2002/07/29 (Mon)YAHOOブログから
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小港から市電に乗り換えて、海水浴に向かう。
八幡橋の交差点を通る。
行きは、海の方が魅力的だから気が付かないが、
帰りの道で、甘味処やさんの暖簾を見つける。
妹がねだって、途中下車をして、
お稲荷さんの脇にあるその店に入る。
妹は入り口で、麦藁帽子を脱いだ。
妹は、餡蜜を、私は心太を食べる。
そしてまた電車に乗り、小港に向かう。
妹が、帽子を忘れた、
と言った。
そのまま、帽子は忘れ去られた。
暫くして、海ではない町に市電で向かった帰り、
通過した電車の中から、お店の入り口に
その帽子が架かっているのが見えた。
その後、その市電で海に行くことは無くなり
やがて市電も廃止された。
今でも、蝉が講釈師のように啼き出すと、
甘味処と書かれた暖簾の下がったお店と、
黒いリボンの麦藁帽子を思い出す。
今日、油蝉が啼きだした。
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麦藁帽子を忘れた日から20年ほどして、夫と娘と
その甘味処に行ったことが有った
その店は八幡橋神社の参道にあるお店で
大きな杉の木に依って
周辺の喧騒とは不似合いな佇まいになっていた
その時は三人ともにかき氷を食べた
そして夫が運転する船で
今のシーパラダイスがある場所にあった
造船所まで帰った
小太りのおじさんが、船は楽しかったかと聞いて
夫はそれを買うことに決めたらしい
真っ白な帆のヨット、とは程遠い
完全な釣り船
その後、世の中にヨットブームが起きて
いろいろな人がヨットを持ち
当時、規制の無かった河川に係留し
中には不要なヨットを、所謂、沈(ちん)
という形で廃棄して
その頃
荷物の運搬をする船の仕事が
埠頭の本船が横付けされ
クレーンで荷物を持ち上げ
陸での輸送に代わり
嘗て沖に停泊していた本船から港までの
荷物の配送をしていた達磨船の持ち主が
住まいでもあった船を
河川に係留したままにして
中にはイベントや食事を提供する場所として
第二の人生を送る船もあったが
概ねの船は沈み
船の行き来が出来ない運河になり
河川での船の係留自体が禁止されて行った
たぶん、その頃から
横浜は新しい街になって行ったのだと思う
市電が廃止された頃は、自分自身もまだ若く
それまでの市電の線路の無い車道が凄く広く見えて
車の交通にもゆとりが出来たように思えたが
それは錯覚という間隔ほどの間で
車道は車で溢れて、事故が多発し
それに伴い、法律も厳格化して
今は自転車の走行にも今までにない罰則が設けられた
そのうち、歩く人にも厳しい法律が定められそうだと
黒いリボンの麦藁帽子は、思えば男性のもの
あれはたぶん、妹と私を海に連れて行った父が
自分の帽子を妹に被せてたのだろう
幼い娘を二人、年老いた父が海水浴に連れて行く
今の時代、着替え一つにしても、スマホで写され
世の中に曝され
いろいろな批判を受けそうな気がする
そう言えば、10年ほど前に
赤ちゃんを連れた父親が
オムツを代えたくてと
スーパーのトイレで困っているところに
遭遇したことが有った
女子トイレにしかないということで
女性である私が同行してと話していたら
そのスーパーに詳しい人が
多目的トイレの場所を教えてくれた
その時、その父子を見送りながら
核家族として夫婦だけの子育てが当たり前の時代なのに
公共のものでありながら、建物の形はほとんど変わりなく
多目的トイレという形だけで穏便に済ませているのかと
そう思った
あれから10年してそのスーパーに行ったが
トイレの形は相変わらず
男性用に赤ちゃん用の台は設置されていないと
夫婦単位で子育てをというのであれば
夫婦でやり易い環境を作るのが
肝要なんでなかろうか
そんなことを思って、気が付いたが
今年は六月から猛暑と言いながら
未だに油蝉の鳴く声が聴こえない
蝉も子育てがし難い環境になったのだろうか
この後、10年、20年
横濱はどんなふうに変わるのだろうか
それは、その時代時代の人が真剣に思って
変えていくことが一番大切なことだと思う
私達の世代が生きて来た横浜は
あの日市電の中から見た
麦藁帽子と同じ
思い出の一齣に過ぎず
その思い出はそれぞれの人の
経験のフィルターで
美化されていることもあるのだから