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ミナミのブログ

のんびり、、まったり

2002/07/27 (Sat)YAHOOブログから 

 

 

小学校一年生のとき

学校のテキストに西瓜の絵が出てきた。

私はこれを、ワラメロ(Watermelon)と称した。

とても実直そうな女性の先生が

いいえ、これは西瓜よ、とおっしゃった。

私はいたく不満だった。

確かにこれは、ワラメロ

表はしましまで、中身を半分に切れば赤い身で。

むっとする私に

その先生は交換条件のような口調で言った。

そうそう

それはウオーターメロンのことでしょう。
アメリカの西瓜ね。
アメリカの西瓜は

日本の西瓜と違って、と

フットボールのような形を手で示して

こんな形をしているでしょ

あれは西瓜とは言わないのよ。

私が、学校の先生というものに

薄く不信感を抱いた原点である。
 

母は、その先生に呼ばれて

娘は性格障害の可能性があると宣告された。

私は、小学校へ上がる前の

言葉を覚える時期に

アメリカの文化圏にいたようで

所謂英語の方が先に脳に到達していたらしい。

その分、当時の日本の良い子の中では

自己主張をする六歳児は

確かに異端児だったのだろう。

異端児はそのまま成長し

今に至っている。

そして、数年前、三浦に出かけた。

そこで、しっかり熟れた西瓜をひとつ買って

家に帰った。

娘と、夫と

日曜日の午後、ぼんやりと時を過ごしていたら

テーブルの上においた西瓜が突然

ボン、と鈍い音を立てた。

しっかり熟れた西瓜が爆発したのだ。

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今の頃になると、夜が白み始めた頃に

夫が車のエンジンをかけて海に向かう

 

磯子カントリ―方面から16号線で横須賀に向かい

横須賀から三浦岬に向かう

 

横浜横須賀道路の逗子のインターが出来ると

葉山から三浦に

 

そして久里浜迄開通すると

小一時間も走れば三崎に着く

 

行く場所は決まっていて、

うらりという商業設備が出来るまでは

そこに入っている

その名もうらりという魚屋さんで

貝類や鮪の切れ端やカマを買い

朝市で果物や玉蜀黍などを買い

少し離れた海岸でバーベキューをする

 

そこは当時、米軍の基地に滞在する人たちの

穴場だったようで、磯には英語が飛び交い

若い人たちもその中に交じって話したりしていた

 

少しの磯の先は岩場になっていて

透き通った海水の中にいろいろな魚が泳いでいく

 

息子はシュノーケルを付けて夫と遠くまで泳ぎに行き

私は磯で海と空と富士山を見ながら時を過ごしている

 

その磯の隣は小さな漁港で

その一隅に鮪漁の船に乗る人の宿泊所が有った

 

午前七時を過ぎると

その港に、タンタンタンという

音を立てた漁船が戻って来る

 

その頃になると夫は帰宅の準備を始める

 

横浜横須賀道路が久里浜迄開通するまでの間

それが楽しみだった

 

しかし、道路が久里浜まで開通して

三崎の観光客が増えると

市なのか、県なのか

組合なのか分からないが

美しい磯は埋め立てられて

コンクリートで固められて

駐車場になると聞いた

 

何台ものトラックが行き来して

美しい海を泥の中に沈めていく

 

その光景を見ながら

何故美しいものを

美しいままにしておかないのだろうかと

 

それは今でも思う

 

私は今は西瓜watermelonなどとは言わない

 

合っているか間違っているかより

人と違うことを言うことに大人としての

恥ずかしさを感じるからなのだと思う

 

英語が出来ない日本人とは

その恥ずかしさが創り出してしまった

結果なのだと思う

 

英語が出来る それは他人の評価で有り

実際に会話が出来るのとは別の問題なのだが

学校教育では、その、出来る出来ないに拘って

羞恥心ばかり植え付けてきてしまったように思える

 

それは半世紀以上昔の

西瓜とwatermelonの違いを

強制的に教え込もうとした

教師の時代から始まって

 

