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ミナミのブログ

のんびり、、まったり

■ 2002/07/22 (Mon)横濱俳句倶楽部ほのぼのとから 

 

下駄の歯の足跡のような

二十二日に掛けて

全国木製はきもの業組合連合会が

今日を下駄の日としたとか。

下駄の二の字で思い出すのは

雪の朝二の字二の字の下駄のあと、という俳句。

この句を作ったのは

後に正岡子規が「元禄の俳女」と賞した

兵庫県生まれの田捨女(でん、すてじょ)

彼女が六歳のときの句だ

下駄を履いて歩くとき

カラコロと鳴る音はなんともいえない情緒を感じる。

盆踊りに向かう子供の下駄も良いが

女の人が細くて白い素足に履く下駄は

同性の目から見ても、好ましいと思う。

塗りの下駄も良いが白木の下駄も良い。

ある時、パソコンの世界を旅していると

明治時代の伊勢佐木町を紹介しているページがあった。

その写真の中に、歯入と書いた店の看板があった。

その場所は、野沢屋のあたり。

何を思われたか、そのサイトの主は

それを歯医者さんの看板と取られたようだ。

確かに、中区山下町の駐労会館前には

「我国西洋医科歯学発祥の地」の記念碑がある。
 
碑の裏には、
ここは

万延元年(1860年)歯科医師として最初に来日した

米国人ウィリアム・クラーク・イーストレーキ博士が

来浜三度目の明治14年に歯科診療所を開設した

ゆかりの地である。
 

博士は

明治元年二度目の来浜に際し

歯科診療所(所在地不詳)を開設し

献身的な診療活動のかたわら

日本人歯科医師の育成に努力を傾注し

日本近代歯科医学の世界的発展の端緒を開く役割を担われた。 
と、記されている。


 

が、残念ながら

その伊勢佐木町の看板は歯医のものではなかった。

歯は歯でも、下駄の歯、なのだ。

子供の頃、下駄屋さんの前に

板に、歯入れます、の、ますを

枡(ます)に見立てて書かれていたものが

ぶら下がっていたのを、懐かしく思い出した。

WEBの世界には、時として、びっくりするような

思い込み文章を見ることがある。

そして、ふと、いつか

あれは本当に、歯医者さんだった、

ということになっていくのかな、と、漠然と思った。

 

因みに入れ歯というものは

古代エジプトの時代からあったそうだ。

その説明の書かれているところに

面白い文章があったので、少しだけ紹介してみたいと思う。

…2.江戸時代の入れ歯
 この木床義歯製作のルーツは、仏師の手慰みから始まったといわれている。安土桃山時代頃より、あるいはその後、仏像彫刻の注文が少なくなり、仏師は逆に義歯をつくることで生活の糧としたのではないかといわれている。さらに、義歯をつくることを専門とする集団ができ、彼らを口中入歯師と称するようになった。また、彼らの中には義歯をつくるかたわら抜歯や口中の治療も行う者がでてきた。これらの者を歯医者と称した。
 従来の口中科、口中医は、一般医学を修得し、口腔疾患、咽喉疾患を中心に、抜歯も行ったが義歯をつくることはなかった。
 口中入歯師が口中医と全く違うところは、医学的専門教育を全く受けていない点である。彼らは義歯製作専門技術の修得を中心とし、その養成は組織的な統率下で老巧な者についてその技術(業)を習い、師弟というより親分子分の関係にあった。したがって、彼らの技術は全く修業のみによる熟練の結果と多年にわたる経験によって得たものである。そして、これらの組織は香具師(てきや・やし)に属していた。


香具師と木床義歯 歯入れ屋と下駄の歯。
う~ん

強ちあのサイトの主が間違えていたとも言えないかも知れない。

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実際には横浜で生まれた小説家がこの地で

下駄屋の小僧をしていたという文章が存在するので

歯医者では無いのは明確なのだが

 

