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ミナミのブログ

のんびり、、まったり

■ 2003/07/31 (Thu)横濱俳句倶楽部ほのぼのとから


数日前の地方紙に

西之表市で

三百ほどの月下美人の花が咲いたというニュースがあった。

月下美人は

英名を、Moon Light Cinderellaという

サボテンの一種

今日(7月31日)は

1972年に猿の癌ウィルスによっての

遺伝子組み換えの実験に成功した日。

遺伝子と言えば最近は

クローン人間の存在の有無が話題になったが

日本で咲く月下美人もまた、クローンなのだそうだ。

沖縄県のサイトによると

もともとは

メキシコに自生していた月下美人を

スペイン人が一株だけ、フィリピンに持ってきて

それが台湾

そして日本へと株分けされたものなのだそうだ。

400年の歳月を掛けて

東南アジアを網羅した月下美人のクローン。

だから、日本の月下美人は実を結ばないのだそうだ。

通説に、月下美人は百年に一度開花する

というようなものがあったが

実際は、気候さえ合えば、年に何度でも開花するようだ。

そして、台湾などでは、家の生垣にも咲かせていて

この月下美人の花を

曇花(タンファ)というスープのような食用にもするそうだ。

英名が月光のシンデレラなのに

何故月下美人という名になったのかというと

 

昭和天皇が皇太子の頃、台湾を訪れた際

生垣に咲くこの花を観て、名前を聞いたときに

当時の台湾の総督の

田健次郎(元参議院議員田英夫の祖父)が

これは月下美人(月の下に立つ美しい人的な意味で)

と咄嗟に答えたからなのだそうだ。
 

その由来を知ると

なんとなく、保土ヶ谷の権太坂の名の由来である

道を聞く人に、田植えをしている人が

名を問われたと思い、おらは権太だ

といったのに似ている風にも思える。

月下美人は真っ白な美しい花で

とても良い匂いがするそうだ。

横浜市広報の港南区版によると

上大岡東あたりで

月下美人を栽培しているお宅があると書かれていた。

月下美人に似た言葉で

お仲人さんを月下氷人と呼ぶが

これは、李復言という人の続玄怪録の中に書かれる

冥界からの使いである、月下老人と

晋の国に令狐策の

夢で見た

氷の上(陽)と

氷の下(陰)の縁を結ぶ仲立ちの氷人が合体した言葉

月下老人は、道教の神の一人ともされており

彼の持つ袋の中には

人が生まれる前からの縁の赤い糸が入っている

といわれるそうだ。

そして、この神の誕生日は、八月十五日とされている。
奇しくもないが

この日は私達夫婦のの結婚記念日でもある。

俳句では、月下美人は

女王花(じょうおうか)ともして、夏の季語としている。

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夏空の下に大輪に咲く、と言えば、花火だが

昨日、横浜のみなとみらい地区で

花火を打ち上げている途中、事故が起きて

花火を揚げていた船が二艘燃えてしまったとか

 

昨日、横浜には強風注意報が出ていたが

それが問題ではなかったようだ

 

花火の事故と言えば1989年の8月2日

今は分からないが、当時は尺玉を個人が買うことで

名前が付けられたり、所謂アリーナ席に招待されたりした

 

私の伯父も、伯父が顧問を受けているお店が勝ったことで

招待を受けて、伯母と母が出かけていた

 

いつもより早めの帰宅に、どうしたのかと思ったら

新種の花火だと思ったら、筒の中で爆発して、、と

 

その筒を、倒れて客席に向かわないよう

懸命に支えた花火師の方が二人、犠牲になったと聞いた

 

その花火師は次姉の夫、義兄の同級生で

義兄を通じて町内での小規模な打ち上げ花火を

頼んだこともあり

 

我が家では他人事とは思えない悲しみを感じた

 

その後、山下公園での打ち上げは中止になり

再開したときには

みなとみらい地区の海辺に変っていた

 

そしてそれを境に

ネット上で打ち上げ花火不要論が広まり

中止されることも多くなり

 

