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ミナミのブログ

のんびり、、まったり

■ 2002/07/25 (Thu)YAHOOのブログから  

 

 

池部良という俳優さんがいらっしゃる。
青い山脈という映画に出られた方。

その方の書かれた本に、江ノ島のことが出てくる。

友人と江ノ島に行くことになった

池部氏が親からお小遣いを貰っていると

父兄の一人から

そこにある

あるものがとんでもない代物、

と、連絡が入る。

それを知った良氏の父親が慌てて母親にご注進する。
そんなお話だったと思う。

そこにある、あるもの

裸弁財天なのだ。

それはリアルな

裸体の弁財天様が

琵琶を弾いているのだ。

確かに戦前の思春期の少年には

ちと、度が過ぎるものかもしれない。

江ノ島といえば

子供の頃、ここの岩谷洞窟と

富士山の人穴が繋がっている、と聞いたことがある。

この洞窟に吹き込んでくる冷たい風は

富士山の氷穴から吹いてくるというのだ。

夏の暑い日に

その風に触れると

本当に富士山から吹いてくるのかもしれない

と思えてしまう。

今日は昭和8年7月25日に、山形市で

40度以上の気温になった日で

最高気温記念日

 

また7月25日、ということで、夏氷の日だそうだ。

夏氷、というと、ダイヤモンド地下街へと

階段を下りたあたりに

夏休みが始まると、一本の氷柱が立ったのを思い出す。

氷柱の中には

当時では珍しい、ブランド物のお財布や

キーフォルダー、などが、一緒に凍らせてあった。

それを人の手の温度で溶かして

取り出すと貰えるのだ。

 

その権利は地下街で買い物した福引券で当たる

私も一度だけ触ったことがあるが

10秒も持たない。

氷。木で出来た冷蔵庫に入れるために

近くの氷やさんに氷を買いに行く。

大きな鋸で、シャキシャキという音を立てて

最後は、鋸の柄で、コンと叩いて、分けてくれる。

それを荒縄で縛って持って帰る。

あの頃の冷蔵庫の中には、何が入っていたのだろう。

 

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小学校の時代からの同級生が多く住んでいた街で

暮らしていた母は、買い物の行きや帰りに

いろいろな人から声をかけられ立ち話をする

 

私が一緒とのきは買った荷物を持って先に家に帰る

 

しかし、姉たちが一緒の時は、誰も荷物を持ったりしない

 

結果、母はたまに荒縄だけを持って帰ることが有った

 

買った氷が融けて、縄から外れて落ちてしまったとか

 

後年、兄と姉と外国に行ったときに

兄はよその人の荷物は持ってあげるのに

自分の荷物は持たないと母が嘆いていた

 

しかし、それは当然なことで

 

母は私が三歳になる年に

二つ上の兄と五つと7つ上の姉、三人を父のもとに残し

 

汽車を乗り継鵜で数日かかるような距離の実家に帰り

再び家族となったのは、4年後

 

既に母と私と妹との中で

家族の役割が出来上がっていたのだから

 

六歳、八歳、十歳の子どもにとって

突然母が消えてしまうという

それも上の二人は女の子であり

その四年間は

私が想像出来るような長さでは無かったのだろうと思う

 

その思いに至ったのは母が亡くなった後で

それまでの私はその姉たちの身勝手に見える言動と

意味もなく許容し、その許容を私と夫の力に頼る母が

好きではなかった

 

しかし

母が亡くなった後に起きた割と珍しい

弁護士の逮捕とか銀行の支店長の裏工作とか

会社の乗っ取りとか

 

そんな珍事で不動産の全てが無くなった時に

ふと、母は母というより

福の神だったのかもと思った

 

福の神はとても我儘な神様なそうで

 

 

その福の神が消えた今が

私と夫の等身大の人生なのかもしれないと

 

私が自分の人生の中で

母と距離を置いたのは

小、中、高校の修学旅行と、春休みのスキー合宿とで

 

最大な距離は

東京の銀座の出版社に勤めている頃で

 

その他の時間は常に母が近くにいたことになる

 

東京の銀座の出版社に勤めていた頃

今春通りを歩いていて

リアカーに麻布をかけた氷を配達する人を見かけて

なんとなくついていって

鋸で氷を曳く場面が見たくなった

 

特に最後に鋸の柄でとんとついて

氷が見事に割れる瞬間を見るのが好きだった

 

それはいみじくも

幼い頃母と行った氷屋さんの

おじさんが働く姿だった

 

そして夏になると、今でもその氷を切る音と

最後の

トンという音で氷が見事に割れる場面を見たくなる

 

そして、あの氷のように、母と上手に決別していたら

私はどんな人生を歩いていたのだろうかと

そんな思いが頭を過ったりする

 

