2002/08/30 (Fri) YAHOOブログから
今日は
連合国日本占領軍最高司令官
ダグラス・マッカーサー元帥が
厚木の飛行場に降り立った日。
この日を境に
横浜の橋は数ヶ所閉鎖され
幾つかの公園と
町とが星条旗の下に管理された。
そして、この日から
横浜は、何かに小さく抗う町になった。
関心と、無関心が同居する、奇妙な横浜。
歴代の市長達にも、その流れが汲み取れた。
今回の市長もまたそんな予感のする若い青年市長だ。
そして、その前までワールドカップ誘致に
奔走し、頑張った、高秀元市長が
昨日、急逝された。
二度ほど
ご本人の本の出版記念パーティなどで
お会いして、お話したが
とても気さくな方だった。
横浜を舞台にする
濱マイクという映画の中や
野毛の大道芸の中で
自らも役を演じて楽しんでいたという。
北海道出身でありながら
横浜をこよなく愛して下さった市長だった。
マッカーサー氏も、またこの日本を愛していて下さったのかもしれない。
郷土を愛されるということは
如何なる理由にしろ、幸せなことだ。
前市長の冥福を祈る。
====================誠に残念なことに、この時の新しい市長は
個人的にお金を流用した廉で
リコールの対象になり
市民にとって苦い存在となった
厚木に降り立ったマッカーサー氏は
人生において三回日本に来て
二回に渡り長く滞在している
一度目は、彼が25歳の時に
父親の、当時の陸軍中尉の希望で
副官として着任して
二度目は関東大震災の折
フィリピンに駐在していた時に
艦隊を組んで数日後には横浜の港に着いたと
フィリピンから日本を目指したのは
マッカーサーの指揮下
巡洋艦、駆逐艦、給灰艦など16艦隊
その時のスローガンが
minutes make lives
であり
これは東日本大震災の時にも
横須賀からの空母でのトモダチ作戦の時の
スローガンだったそうだ
一秒がより多くの人を救う
関東大震災の時の救助については
マッカーサーの名前ばかり報じられるが
実際は
イギリス、フランス、中国、イタリア
ドイツ、オーストリア、ベルギー、チリなど
また当時はアメリカ領で有った
フィリピンからも
41か国から救援や支援を頂き
当時埋め立てられたばかりの新山下地域に
宿舎が建てられ
救援の方々の支援物資を保管し
被災地全体に届けられたのだそうだ
そしてまた、アメリカでは
JAPAN NEED YOUという
義捐金の募集のキャンペーンをも
してくれたと記録されている
ペリーが開国を求めて日本に来たのは
1853年
そして日本が開国を宣言したのが1854年
関東大震災は1923年
開国から70年後のこと
この時マッカーサーは大正天皇に対して
お見舞いの言葉を述べている
そして敗戦の時には昭和天皇と会見をして
並べて書いていると
マッカーサー氏は
長い人生において、ほんの一週間ほど
アメリカ領のグアムに滞在した私よりも
ずっと長い間日本の領土にいたことになる
母の姉の夫である伯父の姪ごさんが
厚木に降り立ったマッカーサー氏に
花束を渡したこととか
その伯父が
マッカーサー氏が戦後日本に来る前から
施設の支度をしていたこととか
祖父が通訳の端くれとして
たぶん正式にではなく
英語が出来るということで
その厚木にいた事とか
何となく、袖すりあうも他生の縁ほとの
親しみを私は感じている
そして、関東大震災の時に
未だ開国して1世紀も経たない島国に
40か国以上の国々の方々が
救助に来られたり
支援をしてくれたことを
有り難く、嬉しく思う