その頃、花火師の方が

打ち上げ花火というものは

本来、川で犠牲になった人の魂を慰める為のモノ

そして戦後は戦争で犠牲になった人たちの

魂を鎮めるためのもの

というような文章を載せた

 

しかし、外国の花火は、独立記念日や誕生日

新年を迎える、というお祝いの場所で

揚げられているのだから

何となく

それは違うのでは、と思った

 

それでも、山間の漆黒の中に、音の届かない

大きな花火が広がって消えていく様子は

やはり魂の鎮魂に相応しように思えた

 

願わくば、事故の経緯を詳らかにして

改善を報告して

 

来年もまた美しい花火が揚げられると良いなと思う

 

 

 

 

 

 

2003/08/04 (Mon)横濱俳句倶楽部ほのぼのとから


夕方、町を歩いていると、道路の反対側から、浴衣を着た女の子が、嬉しそうに渡って来た。

その女の子の鼻の頭に、薄っすらと天花粉が引かれていた。

アア、今の時代もこんな風にするお家があるのか、と、見ていると、女の子は自慢げな顔を上に上げて、ニコニコと通り過ぎていった。

そういえば、私も、こんな風に着物を着て

最後の仕上げに、天花粉をスッとひいてもらうと

なんとなく大人になったようで嬉しかった

ということを思い出した。


白粉花は、原産国はペルーで

英名をmarvel of Peruといい

これは

一つの茎に、いろいろな色の花をつけるということで

ペルーの驚異、というそうだ。

そして、夕方咲き始めると芳香を放つことから

four o'clockとも呼ばれるそうだ。

白粉花という名は、元禄七年(1694年)に

貝原益軒によって刊行の『花譜』中に

種の中の粉が白粉に似ていることからと書かれているそうだ。

また、他の文献によると

実際に白粉として使われていた事実もあるそうだ。

俳句では、白粉花の他に、白粉草、おしろい、夕化粧、金化粧、銀化粧、野茉莉、紫茉莉、として、秋の季語になっている。

因みに、いわゆる白粉というものは

692年に、元興寺の僧観成という人が

中国の文献を元に作ったことに始まり

歌舞伎役者が舞台で突然痙攣しだすということで

その危険性が問い沙汰される、明治の終わりの頃まで

天然の鉛化合物、水銀や、鉛白が用いられていたそうだ。

水俣病の原因になった水銀はもちろん

鉛白も、長く用いれば、体内にその毒素が蓄積され、

いろいろな中毒症状を起こし、仕舞いには死に至らしめる。

古くローマでは、白粉に限らず

日常のいろいろな物に

この鉛白を用いていたことから

実際にローマを滅ぼしたのは、鉛中毒だ

とされている本もあるそうだ。

もう一つ、天花粉は、天瓜粉とも書き

黄烏瓜の根から採られる漢方薬の一種で

俳句で、天花粉、天瓜粉、汗しらず、として

夏の季語になっている。
============================白粉花について【花300】で調べると

学名をMirabilis Jalapa とあり

 

Mirabilisはラテン語の、不思議な、とか素敵な

Jalapaはスペインの街の名前と有った

 

似た花に、明治時代に日本に入って来た

草夾竹桃というハナシノブ科の花があるそうだが

こちらは学名をギリシャ語で

Phlogos 炎(ほのお)

という意味だそうで

花の香りが花魁のお化粧の香に似ていることから

花魁草とも呼ばれているとか

 

嘗て、女性が農家の労働力であった時代に

農繁期に子どもが出来ると、産むことを望まれず

鬼灯や白粉花の種を利用して、、という

哀しい時代が有った

 

例えば生まれたとしても、間引きという形で

闇の葬られてしまう

 

母親に罪悪感を持たせないために

生まれて三か月までは水子という形で

名前を付けることも、墓に葬ることもない

 

昭和30年代になり、世の中に保健婦という人が存在し

農村地方を歩くことで、母体の危険性を理解させ

避妊を説いていき、当然戦後の日本にその風習は無くなり

 

しかし、残念なことにお腹で育たなくて亡くなった子への

母親の贖罪を癒す為に、昭和34年だったと思う

あるお寺が週刊誌に、水子供養という宣伝を書いた

 

