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ミナミのブログ

のんびり、、まったり

2003/07/30 (Wed)横濱俳句倶楽部ほのものとから


今日は谷崎潤一郎のなくなった日。

彼は、30代の頃、横浜の本牧に住み

浅野総一郎の息子とともに

映画会社を経営していたことがあるそうだ。

その場所は、今の元町プールがあるところが撮影所で

山下町の一角に会社があったという。

彼は、その横浜に、妻の妹、せい子を伴って来て

女優として映画にも出させていたそうだ。

彼の本来の妻、千代は、その苦しみを

妻帯者の佐藤春夫によって癒され

そのことに腹を立てた谷崎は

一時は修復を図るが

結局は、春夫が妻と別れたことから

彼らは、妻の譲渡、という書状を持って

千代は、正式な春夫の妻になるのだ。

この横浜の映画の時代の

谷崎とせい子の生き方はそのまま痴人の愛

という作品になっているといわれる。

映画の撮影所のあった、元町プールは

湧き水を取り入れているので

また、大きな木立に囲まれているので

真夏に入っても、ひんやりとする。

このプールにはもともとは競技用に作られたものなのだそうだ。

最近は行ったことがないが、私が子どもの頃は確かに

観客用のスタンドがあった。

谷崎のいた撮影所は、昭和三年に無くなったそうだが

私は父の黒い自転車に乗せられて

麦田のトンネルの先の

麦座という映画館に、白黒の映画を観に行った。

その途中に、雑草の中に埋もれるように

崩れかけた薬師堂があり

そこに、洋種山牛蒡の実が、青く生っていた。

この洋種山牛蒡がしっかり熟すと

色水にして、おままごとの添え物にした。

そして、時には、白いハンカチを絞りに染めて、みたりもした。

洋種山牛蒡は、別名をアメリカ山牛蒡という

山牛蒡科の帰化植物である。

英名は、Pokeweed Ink berry.

Pokeweed の、Pokeは、Poketの意味で

袋状の木、という意味なのだそうだ。

そして、Ink berryは濃紺のその色をいうのだろうと思う。

エルビス・プレスリーの歌に

Polk Salad Annieというのがあるが

Polk Saladは

この、洋種山牛蒡の若い葉をサラダにしたものだのだそうだ。

ところで、長野県あたりのお土産やさんで売られている山牛蒡は、菊科アザミ属で、森薊という。

そして、日常に使われている牛蒡は、菊科牛蒡属になる。

俳句の季語集で、山牛蒡と引くと、森薊が出て来る。

これは冬の季語だ。

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洋種山牛蒡について

アルカロイド系の毒性の成分が含まれていて

食べるなどとは以ての外、という文章を最近見つけて

 

エルビスは毒性の草を 薬物依存の自身に対して

自虐的に歌っていたのだと気が付いた

 

恐らく彼を知る人は

それを承知でその歌を受け入れていたのだと思う

 

歌や、詩、小説などの文学について

一局からのみ見ていては、その真髄は伝わらず

その歌や詩、小説の醍醐味を味わい損ねる

 

最近、ある映画が、その当時を知らない人により

リメイクされた

 

そのリメイクをした人は

今の時代の価値観で作品を作っているのだから

嘗ての映画の真髄が伝わらなくて当然なのだが

 

その映画の根本は

ひりひりとするような貧しさで有り

その貧しさ故に炙り出された人間本来の姿で有り

そして何よりも

その主人公たちはその貧しさを自覚していない

 

私が子どもの頃

ゴミ捨て場に捨てられた河豚の内臓を食べて

亡くなった人がいた

 

娘を連れて結婚した人の夫が

その娘と駆け落ちした家が有ったりした

 

我が家にもご飯を求めてくる人がいて

母は、ご飯は無いけれど、パンならあると

 

表向きは普通の飯屋でも

陽が落ちて店が閉まると

妻が近隣の警察署の人を連れ込み

曖昧な仕事をする家が有った

 

存命で有れば

百近い、そこの息子さんは

コソ泥で有名だったが

母の曖昧な仕事の相手のお陰で

巡査になり

ほどなく刑期の付く犯罪を犯したと聞いた

 

そんな土壌の中で育って初めて理解出来る

そんな映画

 

たぶん今はいろいろな条例にかかって

同じように作ることは不可能だろうし

最初の映画を真夜中にテレビで放送することも

許されないのだろうと思う

 

そんなことを承知で最近の映画を観たのだが

何と表現して良いか分からなかった

 

今日、津波警報が出て

思いだしたことが有る

 

以前書いたが

私宅に見えていた引き売りの魚屋さんは

 

中学生の時に1960年のチリ津波で

たった一人の肉親の手を離したばかりに

目の前で失ったそうだ

 

日本時間の1960年5月23日午前4時過ぎに

日本からすれば地球の真裏にある

チリでマグニチュード9.5という地震が起き

その22時間後、24日の午前3時

日本列島に津波が到達し

やがてハワイまで及んだとか

 

その津波が起きた時

彼は祖母の手を引いて、高台に逃げたのだが

間に合わず、祖母の手が離れ、引き返そうとすると

知らない何本もの手が自分を引き上げてくれたと

 