思えば私が子どもの頃

乳歯がぐらつくと木綿糸を絡めて引き抜いたり

固いものを食べたりしていたものだが

私が育った場所がら、乳歯は歯医者で抜くものという

そんな決まりがあったようで、私は海岸通りの

外国の人が利用するという歯医者で抜いて貰った

 

歯を抜くと、五セント貰える、というのはアメリカのドラマの話

私は記憶では50円玉を貰ったと思う

 

そんなふうにして抜かれた乳歯のお陰で、小学一年に入り

直ぐに、良い歯のコンクールで賞を貰った

 

しかし、敗血症で死にかけて、歯を食いしばっていて

その為に、私の永久歯は普通の人より短く

決して奇麗な歯とは言えない

 

寧ろ鹿児島で育った姉たちの方が奇麗な歯をしていた

 

それでもこどもが大きくなるころには

子どもの歯が奇麗であるように歯医者さんで抜いて貰った

 

自慢ではない、、かなり自慢だが

わが息子

今巷間で世界一の美男子とされたミュージシャンと

幼い頃の顔がよく似ていて

私より先に、姉達や伯母

彼を取り囲む皆が彼の将来を嘱望して

伯母などは貴公子と言って愛でてくれた

 

身長183cmのスリムな男

特技はピアノ

 

母と共にフランスに行って

モンマルトルの丘で

真っ赤なヤッケを着た姿の写真が

今も我が家の玄関に飾ってあって

我が家に見える女性の皆さんが

必ず、どなたですかと聞いてくるので

 

その時だけ

ちょっと自慢げに息子だと紹介する

 

だがしかし当人は

可愛らしい奥さんと一緒になった途端

家族を守るためなのだろうか

立ち上がったグリズリーのような体型の

髭面の男に変身して

 

せっかくお金を出して乳歯を抜いて

美しい歯並びだったのに

歯医者が怖いから行くのが遅れたと

前歯が挿し歯になっている

 

子どもなんて、と

その歯を見て思ったのも既に遠い昔

 

そう言えば、私は中学生の頃から作文が得意で

ある時

相手を指名して手紙を書くという授業があったのだが

私の書いた手紙が一番上手と、褒めてくれた先生が

こんな手紙を貰ったら、それだけで好きになりそうだと

そう評価してくれて、何となく、いつか小説家になる

かも知れない、と、みんなに期待されたのだけど

今を持ってその期待に応える片鱗もない

 

俳句の同人誌や知人の同人誌や

町内会の会報に寄稿して

素敵な文章と言われて、それだけで満足している

 

息子がタレントとかそういう華やかな世界よりも

好きな女性との穏やかな生活を選んだように

 

満足というゲージや幸福という度合いは

人それぞれに違うから人生は面白いのだと思う

 

それを、不幸とか、ついていないとか

そんなふうにとっていれば

どんなに素晴らしい入歯を入れても

幸せな顔になれないと思う

 

下駄の歯の真新しい時の音も

使い古して歯のちびてしまった時の音も

今はあまり聞くことが無くなった

 

そう言えば、夫の浮気を止めるには

下駄に灸をすえると良いなんて話が有ったが

今の時代に浮気相手の家に下駄を履いていく人も

たぶんいないと思う

 

下駄を鳴らして奴が来る、という歌も

古文の世界になってしまいそうだ

■ 2002/07/21 (Sun) YAHOOブログから 。

 

 

小説家。
1899年7月21日にアメリカで生まれたそうだ。

ヘミング・ウエイと釣り

というと、大抵の方は

「老人と海」の

ダイナミックな釣りを想像されると思うが

私は、カリカリと音を立てる

アメリカ製の手巻きのリールを思い出す。

そのリールのように、物事に拘らない

気ままな人生を想像させるのだ。

私は釣りが好きだが、釣ることよりも

釣っている時間が好き、というタイプだ。

朝でも、昼でも、夕方でも

のんびりと、岸壁に腰を下ろして、糸を垂れていると

その頼りない糸に繋げて

未知なるものとコンタクトを取っているような

そんな気分になる。

そんな時に

ヘミングウエイや開高健のように

素敵な発想が出来たら良いのだが

何故か、気が付くと仕事のことを考えている。

カリカリと、リールを巻きながら

会社の中で置き忘れている事柄を、なぞっている。

そして、時には小さな糸口を見つけたりする。

日々を、仕事に追われて

何処かでのんびりとしたい

そう言うと

友人が、本当は仕事が好きなんでしょう、という。

確かにそうかもしれない、と思う。

The man who has begun to live more seriously within begins to live more simply without.