会話なんて、相手がいて初めて成立する話で

合っているとか

間違っているとか、そんな評価をされたら

楽しくもない

 

美しい磯を潰して

駐車場にする予定だったらしい

埋め立て地は、肝心な観光客が遠のいて

私達が行っていた2010年頃までは

単なるコンクリートの広場になっていた

それからも既に十年以上経つが

今は如何なっているのか

 

そう言えば、西瓜は盛りよりも

走りの頃のものが

甘さも濃くて美味しいそうだ

 

 

 2003/07/23 (Wed)横濱俳句倶楽部ほのぼのとから


今日(7月23日)は、幸田露伴の生まれた日。

露伴は、坪内逍遥の、小説神髄、や

二葉亭四迷の、浮雲に魅せられて、小説家を目指し

夢中で作品を作り出し

そして、六年後

突然、創作の筆を折ってしまったのだそうだ。

幸田露伴には二人の娘と一人の息子がいるが

娘一人と息子は早世し、文という娘だけが残る。

文は、父を嫌い

六歳で亡くなった母のあとに来た

クリスチャンの後妻を嫌っていたそうだ。

これは、文の、おとうと、という作品の中に

すんなりと書き表されている。

文が小説を書き出したのは

露伴が亡くなった後、文43歳のときのことだそうだ。

露伴の作品に

花いろいろ、というものがある。

その中の、朝寐は福の神のお嫌ひなり。

という言葉で始まる、牽牛花、とは、朝顔のことだ。

朝顔は

かつて、中国では貴重な漢方薬であったそうで

牛一頭と交換するほど貴重なものなので

牽牛花、と言われたという説がある。

因みに、万葉集中の、秋の七草に出て来るあさがほは

一般的には桔梗の花となっている。

朝顔はもともと

朝の容花、と言われていたそうだが

フランスに行くと、真昼の美女に変わる。

もともとは奈良時代に中国から来た朝顔は

サツマイモ属ヒルガオ科の一年草なのだ。

そして、英名はJapanese morning gloryといわれる。

学名のIpomoea nilの、Ipomoeaは

黄帝、の意味。

黄帝。中国,古代伝説上の帝王。

三皇五帝の一人。

姓は公孫,名は軒莓(けんえん)。

炎帝の子孫を破り

繽尤(しゆう)を滅ぼして天子になったという。

(新辞林から)

ということで、鍼灸の療法の一つでもあるそうだ。

最近は、色が濃く

晩秋の頃までしっかりと花を咲かせる、

西洋朝顔が良く見られるようになったが、

日本の古い町並みの格子に絡まっている朝顔の花は

格別な風情がある。

俳句の季語集では

朝顔は、古い決まりでは、秋、とし

新しく改正されたものでは、夏、としている。

そして、どちらも

朝顔、牽牛花(けんぎゅうか)

蕣(古い決まりは、あさがほ、

改正されたものは、あさがお)と、書き現している。

蕣とは、しかみ、と読み

もともとは

顔をしかめた鬼や獅子の面のことをいうそうだが

文もまた、義母をこのような顔で見ていたのだろうか。

芭蕉は元禄6年7月の盆の後

五十歳のときに

閉関の説という書を表し

みづから禁戒となす。

と、ヒトとの交わりを絶った後

「蕣や是も又我が友ならず」という句を書いている。

 

=============================最近、街を歩いていると、生け垣のある家も

朝顔を咲かせている家も、あまり見かけなくなった

 

当然、朝顔の汁を絞り、瓶に入れて並べて

お店屋さんごっこをする子も見かけない

 

だいたいにして庭に茣蓙を敷いておままごとをする

そんな子ども達も見かけたりしない

 

私が子どもの頃、小学四年になると

日常の中で

二年生までの子ども達の面倒をみるのは

当たり前のことだった

 

兄弟のいる子は弟妹の面倒をみながら遊ぶ

 

鬼ごっこやかくれんぼ、缶蹴り

 

そんな遊びの中で自分たちのルールを作り

仲間を守ることを覚える

 

