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ミナミのブログ

のんびり、、まったり

■ 2002/07/19 (Fri)Yahooブログから  



この日になると思い出すことがある。

明日は夏休みという、土曜日に、午後のランドセルの中身は軽く、小学生の女の子は垣根の向こうから聞こえるラジオの声に気を取られることもなく、忍冬の花を愛でていた。

その花の甘い匂いと、可憐な花びらに、あまりに夢中になっていたので、背後の大人の方に全く気が付かなかった。

その人は、ニコニコと、声をかけてきた。

お嬢ちゃん、お家まで送ってあげるから、車に乗りなさい。

女の子はとても賢い子であった、、のだと思う。

直ぐそばにいる同じ学校の生徒に、

このおじさん、誘拐犯。。

折りしも、吉伸ちゃん事件で世の中が震撼としていた頃のこと。

それを聞いた男の子は、血相を変えて、学校へ駆けていった。

その人は、困った顔で、私と対峙したまま、動こうともせず。

そのことに、ますます恐怖感を抱いた私と。

学校の先生と、警察の方が駆けつけて、私は解放された。

が、その夜、母に、あなた、Hさんのおじさんを誘拐犯にしちゃったのね、と、呆れられた。

私が人の顔を覚えられない、ということを、しっかりと認識させられた日だ。

Hさんのおじさんは、町の名士で、学校にもよく見えており、弟さんは、当時有名な歌手。

当時、長期欠席をしていた私を気遣って、家まで送って下さろうとしていたのだ。

その後、おじさんのお店の前を通るたびに、おじさんのご一家から、おじさんの顔を覚えてくれた?と確認された。

その頃は、ハイ、と、答えていたが、本当のところは、今でも自信がない。

そして、今でも、同じような過ちを繰り返している。

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今なら検査をすれば要介護認定されそうだが

私はヒトの顔や数字を覚えるのが苦手で

何度かとんでもない失態を曝したことが有る

 

特に夫と初めて待ち合わせしたときには

目の前にいるのに気が付かないで

お暇なら僕とお茶しませんかと声をかけられたりした

 

娘が生まれたとき

退院するときに娘の顔をちゃんと見極められるか

本気でな心配して、その話を看護士さんにすると

どこかで頭でもぶつけた?と聞かれて

ああそう言えば、と思いだした

 

それまで忘れていたのだが、小学二年の時

退院して初めて小学校に登校して

先に帰った姉が飼い犬と迎えに来たのだが

大きな道路で紐が解けて

犬が走り出し、それを追いかけて

私を認めたトラックの運転手さんは

ブレーキをかけてくれて

 

しかしその脇からバイクが走って来て

私はその先の記憶が無かった

 

母が言うには

見ていた人が頭から落ちたというので

多分もうダメだと思ったそうだが

 

私は看護士さんとの会話で鮮明にその光景を思い出した

逼って来るバイクと

ぶつかって宙に浮いていく自分と

 

何故かその後娘の顔を忘れるのでは

という心配をすることも無くなった

 

恐怖心が記憶を司る脳に蓋をしていたのかもしれない

 

そして仕事に関する人に対しては

声だけで名前も会社名も

たった一度きりで電話番号でさえ

全て覚えていることに気が付いた

 

一方で友人や甥や姪の子どもの名前や生年月日など

今に至っても一切思い出せない

 

それをいうと

娘から、記憶に優劣をつけているのだと言われた

興味の無いことを覚えないだけ、と

 

となると

待ち合わせた夫の顔を思い出さなかったのは何故

という疑問は心の中だけに留めておくことにした

 

今日から夏休み

関東地方では梅雨が明けて

数年ぶりの青天の三連休だそうで

 

だけど、今の時代の子ども達には

たとえ見知った人であろうと

家族ではない人の車に乗ったりしないよう

そんな注意をしなければならない時代が

悲しくもあるが

気を付けて

遠い先に

楽しい夏休みという思い出だけが

残って欲しいと思う

 

あしたから夏休み

その言葉がまるで魔法のように

心を躍らせていた時代が懐かしい

 

 

 

 

■ 2002/07/18 (Thu)横濱俳句倶楽部ほのぼのとから

 

 