その人たちは

祖母を思って海に戻ろうとする彼に

助かったのだから生きろ

と言ったそうだ

 

彼がいなければ

私は津波の怖さは文章で知っていても

実感としては認識出来なかったと思う

 

津波警報を見ながら

数年前に陸前高田に行き

広田湾の漁港からタクシーを呼んで

随分と待たされた後に

やって来た運転手さんから

 

本当に人間が呼んだのか信じられなかった

 

そう聞いて

何を冗談を、と、笑えなかった自分がいる

 

警報が出ている間は、細心の注意を払って

出来れば事前に避難をしていて欲しいと思う

 

 

 

 

 

 

2002/07/29 (Mon)YAHOOブログから

 

 

小港から市電に乗り換えて、海水浴に向かう。

八幡橋の交差点を通る。

行きは、海の方が魅力的だから気が付かないが、

帰りの道で、甘味処やさんの暖簾を見つける。

妹がねだって、途中下車をして、

お稲荷さんの脇にあるその店に入る。

妹は入り口で、麦藁帽子を脱いだ。

妹は、餡蜜を、私は心太を食べる。

そしてまた電車に乗り、小港に向かう。

妹が、帽子を忘れた、

と言った。

そのまま、帽子は忘れ去られた。

暫くして、海ではない町に市電で向かった帰り、

通過した電車の中から、お店の入り口に

その帽子が架かっているのが見えた。

その後、その市電で海に行くことは無くなり

やがて市電も廃止された。

今でも、蝉が講釈師のように啼き出すと、

甘味処と書かれた暖簾の下がったお店と、

黒いリボンの麦藁帽子を思い出す。

今日、油蝉が啼きだした。

 

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麦藁帽子を忘れた日から20年ほどして、夫と娘と

その甘味処に行ったことが有った

 

その店は八幡橋神社の参道にあるお店で

大きな杉の木に依って

周辺の喧騒とは不似合いな佇まいになっていた

 

その時は三人ともにかき氷を食べた

 

そして夫が運転する船で

今のシーパラダイスがある場所にあった

造船所まで帰った

 

小太りのおじさんが、船は楽しかったかと聞いて

夫はそれを買うことに決めたらしい

 

真っ白な帆のヨット、とは程遠い

完全な釣り船

 

その後、世の中にヨットブームが起きて

いろいろな人がヨットを持ち

当時、規制の無かった河川に係留し

中には不要なヨットを、所謂、沈(ちん)

という形で廃棄して


その頃

荷物の運搬をする船の仕事が

埠頭の本船が横付けされ

クレーンで荷物を持ち上げ

陸での輸送に代わり

 

嘗て沖に停泊していた本船から港までの

荷物の配送をしていた達磨船の持ち主が

住まいでもあった船を

河川に係留したままにして

 

中にはイベントや食事を提供する場所として

第二の人生を送る船もあったが

 

概ねの船は沈み

船の行き来が出来ない運河になり

 

河川での船の係留自体が禁止されて行った

 

たぶん、その頃から

横浜は新しい街になって行ったのだと思う

 

市電が廃止された頃は、自分自身もまだ若く

それまでの市電の線路の無い車道が凄く広く見えて

車の交通にもゆとりが出来たように思えたが

それは錯覚という間隔ほどの間で

車道は車で溢れて、事故が多発し

 

それに伴い、法律も厳格化して

 

今は自転車の走行にも今までにない罰則が設けられた

 

そのうち、歩く人にも厳しい法律が定められそうだと

 

黒いリボンの麦藁帽子は、思えば男性のもの

 

あれはたぶん、妹と私を海に連れて行った父が

自分の帽子を妹に被せてたのだろう

 

幼い娘を二人、年老いた父が海水浴に連れて行く

 

今の時代、着替え一つにしても、スマホで写され

世の中に曝され

いろいろな批判を受けそうな気がする

 

そう言えば、10年ほど前に

赤ちゃんを連れた父親が

オムツを代えたくてと

スーパーのトイレで困っているところに

遭遇したことが有った

 

女子トイレにしかないということで

女性である私が同行してと話していたら

そのスーパーに詳しい人が

多目的トイレの場所を教えてくれた

 

その時、その父子を見送りながら

核家族として夫婦だけの子育てが当たり前の時代なのに

公共のものでありながら、建物の形はほとんど変わりなく

多目的トイレという形だけで穏便に済ませているのかと

そう思った

 

あれから10年してそのスーパーに行ったが

トイレの形は相変わらず

男性用に赤ちゃん用の台は設置されていないと

 

夫婦単位で子育てをというのであれば

夫婦でやり易い環境を作るのが

肝要なんでなかろうか

 

そんなことを思って、気が付いたが

 

今年は六月から猛暑と言いながら

未だに油蝉の鳴く声が聴こえない

 

蝉も子育てがし難い環境になったのだろうか

 

この後、10年、20年

横濱はどんなふうに変わるのだろうか

 

それは、その時代時代の人が真剣に思って

変えていくことが一番大切なことだと思う

 

私達の世代が生きて来た横浜は

あの日市電の中から見た

麦藁帽子と同じ

思い出の一齣に過ぎず

 