思えば

長い入院生活で独りで暮らすことに慣れてはいても

実際に独りの力で暮らすという経験は一度も無い

 

もしかすると

私はまだ一人前の人間ではないのだろう

 

今日は昭和8年7月25日に、山形市で

40度以上の気温になった日で

最高気温記念日

また7月25日、ということで、夏氷の日

 

人生もまた同じように

猛暑と氷点を抱き合わせているのかもしれない

 

昭和8年から92年経った今年

早々に猛暑になり、氷室の氷が融け始めているとか

 

最高気温記念日は分かったが

夏氷というのは何処から来ているのか

 

7、な、2,つ、5,ご、の語呂合わせとして

昭和8年の暑さを元に

かき氷を持って凉をとる日としたそうだ

 

因みに、夏氷は当然として

氷室、氷水、削り水、ともに夏の季語となっている

 

そして石川県の金沢市では7月1日を氷室開きの日として

氷室の日とするそうだ

 

いずれにしても暑い夏は氷が恋しくなる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■ 2002/07/24 (Wed)会社のHPの管理人室の文章から

 

多寡がタイル屋のお女将さんでありながら

時には難しい経済のお話をしなければならないことがある。

そんなわけで少し前まで

マネジメント21という本を読んでいた。

今はネットの世界で充分事足りている。

経済誌を読んだからといって

究極の企業力などという言葉をさも知った風に語ることは

流石に出来なかったが

その本の中に書かれているエッセイには凄く興味を惹かれた。

思い起こしてみると

経済誌と銘打って売られている本の中のエッセイは

思いの外面白いものが多いように思える。

あるとき

そのマネジメント21の中に芥川龍之介の死についての

エッセイがあった。

おおもとの題名は、芥川龍之介と鰻、だったと思うが

その作者のお話によると

海軍機関学校の同僚として

また漱石の門下同士として芥川と親しかった内田百間は

「河童忌」という随筆のなかで

「あんまり暑いので

腹を立てて死んだのだろうと私は考えた」

という説を立てているという。

あんまり暑いから。

今日は、その芥川龍之介が亡くなった日。

彼の代表的な作品から、河童忌と称されている。

確かに河童は暑さに弱そうだ。

人の死や、出会いと別れなどというものは

案外簡単な理由で為されているのかも知れない。

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内田百間といえば

黒澤明による、まあだだよ、という映画

 

彼の門下生がそろそろ亡くなったかと集まれば

まあだだよと返事をする

 

言葉の響きによって滑稽にも思えるが

なんとも言えない哀しさを感じる

 

内田百閒は戦後、弟子たちの計らいで

焼け残った廃材を集めて造ったバラックの家に住み

弟子たちは百閒の弔いを理由に集まる

その集まりにより、妻の飢えを凌ぐのだが

それを悟らせないために

弟子たちは陽気にまだ生きているのかと歌う

 

そして、内田百閒から

暑いからとその死を語られた

芥川龍之介は

自己の回顧録のような

南京の基督という小説に

従軍記者としてその地に赴き

一人の薄幸の女性との生臭い恋の結末と

睡眠を妨げるために服用していた興奮剤

所謂ヒロポンで心を病んで

苦しみ果てる結末を描いて

結局割腹して果ててしまう

 

いずれも戦争というキーワードが有るのだが

バブル期の、世界一の経済大国とされていた頃

武器こそは携えていなかったが、多くの人が

外国に赴いて、寝食を惜しまず労働をした

 

結果、父親不在の家庭がたくさんできて

歪な家族が出来上がっていった

 

それは積み木崩しという小説に表現されて

 

豊かなために道路や街が整備され

夜を徹して街灯が燈り

真夜中に路上で過ごす未成年の女の子が多くなったのも

バブルの頃からだった

 

まるで大本営発令のようにテレビや雑誌では

まやかしの都会の賢覧ぶりを伝えて

 

外界から知識を得た子ども達は

日ごろ不在の父親や

そのことに不満を積もらせている

母親の意見を疎ましく思い

 

耳障りの良い言葉の集団の中に入っていく

 

戦争では国民が平等に貧しく、平等に苦しんだが

バブルの頃はそれぞれに形が違い、価値観も違い

 

だから

みんなで頑張るという場面が無くなり

個人主義の世界が出来上がって行った

 

それは多くの国民が望んだ形で

たくさん働いてお金を得るよりも

家庭を大切にして

自分を大切にする生き方を選ぶ

 

もし日本が第二次世界大戦の引鉄を引かず

戦争という選択をしていなければ

今の時代はどんな風だったのだろう

 

今生きている人の戦前の日本の在り方は

軍国主義という形から始まっている

 