五年生になると

幼い子どもと遊ぶことは無くなり

男子も女子も、家の手伝いをしたり

同じ年の仲間で遊ぶようになり

 

幼い子達から

おねえさんとかお兄さんと言われるのが

嬉しくなる

 

偶に道端の葎に咲く朝顔を見ると

そんな風景を懐かしく思い出す

 

壁一面に張り付いた大柄の

色の濃い朝顔を見ていると

 

何も浮かばない

 

昔、サザエさんというアニメの中で

ワカメちゃんが

お隣の子との葉書のやり取りに

朝顔の蔓を使う場面があったが

荘子の逍遥遊という漢詩に

朝菌不知晦朔とあるように

その花の咲く時間は限られている

 

だからこそ人はその花を愛でて

市を建てるのだろう

 

日本人は

侘び寂と共に儚いものが好きなのかもしれない

 

成程、お米が安価で店に溢れていた頃は

たくさん廃棄されていたが

余り手に入らなくなった時には惜しくなった

ということだろうか

 

今巷で話題の備蓄米

玄米のままで備蓄の起源は五年

 

それを過ぎると廃棄という形で家畜の餌になり

 

日常生活の中では

高齢者向けの宅食業者や学校の給食などに

またスーパーなどの

家庭応援米という安価なお米に

無償、若しくは安価で提供されているそうだ

 

企業や学校での給食や介護施設

また高齢者向けの宅配を利用している方は

日常的に備蓄米を食べていることになる

 

それを恰も二年ほどで家畜のえさになる

という表現をする人は

間違っているということなのだろう

 

嘗てお米は国の統制により、米穀通帳という形で

お米を買うことも、お店で食べることも

制限されていた時代が有って

 

自主流通米が認められるまで

農家から直接買うお米は

ヤミ米として法に触れていた

 

そしてそれは、規制が緩くなったとはいえ

バブル期の頃まで続いていた

 

朝顔の美しさ於終日楽しみたくて西洋の朝顔を植える

 

ふんだんにあるのが当然と思って

食べ切れないほど作り、買って、無駄にする

 

最近

西洋朝顔が蔓延って困る

というコメントをネットで見るようになり

 

侘び寂を愛でながら、絢爛を求め

飽食をいう

人間とは勝手なものだと、しみじみと思う

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

■ 2002/07/25 (Thu)YAHOOのブログから  

 

 

池部良という俳優さんがいらっしゃる。
青い山脈という映画に出られた方。

その方の書かれた本に、江ノ島のことが出てくる。

友人と江ノ島に行くことになった

池部氏が親からお小遣いを貰っていると

父兄の一人から

そこにある

あるものがとんでもない代物、

と、連絡が入る。

それを知った良氏の父親が慌てて母親にご注進する。
そんなお話だったと思う。

そこにある、あるもの

裸弁財天なのだ。

それはリアルな

裸体の弁財天様が

琵琶を弾いているのだ。

確かに戦前の思春期の少年には

ちと、度が過ぎるものかもしれない。

江ノ島といえば

子供の頃、ここの岩谷洞窟と

富士山の人穴が繋がっている、と聞いたことがある。

この洞窟に吹き込んでくる冷たい風は

富士山の氷穴から吹いてくるというのだ。

夏の暑い日に

その風に触れると

本当に富士山から吹いてくるのかもしれない

と思えてしまう。

今日は昭和8年7月25日に、山形市で

40度以上の気温になった日で

最高気温記念日

 

また7月25日、ということで、夏氷の日だそうだ。

夏氷、というと、ダイヤモンド地下街へと

階段を下りたあたりに

夏休みが始まると、一本の氷柱が立ったのを思い出す。

氷柱の中には

当時では珍しい、ブランド物のお財布や

キーフォルダー、などが、一緒に凍らせてあった。

それを人の手の温度で溶かして

取り出すと貰えるのだ。

 