その思い出はそれぞれの人の

経験のフィルターで

美化されていることもあるのだから

■ 2002/07/28 (Sun)YAHOOブログから 

 

 

仕事柄、一日に、十回ほどの配達の方が見える。

一年365日、ほぼ毎日のように

配達の方が見えるうちに、ふと、気が付いたことがある。

荷物を手渡ししながら

よろしくお願いします、と挨拶をされる方。

よろしく。

何気ない言葉だが、その言葉に

沢山の意味が含まれているように思える。

我が社は特に学歴を必要としないので

義務教育を終えて、直ぐに

この業界に入ったものも少なくはない。

昼休みの時間、多くの電話が入る。

大手銀行から、十二時半に電話が入った。

突然、滔々と、自分の会社の宣伝を始めた。

流石に大手の会社の社員だけ有って、素晴らしい活舌だ。

時計の針を見ながら、漠然と聞いていた。

と、唐突に、ところで社長さんは、と、聞かれ

席を外しておりますが、と答えると

このお時間ならいらっしゃると思ったんですけどね、

と、残念そうに言われたので

それは残念でしたね、と言って切ろうとしたら

おかけ直ししても宜しいでしょうか、と問われた。

だから、お断り致します、と丁寧にお返事をした。

その五分後

我が社で一番若い青年が材料の手配で電話を入れてきた。

〇〇です。お昼休みにすみません

今、お話していて大丈夫ですか?

私は、もちろん、大丈夫ですよ

と嬉しい声で応えた。

たった一つの荷物、たった一度の電話。

毎日の仕事の中で、流されていってしまう出来事だが

ほんの一言で

その人の、仕事に対する姿勢が見えてくるように思える。

よろしくお願いします

と言われて受け取った荷物は

受け取る側も、心なしか丁寧な扱いをしている。

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今の時代はいろいろな事柄が個であり

何人(なんびと)も

その個に対して強要をする権利は持たない

 

そんな風潮がある

 

最近はネット上で

学校の給食に対して、料金を払っているのだから

御馳走様という言葉を強要するのはおかしいという

論議が有ったそうで

 

数日前、道路工事の人にいつもありがとう

と言った人に

お金で雇われているのであって

それが仕事なのだから

そんなことを言うのはおかしい

 

という内容の書き込みをも見つけた

 

学校やレストランでのご馳走様は

作り手に対するというより

食べ物に対する感謝の念であり

 

道路の警備をしている人には

あなたがその仕事をしてくれているお陰で

安全に通れます、という意味のありがとうだと思う

 

最近、見知らぬ人に声をかけられたら

例えばその人が助けてくれようとしたとしても

避けるように指導する親がいて

それもまたネット上で話題になっているが

 

実際はこのどれも

平成や令和の時代に始まったわけでは無く

仕事や生活環境による差別は戦前の方が大きかったと

大正生まれの作家が本に書いていた

 

お金を払っているのだから、お礼など言うことは無い

 

これは正しく

戦前から戦後のバブル期以前に

彼らはうちで雇っている使用人なのだから

私達が好きに扱って良い

という感覚と同じようなもの

 

私は教師を目指して、高校の教諭から

教師としての在り方を学んできたが

その中で一番印象に有るのは

 

教師とは先生という

先生とは先に生まれた者という意味

 

先に生まれた人間がきちんと出来ないことを

後から生まれた人が覚えられる道理が無い

 

子どもは全ての知識を持って生まれる訳では無いのだから

先に生まれた大人が道理を教え、見守るのが当たり前

 

覚えて貰いたいことは自分自身が率先して行えばよい

 

要するに、子どもや社員の躾や教育がなっていないのは

子どもの責任ではなく

親や社長、先輩や経営陣の責任なのだと

 

例えば会費制でホームパ-ティをして

誰かが場所を提供して、持ち寄った料理を食べて

それぞれに会費制で呼ばれて

 

会費を払ったのだから

お礼不要と

お邪魔しますやご馳走様を言わなければ

その会に集まった人たちの中に

小さな蟠りが生じて

いつか呼ばれなくなると思う

 

損得でいうのなら

調理の人がご馳走様という言葉で

明日はもっとおいしく作ろう

そんなふうに思ったら

一番得をするのはお礼を言った子であり

 

安全を守る人にお礼を言えば

その一言で身が引き締まり

より安全に努めれば

一番得をするのはその場所を通過する人であり

 

たとえ声に出して会話をしなくても

単なるお礼の仕草だけで、相手に充分通じる言葉

 

男女平等とか雇用機会均等法とか

そんな言葉が蔓延り始めて

嘗て本当の意味での

平等と相手への思いやりを抱いた時代は

少しずつ戦前の個人主義という

人と人との差別化の時代になりつつあるように思う

 

嘗て第一次世界大戦で戦争に行ったというお年寄りが

ネット上に、戦争の始まりは、仕事をしたくなくて

浅草界隈で酒を飲んであばれたりする人たちで

警察の拘置所などが不足して

失対事業の一つとして参戦したのだと書いていたが

 

何となく妙に納得している自分がいる