それ以前は侍の時代であり

士農工商という身分差別の中で成り立っていた

 

戦後、全ての人は自由であり

言論も、政治に関わることも

宗教や思想に関しても

他から制約を受けることは無くなった

 

最近、ネットで見ていると、何故かその自由が

だんだんと窮屈になっているように思える

 

嘗て、BSで、極右とされる方が

 

思想に関していえば

右も左も、突き詰めれば暴力になる

 

と発言されていて

物凄く腑に落ちたことが有った

 

今の時代は、家族や国を守るために

自分の命を削って戦うという場面はない

 

何故ならそうしなければならないほどの苦しみが

実際には無いからなのだと思う

 

平和とか、尊敬する人、愛する人の命とか

実際に無くなって初めて

後悔という思いを抱くのだろうと思う

 

もういいかい

まあだだよ

その時点で気が付くか否か

 

後悔先に立たず

 

何を一番大切に思うか

人の生き様はそれによって変わっていくのだろう

 

そう言えばマネジメント21は今でも発行されているのだろうか

 

 

 

■ 2002/07/23 (Tue)横濱俳句倶楽部ほのぼのとから 

 

 

文月の23日ということで、今日は手紙の日だそうだ。

手紙といって思い出すのは、「一筆啓上 火の用心  お仙泣かすな 馬肥やせ」という、フレーズ。

これは今の福井県の丸岡市に住む、徳川家康の忠臣本多重次が陣中から妻に送った手紙だそうだ。

因みにお仙とは、後の第6代丸岡城主、本多成重のこと。

中学生の頃、この手紙を元に、誰かに宛て手紙を書くという授業があった。

教師から、ラブレターを書かせたら最高

というお墨付きを貰ったお陰で

同級生の女の子数人から代筆を頼まれたことがあった。

そのとき、何故か全員

名前のところだけは自分で書くといっていたが

貰った男の子は、誰も疑った様子はなかったようだ。

おそらく、手紙の内容より

貰った、という方がインパクトがあったのだろう。

そういえば、この丸岡市では、一筆啓上にちなんで

手紙のコンクールを催している。締め切りは9月とのこと。

詳しくは、

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丸岡市の一番短い手紙のイベントは

ネットで検索したが、見つからなかった

 

文と言えば、昔、自己の美学を具現化するために

子どもへ短い手紙を遺した小説家がいた

 

その小説家は有体に言えば男○で有名な人だった

 

そして、ある事務所の経営者の姉と結婚した人は

その小説家と学生時代から入魂で

その小説家の助力により多くの作品を書いていた

 

後に姉と結婚したその人の伝で事務所のタレントは

御前で歌を披露した

 

そしてその後、その歌手がある問題を提起して

世の中に伝えられた

 

経営者の姉は一度は否定したが

後に認めた

 

当事者とされた経営者は何も語っていない

 

当時、歌手たちを応援する人がネット上に

その経営者のタイムテーブルを書いて

時間的距離的に

あり得ないという文章を載せていたが

匿名であり、ネット上のことであり

いつの間にか消えていって

 

その歌手は何故か当事者と言われた人の姉から

多額の医療費を貰って

亡くなった後に感謝の遺言を残していたと報じられた

 

そして最近その話題が浮上して

経営者の責任が再び問われた

 

世の中に知れ渡る

自身の親族による恥ずべき事柄

 

経験したことの無い人間には想像もつかない

 

ふと、もし、それが自分の実の親であったら

全てのもの、最終的には

自分自身をも否定したくなるだろうなと

そう思う

だからと言って叔父で良かったという話でもないだろうが

 

心的被害者という意味では、最大の被害者は

親族の女性とそのお子さんなのだろうと思う

 

会社の経営方針というものは

大概が経営陣の意向によって進められていく

 

会社が大きくなればなるほど

経営陣の力が強くなり

代表者の力は弱くなる

 

多勢に無勢の中で独りで背負う責任の重さ

 

自己の夫の、弁護士の逮捕や銀行員の改竄による破産

という経験を思い起こすと

 

もし、被害者の身内にもっと多くの親族がいたなら

また違う景色が有ったのかもしれないと思えた

 

そう言えば、手紙や日記というものは

後々の証拠として認められるそうだが

lineやメールのように

操作一つで改竄したり

消されたりする文章は

その限りではないそうだ

 

紙に筆記用具で文を書くというのは

自分自身を守るためにも

大切なものなのかもしれない

 

結論としては

どれだけ拙かろうが

自身が書いたラブレターに勝るものは無い

ということだと思う

 

そして年賀状も暑中見舞いも

手書きでさえあれば

その年々の思い出を語る短編の歴史小説にも

成り得ると