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ミナミのブログ

のんびり、、まったり

■ 2002/07/16 (Tue) YAHOOブログから 

 

 

旅に出かけて来た。

日本海のほうだ。

市営地下鉄と、新幹線と

北陸本線に乗り継いで、その地を目指した。

朝食は、電車の中で済ませよう

そう思って、新幹線に飛び乗ったら、突然お絞りを渡された。

その後何が出るのかと期待していたが

籠に珈琲とサンドイッチを持ったお嬢さんが

なにやら囁きながら通り過ぎただけだった。

結局、期待するようなお弁当に遇うこともなく、

乗り継ぎの駅についてしまった。

実際、電車で遠方に行くとき

つい、駅弁に期待してしまうのだけれど

あまり期待に叶ったことが無いような気がする。

昔、夫の実家に子供を連れて行くと

夫がいなければ、

帰りに美味しいものも食せないだろうと、

夫の母がお握りを作ってくれた。

その中に入っている梅干は、母独特のものだった。

小さな梅が柔らかく、赤い赤い色をして。

市販の梅干を食さないこども達も

祖母の梅干だけは、喜んで食べた。

ご飯の色が鮮やかな赤に染まることさえ

こども達は喜んだ。

今日は駅弁記念日だそうだ。

1885(明治18)年

この日開業した日本鉄道東北本線の宇都宮駅で

日本初の駅弁が発売されたのを記念した日だとか。

宇都宮市で旅館業を営んでいた白木屋嘉平が

旅館に宿泊していた日本鉄道の重役の薦めで販売したのは

握り飯2個と沢庵であったとか。

旅の宿で、眼下に見える緑の田んぼを眺めながら

日本人はやっぱりお米だな、と思ってみたりした。

私は、どんなおかずよりも

ご飯が美味しいことが一番のご馳走のような気がする。

その旅館のご飯もとても美味しかった。

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一昨年の二月

恵方巻の売れ残りに関するニュースが流れた

10トントラックに何十台分もの廃棄量

 

その翌日、突然お米が値上がりし出した

 

それまでも回転寿司のお店や食堂で残される

白米の寮の多さに

なんで最初から半分にして貰わないのだろうと

そんなふうに思っていたが

お米が値上がりした頃から

回転寿司屋さんでは

シャリを半分にするという選択肢が出来ていた

 

シャリ お米をシャリというのは一説に

お釈迦様の骨仏舎利で有り

その仏舎利によって人々を助けるということから

白米も同様に飢えを救うとして呼ばれたとか

 

子どもの頃

お茶碗によそったご飯を一粒でも無駄にすると

仏様の罰が当たる

そう言われて育った私には

お米が高くなる前

商店や家庭から出るご飯の廃棄量を知るたびに

胸が痛かった

 

お米が高くなり、手に入れるのが難しくなったら

白米のことも大事にするのかと思えば

今年二月のご飯ものの廃棄量は

昨年の二百万トンより

五万トンほど少なくなったと

 

それを見て

いったいどこの国が米不足なんだろうと思ったが

実際はお米が不足しているのではなく

標準米を買いたい人が買えないということが

問題なのだと思う

 

そこで、以前書いたかもしれないが

1970年代まであった米穀通帳を発行して

国民一人が標準米を買える数を決めれば良いのでは

と思った

 

そうすれば家族や子どもの多い家庭は

多く買うことが出来るし

通帳の無い人が

買い占めて転売を目論むことも出来ないのではと

 

昨今の白米の廃棄量を見ても

世の中そんなに単純にことが納まるとも思えないけれど

余りにもお米を粗末にしていると

あの世に行ってから

祖先の人に罰当たりと叱れそうで

他人事ながら心配になったりする

 

兎にも角にも、後悔先に立たずの言葉通り

お米不足で大変な思いをした今

本気でお米を粗末をしない生活を送らないと

白米自体が貴重な食べ物になってしまうかもしれない

 

白米は不思議な食べ物で

贅沢なおかずなど無くても

炊き立てに塩を一振りした

それだけで最高のご馳走になることもある

 

映画、三丁目の夕日で、、

自分は見知らぬ家に

父親から預けられた子が

反抗して夕食も食べずそのまま眠り

夜中に起きて枕元に置かれた白米の結びを見つけて

口に入れてホロホロと泣くシーン

 

映画館に居た大人の男女が全員すすり泣いていたが

 

