■ 2002/07/28 (Sun)YAHOOブログから
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仕事柄、一日に、十回ほどの配達の方が見える。
一年365日、ほぼ毎日のように
配達の方が見えるうちに、ふと、気が付いたことがある。
荷物を手渡ししながら
よろしくお願いします、と挨拶をされる方。
よろしく。
何気ない言葉だが、その言葉に
沢山の意味が含まれているように思える。
我が社は特に学歴を必要としないので
義務教育を終えて、直ぐに
この業界に入ったものも少なくはない。
昼休みの時間、多くの電話が入る。
大手銀行から、十二時半に電話が入った。
突然、滔々と、自分の会社の宣伝を始めた。
流石に大手の会社の社員だけ有って、素晴らしい活舌だ。
時計の針を見ながら、漠然と聞いていた。
と、唐突に、ところで社長さんは、と、聞かれ
席を外しておりますが、と答えると
このお時間ならいらっしゃると思ったんですけどね、
と、残念そうに言われたので
それは残念でしたね、と言って切ろうとしたら
おかけ直ししても宜しいでしょうか、と問われた。
だから、お断り致します、と丁寧にお返事をした。
その五分後
我が社で一番若い青年が材料の手配で電話を入れてきた。
〇〇です。お昼休みにすみません
今、お話していて大丈夫ですか?
私は、もちろん、大丈夫ですよ
と嬉しい声で応えた。
たった一つの荷物、たった一度の電話。
毎日の仕事の中で、流されていってしまう出来事だが
ほんの一言で
その人の、仕事に対する姿勢が見えてくるように思える。
よろしくお願いします
と言われて受け取った荷物は
受け取る側も、心なしか丁寧な扱いをしている。
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今の時代はいろいろな事柄が個であり
何人(なんびと)も
その個に対して強要をする権利は持たない
そんな風潮がある
最近はネット上で
学校の給食に対して、料金を払っているのだから
御馳走様という言葉を強要するのはおかしいという
論議が有ったそうで
数日前、道路工事の人にいつもありがとう
と言った人に
お金で雇われているのであって
それが仕事なのだから
そんなことを言うのはおかしい
という内容の書き込みをも見つけた
学校やレストランでのご馳走様は
作り手に対するというより
食べ物に対する感謝の念であり
道路の警備をしている人には
あなたがその仕事をしてくれているお陰で
安全に通れます、という意味のありがとうだと思う
最近、見知らぬ人に声をかけられたら
例えばその人が助けてくれようとしたとしても
避けるように指導する親がいて
それもまたネット上で話題になっているが
実際はこのどれも
平成や令和の時代に始まったわけでは無く
仕事や生活環境による差別は戦前の方が大きかったと
大正生まれの作家が本に書いていた
お金を払っているのだから、お礼など言うことは無い
これは正しく
戦前から戦後のバブル期以前に
彼らはうちで雇っている使用人なのだから
私達が好きに扱って良い
という感覚と同じようなもの
私は教師を目指して、高校の教諭から
教師としての在り方を学んできたが
その中で一番印象に有るのは
教師とは先生という
先生とは先に生まれた者という意味
先に生まれた人間がきちんと出来ないことを
後から生まれた人が覚えられる道理が無い
子どもは全ての知識を持って生まれる訳では無いのだから
先に生まれた大人が道理を教え、見守るのが当たり前
覚えて貰いたいことは自分自身が率先して行えばよい
要するに、子どもや社員の躾や教育がなっていないのは
子どもの責任ではなく
親や社長、先輩や経営陣の責任なのだと
例えば会費制でホームパ-ティをして
誰かが場所を提供して、持ち寄った料理を食べて
それぞれに会費制で呼ばれて
会費を払ったのだから
お礼不要と
お邪魔しますやご馳走様を言わなければ
その会に集まった人たちの中に
小さな蟠りが生じて
いつか呼ばれなくなると思う
損得でいうのなら
調理の人がご馳走様という言葉で
明日はもっとおいしく作ろう
そんなふうに思ったら
一番得をするのはお礼を言った子であり
安全を守る人にお礼を言えば
その一言で身が引き締まり
より安全に努めれば
一番得をするのはその場所を通過する人であり
たとえ声に出して会話をしなくても
単なるお礼の仕草だけで、相手に充分通じる言葉
男女平等とか雇用機会均等法とか
そんな言葉が蔓延り始めて
嘗て本当の意味での
平等と相手への思いやりを抱いた時代は
少しずつ戦前の個人主義という
人と人との差別化の時代になりつつあるように思う
嘗て第一次世界大戦で戦争に行ったというお年寄りが
ネット上に、戦争の始まりは、仕事をしたくなくて
浅草界隈で酒を飲んであばれたりする人たちで
警察の拘置所などが不足して
失対事業の一つとして参戦したのだと書いていたが
何となく妙に納得している自分がいる