実際はそれ以前にお寺の片隅には

生まれなかった子への

哀悼の墓碑は遠い昔から有り

竜胆というブログに書いた

日限山の、裏手にも、その為の墓石があって

多くの人がひっそりと訪れていた

 

それを、週刊誌を使って宣伝する、ということに

当時の私は腹が立っていたが

 

今になると、裏手にひっそり、ではなく

お寺の一角にあることで、母親の思いが安らげる

ということは悪いことでは無いと思える

 

特に今は、昔のように大人数で暮らしている訳でもなく

周りの人との交流も乏しい時代

独りだけで胸の中に抱えている

そこから少しでも気持ちが安らげる方が

良いようにも思う

 

これは、宗教全体に言えることだけど

大概の人は家族や自分自身に関する悩み事を

抱えきれずに、話を聞いてくれる人に

癒しを求めることから始まっている

 

嘗て、私宅での俳句の会に来られていた方は

ある宗教に入信していたのだが

俳句の会でいろいろと話しているうちに

 

私に、もっと早く出会っていたら

宗教など信じなかった

 

そう言っていた

 

私は宗教自体を否定はしない

 

誰にも言えない自分の心の痛みを

少しでも和らげるには、必要なこともある

 

以前、友人から、書き直して欲しいと言われた

その友人のお母さんの記録には

 

戦時中、満州というところに

開拓団の為にと

役所から出向する夫に嫁いだ

友人の母親は

その夫が敗戦の一年前に招集され

 

それなのに

日本に引き上げるときには

三か月の友人がお腹にいて

 

栄養不足で衰弱した五歳だった長男に

その三か月の子を日本に連れて帰るために

もし亡くなるなら

陸の上でと懇願したと書かれていた

 

戦前の生き方を見れば

長男は家の子という表現があるほど

 

その長男ではなく、生まれて見ればあからさまに

髪の色、目の色の違う子ども

 

その子どもを育てている時、そのお母さんは

親族はもとより

周囲の人からどんなふうに見られていたのか

 

その中で唯一声をかけてくれて、話を聞いてくれて

一緒に泣いてくれたのが、その宗教の信者だったと

 

その信者の本心など分からない

 

しかし、それで救われたのは事実

 

友人は、東日本大震災の後に

母親の信心している宗教に

騙し打ちのように

私を誘い、今は付き合いを断っている

 

彼女は母を思えば思うほど

また、自分の生い立ちを思えば思うほど

その宗教から離れることは出来ないと思うが

 

私はそれで良いと思う

 

幾ら理解したところで

それは単に理解するということで

どれだけ理解しても

また、彼女が宗教から離れたとしても

 

彼女の生い立ちを変えられるものでは

無いのだから

 

労働力として生きるためにわが子を守ることも出来ず

戦争という中で、女であるということで

自分自身では解決できない

孤独な苦しみを心に打ち込まれて

 

年老いて介護施設に入り

男性の介護士が部屋に入って来ただけで

手を合わせて赦してくださいと懇願する女性

 

そんな時代を生きた人を知る年代の私達は

この先そう長くは声を出すことが出来ない

 

これからの女性には、敗戦で得た

全ての人は平等である

ということを念頭に

常に自分自身の幸せを

一番に考えて生きて欲しいと思う

 

我が家の近くには色とりどりの白粉花を

川の流れのように咲かせている家がある

 