その権利は地下街で買い物した福引券で当たる

私も一度だけ触ったことがあるが

10秒も持たない。

氷。木で出来た冷蔵庫に入れるために

近くの氷やさんに氷を買いに行く。

大きな鋸で、シャキシャキという音を立てて

最後は、鋸の柄で、コンと叩いて、分けてくれる。

それを荒縄で縛って持って帰る。

あの頃の冷蔵庫の中には、何が入っていたのだろう。

 

=============================

小学校の時代からの同級生が多く住んでいた街で

暮らしていた母は、買い物の行きや帰りに

いろいろな人から声をかけられ立ち話をする

 

私が一緒とのきは買った荷物を持って先に家に帰る

 

しかし、姉たちが一緒の時は、誰も荷物を持ったりしない

 

結果、母はたまに荒縄だけを持って帰ることが有った

 

買った氷が融けて、縄から外れて落ちてしまったとか

 

後年、兄と姉と外国に行ったときに

兄はよその人の荷物は持ってあげるのに

自分の荷物は持たないと母が嘆いていた

 

しかし、それは当然なことで

 

母は私が三歳になる年に

二つ上の兄と五つと7つ上の姉、三人を父のもとに残し

 

汽車を乗り継鵜で数日かかるような距離の実家に帰り

再び家族となったのは、4年後

 

既に母と私と妹との中で

家族の役割が出来上がっていたのだから

 

六歳、八歳、十歳の子どもにとって

突然母が消えてしまうという

それも上の二人は女の子であり

その四年間は

私が想像出来るような長さでは無かったのだろうと思う

 

その思いに至ったのは母が亡くなった後で

それまでの私はその姉たちの身勝手に見える言動と

意味もなく許容し、その許容を私と夫の力に頼る母が

好きではなかった

 

しかし

母が亡くなった後に起きた割と珍しい

弁護士の逮捕とか銀行の支店長の裏工作とか

会社の乗っ取りとか

 

そんな珍事で不動産の全てが無くなった時に

ふと、母は母というより

福の神だったのかもと思った

 

福の神はとても我儘な神様なそうで

 

 

その福の神が消えた今が

私と夫の等身大の人生なのかもしれないと

 

私が自分の人生の中で

母と距離を置いたのは

小、中、高校の修学旅行と、春休みのスキー合宿とで

 

最大な距離は

東京の銀座の出版社に勤めている頃で

 

その他の時間は常に母が近くにいたことになる

 

東京の銀座の出版社に勤めていた頃

今春通りを歩いていて

リアカーに麻布をかけた氷を配達する人を見かけて

なんとなくついていって

鋸で氷を曳く場面が見たくなった

 

特に最後に鋸の柄でとんとついて

氷が見事に割れる瞬間を見るのが好きだった

 

それはいみじくも

幼い頃母と行った氷屋さんの

おじさんが働く姿だった

 

そして夏になると、今でもその氷を切る音と

最後の

トンという音で氷が見事に割れる場面を見たくなる

 

そして、あの氷のように、母と上手に決別していたら

私はどんな人生を歩いていたのだろうかと

そんな思いが頭を過ったりする

 

思えば

長い入院生活で独りで暮らすことに慣れてはいても

実際に独りの力で暮らすという経験は一度も無い

 

もしかすると

私はまだ一人前の人間ではないのだろう

 

今日は昭和8年7月25日に、山形市で

40度以上の気温になった日で

最高気温記念日

また7月25日、ということで、夏氷の日

 

人生もまた同じように

猛暑と氷点を抱き合わせているのかもしれない

 

昭和8年から92年経った今年

早々に猛暑になり、氷室の氷が融け始めているとか

 

最高気温記念日は分かったが

夏氷というのは何処から来ているのか

 

7、な、2,つ、5,ご、の語呂合わせとして

昭和8年の暑さを元に

かき氷を持って凉をとる日としたそうだ

 

因みに、夏氷は当然として

氷室、氷水、削り水、ともに夏の季語となっている

 

そして石川県の金沢市では7月1日を氷室開きの日として

氷室の日とするそうだ

 

いずれにしても暑い夏は氷が恋しくなる