く2003/08/02 (Sat)横濱俳句倶楽部ほのぼのとから
今日は、本牧神社の神事である、お馬流しという行事が行われた。
これは、永禄九年(1566)年から、400年以上行われている奇祭で、県の無形文化財にも指定されている。
茅で作った、首から上を馬、体を亀の形にした物の、馬の首のところに白幣を挿し、口には稲穂を咥えさせ、お供物を添えた1、5㍍ほどお馬』を、本牧旧六葎村(間門、うしごめ、みやばら、みのわ、だい)から、それぞれ一体ずつ、計六体を、海に流すという行事だ。
このお馬は、古来、羽鳥家という家で編まれ、茅もまた、お馬を作るための、茅場があるそうだ。
お馬は、羽鳥家から神社に奉納されると、全て、頭の上におかれて移動し、僅か五十㍍に半時を要しながら、厄を払って歩くのだそうだ。
あらゆる厄を託して、本牧の沖合い五キロのところに流すのだそうだが、お馬が絶対に岸に流れ着かないように、神妙に潮の流れを読むのだとか。
陰暦の頃は、六月十五日と定められていたそうだが、新暦になり、八月の第一土曜日になったのだそうだ。
本牧には、また、古くから本牧言葉(さかさ言葉)というものがあり、例えば、大きいというのを、チッチャカー(ネ)、美味しいということを、マズカア(ネ)、と言い表す。
カッコのなかのネ(否定のネ)は発音しないときもある。
だから、この港で「女、やさしかー(ね)」と言われたら
お転婆だ、と言う意味になる。
お馬流しのように
その地域独特の物を書くときは
俳句に、その地域や行事の題名を付けるのだが
私の手元にある祭歳時記というものには
『お馬流し』は夏の季語となっている。
============================
お馬流しが行われる本牧神社は嘗て本牧の
母の実家の近くにあった
私の記憶では、蔵の火災で移されたと思ったが
定かではない
本牧にあった頃、神社の境内で祭りが有り
新粉を丸めて膨らまして、色粉で色を付けて
小鳥の形にするものが売られていた
ある時、従弟を連れてその市に行き
従弟がその鳥のお菓子を買って帰って
少ししたら、裸足で走って来た祖母から
烈火のごとく怒られたことが有った
従弟は私の二つ年下
そのお菓子を持ち帰って
祖母にどうしたのかと問われて、
私に買って貰ったと言い訳したとか
衆人環視の中で怒声を浴びせられた私は
驚きのあまり声も出なかった
そして母に告げると
母は、母の一番下の弟が幼い頃
、兄弟で遊びに連れて行き
その弟の欲しがるままに飲み物を買い与えて
それが原因で、当時流行った疫痢で亡くなったから
買い食いは禁じられていた、と
確かに私達姉妹は幼い頃から
駄菓子屋でお菓子を買うことは
禁じられて育っていたが
ならば最初から
従弟にお金を持たせなければ良かったと
怒り口調でいうと、母は一言、そうねと言った
途轍もなく奔放と思える母でも
元家老の娘である祖母にはかなわなかったようだ
元々祖父のノートの怨念もあり
私はその時から祖母が大嫌いになった
家に帰り、次姉にその話をすると
娘の子どもが重い病で入院していても
他の孫の様子を見に来ることも無かったのに
息子の子どものことだとそんなに怒るのだと言われて
何となく自分の怒りの焦点が定まった気分がした
戦前の世界には、女三界に家無し
女に家と書いて嫁ぐと読む
そんなふうに男尊女卑の土壌があり
祖母はその土壌を明確に表していたのだと思う
中学生の頃、その、嫁ぐとか、結婚とか
そんな漢字の成り立ちを探っては
友達同士で憤懣を漏らしていた日々が懐かしい
その影響でもないのだが
私は息子夫婦の生活に関わったことも
息子夫婦の家に遊びに行ったこともない
自分がされて厭なものを相手にしてはいけない
己所不欲、勿施於人
(おのれ)の欲(ほっ)せざる所(ところ)人(ひと)に施(ほどこ)すこと勿(なか)れ
と、孔子も教えている
などと、賢ぶっているが、私は他所の家に行くのが、大の苦手なだけなのだ