールで育てる国

 

路上で競って通る車の洗車をしたり

物売りをする子どのいる国

 

小学校に入る年になった女の子は

海外からの旅人に身体を与えなければならない国

 

これは1960年代から90年代の

海外の子ども達の実際の様子で有り

 

その全ての子達は日本のいうところの、義務教育さえ受けていない

 

しかし、本当に貧しいと思えるこの国々の国民は

実際は自分達から戦争をしていない

 

戦争を起こすのは、よりお金が欲しい商人と

その商人からよりお金を得たい政治家

 

最近、今の時代は昭和に比べて貧しい

という言葉を

ネット上で多く見かけるようになったが

 

その比較対象にされる

1960年代10年間の

中学生の就職率は男女合わせて60%以上

10人の内、6人が中学を卒業したら

親元を離れて他人の家で暮らし

朝から晩まで仕事をしている

ということになる

 

その働きに行く人の夢の大半は

自分が働いたお金で

お腹いっぱい饅頭を食べること

 

幸せであるということに慣れてしまうと

幸せであるということに渇望して

もっと幸せになりたい

という気持ちが起こり

そして他人を羨み、時代を恨む

 

少し前に、一人の歌手が、彼に憧れているという

一つのグループの歌手に

楽しんでやれてますかと

 

聞かれた彼は

楽しんでやれてます、と答えていた

 

1960年代に懸命に生きていた人たちに

今、今の時代に生きる人達は

楽しんでやれてますか、と聞かれて

何と答えるのだろう

 

例えば夾竹桃のように、実生活の中では

毒になりかねないような植物でも

未来の見えない地に咲きほこれは

人に希望を与えてくれる

 

1960年代の人達が

生き生きとして見えたのは

他人から与えられる

楽しみや幸せを求めていなかったから

なのだと

 

楽しんでやる、楽しんで人生を生きる

それは、全てに恵まれているから適うという訳ではなく

 

いろいろな環境を乗り越えて

自分自身が創り出すことで得られる感覚なのだと

そう思う