あの状況のお握りの美味しさと切なさは

時代が変わっても変わることは無いと思う

 

八十八回の手間をかけて育てたお米と

思い遣りという手塩で握った白米

 

人は決して一人の力だけで生きているわけでは無い

けれど

それぞれに反省して改善していくという

知恵を持っていると

 

そう思う

■ 2002/07/15 (Mon)横濱俳句倶楽部ほのぼのとから 

 

中元とは、もともと半年生存の無事を祝い

祖先の霊を供養する日だったそう

正月15日の上元7月15日を中元

10月15日の下元をあわせて

「三元」とする中国の習慣が

日本のお盆「盂蘭盆会」と重なって、

祖先の霊を供養し、

両親に食べ物を送ったのが

所謂お中元に変化して行ったと


盂蘭盆はインドの言葉でウランバーナに由来し

ウランバーナというのは

逆さづりの刑のことらしい。

お釈迦様の弟子の目蓮が、

父は天界にいるのに

母が見えないと、

神通力を持って探したところ、

餓鬼道に落ちて苦しんでいたのだそうだ


それを見て

目蓮はどうしたら母を救えるのか

お釈迦様に尋ねたところ
お釈迦様は「7月15日はお坊さんが

百日の修行を終えて

伝道に出る日だから

その時お坊さんがたにお供養しなさい。

 

と言われたとか。


目蓮のお母さんは

その供養の功徳によって救われたという

この故事に由来し

逆さづりの餓鬼道の苦しみに堕ちないよう、

先祖の霊に供養するという

盂蘭盆が行われるようになったそうだ

そうすると、

バンジージャンプは、

生き地獄になってしまうのだろうか

確かに、怖い

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お盆というと

おおむね旧暦の八月をいうことが多く

盆踊りもまた八月に行われることが多いが

1972年の明治の中頃までは

七月が休みとされていたとか

 

この中のお中日は

丁稚奉公をしている人の一月と、七月の

年に二日の、貴重な休みである

藪入りの日でもあり

 

早朝から眠るまで惜しむ間もなく働き

与えられた布団で眠り、そしてまた朝が来て

 

漸く得られる貴重な一日

新しい着物とお小遣いを貰い、我が家に帰る

 

今の時代のように週休二日、有給休暇、など

恐らく当時の人は知る由も無いだろうが

もし知ったとしたら

夢の世界の出来事だと思うかもしれない

 

平成の生まれの人が昭和を懐古する時は

消費税をいう人を良く見かけるが

消費税の無い1989年までは、今は無い

物品税というものが有った

 

日常に不必要とされる贅沢品や

健康に悪いと思われるもの

 

貴金属や毛皮、車

そして清涼飲料水やファストフードなど

 

車の場合、夫が乗っていたクラウンは30%近い

物品税がかかっていたかと記憶している

 

その車を買うためではないが20代で起業した夫は

八月のお盆の休みに私と結婚した後、

初めての休みは11月の文化の日であり

 

従業員も日曜と盆暮れ以外は休むこともなく

取引先に合わせて早朝や夜間の仕事も有って

 

それは当時の労働者としては当たり前のことであり

 

そしてまた

当時の預金に対する利息の高さをいう人がいるが

預金の利息が高ければ

貸し出しの利息も高い訳で

貸し出しの利息は預金より上回るのも当然で

 

今は廃止の方向にある、約束手形など

期日が半年というのが定番であり

割り引くためには保証協会に加入し

その為に自宅を担保に入れることも必須であり

 

その期日に応じた割引料を支払うことになる

そしてその上、不要な貸し付けをして

その利息も銀行が得る

 

私の会社の場合、個人的に

夫一千万、私五百万の当座貸し越し枠の設定を

手形割引の条件にされた

 

今は消費税という形で、日本で品物を買う全ての人が

対象となっていて、外国から観光に来ている人も

当然支払ってくれるわけで有り

 

丁稚奉公のような過酷な労働は禁止され

中学卒業までの子どもの就労さえ禁止されて

 

車に至っては時には販売促進の為に

消費税分の補助が設定されて

 

仕事をして、代金を受け取ると

支払いは半年先、などという手形も2026年

来年には廃止されるという

 

そして低利息の貸付

不要な商品の抱き合わせの禁止

 

会社に至っては週二日の他、盆暮れの有給休暇

サービス残業や過酷な労働の禁止

 