山下公園の、氷川丸の脇から富津へ向かう定期船。
父と母と、娘達と。約一時間の船旅。

船底では千葉へ帰る、担ぎ屋と呼ばれるおばさんたちが、ひと時の休息を取っている。

同じ頃、23歳の青年は

シングルハンドで太平洋に漕ぎ出した。

昭和37年5月12日のことだ。

全行程を、94日間かけて

青年はサンフランシスコの港に着いた。

同、8月12日。

当時パスポートを所持せずに入港した青年は

時の市長の好意によって

密入国による強制送還を免れたそうだ。

その記録映画の主人公を石原裕次郎が演じた映画を

テレビの深夜放送で観た。

昨日は、その裕次郎の命日だった。

そして、今日、40年ぶりに

再度トライした63歳のヨットマンは

再びサンフランシスコの地を踏んだそうだ。

ボクシングを目指したものが

どんなに痛い目にあっても止められないことを

虫に刺されるというそうだが

彼の場合はなんと言うのだろう。

外洋航路の船長であった父が

富津行きの船に乗ると

甲板の上で常に穏やかな笑みを浮かべていたことを思い出した。


ヨットマンのページには

「堀江さん、今朝無事にゴールイン
北緯 37度04分 西経 122度43分
17日午後3時40分(日本時間18日午前7時40分)
堀江さんとMALTS Mermaid3は
サンフランシスコの観光地

フィッシャーマンズ・ワーフに接岸しました。」

…と書かれている。

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横浜の港の見える丘公園の入り口に茶色い建物が有り

東洋通信社という港の信号を取り仕切る会社と思われて

というか、私自身も思っていたのだが

実際は国家公務員用の宿泊施設なのだそうだ

 

子どもの頃、時折このホテルに

タキシードやドレスを着た人が

入っていくのを見たことが有って

私を含めた子ども達は

何かの組織だと思い込んでいた

 

何かの組織 ルパン三世のような

 

子どもの発想とは大概がそんなもので

後で考えると

なんであんなふうに思ったのか不思議になったりするが

それはそれで楽しくもある

 

中華街の中にオリエンタルホテルという

小さなホテルが有った

 

いつも扉が閉まっていて

お客さんが止まっている様子もなく

 

2002/07/18のブログを書いている頃

ネット上でもそのホテルのことが話題になり

実際に泊まりに行った人が報告ブログを書いていたが

その様子は、自分たちが知るホテルとは

全く様相が違っていた

 

行ったことは無いが、フランスの波止場の安宿

そんな雰囲気だったようだ

 

フランスの波止場

 

そう言えば夫もフランスの波止場マルセイユで

数か月過ごしたことが有ったと話していた

 

その夫にそのホテルの様子を教えると

何となくそんな感じにも思えると話していた

 

その話を聞きながら、(横浜は) 街ごと旅ですか

という歌を思い出していた

 

半世紀以上住みながら

知らないことの多い街

 

寧ろ知らないことの多すぎる街

 

海を越えてくる人

海を越えていく人

 

そしてその街に半世紀以上住みながら

その街の半分も知らない住民

 

ようそろとは

舵を真っすぐに切って直進させる操舵号令のこと

 

陸の上でさえ良く分からないのに

何の標識もない太平洋の大海原を

堀江さんはたった一人で何を思って

アメリカ大陸を目指したのだろうか

 

答えなどというものが簡単に出せるなら

人は冒険の旅に出たりはしないと思う

 

寧ろ答えばないからこそ面白いのだろうと思う

 

来世では,現世で夫の夢のために奔走した私を

夫が再び見つけて、その時は私の望む旅の

同行をさせるつもりでいるが

男の人に生まれて、視線を相手に冒険するのも

悪くない気がする

 

その時は、夫よ赦してくれたまえ

 

そう言えば

当時女性だてらに北極への単独の旅をするべく

それまでの可愛らしい姿から冒険者という顔になられた

和泉雅子さんが九日に亡くなられていたというニュースが

昼間スマホの画面に流れた

 

そうだ

別に男性に生まれなくても冒険は出来るのだ

それを教えてくださった和泉雅子さん

ありがとう

 

 

■ 2002/07/17 (Wed)横濱俳句倶楽部ほのぼのとから  

 

Oume Some people are still unaware that reality contains unparalleled beauties. The fantastic and unexpected, the ever-changing and renewing is nowhere so exemplified as in real life itself.

