2003/08/07 (Thu) 山桃
今日は、司馬遼太郎の生まれた日なのだそうだ。
彼の作品は時代小説が有名で、明治維新前後の
文明の殻を割る時の、明と暗とを
心地良いほど切り分けているという印象がある。
私は、彼の時代小説より文明の流れを追いかける
道というものを題材にした
街道を行く、という紀行文集を読んでみたいと思っている。
彼の作品でもっとも有名なものは
龍馬がゆく
だが
ペルシャの幻術師という作品が
一番先に、賞を取ったものなのだそうだ。
龍馬とは、土佐藩の坂本龍馬のことであり
大阪の、司馬遼太郎の記念館の天井に
龍馬の顔形をした染みが出来ていると
ワイドショーで報じていたことがあったが
専門家によると
天井の板を張るときのボンドの染みであろう
ということであった。
まあ、その染みと、龍馬の写真の輪郭が
ぴったり合うというのは
偶然のまた偶然にしておいたほうが良いのかどうか。
司馬遼太郎のみ知る所なのかもしれない。
坂本龍馬の故郷、高知県は
その気候から
山桃が自生する条件が揃っているということで
山桃は、県の観光物産ともなり、県の花ともなっている。
古く、神話の中に
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が
桃の子(み)を投げつけて黄泉(よみ)の国の
雷神を退散させる、という
桃の子(み)は、山桃であるとされているそうだ。
そしてまた、山桃を、揚梅(ようばい)と書けば
日本古来の媚茶色の元になる木のことを言っている。
山桃の実は
天皇家の晩餐にデザートとして供されることがあるそうだが
とても傷みやすいということで、あまりそのまま
市場にでることはない。
一度食べると、一瞬スポンジを噛んだような食感と
果物独特の甘酸っぱさが癖になりそうだ。
山桃は英名を、Bay berryという。
Bayとは、入り江のことではなく
月桂樹のことだと思う。
恐らく、この木の葉が
月桂樹の葉に似ていることから来ていると思える。
俳句では、山桃は、楊梅(やまもも、または、ようばい)
やまうめ、ももかわ、樹梅、楊桃船
として、夏の季語になっている。
==================================東日本の震災の前の年に、モンゴルの会社の社員が
奇妙な不祥事で収監され、経営陣が変わったことで
既に日本にいた夫は、その場で
モンゴルの宿泊所に私物を遺したまま契約を解除された
夫は、日本に帰り、私や会社の現状を知り
まず、家を購入するというので、本来の仕事の他に
土木会社に派遣として勤めた
震災の翌年、その土木の仕事で
どこかの庭園の樹木を伐採して
その家の人からと、大量の山桃を持ち帰った
私はそれをジャムにして夫の妹に送った
ジャムに合うフランスパンや、チーズなども添えて
しかし、彼女からは一向に届いたという連絡がない
携帯の伝言を残しても、家の電話にかけても
もしかすると
避難準備区域である自宅の土を変える作業で忙しいのか
夫の兄に聞いても曖昧な返事しか貰えない
そして時が流れて、八月に入ると
義妹から電話が有った
今入院している、という
私は驚きと怒りで、義妹の娘に電話をかけた
すると、彼女は親から見舞いに来るなと言われていたと
私はその彼女を無理やり連れて病院に駆けつけた
途中、福島の駅から大学病院へ向かうバスの先方が
突然暗くなり、大粒の雨が降り出し
私の胸がざわついた
病院に着くと、いつもの義妹が、ベッドに座って
私、痩せたでしょ、と笑う
どこが、と言いながら
姪を遺して、付き添っていた人と病室を出た
実際、義妹は痩せ細ってはおらず
見た目では重篤さが伝わらなかった
しかし、付き添っていた人に
医師のところに連れて行かれて
義姉だというと
後で彼女の夫に状況を説明するので
立ち会って欲しいと言われた
姪は母親を自宅に連れ帰り
地元の病院にかけたいという
義妹の夫義弟が来て
姪と三人で医師の話を聞いたが
義弟と姪はその話が耳に入らないのか
私の、本人が希望すれば自宅に帰れるのか
というところだけに反応して
医師の
そうして良いでしょうという言葉に喜んでいた
自宅で待つ夫に私の携帯から義妹と話をさせた
六男一女で、夫の二つ下の義妹は
夫にとって特別な存在であり
いろいろな場面で夫の支えになってくれていた
話し終えて、○○ちゃんは元気そうでよかった
その言葉に私もそうだねと答えた
義妹は看護師をしていて、姪もまた看護士であり
なのに、何故、と
手遅れの状態の義妹が不思議だった
姪が病院の手続きを終えている間に
迎えに来た甥と義妹の家に帰り
少しの間話をして
帰宅すると、翌朝義妹の訃報が届いた
連れ帰った夜中に
家族と談笑しながら亡くなったと
何故、手遅れになったか
それは
東日本大震災で打撃を受けた地域の人達が
義妹の家に避難してきて
義妹はその人たちの世話に明け暮れ
自分の体調を見逃していた
ということだった
職業柄、そして男兄弟の一人娘として
面倒見の良い、誰にでも優しい人
それが災いしたというのだ
夫は訃報を聞いて、そのあとから
突然大量に水を飲みだし
何度も義妹のことを聞くようになった
私は精神的なものを疑ったが
夫の病名は血小板減少症紫斑病という難病になり
夫はそれ以降、震災までの記憶を一切無くした
前年度まで現役で働いていた夫が
二度の入院を繰り返し、高額な医療費を支払う
会社どころか自宅の再生さえ無理だと諦めた
そして、夫の情状を考えて郊外に転居して
三度目の入院で難病指定を受けた
毎週のように幾つもの病院に通院を繰り返すうちに
小さな徘徊が始まり、認知症の認定を受けて
夫の認知症の介護が始まった
義妹の葬儀の時に
葬儀に来られた住職が
未だ棺に入れない御遺体がたくさんある中で
この方が生前の功徳により、このような葬儀を
という言葉だけが今も心に残っている
義妹はあの山桃のジャムを食べてくれたのか
感想を聞くのを忘れた