今の状況を知ると

昭和の時代はなんと過酷だったかとしみじみと思う

 

そしてまた、二度と戻りたいとは思わないが

 

今もあると良いなと思うのは

取引先から送って来られる中元の品を並べて

従業員達と楽しんだクジ引きの時間だろうか

 

くじを引くたびに

一喜一憂する彼らの顔が楽しくて、懐かしい

 

今のように個が基準とされて

いろんなものが可視化されて

いろんなものが制限されているのを見ると

心に静電気が起きて疲れてきそうになる

 

そう言えば都会ともいえないこの街でも

騒音の問題で、この数年町内で盆踊りを見ることも

無くなっていた

 

祭り囃子に至っては

もう、かなり前から聞いてもいない

 

親類や町内会の人が大勢集まった宴席で

酔っ払って踊り出すおじさんやおばさんなど

既に絶滅種でもあり

それを見て大喜びする子ども達の声も絶えた

 

人と人との関わりは

確かに昭和の時代の方が楽しかったかな

 

それはたぶん

生活の中に清濁が存在していたからだと思う

 

水清くして不魚住、かな

■ 2002/07/14 (Sun) 会社のHPの管理人室の文章から 

 

三十年ほど前

磯子の検疫所から河馬が逃げたことがあった。

悠長に掘割を泳いでいたそうだ。

昔々、私のおじ達は港の仕事をしていた。

ある時、珈琲豆を入荷し

それを、所謂抜け荷したことがあるそうだ。

まあ、当人は既に,去年の人なので

罪の云々を語る必要もないかと思うのですが。

山下橋の袂の、ふ頭の入り口に

かつては税関があったそうだ。

そこを荷馬車で通るとき

荷物の検査をした職員は、そのコーヒー豆を見つけて、、

それは何か、と訪ねた。

すると、件のおじは

大豆が腐ったんですよ。これから処分に行くんです。

職員は、そうか、ご苦労、と言ったとか。

そんな、腐った豆の方が危険でしょう、

とは、今の時代のこと。

その頃は、時計の針の進みも、

違っていたのかも知れない。



ゆっくり歩けば遠くまで行ける

これはかつて露西亜と呼ばれた国の諺だそうだ。

同じ国の中に亜細亜と欧羅巴の分岐点を持つ国らしい言葉だ。

と言って、責任ある立場の者が暢気になりすぎて

重大なミスを犯すのだけは、困る。

 

=============================河馬がのんきに泳いでいた根岸の海は

中村川に入り込む湾で

1970年代にはそこから

地蛸や蝦蛄の低引き漁の船が出ていた

 

蝦蛄は五月から七月の今頃までが

一番美味しい時期でもあり

 

夫は会社で船を仕立てて

たくさんの蝦蛄を持って帰り

ついでに従業員や監督さん達も連れて帰り

 

みんなで賑やかに大鍋で茹でた蝦蛄を食べて

 

何年もの間我が家の夏の風物詩になっていた」

 

蛸と言えば、同じ中村川の

元町商店街近くの駅の前には

ポンポン船で漁に出る人がいて

新山下の、貯木場が有ったあたりで蛸漁をして

その凧を駅の傍でドラム缶に入れて茹でて売るのだが

そのぬめりを取るために洗濯機に入れて回していて

 

何を思ったか、私はそれを真似て

我が家の全自動洗濯機に入れて回して

轟音を立てさせて

ご近所まで驚かせたことが有った

 

思い起こすと、昭和の時代は雑駁だったなあと

しみじみと思う

 

その昭和の時代に決められた防疫記念日は

1879年(明治12年)のこの日に日本で初めての

防疫法

その名も海港虎列刺病伝染予防の規約が定められた日

なのだそうだ

 

腐った大豆然り、危ないものは港からやって来る

 

最近は避ヒアリという小さな蟻が船荷と共に入って来て

先月横浜の埠頭でも

2000匹以上のヒアリが見つかったそうで

 

この蟻に咬まれると赤く腫れて

幹部を冷やしたりして治まるそうだが

時には緊急を要する場合もあるそうなので

悩ましいときは

♯7119

 

公衆電話などでは

045-232ー7119

045-523ー7119

神奈川救急相談センターに

問い合わせくださいとのこと

 

予防に勝る治療なしというのは

1955年に生まれたオランダの司祭

デジデリウス・エラスムスの言葉だそうだ

 

虎列刺とはコレラのこと