1898年の今日生まれた、写真家Berenice Abbotの言葉。

 

『青梅には現実には比類のない美しさが含まれていることに

まだ気づいていない人もいます。

幻想的で予想外なこと

絶えず変化し、更新されることは

実生活そのものほど例証されている場所はありません。』
 

昨日、かの地を出て、横浜に向かい

静岡辺りで気が付いたことがある。

山の色

かの地の山は、紫なのだ。

そして、静岡の山は黒い。

車窓を流れる景色が刻々と変化していく。

かつて、自分の瞼がシャッターであったら

どんなに素晴らしいシャッターチャンスを得られただろうと

言われた女性の写真家がいらした。

確かに、瞬間の美、というものを

一枚の写真に捉えるのは、並大抵のことではない。

子供が幼い頃通っていた幼稚園の園長先生は

園の行事にカメラを持って来ることを嫌った。

「お子さんの様子は感動と共に心に刻んでください。

カメラを通してみると

その感動を心に刻むことをしません。」

あらゆるものに感激する娘に

一つの海岸線で

カメラでは写さず自分の目で見るように薦めた。

娘の想い出の中に

その敦賀の海の景色が一番印象に残ったという。

 

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ど素人でも奇麗に写せるという

一眼レフのデジタルカメラを買ったのは

丁度YAHOOブログを書き出した頃だと思う

 

初めて写真を撮り、パソコンに落としと

その素晴らしさに、私は天才だろうかと思った

 

なんのことは無い

そのカメラで撮った写真をアップしている人は

全員がそう思っているだろうと思えるほど美しかった

 

そのカメラに年季が入り

だんだんと雑に扱うようになった頃

東日本大震災で被害を受けた方達への

チャリティーイベントがあるからと娘に誘われて

岩手県に行ったとき

 

早朝のお城の薔薇園で写真を撮っていたら

そこを掃除している方から、取材ですか?と

声をかけられた

 

イイエ、と言ったはずなのに

その女性はお化粧をしてこなかったと言い出し

お化粧直しをしてくるから、待っててください、と

 

私は同行した娘を促し、急いで城を後にして

 

その後、横浜の、地下鉄沿線にある田んぼで

蓮華の花を撮っていたら、女性が一人田んぼに入り

その蓮華の花のところに座ってポーズを作っていた

 

見た目だけは素晴らしい写真家に見えるらしいと悟った

 

今年の五月、港の見える丘公園で薔薇を撮っていたら

同様に、女性が二人、薔薇の花の前でポーズを作っていた

 

そして気が付いた

今どきのデジタルカメラは小さくて

なんならスマホで十分なのだと

 

家に帰り、デジタルカメラで写した写真をパソコンに移して

拡大してみると

港の見える丘公園から撮ったマリンタワーの

展望台に立つ人の輪郭迄はっきりと見えた

 

それで思い出したが

戦時中に海の絵を描いていても

軍の官憲にスパイ容疑で捕まったという話

 

ふと、タレントに対する盗撮については

タレントの人権とはプライバシーとかは

どんなふうになっているのか

幾度もプロカメラマンに間違えられた身としては

凄く興味がある

 

まさか、タレントだから如何に盗撮されても仕方ないで

官憲は片付けるのだろうか

 

タレントやアナウンサーのコンプライアンスは

個人的な場面でさえも

厳しく取り締まるようなのに

 

週刊誌のカメラマンの場合は

問題ないとでもいうのだろうか

 

そして私のブログにも問題が一つ

彼の地がどこで有ったのか

さっぱり思いだせない

 

かの地の山は、紫なのだ。と有るのだから

空気の澄んだ場所にある山だと思う

 

以前書いたが

山紫水明とは

豊かな水源の醸し出す日本の山の美しさを

言い表す言葉だそうだ

 

なので

横浜に向かう途中静岡に立ち寄ったということは

富士山の麓を巡って来たのかもしれない

 

Oume Some people are still unaware that reality contains unparalleled beauties.

 

青梅、その地の由来は

平将門の、誓の梅として

花が散り、実が生って

時が経っても熟れていろの変わることなく

青いままだったこと だとか

 

淡い桃色から一面の青 

 

確かに美しいと思う

 

写真家Berenice Abbotは

それを美しいと気が付かないことを残念に思い

 

私は心の何処かで

熟れる前に収穫しているのではと思う

 

たぶんこれが

プロとど素人の差なんだと思う

 

俳句の世界では

作者が文字で色を現すことは無く

読み手によって塗られて行くとされている

 

これは現代俳句の先人たちが

欧羅巴を目指す際に

露西亜の地で学んだ

映画フィルムのネガに由来するそうだ

 

書き手の素描に読み手が色を添えて

初めて一枚の作品になる

 

カメラとは違った写実の世界がそこに有る