内面でより真剣に生き始めた人は

外でよりシンプルに生き始める。

ヘミング・ウエイのこの言葉に

海の表面を見ながら、大いに納得させられた。

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ある、というか名前を失念したのだが

40年ほど前に読んだ講談本に

釣りを好む人間は本来はせっかちなのだと書かれていて

成る程、と思ったことがある。

 

その本では

釣り人は終いに竿で川面を掻き回してしまう、と

そんな表現をしていた

 

実際の話、釣りをして

その醍醐味はアタリであり

悠長に構えていたら

 

魚が針を飲み込むか

餌をとられた針を水の中に浸けておくかでしかな

 

そんなものは釣りとは言い難い

 

しかし、夫がモンゴルの地から持ち帰った写真を見ると

釣り人はせっかちという言葉は全く当たらないように思える

 

何処までも続く平原に流れている川

 

河畔に木々が茂る訳でもなく、ただ広い草原に

自然のままの形である川

 

夫の話によると

遠くウズベキスタンから流れているのだとか

 

こんな川でどうやって釣りをするのだろうというと

 

夫が、この川はウズベキスタンから流れていて

ウズベキスタンでは火災の鎮火に核を用いたから

釣りは禁じられているそうだという

 

確かに入り易そうな川なのに

写真の中には、釣りをする姿はおろか

水浴びはしていても

泳いでいる姿は無かった

 

開高さんはこの川でどんな釣りをしたのだろう

と、そんなことを思っていたが

数年後に夫が持ち帰った川の写真は

それまでのモノとは全く違い

 

木立の向こうには明らかな乳牛が群れて

大きな杉の木が何本も立っていて

 

川べりには柳絮が

今にも飛び立ちそうに膨らんで

 

足許は柔らかい草で覆われ

中に色トリドリノ高山植物が咲いて

 

夫がそれまで持ち帰っていたモンゴルとは

全く別の世界が有った

 

当然川も、それまでの平面ではなく、土手があり

写真であってさえその流れの速さや

水の冷たさが伝わって来そうな

 

そこはアルタイ山脈の麓の街、なのだそうだ

 

ここならば開高さんの目指すイトウもいるような気がする

 

夫がウランバートルに行く以前は

とても貧しい国だったそうだ

 

その貧しい国の子ども達は

幼い頃に家を追われてマンホールの中で暮らす

 

やがて大人になり、子どもが生まれると

マンホールの中で子育てをする

 

燃料は木炭で有り、空は汚れて

当然台地もゴミで溢れて

川の本来の役割も果たさず

 

マイナス六十度にもなる気温と

粘土質の土地では木々草花も作物も育たない

 

その地に目を付けたのが

夫の夢を応援してくれた人

 

ここに一つの街を作り

上質なマンションを建てて近隣の資産家を誘致する

 

その人はその街に、一番最初に道路を敷いて

学校を建てた

 

そして夫に

若者に技術指導をすることを依頼してきた

 

夫が行き始めた頃、街には野犬がいて

咬まれると狂犬病の薬も無いので

直ぐに帰国することになるそう言われ

 

時折暴行事件が報じられたり

働いている少年に誘われて

地元の市場に行くと

ポケットの中に手を入れて歩けと言われ

その理由は

見知らぬ人がポケットに手を入れてきて

財布を盗るからという

日本ではあまり、というか、たぶん経験しない話

 

有体に言えば環境も悪く、治安の悪い街

 