その美しさ見ながら

平和っていいなと、しみじみと思う

 2003/08/03 (Sun)YAHOOブログから


と言っても

ドストエフスキー・フィヨードル・ミハイロヴィチの

小説ではない。

つい最近、広島の千羽鶴を燃やしてしまった青年のことだ。

彼が通っていた大学の学長が謝罪し

そして、大学で謝罪の鶴を折る、と言われたそうだ。

そんなものなのかなあと思った。

そして、本人はそれをどのように捉えているのだろうと思った。

先日、長崎で、幼い子どもを十二歳の少年が殺害した事件で

匿名の中学の教師の手紙が話題になった。

しかし、今回はれっきとした成人の起こした事件だ。

人格形成を大学に求める人など、いないだろうと思う。

法治国家の中で、法に抗ったことを行えば

罪はその重さの度合いに関係なく、罪だ。

犯したものには、法によって、それなりの罰が与えられる。

そして、その法律の上で罰せられれば

社会的責任は果たしたことになるだろう。

しかし、あの鶴を折ったのは法ではなく

一つの思いを持った多くの人々だ。

このような、公共物を破損したときは

本人に修復させればよいと思うのは、短絡的発想だろうか。

14万羽の鶴を折るのは大変だと思う。

それに、折り紙代も馬鹿にならないだろう。

しかし、それを燃やしたのはその本人である。

そして、本人が自分一人で仕上げることが出来なかったら

社会に対してお願いするという形を

取らせるべきではないだろうか。

どのような形であっても

当事者に、考えさせる場所を与えない方が罪が大きいように

私には思える。

 

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息子を育てている頃、会社の仕事をして

子育ても完璧にという、変な感情から

息子の服装や持ち物に着いて

全て前日に揃え

朝、下着を着替えさせて、靴下をはかせて

と、術での身支度をしてやり

カバンの中も全て確認して

 

最初の家庭訪問の時に、担任から

お母さんは過保護ですね

過保護は最大の放任ということを

自覚していますか、と言われて

目が覚めた

 

今なら、過保護という虐待ということになると思う

 

我が子の自主性の芽を全て摘んでいたのだから

 

その上自己本位な達成感

 

私は子どもに、色というものに対して

男女の区別をして欲しく無くて

幼い頃から

いろいろな色の服を着せていた

 

幸いなことに

二十歳過ぎに海外を渡り歩いた夫は

子どもの着る服について

一切拘ることもなく、私の自由に出来た

 

そのお陰か

大人になっても、赤いエナメルのコートや

今風に言えば、赤と黒のダミエ柄の

私の服を着て行ったり

 

立ち上がったグリズリーと化すまでは

その姿が自慢でもあったのだが、、

 

そして、幼い頃から、父親の仕事の関係で

大人の人と対峙することが多く

電車やレストランで騒ぐということも無かった

 

それなのに、子育ても中盤に差し掛かる頃

私は物凄くショックな話を

精神科医に聞かされた

 

街とか教室とか

食堂とか電車の中とかで騒いで

親に叱られている子は

将来、有望な人間になると

 

至極当たり前の話だが

子どもの感性は周りの大人に寄って育つ

というのだ

 

子どもの頃おとなしくて、親にも周りの人にも

叱られたことの無い子が

大きくなってから、年齢を理由に叱られると

 

叱られたということにばかりに気持ちが行き

人の言葉を聞く耳を持たない

 

成程、と思いながら、若干腑に落ちなかったが

よく考えたら、失敗という経験をして

それを認めて改善出来る子は

たとえまたその失敗を繰り返したとしても

確かに成長するにつれて人格も成長していく

ということを、時間経過で学んだ

 

野菜と子どもはかけごえが大事

などという

昭和の駄洒落も満更的を外れていないというか

 

騒ぐことが問題なのではなく

騒いで、注意を受けた時

周りに迷惑だからという言葉ではなく

自分自身が周りに迷惑をかけていることを

自覚出来るかどうかが問題なのだと

 

それは叱る側の問題でもあり

 

騒いでいるのは幼いから

とか、今だけとか

そんなふうに容認していると

将来に渡っての

成長の場を失くしていることになる

 

ということなのだろう

 

そういう意味でも

千羽鶴を燃やしてしまった大学生は

自らの反省の場所を奪われたために

人格を正す機会をを失ってしまったことになるのだろう

 

犯罪は犯罪であり

他の誰かがどのように償っても

その犯罪が消えることは無い

 

罪に似合った罰

それは誰よりも、当の本人にとって

一番大切な事

 

当時の精神科の先生は

そんなことを言いたかったのだろう

 

叱ってくれる人がいることが有難いのだと

 

 

もうすぐ原爆投下された日が巡って来る