先日、天皇皇后両陛下がモンゴルに赴かれて

ナーダムをご覧になっている時に

多国語を話す若者がライブ中継をしていたが

その街の様子は

夫が持ち帰った写真とは全く違う

近代的な美しい街だった

 

夫が契約先の会社の問題で

荷物もそのままに帰国を命じられて十数年

 

ウランバートルは大きな近代都市に変貌していた

 

釣りならば、魚影も見えないような荒れた川で

釣りをするような、そんな感じだったのだろうと思う

 

その街に行き、言葉もままならない状態で

世代の違う若者に仕事を指導する

 

夫の根気良さは、私には到底敵わない

 

だがしかし、海釣りに行くと

釣果は常に私が勝っているから

釣りはやっぱり短気な人間向きなのだと思う

 

たとえ釣った魚がゴンズイだろうと

オニカサゴだろうとベラだろうと、引っかかった蛸だろうと

 

嘗て、夫に

若者の仕事の為に幾度となく海外に赴いた夫を

羨ましく思ったことは一度もないが

あのアルタイの麓の草原にある川で

あのカリカリと音のするリールで

釣りをしてみたかったと話すと

 

夫の返事は、そう?だった

一見そっけなくも思えるが

 

内面でより真剣に生き始めた人は

外でよりシンプルに生き始める

 

彼の目的は常に明確だったのだろう、と

そう思えた

 

彼は

景色を楽しむためにモンゴルに行っていたわけでは無く

自身の生涯の夢を果たす為に行っていたのだと

 

自分の夫のことをいうのもなんだが

カッコいい人だと思った

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■ 2002/07/20 (Sat)横濱俳句倶楽部ほのぼのとから 

 

 

1953年、イギリス登山隊の

エドマンド・ヒラリーとシェルパのテンジンは

初めてのエベレスト登頂に成功した。

その際、イエティの足跡を目撃したという。

それから、16年後の、1969年7月20日

アポロ11号が月面に軟着陸した。

 

そのとき

乗組員のアームストロングとオルドリンは

月面に人類第一歩の足跡を残した。

物の本によると、彼らの足跡は

100万年後に月を訪れる人にも確認出来るそうだ。

もしかすると、月とイエティは。。。

It is not the mountain we conquer but ourselves.

私たちが征服するのは山ではなく、私たち自身です。

1919年7月20日に生まれた

登山家、エドマンの言葉。

確かに

人間は常に自分を征服しているのかもしれない。

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先日来悩まされていることは

まだ解決までには至っていない

 

その理由は

その問題を投げかけてきた人が根本的なところで

その内容を咀嚼していないということだけ判った

 

結論から言えば

Aという病らしい症状をを治す為に

薬を処方してもらい

それが効くかどうかの

経過観察をして貰って欲しいので

受け入れる病院を利用者の家族が探し

入院の手続きをして欲しいと

 

飲み込めたから理解したという話ではない

 

医療施設というものは

入院する必要があるのか無いのか

それだけが問題であり

かかりつけ医の紹介状もない

自己都合の入院など受け入れてくれない

 

その状態で受け入れるのは

有体に言えば

政治家などが自己都合で自費で

個室に入院するようなもの

 

病院側は頼まれれば受け入れるが

その場合、高額な個人負担が生じると

まあ当然の返答をしてくる

 

医療費と込みで30万以上

高額医療費などの公的な補助は受けられない

 

申し越してきたご自身が納得する結果が出るまで

何か月かかるかも分からない中で

月に30万以上のその負担の大きさに

金銭的に難しいので何か対策がというと

その施設のかかりつけ医から

高額なのは当たり前という返事が有って

 

結局その問題の返事は

申し越してこられた方にするという

 

質問の答えとは全く違う形の返事が返り

 

自分の想像力で納得するしかなくて

 

まるで足跡の付かない旅をさせられているような

そんな気持ちにさせられている

 

自分の意志で行動出来るということが

どれだけ貴重な事かということだけは学ばせてもらった

 

連休が明けたらどんな話がくるのか

 

悩ましい話だ